ハイロックという薬/毒をもって、何を考え受け取ればいいのだろうか

 エッセイは日記ではない。両方とも事実に基づくことを書くが、エッセイは他人に読まれることを前提とする散文だ。他人に読まれるということは、例えば情報に客観性を加えることで自分の内と外で何が行われたかが論理的に明らかであるように構成したり、文章の物語性を演出することでウィットに富んだ面白さや教養で読者を楽しませたり、そうしたい意向が働くものだ。自分だけの記録なら詳しい説明などいらないが、SNSで文章を明らかにするとなると不特定の人間にそれを読まれるので、本人の意向がどうあれ文章は「誰かに伝わるもの」になる。そのため不特定の目が気になって、読まれる文章の表出が快として伝わるように、整えたり当たり障りなくしたりしてから公にする。
 ところがこのエッセイでは、著者ハイロック氏(以下敬称略)がきわめて自分に正直であることを貫き、自分が感じて取った心の湧出物を捉えて言葉として離さぬように指先を跳ね続ける。誰かの為としてお上品に大衆に飾らずおもねらず、自分の思いを泥臭く突進していく。自分が価値を見出したものを前提にすることで他者と相克する事態を恐れない。なぜか。それはハイロックが怒っているからだ。「自分はこんなにも怒っている!こんなに真面目に怒りを覚えている!この怒りのさまが世界の此処にあることを知れ!」怒りは視点を主観的にさせ、文章は我がままに迸る。当然文章の体裁や間違いなんか気にせず、勢いに乗っていく。「ディスって暮れていいので」と、作品紹介文からもう記述が間違っているところからして、そんなもの気にすまじと言わんばかりのハイロックの情念の強さがどの様なものなのか、片鱗が見える。ハイロックは怒りを許しているので、結果エッセイというジャンルにおいて特異な作風を得るに至った。
 歯に衣着せぬ言葉というのは、そのまま説得力として押し通せる破壊力を持つ。『“トークの帝王”ラリー・キングの伝え方の極意』著者ラリー・キングは、話上手な人の4つの類型の中で、何かに怒っている人を挙げた。怒り悪口は不満などが溜まって生まれてくるので、そこからのカタルシス(精神のスッキリさ)のために表現される言葉は自然と、聞き手には飾らない真っ直ぐな言葉のように聞こえる。偽らざる思いは飾った言葉よりも響くのだ。汚い言葉や強い言葉には話し手の直截な感情が込められ易いので、これを受ける者は耳を傾ける集中力が増し、またそうした言葉が貫徹していれば、それだけ話し手の強い意思や本気度が高かったという印象が残されることになる。
 この直截さによる散文の著述という姿勢は、どことなく私小説作家を連想させる。日本の純文学小説界には二つの流派があった、即ち架空のストーリーを組み上げる本格小説派、実生活を念頭に描く私小説派だ。前者は例えば夏目漱石/芥川龍之介/三島由紀夫、後者は田山花袋/葛西善蔵/瀧井孝作らが居る。一見前者のほうが有名だが、それは教養に溢れ架空の話のネタを仕込むのに長けた書き手は、普通本格小説を目指すからだ。私小説になる作家は物語発想力が貧乏なタイプが殆どなので、自分の身の回りや既存の出来事から文章のネタを拾おうとする。だから、大概私小説派はどれほど文字で表現する行為に対する“真剣さ”を持っているか…「お上品な本格小説派なんかより自分の情熱のほうが負けないし面白い!」という発想によって勝負しようとした。そのため、生活とか態度等はしばし荒れたものになり、またそうあるからこそ書くネタが生まれた。ハイロックの場合、それがハイロックという人格、「皆が想起するハイロックという他者」らしく本人があるためには、結局何処を目にしても正直でどこか怒りの片鱗が見えていなければならないのである。その点、ハイロックはほとんどこれを外れてはいない。語りぶりを見るに、物語を創作するよりも事象を評し再構成することのほうに、労意の密が鮮やかな比類なのかもしれない。何より、村上春樹を取り上げるべき作家の一象徴に見てこれを唾棄している態度からして、ハイロックの位置はどちらかというとやはり私小説作家らしいほうへ見て取れる。
