自殺者を生み出す非人情社会での、逆説的な人情手法

 学校や職場が辛いなら逃げても肯定されるが、人生が辛くて逃げるのは否定されている。

 日本では、死にたいと思ってもその自発的意志に公の裏付けが取れて死ぬことが許されていない。簡単にいうと、安楽死ができない。安楽死に関する刑法をみると、第35条(正当行為)「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」としながらも、第199条(殺人)「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」、第202条(自殺関与及び同意殺人)「人を教唆若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁固に処す」と対立している。
 なら安楽死はどんな条件で正当な行為となりえるのか。例えばまず1961年の名古屋安楽死事件(『判例時報』324号)では被告を嘱託殺人罪の懲役1年としたうえで、積極的安楽死の大要件を6つ整理した。①不治の病で死が切迫している/②耐え難い苦痛/③死苦の緩和が目的/④(意識があれば)本人の意思/⑤医師が実行/⑥倫理的に妥当な方法、である。一方1991年の東海大学病院安楽死事件(『判例時報』1530号)では被告を殺人罪の懲役2年とし、消極的安楽死の大要件6つとして先程の①~④の他、⑤治療義務の限界/⑥自己決定、を規定した。ここで論点は3つに整理された。Ⅰ自己決定(真意なのか、死ぬ権利は在るか)/Ⅱ苦しみの除去(安楽死を積極的にもたらすか消極的にか、苦しんでいるのは誰か、死にゆく生き方を選択できるか)/生命(治療は延命か救命か、他者が命の是非を判断していいのか、誰が殺すのか)、だ。ということは結局、日本では前提として傷病による苦痛から本人を解放させるうえで、その手続きや方法について考察を続けている。従い、健常者の精神的不安や苦痛からの解放を目的とした甘瞑はそもそも考えられていないのだ。永山基準では、人を四人以上殺害すればほぼ死刑になる。伊東理沙は直接手を下している訳ではないが、裁判官によっては厳し目にみるかもしれない。理沙は、どっちみち死ぬ未来だった。
 では海外で安楽死はどう扱われているのか。オランダでは安楽死法(要請に基づいた生命終焉並びに自殺幇助法)が2000年に成立している。ただこれは安楽死と自殺幇助を全体的に肯定するものではなく、必要な要件(相当な注意を満たし、地域の検死に届ける)を満たすことで執行者である医師の違法性が阻却されるというものに過ぎない。「相当な注意」とは何かというと、①自発的で熟慮された患者による要請/②持続的で耐え難い苦痛や苦悩/③医師による十分な情報提供/④他に解決策がない/⑤医師は別の医師に意見を求め、①~④を満たしていると同意された/⑥医師は医療上配慮して死なせた、というものだ。ベルギーでも2001年に安楽死法が成立しているが、内容はオランダと似たようなものだ。つまり終末期な患者の肉体的・精神的苦痛からの解放を目的としているのであって、結局健常者の希死願望による甘瞑の処置を許している所はない。

 この世界では、健常者が自律的に死ぬことを公に認めていない。それは国は、国民が居ないと成立できないからだ。「国」の異字「國」は城壁を戈で守る姿からできているが、逆に言うと守り人が居てこそ初めて「國」たりえる訳だから、前提として(末期患者でもないのに)国民へ公的に死の手がかりなど与えられないという帰結を導くのは理解できる。だが、それにしては死にたいと望んでしまった時に、その苦しさから救い出されるためのセーフティネットが希薄過ぎやしないだろうか。
 でもそれはどうしようもないものなのかもしれない。近代国家というのは人々を優秀な国民とするために標準化を進めてきた。これが近代化であり、近代化に於いては共同体的伝統や宗教に代わり、法や医療が社会的な規範としての役割を増した。しかしU.ベック曰く、法や医療は、共同体的伝統・宗教とは異なり、「生」の全般的な意味(規範的な生き方)を与えてくれることはなく、人々は絶え間ない人生選択の海に投げ出されることになった、という。宗教では人生の意味を教えてくれるのに、法律はただ犯してはいけないことが何かを規定しているだけに過ぎないからだ。人生選択の不安さのなかで、自分で生きる意味を探さなければならない。近代化するということは、我々ひとり一人にすべてを任され、個人化されるようになるということなのだ。だから、死への希求も個人的な問題として済まされてしまい易い。
 それに、現代社会での、対面的コミュニケーションの機会の減少という側面もある。戦後日本にもたらされたイデオロギーである民主主義が、1960年代高度経済成長によって経済競争に突入すると、商品消費に生活全体が覆われる消費社会へ回収された。経済環境の充実が個人生活の自立化を促し各々の自由を謳歌することを望み始めるとなると、旧来それが出来ない必然として存在していた共同体的性質が払拭されるばかりか、他者への配慮を必要とする共同生活が煩わしいものとして排除されるようになっていく。民主主義の諸理念は、何をしようと自分の都合勝手として、消費文化と個人の欲望最大化を正当化させる論理的根拠になった。この上で、1980年代以降あらゆる分野にコンピューター・ネットワークが配備されることで、物だけでなく情報も他者を介在せず入手可能になる生活を営めるようになる。それらメディアに接した時、情報送受信の主体は常にそれをする個人に固定されるので、必然として自分にとって都合のいい情報ばかり受容するようになる。そうして個人は個別の基準に沿った価値観形成をしていくが、それは他者の価値観を受け付けない心性に繋がった。価値観のリアリティが徹底して個別化・相対化すると同時に、むしろ個別の価値観が絶対化され、これを脅かす存在を排撃する心性、すなわちミーイズムが助長された。これよって、誰かが死ぬことも勝手だし、自分が死ぬのも勝手だし、自分の意志を邪魔されたくないしして欲しくもないという思いがある程度正当化されるのである。
 かくして公には自殺してはいけない言説が支持されている裏で、実感としては自殺する情動もやむをえないものがあると他人に同情される。なので、自殺を完全に否定しきることで福祉の拡充を目指すことも、肯定しきることで安楽死の解釈拡張に着手することも出来ない、中途半端な状況のままに置かされている。人々としても、仮に自殺を認める発言をすることで公の意向に反してしまうリスクを背負いたくないからと、自殺への意見を巡って内的抑圧が図られ当たり障りのないような話ばかりになって行きがちではないだろうか。

