フリントとアリソン

 やはりひまわり頭は扉の外には出ることができないようだった。

 あたりはほとんど完全な暗闇で、細く開いた扉から差し込んでくる背後の神殿の光だけを頼りに、アリソンとフリントは先に進んだ。


 煙の少年の身体は、アリソンが想像していたよりもずっと重かった。貸した肩には彼の体重がずっしりとのしかかり、アリソンはほとんど床を引き摺るようにして、ごくゆっくりと彼の身体を部屋の奥まで運んだ。


 ひまわり頭が追ってこないことを確認すると、アリソンは手探りでフリントの身体を壁にもたせかけ、自分自身も半分尻もちをつくようにへたりこんだ。

 荒い息も整えず、彼女は〝灯り〟の呪文を唱える。


「【Aktivigo発理、,】 【Lumo光あれ.】」


 苔むした大小の石を積み上げた壁が理力マナの薄明かりに照らされて、青白く光った。部屋は縦に長く、忘れ去られた洞窟か、死者を祀る玄室に繋がった羨道せんどうのように見える。


 フリントは壁に背を預けて座る力もないようで、しおれた風船のように虚脱し、地面に突っ伏していた。ひまわり頭たちの暴力にまともに晒されてしまったフリントの状態は酷いもので、アリソンは思わず目を背けてしまいそうになった。

 

 フリントの身体中、至る所にある傷からは、血液の代わりに灰紫の煙が静かに流れ出ていて、無数の不定形の繊維のように、かたちのない死のように、ゆるゆると立ちのぼっていた。顔色はひどく悪く、粘土みたいに青ざめている。


 アリソンはあわてて――フリントの身体中から生命、あるいは彼自身の存在のようなものがどんどんと流れ出ていくような気がして――、反射的に彼の傷口を両手で覆った。からん、と音がして、杖が地面に落ち、遅れて灯火がしぼむように消えた。


 アリソンの手は小さく、フリントの身体中の穴すべてを覆うことはもちろん出来なかったし、押し当てた手のひらは彼の命の流亡を止めることができなかった。指の隙間をすり抜けてゆく、温かく乾いた感触が、暗闇の中でもはっきりとわかる。


「ごめん」と、フリントが言った。苦しそうで力無く、場違いな照れ笑いのニュアンスがあった。「しくじった」


 アリソンは答えなかった。フリントをどうにかして救おうと必死だったし、どう答えていいのかもわからなかったからだ。


「アリソン」


 フリントは弱々しい声で、アリソンにもう一度呼びかける。壊れてしまった楽器のような、取り返しのつかない音だった。


「嫌よ」


 こんな時にだけ、とアリソンは思った。

 どうしてこんな時にだけ、フリントの心の中が手に取るようにわかってしまうのだろう。


「あなたを置いてなんていかない」


「アリソン」


「黙って」


 ぴしゃりと言った。少なくとも、アリソンはそうあろうとした。彼女自身の意思とは関係なく指先は震え、わななく奥歯は小さくかちかちと鳴っていたけれど、それは出来るだけ意識しないようにした。


 アリソンはどうにかしてフリントを救う手立てがないか、必死で考えを巡らせる。けれど、今までアリソンが魔術学院で習得してきた技術や知識のなかに、「煙で出来た男の子を治療する方法」などというものはもちろんない。

 いくら学校の勉強ができたって、友達ひとり救えやしない。歯痒さのあまり、アリソンは首筋のカラスウリのを掻きむしって引きちぎりたい衝動に駆られた。救えなくてごめんなさい、力が足りなくてごめんなさい、そういう風に泣き喚いて許しを乞いたかった。


 でも、そうするわけにはいかなかった。

 アリソンは、自分が〝かわいそうな女の子〟になっている暇などないことを、十分に理解していたからだ。泣いてなにかに縋ったって事態が好転するわけではないし、自分自身を慰める以外の何の役にも立たない。


 アリソンは地面を手探りで探して杖を拾い上げ、もう一度〝灯り〟を発理する。

 それから杖を口に咥えて、両手でフリントの傷口を力一杯押さえながら、彼の容体を注意深く観察した。


 フリントの身体からは絶えず煙が立ちのぼっていた。

 煙が彼の身体のうちから失われるのに比例して、アリソンにはフリントの存在そのものが、薄くなっていくように感じられた。いや、実際に薄くなっているのだ。彼の姿によくよく目を凝らしてみると、石造りの壁がぼんやりと向こうに透けて見える。ちょうど、打ち上げられたくらげの身体を通して見る砂浜のように。


 アリソンは、はたと気づいて歯噛みした。

 ――どうしていまの今まで気付かなかったのだろう! 

