第25話 青いみかん

 ゴールドが飛んだ数日後、Catsの定休日に香苗さんはシャニーをケージに入れて岩城獣医科を訪れた。


「この頃、目ヤニが酷いのよね。去年ゴールドを産んだばかりなのにもうお婆ちゃん?」

「出産は体力使うから、ヘルペスが表に出たのかもね。元々脆弱だからね」

「大丈夫かな。ゴールドに元気取られちゃってるみたいだし」

「申し訳ないけど、シャニーは元気で長生きって感じにはならないだろな」

「そう…」

岩城医師は診察室の隅に置かれた引き出しボックスから、レモンイエローの小さなボールを取り出した。


「これさ、古いから渡さなかったんだけど、シャニーが大好きだったおもちゃなんだ。もうこれで遊べるかどうかわからないけど、あるときっと安心するから、持って帰ってあげて」

「有難う」

香苗さんはまじまじとボールを眺めた。ふわふわした生地だが、確かに傷だらけでケバケバになっている。そっと振ってみると小さな鈴の音がした。ケージの中のシャニーが『みいん』と鳴いた。

「あ、覚えてるみたい」

「やっぱりな。ゴールドに取られちゃうかもだけど」

「まあね。そうだ。この間、診てもらった日にね、帰って来てからゴールド飛んじゃったのよ。キャットタワーのてっぺんから」

「ほう」

「ヘレナちゃんに上手く乗せられたって感じだったけど、ゴールドはすっかり回復よ」

「じゃ、あげはちゃんも回復だな」

「あげはちゃん?」

「うん。あの子、ゴールドの捻挫は自分の責任って思ってるみたいだった」

「彼女、一人の時だったからね」

「みんな、心に小さな傷を負ってるんだ」

「でもね、あの子たちがお店に来てくれるようになって本当に良かった」

「それでカナちゃんの傷が少しでも癒されるといいんだけど」

「私、ジョーにもお世話になったし、みんなに治してもらってる気がする」



 岩城医師は2年前を思い出していた。それは岩城医師が出張から電車で帰って来た時のことだった。突然車内放送が流れたのだ。


 『只今、車内で急病人が発生しましたため、次の駅に臨時停車いたします。車内にお医者様がいらっしゃいましたら、恐れ入りますが2号車までお出で下さい』


人間の医者じゃないけど、いないよりはマシだろ。岩城医師は軽い気持ちで2号車へ向かった。その2号車のシートにぐったり横になっていたのが香苗さんだった。車掌が脇についているものの、医療関係者らしきは見当たらない。岩城医師は『獣医だけど』と断った上で、脈や呼吸から直ちに急変することはないと判断し、香苗さんに声を掛け続け、次の駅で救急隊に引き渡した。


 そんな出来事などすっかり忘れていた3ヶ月後、岩城獣医科を若い女性が訪れた。岩城医師は驚いた。顔すら覚えていなかったのだが、彼女は救急搬送してくれた救急隊からここを聞き出したという。倒れた原因は職場での心因性ストレスからホルモンバランスが崩れた事だったようで、彼女は職場を辞め、郷里に近いこの辺りに引越して仕事も変えたい、ポツリポツリとそう話した。そして、折角だからと岩城医師に病院内を案内された時、香苗さんはシャニーに出会った。飼主から虐待されて保護したものの、この調子で増えていくと病院もたまったもんじゃない。岩城医師がそうボヤいたのを香苗さんは覚えていて、後日引き取りたいと申し出たのだ。この人はシャニーに何か通じるものを感じたんだと、その時岩城医師は思った。


「いや、カナちゃんだってさ、誰かを癒してると思うよ」

「そう?誰?」

「あー、えー、例えば… ボク」

「何それ? 私ってペット?」


 コロコロ笑う香苗さんを見ながら、岩城医師は『ホントだよ、キミの存在』と思った。そして香苗さんも一瞬感じた温かな波を心に収めた。しかしまだ表には何も出せない、青くて堅いみかんのような二人だった。

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