 (このように書くと私小説作家をパンク的背伸びバカとして愚弄したいのかと取られるかもしれないが、私小説作家とはそういうものとしか言いようがないので良い悪いの話ではない。また、村上は80年代日本小説界で芥川賞を逃した。同じく島田雅彦/山田詠美/吉本ばなな達も逃している。これは時代が、社会的成功者が旧来身に着けるべき教養でなく、物の消費のカッコよさやニッチな知識を再構成するやり方の受容へと変化し始めたのに、日本小説界は本格小説か私小説かの二択という古い基準のままで居たため作家達を評価出来なかった、という迷走を晒したからだ。村上はスリップ・ストリーム作家だったから、評価されなかった。)
 私は誰かを荒れさせたくも怒らせたい気も無いので、引き続き恐々レビューする。

 今までも、物事を毒舌な言い様でズバッと斬ってしまう人は話題になり、そして面白がられてきた。古くはトニー谷/大橋巨泉/上岡龍太郎。最近は有吉弘行/マツコ・デラックス/せやろがいおじさん/高嶋ちさ子。もっとも、トニー谷はやりすぎて義憤に駆られた視聴者に長男を誘拐されるという憂き目に逢っているので、受け手が耐え難いほどであってはならない。例えば有吉は毒舌の直後小ばかにせず笑って和ませようとするしあとで楽屋へ赴きフォローするらしいが、このように毒舌とはその使い手が受け手を不快にさせてはならず、かつ視聴者が大体思っているような本心や物事の本質を言語化できる位の教養に基づく洞察力が養われていてこそ、視聴者は感心させられると共にそれが罵倒ではなく毒舌と解釈して安心して笑えるものになる。「これはバラエティであって盛り上がりの為の言葉のプロレスですよ」という暗黙の了解を見せることが出来てこそ、視聴者はシリアスなままで終わらされないので受け容れられる。
 ハイロックの場合、自らの創作物が評価されないことによる不満の表出を糸口に、次第に他人により過去提出された既存の無差別な物事を指して、それに対する不満や指摘という形での評価を行うように至った。その他人を恐れないで進んでいくという姿勢が、読者に恐れや感心を抱かせて人々が集まる。ところでふと思うのは、ハイロックがやっているのは毒舌なのか、自称しているようにディスりなのか?だ。先述したが毒舌たるためには受け手を不快にさせてはならない。だから情報に客観性を加えてから表出する作業が必要になる。笑いの余白がなくシリアスなまま終わってしまえば、嫌悪の対象になる。してみるとハイロックの情念は笑いの余白形成を気にかけないように見えるしケンカを厭わないので、毒舌を構成できない。かといって、ただ不満たらたらなのではなく物事の質を見抜こうとし、気づいていなかったり薄々感づいたりしていたことを容赦なく言語化させる姿勢を徹している。これは単なる不満ぶちまけに因る見苦しさや偉ぶり臭さの谷へ転落しないバランスの為のポーズになる。それに、エッセイ中何かを得て企画を様々思い立っては実行に移したことを報告しているように、イベント企画力については、毒舌から始まり80年代を一世風靡したビートたけしに迫るかもしれない。誰も恐れない堂々とした公でのディスりがあり、そこへ物事を見定める能力が加わることによって、読者を笑わせる通常の毒舌とは違う雰囲気の傾向を帯び始める。

 人間は、社会と関わって生きる限り、一人では生きていけない。人が集団を作って所属するのは、一人では達成しえない事が出来るからだし、何よりそこが自己同一性=アイデンティティの源泉となりうるからだ。
