第9話 「あのとき」が出ない
あげははそのまま帰宅した。
「ただいま」
キッチンから千夏が顔を出した。
「お帰りー、何よ、暗い顔して」
「ええことなんか何にもあらへん」
「ん?学校で何かあったん?」
「うん。ウチが悪いんやけど。ウチなんかおらんでも良かったわ」
あげははトボトボと自室へ向かう。千夏は『またか…』と溜息ついてあげはを追う。これまでも度々繰り返されてきた躁うつ病だか中二病だかの『底状態』だ。
「あげは!」
「なによ」
「ちょっと待ち」
「放っといて」
「そうは行かへん。娘に悪魔がついてるの見逃す訳にいかへん」
「悪魔ぁ?」
「そうや。ちっちゃい悪魔。あげはのハートを食べようとしてる。あげははハートを食べられたらそこから元気が漏れて何でもネガティブになって、挙句の果てはな」
千夏はあげはの両肩をそーっと撫で下ろした。あげはの目は揺れている。
「挙句の果て?」
千夏は低い声を出した。
「挙句の果ては、羽が破れて落ちて踏まれて死んでまうねん」
「ちょっとー、他人事や思うて好きに言わんといてよ。だいたい羽なんか無いし」
「お母さんには見えるんよ。あげはの背中には見えない羽がついてる。『あげは』やしね。せやけどそれもボロボロでみじめになって死ぬんよ」
「いやや」
「あげは、自分がおらんでも良かったんやったら丁度ええやん」
「そこまで思てへん。家には居たい」
あげはは千夏の言葉に若干ビビっていた。強気でも弱気でもまだ14歳なのだ。
「何があったかは知らんけど、明るかったら大抵の悪魔は逃げていくよ」
「明るくなんかなれへん」
「ちょっとお母さんの『夏』分けたろか。真夏のぱぁーっとしたお陽様あったら悪魔なんかすぐ吹っ飛ぶわ」
「それや。お母さんが夏、持ちすぎやねん。ふつう1000コも要らんやろ。ウチには残ってへんかったからウチは暗いし嫌な子やねん」
千夏は両手の人差指であげはのほっぺを挟んだ。
「あげはには夏はないけど軽やかなきれいな羽があるやろ。羨ましいわ」
あげはは俯いた。涙が一粒、つーっと頬を伝う。
「名前負けとか言われた。イモムシの方がええって」
そうか、そんなこと言われたんか。それは酷いな、可哀想やった…。千夏はあげはを抱き締めた。
「放っとき。あげはにはちゃんと羽があるから。まだ子どもで小っちゃいから飛べへんだけで、これから飛べるようになるんやから」
千夏の胸であげはのくぐもった嗚咽が聞こえた。ほんまに、可哀想やった。けど大丈夫、大丈夫。千夏はあげはの背中を優しく
しばらくしてあげはは顔を上げた。
「お母さん、ウチ、なんで『あげは』になったん?」
「あれ?知らんかった?」
「うん。聞いたことない」
「そうやったっけ。それは長い話やねん」
千夏はあげはの部屋の扉を開けて、あげはをベッドに座らせ、自分も隣に座った。
「『あげは』ってつけたんはお父さんよ」
「お父さん?」
「そう。あげはが産まれそうになった時にね、京都のお婆ちゃんがお父さんに電話してね、産まれそうやから病院に来てって言うたんよ」
「うん」
「お父さんは会社で特別に帰らせてもらってね、病院まで来てくれたんやけど、いつもは車で病院へ行ってたから電車で来るの初めてやってん」
「ふうん」
「そしたら駅から道判らへんかったのよ」
「えー、ええ加減やなー」
「まあ、大体の方向は判ってたから、そっち向いて歩き始めたんやて」
「ふん」
「そしたら途中からね、どこからともなくアゲハチョウが現れてね、お父さんの周りを飛び回ったんやて」
「へえ。アゲハチョウ?」
「うん。クリーム色と黒っぽい奴ね」
「ああ、見た事ある」
「そのチョウチョがお父さんを病院まで案内してくれてんて」
「案内?」
「うん。お父さんが言うには、やけどね。アゲハチョウが飛ぶのについて行ったら病院に着いたんやて」
「マジ?」
「お父さんはそう思たわけよ。それで『あげは』が産まれてちょっと落ち着いた時にね、お父さんはその話をお母さんにしてくれて、これは運命やから名前『あげは』にしようって決めはってん。ファンタジーや!って喜んで」
「えーー、アニメちゃうねんからそんなに簡単に決めんといてよ。だいたい運命とか計算せえへんかったわけ?」
「してへんねえ。漢字は難しそうやから平仮名って決めただけやなあ」
「ほんでこういう運命なんか…」
あげはは肩を落とした。
「あれ?落ち込んだ? お母さんもええ名前やなって思ったんやけどな。可愛いよ」
「ん、まあ、嫌いではないけど、なんかちょっとチャラいなって思ってた」
「そうかなあ?メルヘンやで。せやからあげはにとって大事な時には、きっとアゲハチョウが現れて道案内してくれるって、お母さん思ってるんよ」
「うーん」
「一緒に飛んで行かなあかんからさ、羽は大切にしようね」
「見たことないけどね」
「心で見てみ」
「レベル高すぎー」
あげはは笑った。千夏はあげはの肩を抱いた。この子はほんまはええ子なんよ。お母さんは解ってる。足の事があってちょっといじけてるだけ。もう大丈夫、見えない羽がそーっと羽ばたいて光ってる。
しかしあげはの『痛々しい程の哀しみ』を目の当たりにしたヘレナは、下校時も落ち込んだままだった。まだあげはとはまともに話したことない。休み時間はいろんな子がヘレナの周囲に集まり、なかなかそれを掻き分けてあげはに近づくことが出来なかった。ほんまは、ほんまは言いたい。『あのときはごめん。足はあたしのせいやねん』
しかし、仮にそう言った所で、ヘレナにあげはの足は治せない。それやったら言うても一緒やん。そんな気持ちがヘレナの心で優勢になる。せやけどそれでも言わんとあかんのちゃうん? ヘレナ、これって一生思い続けるで。
「あのとき…」
「あのとき…」
気がつけば、その一言を繰り返しながら、ヘレナは歩いていた
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