E1-4:ウェインライト神経窟 - Marion's nervous cave

ウェインライト神経窟(1)

 トップ・ハットをかぶると、ハーブとスパイスとさび鉄をまとめて焼いたような、煙の匂いがした。

 帽子のはち周りはアリソンにぴったりで、まるで彼女のために誂えたもののようにすら感じられる。


 アリソンはそれまで被っていた三角帽子を、フリントがいた場所にそっと置いた。置いてから、思いがけずお墓のようになってしまったことに気づいて、また悲しい気持ちになった。彼女にそういう儀式のつもりはなかったのだけれど。


 三角帽子のお墓の前に立ち、目を伏せて、アリソンは祈るということについてしばしの間考えを巡らせた。


 乞い願うこと。他者を想うこと。自身の内にある神と繋がること。

 と、。思ったけれど、そのどれもがなぜかしっくりとは来ず、頭の奥に小さな痛みを覚えた。アーモンドのつぶのような、ごろごろとした違和感を伴う痛みだ。


 それからアリソンは考えるのをやめて(ほんとうの祈りとは何なのだろう?)顔を上げ、歩き出すことにした。


 理力の灯火を頼りに、玄室の道を進む。湿度を帯びた長く冷たい石の廊下を歩くと、底の見えない恐ろしく深い竪穴に突き当たった。竪穴のへりには頼りないつくりの木製の階段があり、螺旋状を呈していて、その終点もまた見えなかった。

 階段の表面は湿気と苔でぬらぬらと光っていて、足を滑らせないように注意深く降りる必要があった。ごうごうという風が、ときおり下から吹き上がってくる。まるで、縦穴自体が呼吸をしているようだった。繰り返される生ぬるい息遣いにトップ・ハットが飛ばされそうになって、アリソンは何度も頭を押さえる必要があった。


 七百段もある階段を降りきってしまうと、穴底には粗末で小さな木戸が据え付けられていた。アリソンは油断なく身構えて、木戸を慎重に開ける。それから杖を構えたまま、素早く身体を滑り込ませる。

 扉の先には広大な草原と、青空が広がっていた。空も地面も絵の具をぶちまけたみたいに均質で、鼻腔をつく草の匂いは蒸留された不自然さを伴っている。

 遠景には小さな木戸がぽつねんと佇んでおり、それ以外のものは一切ない。

 ぼやけて、かすんでいて、そのくせ不自然に強調された景色だ。


 夢の終わりが迫ってきている。

 アリソンの頭に、フリントの言葉がよぎった。


 草原を突っ切って木戸のところまで歩いてゆき、ふたたび杖を構えたまま、注意深く扉を開く。

 アリソンの眼前に、今度は一面の雪景色が広がっていた。激しく吹き付ける吹雪の向こう側に辛うじて見えるのは、また同じかたちをした木の扉だ。

 扉の先には沼地があり、次の扉の向こうには赤茶けた硬岩層の台地があった。ひとりぼっちのアリソンは、ただじっと黙って、その巡礼の道をひたすら真っ直ぐに歩いた。


 分厚い本のページを一枚一枚めくるように扉を潜るたび、頭の奥、扁桃の痛みは強くなり、時間や空間的な感覚は曖昧になっていった。引き延ばされたり切り詰められたり、永遠の旅路であると同時に、一瞬の出来事のようでもあった。


 巡礼の旅が唐突に終わったのは、アリソンが扉の枚数を数えるのをやめてから、ずいぶん経った頃だ。


 アリソンはいつの間にか、広大な灰色の空間にひとり立っていた。真っ黒と真っ白の完全な中間をつまみ取った、純粋な灰色の空間だ。

 空間には無限の奥行きがあり、堅い質感を持っていて、石切場のように灰色の立方体がそこかしこに積み上がっていた。頭上には同じような物体が、いくつも空中に浮かんでいる。大きさは大小さまざまで、正確には積み上がっているとか浮かんでいるというよりは、空間に対して完全に静止しているといった様子だ。

 空間には、全く、完全に、音というものが存在していなかったから、アリソンのため息一つが巨大な騒音のように思えるほどだった。耳を澄ませば、肋骨の内側、心臓の音さえ聞こえてくる。


 座標だ。と、アリソンは思った。

 この灰色の空間こそが、彼女に植え付けられた呪いの根源であり、かたちなのだ。アリソンは半ば本能的に、そのことを理解する。


 理解した瞬間、アリソンの目の前、ちょうど二十歩先に、唐突にひとかたまりの茶色いなにかが現れた。まるで、恐ろしくすばしこい生物が、瞬きの間に、音も無くそっと置いたみたいに。


 前触れも無く瞬間的に現れたそれは、木で出来た椅子と、それに腰掛ける不出来なつくりのマネキンのように、アリソンの目には映った。

 アリソンがそれにゆっくりと歩み寄るにつれ、だんだんと輪郭が詳細を帯びてゆく。


 椅子は上等なくるみの木で出来ていて、優美で古典的なデザインのものだということがわかったし、腰掛けたマネキンに見えたものは、干からびて茶色くなった、人間の遺骸だった。亡骸にまとわりついたぼろぼろの布きれは、見ようによっては魔女のローブのように見えた。


 アリソンは亡骸の目と鼻の先で立ち止まり、それからしゃがみ込んで、空洞の眼窩をじっとのぞき込んだ。


「……マリオン。いにしえの大魔女、編纂者、マリオン・ウェインライト」


 アリソンは言った。


「起きて」

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