第17話 落下
夏休みに入っても、あげははせっせとCatsへ通っていた。ゴールドも生後1ヶ月を過ぎて、いたずら子ネコになっている。店の中にキャットタワーも設置され、Catsはほんの少し『ねこカフェ』に近づいていた。
その日、Catsのドアには『本日休業』のプレートが掛けられていた。香苗さんがシャニーを獣医の所へ連れて行く日だからだ。出産直後はいつもゴールドを追いかけていたシャニーだったが、最近はついて行けないようで、あげはに任せっぱになっている。あげはにとっては嬉しい反面、ウチはネコのベビーシッターかと思う事もある。
誰も入って来ない店の中で、あげははゴールドをつっついていた。
「ゴールド、あんたももうちょっとしたら予防注射に行かなあかんねんて。今日お母さんが診てもらってる病院やで。あんたのお母さんってな、元々病院にいたんやて。それを香苗さんがもろて来はったんやけど、流石にあんたのお母さんも一人で病院は行かれへんねん。香苗さんしか行き方知らんからな。病院、ウチも一緒に行けたらええけど場所知らんから、香苗さんとシャニーと一緒に行くと思うわ。一家総出やねえ」
さっきまで寝ていたゴールドは小さい声で『みやぁー』と鳴くと、もふもふマットから這い出した。あれ、シャニーのこと探してんのかな。ゴールドはやがてキャットタワーを登り始めた。誰にも習わんと、ちゃんと登っていけるのって凄いなあ。あげはは感心する。周囲を伺いながら一段一段、ゴールドは慎重に飛びついて登った。一番上の丸いスペースからゴールドは下界を見下ろす。お気に入りの場所やねんなあ。シャニーと一緒や。
あげははカウンターのシトラスジュースを一口飲む。あー、ほっこりするわ。学校よりずっと居心地がいい。
しばらくするとキャットタワーの上から『ナァーオ』が聞こえて来た。あげははキャットタワーの前でゴールドに話しかけた。
「お母さんはまだやで。1時間はかかるって言うてはったからまだまだよ」
ゴールドは頭を乗り出して下界を見、そろりと立ち上がると前足を丸いスペースから出して何かを探っている。
「あれ、ゴールド降りたいの?自分で降りんとあかんよ。登れてんから降りれる筈やで」
あげはは、ウチやったら絶対降りられへんわと思いながらゴールドを見つめる。ゴールドは後ろ足で身体を支えながら頭を低くして乗り出した。
「そうそう、ネコはそうやってピョーンって飛んでるよ。ゴールドもやってみ」
あげははゴールドの背中をそっと押した。
「ナァーォ」
あげはの応援に応えるように鳴いたゴールドは、次の瞬間、キャットタワーから一気に飛び降りた。
トスン。
床まで飛び降りたゴールドは着地に失敗し横に倒れた。ナアーオ!
「あーあ、一番下まで飛び降りたら危ないやろ。まずは半分まで降りてからやんか」
「にゃあーにゃあー」
あげははゴールドを抱き上げようとした。しかしゴールドは珍しく抵抗し床に転がる。
「どうしたん、痛かった?」
ゴールドは立ち上がってよろよろ歩く。ん?あれ?
