転生によって「誰かのために身を捧げられる一義」を得た者の物語

 転生ものの物語といったら、例えば読者は現状に何か不満があるのを、空想の中で、読者ではできないような不満不可視法の願望を主人公に代替させられる手段としての一側面も相まって、持てはやされてとうとうありふれるようになったところだ。
 本作も、転生ものである。もともと人であるゆえに、転生先が馬でありながら、状況や人の機敏を理解することができる主人公である。
 ただ、転生ものはその性質上、作者側の都合で創作の労をいくらも手頃にできる…もっといえば主人公を物語世界としては途方もないほど有能に設定し、そうすれば何でもかんでも主人公さえ在れば瀟洒に問題解決させてしまえるとはいえ。本作においてはそうはならなかった。主人公は人から馬に転生したから、人間が知見し所有し得る知識を理解できる…のだが、言い換えれば転生の利といえるものはその程度しかなかった。主人公は馬なのに馬の言葉を解らない。そもそも馬に転生するとは思わなかったから、馬に関する造詣に深くない。それどころがメタ的になるが、物語の進行や叙述の解像度のために馬をして人心を釈すとも考えられ得てしまう。いわば、通常の一般的な人の心をそのまま馬に移植した、ただそれだけが起きた、というのが尤もな説明となる。
 つまり、転生ものにはなにかと付きものなチートが、得られる恩恵もなく思い掛けず疾う疾う転生してしまった、それが初めに主人公を襲った事態なのだ。
 それどころかそれからさらに主人公は、あまりにも早々から苦難の半生を歩み続ける。本作での主人公は、元々の性格も相まってなのだろうが、陽キャ的ノリで例えば「なるようになるさ」などと冗長な軽みを見せることのない、普通の、尋常な、馬のていを採った〝人〟の姿を描き出されている。

 こういった、苦難に立ち向かっていくという主人公のありようや物話の筋というならば、それはほかの転生もの物語にだってある。このレビューの読者も、ひとつやふたつくらい、その例としての作品を思い浮かべられるかもしれない。
 そのうえで今回、本作をレビューしようと思い立つに至った。ほかの転生もの物語に比して、すぐれていてよき要素が在ると感じたからだ。それは、主人公の、無私的な性質である。

 少々話が脱線するが、ライトノベル界隈において何か特別な才能を持っている主役を表現する単語の中に、〔俺TUEEE〕というものがある。俺TUEEEとはもともとオンラインゲームから広まったとされ、「俺」という主格は、自らの強さを顕示し他者から特別視されたい想いの表現だったらしい。
 その表現がライトノベルに輸入されるようになると、「俺」が指し示す存在は、物語のなかで圧倒的な強さを持つ主役でありながら、主役の境遇を読むことで主役に共感を覚えるとともに心象で優越感を得られた読者の方にも、重ねられた。その心境に関して苫米地英人『洗脳原論』では、人は脳内にとあるイメージを持ったとき体もそれに反応するようにできており、ストーリーテリングによっては、可能性世界(=物語という空想上の世界)の臨場感が現実世界のそれよりも強く没入させられると説明する。可能性世界での状況が読者の臨場感にリンクする、ということによって、主役の強さというのも主役に共感する読者の(可能性世界の中での)強さと同一視される。
 このように、主役の持つ強さの性質を読者自身の心象での強さへも合わされた「俺」が居る俺TUEEEはやがて、主役の持つ強さの理由付けや本来の意味に含まれる自己顕示欲さえも足りなくても、その周囲のキャラクターの反応ぶりやそれらすべてを俯瞰で見ることのできる読者による物語状況の評価によっては、用いられるようになった。ここに至ると、主役の強さによって苦難をねじ伏せる状況を作者や読者が偏愛するあまりに、物語の面白さをただ主役の強さとそれによる一方的な状況誘導しか表現しえなくなり、設定やキャラクター達を置き去りにしてしまったものへの、それを楽しめない人々による蔑視の表現が入り込むようになり、今に至る。
 それでは、本作の主人公をどう評し得るだろうか。
 確かに主人公は作中で特徴的な強さを持っている。そして主人公は人前に出たがりな傾向があるし、周囲からは強さや話題性を以って特別視されているし、アイドル化にまで至っている。そもそも主人公は転生者であり、それは主人公自身の望む状況への誘導力において、ほかの転生ものをコンセプトとした幾多もの作品と同様、ほかから抜きんでるに利するものになっている。ところが先にも述べたように、転生ものといえばつきものなチートな能力と呼べるようなものが、状況や人心の理解(これが本作転生者にとって最大にして最後の武器なのだが)以外にない。主人公の馬体能力の高さという恩恵も考えられるところだが、それは転生した主人公の、ほかの馬とは違う状況理解力の高さを生かした訓練による後天的に獲得されたものとも捉えられるため、チートとは弁別しておいたほうがいいだろう。それに、強くあろうとしていることや他者に自らを顕わにしようとする行動原理が、「自分さえ勝手できれば良い」「自分の利益だけ考えて有名になれれば良い」などといった利己・功利的な雰囲気ではなく、物語ではむしろ無私的に映る。他者を見下げるとかやたら万能感を魅せたり蛮骨だったりな振る舞いとかを執ってはいない。この主人公のありようが、他者からの眼差しを気にする強き主人公の行動という点では俺TUEEE系主役と同様でありながら、根柢の姿勢において俺TUEEEとは確かに一線を画すものであることの現れである。
 必然として、特にライトノベルなどで使用される、強き主人公の一方的状況誘導を表現するものとしての俺TUEEEにあるような、苦難を苦難とも思わずチートで捻じ伏せてしまうようなストレスレスな手軽さを本作から受け取ることはできない。一寸先は予想外が待っている状況を、強くあれども労しつつ切り抜けていく、という物話になる。それは、とにかく主役が最強な存在であるゆえに不快な要素をバタバタ切り捨てながら物語を軽やかに牽引していくような、読者の日常とはあまりにもかけ離れた環境から得られるカタルシス(=精神がすっきり爽快になること)はないということでありつつ、かといって物語の運命に愛されないかのように主役の頑張りや施しはちんたら煮え切らない成果にばかり結実して、艱難に喘ぐかひたすら雌伏の時が続くかという状況を読み続けねばならない心痛が読者を襲うわけでもない。下手に話がこねくり回されず、ちゃんと誰にも受け入れられるような爽快な成果、それをここぞ本領の見せ所というときにこそ出せている。誰だって、大事な機会に成果を気持ち良く出せて、それを仲間とともに喜び合える境遇というのは、うれしいものだ。主人公の無私性と、それが手応えの無い差し出しでおわることなく、主人公の気格を支え上げてくれるような授与というかたちで返ってくるさまが物語にある。