 自己(self)というのは、英語では再帰代名詞であるように、一度自らを他者化したうえでその他者を自分自身として再び受け入れたもの、という概念だ。自己が成立するためには、アイデンティティの確立を必要とする。J.H.ミード『精神・自我・社会』によれば、それにはまず、他者化された現実の自分の有り様と、通常イメージする理想的な自分の有り様とが折り合いをつけながら次第に一致すること。そして、形成された自己が社会的に承認されること、この二つが条件である。もし自分が設定した自己が他者から承認されていないと、他者の解釈というのは大概ほかの者によっても同じ様に解釈されていることから、自分の設定のほうがマイノリティになってしまって社会的に上手くコミュニケーションできなくなる。そのため、最終的に自分も受け入れることが難しくなり、こうして他者によって自己の変更を余儀なくされるのだ。
 こんにち宗教や伝統、地域共同体などの伝統的制度に基づいた関係はますます弱まっている。代わって支配的な関係のあり方は、A.ギデンズ『親密性の変容』によれば、純粋な関係性だ。それは純粋にその特定の関係を持ちたいという個々の感情のみに基づいたもので、外部的=制度的な支えがなく、結果として満足感を得られなければ何時でも解消できる関係のあり方のことを言う。こんな不確実な内的関係に依存して作り上げられる関係は、脆い。だからこんにちの人は関係を共に築いている他者の感情を傷つけないように、過剰でも他者・自己の振る舞いをモニタリングし続けている。だが人の在りようというのは環境によって変化し、固定的なものではない。するとその正解の無さ、予測可能性の低下ゆえ、絶え間ない不安に苛まれ易くなる。D.リースマン『孤独な群衆』では、資本主義の発達で社会が成熟し、伝統的価値観を失い消費が社会の中心になったことで、その中で人間関係をうまくやることが最も大切なために登場した性格に、他人指向型性格を挙げた。他者の意向を絶えずモニタリングし、他者の動向に合わせて行動しようとする同調的傾向を呈する。
 そんな状況にあって、強いリーダーシップを発揮している(ように人々にとって感じられる)者が出現したとき、そのアイデンティティの確固たる(ように見える)さまで批判を恐れず物事に立ち向かっていく姿勢は、読者にとって素晴らしくてワクワクするように見えることがあるだろう。エッセイに対するレビューは痛快な魅力とのようにどれも好意性を表現しているし、何人かは明確に「カリスマ」と言っている。カリスマと言及したレビューは「いいね!」数が高いことも注目だ。読者はハイロックをカリスマ視することに同意しているのだ。
 カリスマとは、M.ヴェーバー『支配の諸類型』によれば人の非日常的な資質をいい、その資質が客観的に正しいかが問題ではなく、カリスマ的被支配者(帰依者)にとってどう評価されるかだけが問題になる。カリスマは、伝統に拘束された諸時代における革命的力そのものであり、あらゆる個々の生活形式や現世一般に対する一切の態度の新しい志向を生み出すことで、心情や行為の中心的方向を変更しようとする。そして支配とは、特定の思惑に服従を見出しうるチャンスのことであり、服従のメリットを見出すことが真正な支配関係の要件だ、という。田中芳樹『銀河英雄伝説』の中でD.アッテンボローは革命集団について、人間は主義思想の為には戦わない、それを体現した革命家の為に戦うんだと評した。革命的力を成し得る人に対する一種の譲渡傾向の発生は、何か自分の理想や考えを体現している人へ寄りかかる行為が、まず意見を非難される危険に関する総責任者を外部へ特定し責任を譲れるとともに、カリスマの指導が救済や生き方の見本としてカタルシスを得られるからだ。またW.リップ『Charisma―Social Deviation, Leadership and Cultural Change: Sociology of Deviance Approach』によれば、カリスマは社会からの逸脱の影響で発生するという。まず社会から認められず扱われるスティグマ化、次にそうした人間がむしろ開き直り自らマイナスイメージを自称し始める自己スティグマ化を経て、そして社会に変化を望む人々らに代弁者として承認されることでカリスマ化するのだ。ハイロックは自分の小説の認められなさに失望して他人を攻撃し、その姿勢の目新しさが共苦の友を呼んだ。ハイロックの情念に読者はメリットを見出し、ここから関係が始まる。その時ハイロックのディスりは教祖的言葉として権威づけられカタルシスになりうる。