「ゴールド!足、大丈夫?どうしたん?」
ゴールドは後ろ足を引きずっていた。慌ててあげははゴールドを抱き上げ後ろ足を擦る。しかしゴールドは鋭い鳴き声を上げて嫌がった。
「痛いの?ゴールド、ここ痛いの?」
しかしゴールドは鳴き続けるばかり。あげはは真っ青になった。ゴールド、後ろ足、捻挫したかも知れへん。ずっと足引きずることになったら大変や。ウチと一緒になる。どうしよう…、ウチがやってみとか言うて飛ばしたからや、どうしよう…。ゴールドはなお鳴き続けている。きっと痛いんや、お母さん足痛いーって鳴いてるんや。ごめんゴールド。
そうや、シャニーは獣医さん所や。ゴールドもウチが連れて行こう。ウチが連れていかんとあかん。あげははスマホを取り出して予め聞いていた香苗さんの番号をコールした。ゴールドを引き寄せて抱え込む。ごめん・・・
「あ、もしもし香苗さんですか?」
「あれ、あげはちゃん」
「はい、ごめんなさい、大変なんです。ゴールドがキャットタワーから飛び降りて、足引きずってて、ずっと鳴いてて、痛い痛い言うてて、ウチどうしたらええのか判らんくて…」
途中からあげはも泣き声になっていた。
「落ち着いて、あげはちゃん。大丈夫だから」
「はい…うっうっ」
「えっとゴールドをここへ連れて来れるかな。まだ獣医さん所にいるからさ、頼んどくし」
「はい…行きます」
「場所はね、バス通りを道の駅の方に来て、ドラックストアの角を左に入るのね、それで一つ目の十字路を右に曲がったら、すぐに看板が見えるから」
あげはは自分の小さいリュックを背負い、キャットタワーにあったタオルを持ってゴールドを抱き上げた。
「行くよゴールド。ウチあんまり早く走れんけどごめんね」
道路に出たあげははゴールドを抱っこしながら走った。しかし足の悪いあげはの走りはギャロップのようになって身体が大きく揺れる。ゴールドも不安なのかにゃあにゃあ鳴き続ける。あかん、怖いな? あげはは速度を緩めた。ごめん、ゴールド、ウチがちゃんと走られへんから怖いな。体力もないし、こんな時にウチに羽があったらいいのに・・・。あげはは自分の足を恨めしく思った。
あげはは1キロ余を走ったり歩いたり止まったりしてようやく獣医の看板を見つけた。『岩城獣医科』、ここや…。息も切れ、汗だくであげは自身が倒れそうだった。
病院から香苗さんが走り出てきた。
「あげはちゃーん、大丈夫?」
香苗さんはあげはの肩を抱くと、あげはの腕からゴールドを抱き上げる。
「しんどかったでしょう、あげはちゃん走れないのに」
「はぁはぁ、いえ、走れますけど、遅くて揺れるから、ゴールド、可哀想で、怖くて…はぁはぁ」
獣医の入口の段差で
心配した受付のお姉さんがスポーツドリンクのペットボトルを持って来てくれた。
「お疲れさま。これ飲んで。熱中症みたいになっちゃうから」
「あ、ありがとうございます。ウチ、走るの、あかんのです」
「橘さんから聞いたよ。足悪いのに全力で来てくれて、ネコちゃんも喜んでるよ、きっと」
「そうやろか。揺れて恐かったと思います」
「気持ちは通じるよ」
受付の人はにっこり笑うとカウンターの向こうへ入って行った。
30分くらい経ったであろうか、診察室の扉が開いて香苗さんがケージとゴールドを持って出てきた。ゴールドは後ろ足に白い包帯らしきを巻いていて、その後に獣医の岩城医師もいる。
「ゴールド、大丈夫やった?」
あげはは悲鳴のような声を上げた。香苗さんはよっこらしょとケージを置くと、ゴールドを膝に抱いてあげはの隣に座った。
「うん。しばらくは後ろ足を引きずるけど、まだ小さいからすぐに治るって」
岩城医師も
「骨には異常がなかったので、しばらく安静にして、無理しなければ大丈夫ですよ。時々あるんです、子ネコちゃんの大冒険」
と微笑んだ。
「ジョーが言うから大丈夫よ」
「ジョー?」
「あ、このセンセイのことね」
岩城医師は腰をかがめて両手を広げた。
「はい、ドクター・ジョーと申します」
良かった…ほんまに良かった。ゴールドがウチみたいになってしもたらどうしようかと思た。あげははほっとして、握りしめたハンカチで滲んだ涙を拭いた。
獣医科からの帰り道、香苗さんの車の後部座席で、あげははゴールドをぎゅっと抱っこした。
「ゴールド、お母さんと一緒におうち帰るよ」
香苗さんがちょっと振り向く。
「あげはちゃん、びっくりしたでしょ」
「はい」
「でもすぐに連絡してくれたから良かったのよ。あのまま歩かせてたら本当に治らなくなることもあるんだって」
「はい、ウチみたいになる」
香苗さんはミラー越しにあげはの方を見た。
「だから良かったんだと思うよ。あげはちゃんのファインプレーよ。先生も言ってたでしょ、子ネコちゃんって大冒険したがるものなのよ」
それは違う。あげはは唇を噛んだ。ゴールドはあげはの腕でウトウトしている。ウチが『やってみ』って言うたから、それでゴールドは飛んだんや。ウチの責任なんや。ごめんなゴールド。
「ほら、あげはちゃん、元気出してね」
「はぃ…」
あげはは心の中でゴールドに謝ったが、遂に香苗さんには言い出せなかった。
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