 そんな主人公を読んでいくと、可能性世界の臨場感にリンクした読者の心象のほうも、好き具合に達成感を受け取ることができる。
 というのはまず、物語には、主人公が心配し/支え/丁寧さを持ち、主人公が心配され/支えられ/讃えられる、この円環からやってくるものがあるからだ。それは、周囲から主人公への自然な求心力と、主人公から支えてくれる人のための自己の重要感である。
 自己重要感への欲求について、デール・カーネギー『人を動かす』によれば、人を動かすには自ら動きたくなる気持ちを起こさせることが秘訣であり、その気持ちを起こさせる欲望というのが自己重要感だという。単に自己重要感というだけなら独善的な色合いを見て取れるところだが、先述したように、本作の主人公には無私的な性質を見て取っている。それでいて且つ自己重要感のあることは背反に感じられるかもしれないが、自己重要感に含む意味は、独善だけとは限らない。早々から苦難に当たった主人公が、それを乗り越えるために手を差し伸べてくれた人々へ報いるよう力を発揮するために、自分磨きしなくてはとする、この磨きの意志が重要感を示す。またこの一方で、手を差し伸べたり応援したりしている人々にとっても、主人公を応援していてよかった、応援している自分は間違いではなかった、という期待や喜びなどの気持ちの存在を以って、求心力という現われで重要感が在るといえる。
 そうして、生まれた当時からの状況の認知度、介抱され常に心配/慈悲を掛けられていること、自他の努力によって、主人公はアイドル化した。田島悠来『 「アイドル」のメディア史』によれば、アイドルには〝疑似的仲間〟という同世代的な感覚を喚起させる対象としての、ありていに言うとファンが「守ってあげたい」と思う心理状況に至らせる相手としての側面を持っているという。主人公のこれまでの事は、馬としての成績に依らず主人公を、アイドル化させる=守ってあげたいという感覚を興すに、適していた。
 物語を読む読者としても、主人公が、報われてほしい=守ってあげたい、という感覚が途中で発生するのは察せられるところだ。それに、いっそう主人公に没入した場合、主人公の臨場感が読者と同一視されると、主人公への周りからの扱い様でもって、どれほど〝自分〟が目を掛けられているかの自己重要感を持つことにもなる。このとき(あくまで読者の心象においてであって社会的承認はないとはいえ)、カーネギーが指摘する、自己重要感に対する欲求…守られたい、それほどの価値がある自分でありたい、という飢えに対して、本作はていよく機能を提供していることになる。しかも、俺TUEEE物語とは差があり、主人公に共感してしまう自分に対して嫌悪感を抱くことはこれといってない。功利的自己顕示欲が透けて見える主役とは違う性格だからだ。〔ていよく〕とは、このことである。
 周囲のキャラクターによる後押しと、主人公の地の文を受けて読者が感ずる肩入れ、主人公と読者との臨場感の共有、これら読者の自己重要感をよくくすぐる効果によって、従い読者もその自己重要感を心象にて心地よく満たせ得るはずだ。