 現代は消費社会化の進展と価値観相対化の影響により、プライベートの志向と個人の欲望最大化を肯定するようになった。だがその環境は、プライバシー防衛のために全人格的人間関係を回避し、それぞれの関わり合いが人格の一部だけで行われるようになっている内実なので、コミュニケーションすることでのアイデンティティ認証の契機を与えてくれ難い。そこでSNSなどのインタラクティブ・メディアに接して、対面的コミュニケーションの持つ「あなたとわたしは同じ話題を共有し合った仲だね」という連帯感形成の側面を擬製し賄う。ここで取り交わされる話題は連帯感形成のネタとなる。何らかのことをコミュニケーションの当事者ハイロックが話題に挙げることでテーマの共有を確認し、ディスれば気軽に優越感を獲得することができる。例えば村上をディスればディスるほどコミュニケーション当事者としての優越性は高まり、緊張感を緩和しカタルシスが増加する。読者が賛同すれば結果的にともに優越者になるため、優越性レベルでの一体感を生むことにもなる。メディア特性上主客関係は半ば固定されているので、村上はディスり返せない。ハイロックは常にディスる主人として居られる。それは、カリスマとしての一貫性を担保する一因にできる。
 かくしてハイロックの言葉は強いけれど真理の一端を見せるものだろう、と読者にとって感じられるようになる。ただの不満ぶちまけなら悪評を喚起するが、しかしカリスマ化によって受容される。毒舌芸人なのではなく、ディスりカリスマなのだ。対応として真面目に他人から叩かれるか、真面目に他人から感心を覚えられるかのどちらかになる。

 ハイロックの正直さに、読者も対面的な場面でこれほど気持ちよく物怖じせずに意見を言えたらいいのにな、と読者自身の理想を仮託することもあるだろう。ハイロックの語りの切れ味に慄き、憧れ、遂に「この人に何を言っても駄目だ。自分は自分であなたはあなたでいいよ」「さすが清々しい言いっぷり。自分の意見とはハイロックのそれでいいや」などと説得される者も出るかもしれない。説得力たるやW.シェークスピア『ヴェニスの商人』で法学者に扮したポーシャ並みだ。ハイロックがシャイロックでなくて良かったと思う。
 でもこう思うかもしれない。今まで良くも悪くも正直だからこそ、意見に反意を向けられたり炎上したりすることがあったのではないか? ハイロックに余りに影響されることはなく自分の意見を独立して持てるのではないか?と。確かに反意を向けられたらしい過去は今まで投稿されてきた話題から読みとることができる。そもそもハイロックは反意上等の構えを公に語っている人物であり、場合によっては自ら喧嘩を売りに向かうこともする好戦士なのである。これに、冷やかし義憤であれ、反意が取り付かないほうがおかしい。反意、ということは従いハイロックとは違う読者自身による自立的思考から出でた意見発露があることの証拠でないか?と思うのは自然だ。だが私がここで指したいのは、ハイロックがどのような情報を伝達してそれに対する信憑性を他者に問われたか、その有り様ではない。ハイロックという存在から情報がもたらされる、それそのもの自体に読者はどのような意味を見出しているのか、である。