 どうも、自殺について考えるとなると、自殺することが良し悪し云々な話ばかりになってしまう。私のこれまでの話も、単に自殺を巡る意見の活性化が図られないことを嘆くついでに自殺に関する価値観を肯定的に持って行こう、とする話をしたかったのではない。繰り返しになるが、自殺してはいけないなら自殺をしなくてもいいくらいのセーフティネットがあって欲しいものだし、自殺してもいいなら終末期患者によらず甘瞑を得るための手続きと社会的説得の構築に乗り出してくれたらいい。主観的救済としての自殺という側面が顧みられずに、第三者的倫理としての自殺してはいけない言説がある種不可侵聖域な倫理観としてマジョリティで普及されたままにして置かれている。だから、自殺をすることがじつは従来覆い隠され続けてきた真なる本質なのであると言うつもりはないし、元からそんなものでもない。従って、安直に自殺を援護する言説をとるものではない。不謹慎だからといって、例えば葬式のあげ方を知らないではいられないし、戦争について考えないわけにはいかないだろう。

 そもそも、どうして今の社会は「自殺したい」と思う人を生み出してしまうのだろうか? それには人によって色々な理由を抱えている。物語の中でも、色々な事情を抱えて死を選ぶ人がやって来る。そのため、自殺させないためにと色々な理由を個別にしらみつぶしに対応していこうとすれば、きりが無い。一人の力ではどうにも解決できない人の苦しみがあるし、時代によって苦しませるものは変化する。だから、「自殺したい」と思ってしまう大本を観察してみないことには、対処療法ばかりになってしまうだろう。
 H.グーリシャンとH.アンダーソンによる社会構成主義的なセラピー、「ナラティヴ・セラピー」(『協働するナラティヴ』)によれば、どんな臨床心理治療のシステムも、ある問題をめぐる対話によって結びついたもの…すなわち問題がシステムを作ると考えた。システムの中で取り交わされる言語や意味とは別に問題が実在するのではなく、あくまで言語と意味によって問題が問題として作られる。従い、どんな意図だろうと関係なく、問題を巡って語られる言葉が問題を現実的なものとして存在させている。なら言葉がなければ問題も存在しえなかったのだから、その意味で、問題を巡る言葉は問題を解決“しない”ことに貢献する。問題を巡る会話が行われないシステムによるセラピーによって、問題は解消に導かれるのである。
 誤解してはならないのは、ここで語られている事は、問題について口をつぐむようにするシステムという意味ではない。初め人は問題について語ろうとしているのだからセラピーの初期は問題を語らざるを得ないとしても、次第に問題について語らなくても良いような関係が作れれば問題も消えていくはず、という意味で、問題を解決でなく解消すると表している事だ。相手のことを知らないセラピストは、不知の姿勢によって、問題ではなく相手を探索し対話領域の広域化を促す。
 だが、暫くすれば何となく人となりが解った気になって、経験に基づく知見や専門的知見に当て嵌めて物事を翻訳したり判断したりしがちになる。そうでなく問題について語らなくても良い関係を作るには、解った気になることは継続した質問を出来なくさせてしまうことになるので、なるべくそうせず日常の言葉で相手と共に語るようにする必要がある。不知の姿勢を取り続けて相手のことを教えられ聞くのは、確証バイアスをはずし、今までの理解をアップデートするよう促される。そうして何らかの最終結論に達することを目的としないように対話することで、更なる語られていない話を語られ、問題が問題でなくなり始める、という。
 言葉によって「自殺するしかない」とする思惑がリアルな「問題」として当人の中で現前化してしまうならば、言葉として語られる必要が無いくらいの異なる世界観の中で生きていけるようになれれば、すなわち自殺の「問題」は解消に至るだろう。とある言葉によってそれが人を追い込む元凶になるなら、言葉化された「問題」から、わざわざ言葉としなくてもいい何かへと移っていこうとする発想が普及されることによって、もとから「自殺しよう」と思わなくて済めるようになるかもしれない。

 こうしてみると、プロジェクトに能動的に参画することになった古谷が行う面接というのは、自身は意図せずにか、自殺するしかないという「問題」を「問題」として解決させてしまわないための糸口をつかもうとする情動になっていたようにも読める。自殺に最も効果があるのは、倫理を説くことではなく、問題を解きほぐし別の語りの中へと編み直させる継続した対話なのだろう。その対話は、一度「問題」化してしまったら荒いセーフティネットしかない社会の中で、自殺志願者が明確に訪ねてくる自殺支援プロジェクトという立地から逆説的な救命を試みるものであった。
 自殺するしかない「問題」が対話の過程で別の語りへ移り解消されていくというひとつの考え方が、社会の中で点々と在るのではなく地域共同体のなかで面として及んでいることで、人の避難場所として機能していたらいいよね、と思った。

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