 また、この物語において、転生ものというコンセプトのもと「男が馬に転生した話」というアイデアを、読者に訴求させるための複数の効果を感じられる。幾つか挙げてみる。
① 主人公が経験する最悪の出来事:由々しい事態が作中に何回も出てくるが、最たるものは、馬としての生涯を諦めなければならないかというほどの出来事に直面してしまうこと。
② 物語を貫く対照的なキャラクター:ライバルであり元気盛りな子供のようでもある存在。カーネギーによれば、対抗する相手/ゲームの相手という存在が居ることは、自己表現の機会を意識するようにもつながるという。
③ 馬が見る世界と人が見る世界という対照的な環境
④ 馬らしからぬ馬という付加アイデア:中身が人の転生者であることを生かしたアイドル的活動。
⑤ 強調されるタイムリミット:競走馬としての寿命。
⑥ 知らなかった舞台裏:競走馬の飼育/運営者の世界。
これらは作者の意図してのものかそうでなかったかはさて置き、結果としてこうした形で以って、読者に物語を読み続けさせるための興味を惹かせることができていると感じる。

 そして私は、次のことが、本作で枢要だと観じる。
 先ほどから私は〔無私的〕という表現をよく用いてきた。表層上で見える、功利的自己顕示欲とは違う性格としてのそれについてを説明してきた。だが、無私的というのはそもそも、何を根源としてやってきたものなのだろうか。
 読者の心象風景において、2020年代現在、かれこれ30年以上の期間に亘るほど経済が低迷し続けているという思惑が人々の認識に馴染まれ、それに加え政策への失望感や政治活動での汚職などの不信感とも相乗効果して、やせ衰えて老いさらばえて行く世界観の中で数少ない財産の残滓をハゲタカたちが我良かれと啄んでいるように感じられているかもしれない。陳延之『小品方』には、上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す、という記述があるが、上医の未だ現れないただなかでは、誰もが自らの苦境に対して他人から自力救済を暗に求められがちで、誰かへのための心からの誠実な奉仕というものはいやがうえに珍しい貴重品かのように見えるだろう。言い換えれば、そうした奉仕の存在する状況というものは、永遠に汚れない白い絹のハンカチーフ並みに無いと失望されているからこそ、わりと欲しがられている志向ではないかと考えられる。
 でも、この物語では力が尽くされた。それも、異世界においてではなく。もちろん、主人公が主人公自身の境遇改善のために努力を積んでいるという側面もあるといえばある。あるいはもしかしたら本文には描かれなかった、主人公を魅力的に感じさせられるような密やかなチートが、実は与えられていたのかもしれない。そうだったとしても。初めから苦難の目に逢った主人公のなかで次第に宿った献身の志が、別の寄与をたぐり寄せ、そこへさらなる尽力が生まれた。その営動は、やがて大いなる熱となって世を席捲するに辿り着いた。主人公たちを応援する人々は、判官贔屓補正もあったろうが、まず根幹では今時たぐい稀な献身の呼び起こしようについて痛切に感じ入られたのだ。また、可能性世界に臨場感を催している読者のほうも、感じ入る思いがあり得る。これらのことは、先の自己重要感に関しての話でも少し触れてきた。
 小さな点の心から潮流を博するように至るまで、その「誰かのために真剣になれる」「誰かのために自ら義務を果たしたい」という純で弛まない姿勢は、読者の世界と相対させるときらめいて眩しいように見えてきて、より物語を印象深くさせるものとなっている。

 チートなしの転生者が苦難なめぐりあわせに逢いながらも「誰かのために」生きていようとする、という重ための骨子が物語にある。そうであるものの、長編だが読みづらい文章ではないのでどっしり身構えて時間をかけて読み熟して行かねばならない気概を過剰に持たないでよいだけ食指を動かしやすい。かつ、読後にやってくる、背中を優しく押される追い風、清涼感を享けるような、「誰かのために」生きる姿勢への感昂に包まれるかもしれない。
 レフ・トルストイ『芸術とはなにか』によれば、芸術とは「一度経験した感じを自分のなかに呼びおこすこと、そして、それを自分のなかに呼びおこしたら、動作、線、色、音、言葉であらわされた形などの手段によってこの感じを他人もこれを経験できるように伝えること」だそうだ。この物語をふつうに、いち転生もの物語として息抜きがてら消費することもできるし読み方の一つとしておかしなものなどではもちろんない。そのうえで、これまで述べてきたように、物語から「誰かのために身を捧げられる一義」についての経験、人の気持ちの働きを心像に見て取り、きっと、好ましさを感じられるだろう。

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