 先ほど全人格的人間関係の回避の中でアイデンティティ認証の契機を作る為に、SNSなどに接して連帯感を形成すると述べた。でもそこでは誹謗中傷や炎上といった事態が発生する。プライバシー防衛のため匿名化することで自分は主人として我がままに振舞い、一方で他者をモノ=メディアのように扱いたい欲求が基になるからだ。意見に対する反意はネット上の出来事で済むのでプライバシーが侵害されることは基本無いから、しばし欲望の赴くままに推移する。だがこれで、何かを攻撃する匿名の人間間に一過性の臨場感が生まれる。攻撃対象のサイト運営者や事物等への優越感と、それを共有する連帯感だ。場合によっては、初めや終わりにどういう印象・感想を持ちこそあれ、最終的にカタルシスと連帯感の利が得られたならば、それはコミュニケーションしたことの満足にも繋がる。そう至れるのならば、肯定的でいようが悪い見方をしていようが、あえてそこを問わなくもされることがある。話題を共有し合った同士として、ハイロック対某はともに読者に迎え入れられるだろう。苫米地英人『現代版 魔女の鉄槌』によれば、我々は情報の正確さの根拠を求めるが、実際情報空間には唯一絶対の真実はない。だから真実は幾らあってもいいという逆向きの命題に捉えられる。そして(カクヨムはまさに)娯楽目的で接する情報に信憑性は不確かだが、何らかの効用を感じて読む以上、その情報は読者に機能を提供している。そうした情報はその人にとっての真実になる。当然、発信者は情報が機能を供するものだと保証したり裏付けを取ったりする努力が必要だし、受信者は情報を自由に解釈して良い、これは情報の非対称性問題に過ぎない。だが大概受信者は情報が自分にとって有用であれば真偽を問わないものだ、という。それを念頭にすると、この場合有用な情報は、存在論的には連帯感を持ち得る情報のことだ。伝達された情報の中身云々じゃない。それに思い出してほしい、ハイロックはディスりカリスマなのだ。直截さをむき出しにする姿勢のカリスマ化なのだから、擁護されようと炎上されようと揺るぎない。

 ハイロックのディスりは読者へ爽快感をもたらしうる。でも、何故爽快さの感覚が可能になるかを考えてみたら、現代社会の感情に依拠した人間関係というマトリックスの響きを見ることが出来た。ハイロックとは危険なのか?…と言うよりも、個人の行動様式を規定されないながらもアイデンティティ承認を目指すための活動の盛り上がり現象を意図的に生じさせる人(有名なのは小泉劇場=郵政民営化祭り)によって、その果てに熱狂に翻弄され群衆的に陥ることがまず危険だと言える。純粋な関係性は個々の感情に基づくので、論理性が無いために体系的に人間を規定しない。もしそこを利用され雰囲気に圧倒されたら、そんな集団にプライバシーを隠しつつ連帯感によってアイデンティティを承認し合える場としての機能を見出してノる一方、その面白さカタルシスに覆われて何か特定の結論へと誘われていくかもしれないのだ。だから、コミュニケーションをコントロールするような視点を持ったり、メディア・リテラシーを養って常に価値観を相対化でき時には反応しない感覚を持ったりすることが必要だ。そのことを考えさせられる。
 ハイロックとは薬となり毒となる。言葉が薬/毒なだけではない。関係としての薬/毒を気づかされるものになるのである。



 これは讀賣テレビ『EXテレビ』で上岡龍太郎が語った言葉だ。

「僕なんかあの、TVでちょいと小難しいこと言うてるでしょ。実は僕の気持ちの中ではね、本来視てる人たちが、僕が何を小難しい屁理屈を言うてても「また言っておるか、うむ、うーむまだ青臭い奴がほうほう何を言っておるか」とこう高い所から僕を見て頂くと非常に楽しんで貰えるんじゃないかという姿勢でやってるんですが、ところが僕がそれを言うとですね、皆が「ほぉ、うむ」と頷かれると困るんですね。そこで「ふむふむ愛い奴じゃ、俺の掌で転がしてやろうか」ぐらいで視てくれりゃいいんですが、どうもTVというのが、魔法の箱、すべてを支持するオールマイティの箱、みたいに思われるとね、TVに全てを求めすぎるんですよ。(…)
 足らんとこはね、本読む、人と話す、街へ出る。そうですね、そのほうが、人生もっと豊かになりますよ。TV視る時間があったら、スイッチを消して本を読むか人と話すか。その方が人間豊かになるような気がしますけどね。TV出てる僕が言うのも変な話ですが。」

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