アニメ声優の密室での不審死を巡って、麻薬汚染や政界汚職も絡み、まさしく謎が謎を呼ぶ複雑なプロットを明快にまとめあげた手腕はお見事としか言いようがありません。
そして何よりも、意表を突く密室トリックと、その密室トリックを実行できたのは誰かを特定していく強靭な推理は圧巻の一言。
名探偵の榊原氏は派手さこそないものの、常に冷静さを保ちつつ堅実に推理を積み重ねていく姿には風格や重厚感が備わっています。
アニメ声優の世界という舞台設定も、麻薬や汚職といった社会性も、すべてミステリとしてのプロットに奉仕するために存在しており、本格ミステリの世界に耽溺するという貴重な読書体験を得ることができました。
本格ミステリ好きなら必読の作品だと思います‼
この物語は、ある者の死の真相を解明するという小規模な調査だったはずにもかかわらず、それから何故か次々に別の事件に直面していく個人探偵の榊原恵一(と自称助手の少女)が、自らの傑出した推理力でそれらに立ち向かい、犯人を追い詰めていく物語だ。
そして、シリーズ「名探偵・榊原恵一事件ファイル」の中では、私が一番好きな事件である。
なぜ本作『魔法少女は高笑う』が好きか。
まず、もともと私はアニメを視聴することは人並み程度に好きだし、推理ものや刑事ものにおいてアニメの制作現場が軸に取り上げられるのは私としては目新しさを感じた。でもそれだけなら、他作だってめいめいの舞台があってそれぞれに優れた推理の様子を有している。しかし本作を抜きん出したのは、他作以上に、解決劇とその後がドラスティックで大機動だからなのだ。
そもそも本作含めたシリーズの主人公である探偵、榊原恵一とは何者なのか。
シリーズ(あるいは「外伝集」にも少々)の中で、榊原が探偵になるまでの過去や、ほかの登場人物から見た榊原評とかは、端々に表れる。そのうえで私なりの表現を編むと、榊原は〔事象整頓と論理解釈の殿堂〕そのものな人である。榊原の能力を具体的な言葉で表してみるなら、三次元の仮想セルをこしらえて空間座標軸に相当するものを定め、「あの事象はこの行の列の奥行の位置に、その出来事はその行の列の奥行の位置に」と三次元セルのなかに適宜仕分け組み入れ秩序立て配置をし、成立仕上がったそれを必要に応じてミクロにもマクロにも主客観察することによって状況や時系列の矛盾を発見する、そう長けた様子なのだろう。
論理的思考ができる人というのは、まず「概念」と「事実」との区別をつけることができ、そして二元論・対義関係を自らの思想の中心から排斥することができる。なぜなら、この二つを仮に許容していると、思想に深刻な論理的欠陥を抱え込むことになるからだ。
一つ目について、始めの「概念」とは何らかの言葉の意味を示すものであり、次の「事実」とは単語の組み合わせによってできた説明文である。概念によって示されていることは、言うなれば何についてのことなのか?を含んだものではないのだから、事実を持ち出して決定させていかねばならない。だから概念と事実は違う。だが、もしその区別が付けられなかったなら、ある側面に関してという限定が行われた説明である事実に従って、何も限定などない単なる言葉の意味であるはずの概念を捉えてしまう。すると「概念で示されていることが現実においては不正確なようにしか実現されていない」ことに悩んだり憤ったりする。事実とは限定化が行われた説明なのだから、それを概念として捉えても不正確なのは当たり前だ。
二つ目について、二元論・対義関係とは例えば善と悪のように相容れないような双璧を念頭に置かせる言葉だ。しかし、仮にとある存在が人によっては善としての側面も悪のような側面にも計測しえる事態があれば、善と悪の二項に組み入れられない例外が存在していることの説明をしえなくなる。だから、集合論のようにいうなら、善と善ではない、のように否定形を使うか、あるいは双璧なんかやめて、善・悪・善であり悪でもある・善でも悪でもない、のように項を増やすしかない。どちらにせよ、対義な言葉を捨てるようにせざるをえない。
榊原について〔論理解釈〕と表現したのは、ひとつは事象の分析から論理的矛盾をきたしている事々を発見するという能力ゆえでもある。そして、もうひとつには先述してきたような論理的な認識力を厳正に通底させている人となりだという見解も含ませている。これらによって、榊原は今までに困難な事件の真相を何度も解明し、そのたびに敗北の許されない犯人との対決を勝ち続けて来れた。
そして本作において肝心といえることは、まさしく「論理的な認識力」そのものとなったのである。
魔法少女とは空想上に在る能力選民であり、そうあるからこそ、悪の成敗という名目なら理論的にはどんな既存の現実社会の権力や道徳でも超越することが可能である。魔法少女が闇めいて犯罪性さえあるような顔を視聴者に対して覗かせないのは、視聴者として狙う層を児童に設定したならば主人公は道徳に適う存在であった方が健全な情操教育になるという制作者側の意向もあるだろう(そうしないのならば『魔法少女まどか☆マギカ』のような逆手取った作品も生まれえる)。また、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』によれば、多様な虚構のものが独自のリアリティを持つことを許されている日本的空間では、リアリティを支える最重要な因子がセクシュアリティであり、性的なものを巡る様々なロマンスが物語にリアリティを持たせる。また、コンテクスト(=状況)の切り替わりや移動の瞬間に発生する強度もリアリティとなるので、担う可愛さや変身し能動的に戦う戦闘美少女の諸特性は、多様な倒錯の形式がありながらもリアリティを容易に発生することになる。そして、ファリック・ガール(=万能感ある少女)のわりに必然性なしに戦闘能力が与えられるのは、漫画やアニメのような虚構の世界においては動機や外傷が空虚であることで虚構世界になじむことになり逆説的にリアリティを発生させるからだ。虚構に現実の直接的な反映を見る分析は、虚実混同の典型だ、との旨を述べている。このように、善なる魔法少女なるものが存在するのは視聴側と制作側の需要供給の都合によるものであり、そもそも魔法少女自体は空虚という素地から離れられない、ということだ。