 気づくチャンスはあったはずだった。アリソンは、煙の力を使うたびに疲弊してゆくフリントをずっと見ていたのだから。


 アリソンが「煙に姿を変えることのできる少年」だと思いこんでいたフリントは、その実全く逆の存在だ。つまり彼は、少年の形を取った意思を持つ煙そのもの。人の形はかりそめにすぎず、漂う煙こそが彼の本質なのだ。

 

 アリソンは思いつきのまま、フリントの衣服をまさぐった。けれど、半ズボンのポケットにも、ローブの内ポケットにも、トップ・ハットの中にも、目当てのものは見つからなかった。


「ねえ、煙草は?」


 アリソンはフリントに尋ねた。フリントの存在そのものが煙の塊であるなら、煙を注ぎ足してやればいい。アリソンが初めてフリントと出会ったとき、フリントは確かにからだ。


「……捨てちゃったよ、森の中で」


 フリントはばつが悪そうに答えた。


「どうして」


 アリソンは愕然としてフリントに問うた。

 どうして、そんな馬鹿な事を。


 フリントは苦しそうに、接ぎ穂に困ったように、もごもごと口を動かした。言うか、言うまいか。その一瞬、彼は彼自身が今にも死にそうなことを忘れてしまったみたいな様子で逡巡して、それからとても小さな声で言った。


「きみと、友達に、なりたかったから。……嫌いだろう、煙草」


 恥ずかしそうに目をそらしたまま、フリントは続ける。


「ねえ、アリソン。だから、もういいんだ」


 アリソンは全身から力が抜けていくのを感じた。もう今度こそ、打つ手が思いつかなかった。


 男の子は力なく、申し訳なさそうに笑って、それよりもきみともっと話がしたい、と言った。アリソンは答えなかった。下唇を噛んで、泣き出してしまいそうになるのを抑えるのに必死だったからだ。

 アリソンが黙っていると、フリントはゆっくりと話しはじめた。


 男の子である自分にが顕れた日のこと。

 両親の期待がうれしくて、それに応えたいと思ったこと。

 女の子ばかりの学校に、うまく馴染めなかったこと。

 ずっと同世代の友達が欲しかったこと。


 それらは、あくまでアリソンの演算野が生み出した、『おそらく、こうだったのではないか?』という虚構の記憶だ。実際のコーシャーソルト氏の思い出ではないし、夢の中のフリント少年が実際に体験したことですらない。少年は祈祷薬の薬効とアリソンの都合によって、ついさっき作られた魔術的顕現でしかないからだ。


 アリソンはでも、それを聞くことにした。〝灯り〟を消し、膝枕をしてあげると、少年は少しだけ楽そうに吐息を吐いた。軽く、薄くなったフリントの気配は、本当に注意していないと真っ暗闇の中に溶けて消えてしまいそうだった。






「アリソン」

 なに?


「友達になってくれて、ありがとう」

 どういたしまして、こちらこそ。


「すごく楽しい冒険だった」

 ばかね、ものすごく怖い思いしかしてないじゃない。


「でも、楽しかったんだ」

 ……そう、そうかも。


「これから先は、きみひとりで、ごめん」

 いいのよ。


「……アリソン、まだそこにいる?」

 なに? フリント。


「ぼくは、大人のぼくは、いい先生になれている?」

 ……正直に?


「正直に」

 いい先生、だと思う。……公平に見れば。






 それから、いつまで経っても、フリントの返事はなかった。ずいぶん長い間、アリソンは〝灯り〟を点す気にはなれなかった。

 けれど彼女にとって不幸だったのは、彼女自身が勇気ある強い女の子だということだった。心折れて暗闇でうずくまったままでいることを、アリソンはどうしても選べずに、小さな声で〝灯り〟の呪文を唱えた。


 かくして少年の消失がそこにあり、けれど、不思議なことに、円筒形のトップ・ハットが彼女の膝の上に残されていた。男の魔女用の、シルクで出来た帽子だ。


 アリソンは息を呑み、震える手で帽子をかき抱いて、それから少しの時間、初めて出来た男の子の友達のために涙を流した。

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