第5話 病室にて
あげはは個室病室の広いベッドの片隅に寝ていた。幸い頭骸骨や脳には異常が見られなかった。落ちた時に頭を強打し脳震とうを起こしたようだった。しかし足は無事ではなかった。膝蓋骨骨折、いわゆる『膝のお皿』が割れていた。たまたまあった石に膝がヒットしたようで、バラバラになった骨をワイヤでまとめていると言う。今後歩行には支障をきたす場合もあると医師は言った。回復力はあるだろうから1ヶ月位の入院で、あとはリハビリで頑張るしかないけど小さいから嫌がるかなあ、と医師はのんびり言った。ま、生命に関わらなかっただけ幸いと言えるかもしれない。点滴を入れながら眠る娘を見て、千夏は夫に向かって溜息をついた。
「ヘレナちゃんに聞いたんやけど、あげは、調子に乗ってブランコ漕いで、勢いついたところで落ちたみたい」
「お転婆やったなあ。いつもは結構慎重やのにな」
「ヘレナちゃん上手やから真似してみたんちゃう?」
「何も覚えてへんのがええのか悪いのか」
一度目を覚ましたあげはは千夏に向かって言ったのだ。
「ここどこ?ママ何してんの?」
「あんた、ブランコから落ちたんやろ?」
「えー?知らん」
あげはの記憶からブランコのシーンがすっぽり抜けていた。医師は言った。
「一時的なものやと思うけどねえ。スポーツとかやったら時々ありますわ。記憶障害ですわな」
「それってまた思い出すんですか?」
「いろいろですねえ。せやけど今回は怖い記憶やから、わざわざ思い出さんでもええかもしれませんねえ」
「まあ、そうかもしれませんけど」
入院して2日後、ソフィアとヘレナが病室に見舞いにやって来た。あげはは足がギブスでくるまれ、歩けない。ベッドの上で、上半身を起こして千夏に絵本を読んでもらうのがやっとの状態だった。その姿を見たソフィアは涙ぐんだ。
「あげはサン、可哀想に。ごめんね、ヘレナがちゃんとしてなかったからー」
「とんでもない。あげはが一人で張り切って落ちたんやから、ヘレナちゃんにも心配かけて、こっちがごめんねやねん」
「ヘレナ、ちゃんとあげはサンにごめんなさい言うよ」
ヘレナはソフィアの影に隠れている。
「そんなん、要らんのよ。ヘレナちゃん、またあげはが元気になったら一緒に遊んでちょうだいねー。自慢の友だちなんやから」
「あげはサン、遊べないねー、ベッドの上で大変」
「ううん、それが走り回れないから親は却って楽なんよ。ごはんも出してくれるし」
「そう? どれ位、ここにいますか?」
「1ヶ月くらいってお医者さんは言うてはる」
「そう…」
ソフィアはまた暗い顔になった。ヘレナの監督責任を痛感していたのだ。その日はあれこれ30分ばかり喋って、ソフィアとヘレナは帰って行った。
しかし、二人が帰った後、驚愕の事実が判明した。
「さっきの子、だれやったん?」
「え? ヘレナちゃんやん。一緒に遊んでたやろ。ブランコも一緒に乗ってたやろ?」
「ふうん?」
「おうちにも来てもろたやん」
「ふうん?」
「ヘレナちゃん忘れたん?」
「しらん子」
「ええーっ?」
あげはの記憶からはブランコと共にヘレナもすっぽり抜けていたのだ。
「あげは、自分が落ちたことだけやなくて、ヘレナちゃんのことも落としてしもたんや」
千夏は夫に嘆いた。そして話し合った結果、この話はソフィアとヘレナには伏せておこうという事になった。ソフィアは自分の責任と思い詰めるかも知れないし、そもそもこの状態をヘレナに理解させるのは難しい。ヘレナが自分の事を忘れられたショックとともに、ブランコが怖くなっても困ると、千夏は考えた。ソフィアとヘレナがやってきた時、芝居を打つ必要はあるが、幸い、以降リンド家の二人は病室を訪れることはなかった。ヘレナが病院に行くことそのものを嫌がったし、ソフィアも気まずい思いを引きずっていて、足が病院に向かなかったからだ。
こうして両家は徐々に疎遠になっていった。
しかし、あげはがようやくぎこちなく歩けるようになった頃、突然ソフィアとヘレナが病室にやって来た。
「沢井サン、あげはサンまだ治らないのに申し訳ないですけど、私、引っ越すことになりました」
「え?お引越し?」
「はい。今度はナリタで仕事するのでナリタに行きます。老人のTour Guideがたくさんになって来て、Narita Airportの近くが便利ですから」
「ええー、そうなんや。せっかくお友だちになったのにね、パパのお仕事やったらしゃあないねえ。ヘレナちゃんも今度は飛行機、いっぱい見れるねえ。またこっち来たら寄ってね。あげは、ヘレナちゃんお引越しでバイバイやねんて」
「ふうん」
上半身を起こしてあげはは頷いた。記憶がないので正直何のことか解っていないが、面倒なので頷いたのだ。
ソフィアもあげはの頭を撫でて
「あげはサン、いろいろありがう。ごめんね、まだ治ってないのに」
と少し涙を浮かべた。なんで泣いてるんやろ、あげははそんな事しか感じなかった。
「もうすぐ退院やし、ちっちゃいから治りも早いって先生言うてはるし、大丈夫です」
千夏もヘレナの頭を撫でた。
「あっちでもいいお友だち、できたらええねえ。でもヘレナちゃん可愛いからぜーったい人気ものになるわ」
頷きながらヘレナは内心少しほっとしていた。あげはがまた元気になったとしても、一緒に遊ぶのは少し躊躇いがあったのだ。あげはがブランコから落ちた時の事は未だ鮮明に残っている。あたしが 『Fly!AGEHA』って言うたから、あげはは飛んで、それで落ちたんや。魔法が途中で効かなくなって落ちたんや。せやから怪我してエラいことになってしもた。こんなこと言われへん…。
あげはが元気になって、またブランコで、今度はあげはから『Fly! Helena!』とか言われたらちょっと怖い。どうしよと思っていたのだ。なのでこの引越はヘレナにとっては地獄に降りてきた蜘蛛の糸のようなものだった。
こうしてリンド家は成田へ引越していった。今から10年前の事だ。それ以降、あげはとヘレナの人生は交わる筈がなかった…のだが。
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