シュリュズベリー精神城(1)

   ◆




 学校の内部は、現実のそれよりもずいぶんと老朽化していた。間取りこそ同じだったけれど、壁のところどころは欠け、床はささくれ立ってぼろぼろだった。天井には所狭しと蜘蛛の糸が張られており、タペストリーは骸布のように軒並み引き裂かれている。

 どこからか隙間風が入り込んでいるのか、反響音がごうごうと耳につく。


 現実のエルダー・シングスが真新しい建物かと問われればそうでなく、むしろとても古い時代の城塞ではあるのだけれど、廃墟とは違う。愛すべき学舎の欠けた石壁や軋む床板の中には、人の息遣いや営みがある。それは、石や木や煉瓦といった個々の建材を繋ぎ止めて一個の建物とするための、目に見えない暖かい膜のようなものだ。

 夢の中のエルダー・シングスからはそれがすっかり剥ぎ取られていて、どこかばらばらで寒々しい匂いを放っていた。


 夢の校舎は現実の死骸だ。

 それでも、そこ此処ここに仕掛けられた招かれざる客への呪いはまだ生きていて、アリソンとフリントに容赦なく降り掛かった。

 廃墟のエルダー・シングスは、フリント少年はもちろんのこと、アリソンさえも正式な学生とは認めていないようだった。


 飛び出る杭や落とし穴、動く甲冑や火を吐く石像や飛び回る油壺、毒の塗られたやじりや泣き叫ぶ女の霊。


 連綿と受け継がれてきた魔女の底意地の悪さを具現化したような罠の数々は、でも、いろいろと吹っ切れてしまったアリソンには全くの無力だった。


 アリソンの明晰な頭脳は校舎の間取りを完璧に覚えていたし、旺盛な知識欲でもって既に仕掛けの構造を完璧に理解していた。


 彼女は興味を持ったものをとことん調べるたぐいの勉強好きだったし、そもそもの話として、この夢の冒険は、彼女が非公開書庫の禁を破ってしまったことに端を発するのだ。


 エルダー・シングスの中でも、最も警戒厳重ないくつかの場所のうちのそのひとつ、それを容易く突破する彼女に、その辺の罠や仕掛けなんかが太刀打ちできるわけがない。


 飛び出る杭をやりすごし、落とし穴の上をひらりとジャンプし、動く甲冑の視線から隠れ、火を吐く石像の口を塞ぎ、飛び回る油壺を《矢》で撃ち落とし、毒の塗られた鏃をドレスで防ぎ、泣き叫ぶ女の霊を棒でめった打ちにするあいだ、アリソンはほとんど足を止めることがなかった。

 夢の案内人、フリント少年の面目は丸潰れだ。


 アリソンからは、恐怖や戸惑いや敗北の匂いがすっかり洗い落とされて、代わりに勇敢さと冷静さと必死さで染め上げられていた。


 彼女は優秀で理知に富み、公正な人間だったから、死や存在の消滅の恐ろしさを理解できないわけではなかったけれど、単純に、厳然たる事実として、十五歳の女の子だった。


 その年ごろの子供にとって、死なんてものはすごく遠くの出来事でしかない。

 水平線の向こう側に浮かぶ茫洋とした影の手触りを正確に把握することが、どうして出来るだろうか。


「三日後に存在の全てが本になってしまう」という、漠として巨大な死の恐怖に怯えながら、けれどどこか現実味を感じられなかったアリソンに必死さを与えたのは、他ならぬあの鉄砲水だった。


 十五歳にまでなって、おねしょをしてしまうかもしれない、という恐ろしく身近な危機感。

 小さな頃、誰しもが知るあの冷たいシーツの感触が、圧倒的な現実感をもってアリソンの身体を駆動させていた。


 さっさと片をつけて、起きて、トイレに行く。


 乙女の尊厳を守るために、アリソンとフリントは疾走する。

 教室棟を出て、渡り廊下を走り抜け、庭園を横切って資料棟へ。

 門扉にあつらえられた二匹のガーゴイル像が動き出す前に、頭を手早く撃ち抜いてからアリソンはようやく立ち止まった。

 

「この先が、呪いの座標だ」


 フリント少年はずいぶんと疲れているようだった。山を登るときの疲れ知らずが嘘のように、額に脂汗をかいている。


「アリソン、よく聞いて。ここから先は、きみの頭の中であって、きみの頭の中じゃない。病巣の中枢がどんなかたちをしているのか、ぼくにもわからないんだ。……だから、ここからは慎重にいかないと」


 息を整え、アリソンはうなずく。


 アリソンは懐から財布を取り出して、硬貨の枚数を丁寧に数えた。財布の中身は変わらずちゃんとそこにあって、鈍く光っていた。

 魔導百科事典の使用料を支払っても、ふたりでお茶が出来る金額だ。


 この件が片づいたら、案内のお礼にフリントを街のカフェに連れていってあげよう、とアリソンは思った。

 男の子だからといってお茶やお菓子が嫌いだということはないだろうし、おしゃべりしながら甘いものを食べれば、疲れもすっかり吹き飛ぶだろう。きっと喜ぶに違いない、素敵な考えだ。


「ねえ、フリント――」


 言いかけて、アリソンはこれが夢の中だということを思い出した。

 アリソンが居るのは、呪いを切除すれば覚めてしまううたかたの世界で、おそらく夢の化身トゥルパたるフリントが、一緒に消えてしまうことも。


「どうしたの?」


 怪訝な顔でたずねるフリントの顔を見て、アリソンは少しだけ寂しい気分になった。同時に、それがどうしようもないことであることも、アリソンには理解できていた。

 アリソンは努めて冷静に、悲しさを表に出さないように取り繕った。


「ううん、なんでもない、頼りにしてる」


 胸を張り、一歩前に踏み出して、アリソンは重い扉を押し開ける。

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