灰色の生活を送った者達に、成し遂げられなかった可能性を見せる物語

 題の「灰色」の生活とは、米澤穂信『氷菓』(〈古典部〉シリーズ)から採ってきた言葉だ。灰色という言葉で表現されるのは、主人公の折木による一種の自虐的な生活態度だった。青春には灰色と、それに真反対の薔薇色とがあるという。この二つの表現から初めに想像されるのは、薔薇色というのが青春生活が充実していて異性恋愛も仲間付き合いも部活動にも燃えることができる状態であり、灰色は逆にそれらに消極的でむしろニヒルな面もありながら結局楽しもうとはできない状態だ。青春に関する二つの対極的な表現を使うことで、人にとって青春生活がそれぞれ何であるのかを指し示し、またそこから世界観が構成される。灰色という言葉によって、これを受ける人にとってのひとつの時間の要素が「そうあるもの」として立ち現されていく。
 この物語の主人公である新浜心一郎も、一回目の世界はたしかに灰色だ。なにより、作品紹介文におけるモノローグで新浜自らが過去をして灰色と言っているのだ。灰色であり、その過去を継承して自らを陰キャとまで吐く。物語としては、冥を経由して二回目の世界に至ることのドラマを演出するにあたって、一回目の世界が悲惨であるほど「つかみ」として機能している。新浜が灰色として悲惨であることで読者の同情を誘い、二回目の世界で栄達していけるさまが描かれるのをカタルシス(精神のスッキリさ)と成すのだ。
この大いなるカタルシスの以降も、様々に降りかかる困難を打破してゆくカタルシス、紫条院との甘酸い道のりを歩んでゆくカタルシスなどを得ることが出来るはずだ。特に、現況や過去において不甲斐なさを感じている読者にとってなら、得られた効果は大きいだろう。これは現代日本におけるひとつの青春の日常、それも「理想的な可能性」としての青春の日常を描く物語なのだから。

 ところで、先程採った『氷菓』が示している薔薇色/灰色という青春の対比とは、単なる人毎の生活に関する取り組みの状態を分別するだけではない。
 人間には能力のばらつきがあり、能力を持っている者と持たざる者とによっては、それぞれ可能なことの幅が違う。どんな能力か。付加価値のある個性的な才能…例えば野球やサッカーなど部活動で活躍できたとか、勉強で試験上位常連とかが思いつかれるだろう。その中で最も彩度を分けるであろう能力というのは、この場合自分の意志を他人に理解させ望ましき方へ持って行く力=コミュニケーション能力だ。どれほど凄い能力を内に秘めていたとしても、これが正しく他者に知られていなければ、それは初めから無かったも同じになってしまう。ダレン・ブラウン『メンタリズムの罠』によれば、自分がどういう人であるつもりと、実際どうあるかは違う。自分がどんな人間かを人に伝えるつもりなのか、が論点ではない。自分が実際は何を伝えているのか。これが重要だ、という。自分がどのようなことを伝え他者に理解されたかによって、他者の対応も違ったものになる。もちろん、別に優れたコミュニケーション能力がなければならないと言うつもりは無い。ただしおしゃべり上手ならそれで構わないにせよ、そもそも自分が何を想っているかということを正しく他者に理解させるような能力がなければ他者に伝わらないのだ。例えば静かでいても愛嬌があるように思わせるには、キレのいい機知や本物の魅力などの多くの補完的な技術を必要とするので、それを身に着ける努力がないと遂にはあまり感じのいい人ではないという印象を固定的に与えることになる。
 能力についての差を冷徹にえぐる話は幾つかある。例えば明確なのは、(何度も出してすまないが)『氷菓』入須冬実による「能力のある人間の無自覚は能力の無い人間にとっては辛辣だ」という評価だ。もっと直接的なのは、朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』に出てくる菊池宏樹の「結局できるやつは何でもできるし、できないやつは何もできないっていうだけの話だろ」である。望ましくない事態にあたったとき、それをどう捌けるか、能力の有る無しでは過程や結果の巧拙が違う。コミュニケーション能力は後天的にも養えるが、しかし能力を磨いたり発揮したりする必要に学生時代が終わったあとになってから気づいたのでは、すでにこれまでの彩度は灰色で手遅れに確定してしまうのだ。薔薇色は、能力を持っている者が自在に発揮できる色で、灰色は、持たざるゆえに他者に振り回され燃え尽きる色でもある。
 新浜は灰色な一回目時代に培った能力でもって二回目の世界の中で殴り込みをかけていった。大人となり死ぬまでの期間に亘って培われたコミュニケーション能力を有する状態で、二回目の世界に至る。新浜がやり直すことが出来るのは、切っ掛けとしては転生したからだが、それからは新浜自身の能力という裏打ちに拠るのだ。この物語でもやはり、能力についての差の側面を、間接的ながら示している。灰色の魔と戦えるようになった新浜の姿は、薔薇色に見做せる。二回目の新浜は、薔薇色を必要な時発揮できる、能力を持っている者の側だ。俯瞰してみれば、生活を灰色から脱出できるのは「しかるべき時期」に「しかるべき能力」で以って対応できていたのか?という題に課せられる。

 だが現実、時は還らない。二回目という時間は、現実には享受できない。「成し遂げられなかった」読者が救われるのは、物語を読むことで独りその世界観に没入している限定的な時間内であって、夜が来て朝が来れば「成し遂げられなかった」果ての結果としての現実と肉体に引き戻されるしかない。それに、新浜は一回目での青春時代に能力持たざる者だった新浜ではだめなのだ。二回目での能力を持っている者としての新浜という、現実には無いパーソナリティでないとカタルシスを得られない。それに目を瞑ることで物語を楽しめるが、それが在るから読者それぞれにとっての灰色との対比を触ってしまうことになる。これらにより、読者の内に於けるかりそめの救済は、読者自身の現実によって打倒される。

 深刻に入らずに読まなくては、物語が見せる夢のもたらす効果が、読者によってはややもすると残酷なように機能するだろう。夢というのは、夢なのである。愉しむこそすれ、依りかかってしまったときに「成し遂げられなかった」ら、恨みを生じせしめてしまうかもしれない。古村龍也/雀部俊毅『図解 犯罪心理がよくわかる本』によれば、攻撃行動を誘発し易い状況の鍵は「甘え」だという。甘えを拒絶されたと感じた場合、それを裏切りと取り、深刻な恨みを生じ攻撃的になる。「俺」と「天使」の物語がどうなっていくかによらず、大いなる期待が失望に転換しないように、この物語をひとつの娯楽として、相対化して読むことに気を付けると良いだろう。

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