ところが、魔法少女について、空虚ゆえにリアリティがあるのを実際の現実の反映として捉えてしまったときに、先述の「論理的な認識力」が問題になってくる。まず、魔法少女は魔法の能力が有る少女という概念に過ぎず、その立場についてまでは示してないものを、魔法少女の絶対的立場という一側面の事実まで説明してしまうようになる。そして、魔法少女と敵(不快な存在)という双璧が現実の世界へ侵入するとなると、事実は概念に含まれる、あるいは事実に従い概念を変質させるという誤認に沿って、魔法少女としての道徳と現実の法律がイコールになるか魔法少女道徳が法律より上位の価値体系になる思想がつくられ、「処罰」の根拠に使用されるようになる。
真犯人は魔法少女という存在を利用することで、こうして自分が観測する現実を変質させた。魔法少女の絶対的立場を現実に適応させるために、現実に対する認識を変えることで不正確さを消すように解釈したわけだ。深刻な論理的認識力の欠陥を伴った、行動に思い切りのよい人間となっていた。だから榊原は、魔法少女の現実を破壊するしかなかった。
かくして現実を破壊する榊原は、従って魔法少女が関与したこれまでの様々な現実の遺産をダム崩壊洪水のように露わにさせる立役者としても、自動的に相成った。近傍の闇も併せて機会を得て一挙にあれよあれよという間に詳細に明らかになる、そして本作においてはそれが不特定多数の衆人傾注下において為されるという、のちに「ジャンヌ・ショック」とあだ名される大いなるセンセーションをもたらす直接の因子となった。そのような、スリルが湛えられた劇的なさまの容赦なさ・根こそぎ感が、他作の榊原の様子に比べると過多に常人ならざるものとして爽快だ。本作での榊原らしさが社会的影響に対し烈しく露わに及ぼされているところが、しょうがない笑いを読者の心の中に催させる。
なぜ魔法少女が高笑うのか。
結果からみれば真犯人は虚構世界の物語のごとく、一撃があると大規模破壊が起こるような、まずいものが成敗されるような能力を持っていた。通常ではありえなくて途方もないその能力を有していたという点では、利用したとはいえまぁ確かに虚構の存在「魔法少女」であった、と言えはする。
だが、例えばフリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』には「深淵を覗く時、深淵の方もまたこちらを覗いているのだ」という記述があるが、敵を討っていると自らを価値付けていた魔法少女側もまた、敵自身としての裏返しな物柄があり得る。
敵という見解は誰から観測した事実なのか、その前に魔法少女か敵かという潔い双璧は現実にあり得るのか、論理的厳密性を求めていけば気づくことになる。でもリアルの反照であることと、リアリティがあることは違うのだから、空想上の話は空想だから可能なんだと受け容れて観賞すればよいと、ただそれだけのはずだった。しかしそうできず、かつ真犯人自身の素質の問題を魔法少女で上書きするからいよいよ自分に甘やかしい。魔法少女のことと自身の素質は初めから別の問題に過ぎない。いき着く所までいってしまった魔法少女の顔は、本質が空虚な魔法少女ゆえに欲望やエネルギーを媒介するヒステリーが作動して、外から見れば本人の信条に反してまことに悪役性を孕んだように歪んでいる…そうしたような、観察による榊原の心情を端的に表す風刺でもあるからだ。
ところで、本作における真犯人と、そこに事情は何であれ近しく居た様々な闇は、真犯人の使うトリックの為に運命的に距離が近づいていた状態だった。それどころか、闇とは関わりがないはずの巻き込まれた者も、大概、事件の総譜に絡みつかれている。あの事の関係者は、実はこの関係者だったのです…!とふんだんに明らかになる。語られてゆく話の作劇の運命に導かれるように、人物たちが集まった。ある者の死の真相解明を頂面とした複層な事態に、こんなに運命的に因縁があるのかな、とはほのかに感じた。
今回は『魔法少女は高笑う』に特化して感想を述べたが、「榊原シリーズ」のどれもの作品が質高くある。私はまずシリーズ全体に好意があり、それぞれの事件を読んでいた(「小説家になろう」様での連載から知って読んだ)。推理小説を制作するうえでの気遣いの神経を最後まで途切れさせることないままに、規模の大きな文章を、なんといつでも全文読めるように提供して下さっていらっしゃるので、作者様の表現欲と善意雅量には痛み入る思いである。
しかもシリーズの中には、その語られよう終わりようからすると未だ別の事件が絡んでくることを予感させるものがあって、シリーズのさらなる充実への拡張性を持たされている。その上で、今でも数か月に一本の頻度で新たなる事件と解決への道程が表に出る。つまり、新作を待っていられるのだ。これはよいことである。
次の、建設された難問の摩天楼はどんな形貌となるだろうか。しかし内部を彷徨うことはない。探偵榊原恵一は、たとえ突き詰められる真相が哀禍なものであろうとも、かならず解き明かしてみせるからだ。