E1-3:シュリュズベリー精神城 - Alison's mind castle

アリソンとフリント

 アリソンは身を起こすと、ほっぺたについた砂をぬぐい、それから立ち上がった。制服はてっぺんからつま先までずぶ濡れで、身体にびたびたと張り付いて不快だった。コイン・ローファーを蹴り脱ぐと、がぽっという音がして、アリソンは「なんだか水を飲みすぎたカエルの鳴き声みたいだな」、と思った。


 靴下を脱ぎ、スカートの裾を絞れるだけ絞って、髪の毛を結び直すと、アリソンはあたりを見回す。


 周囲は見渡す限り一面の湖で、どうやら自分はその真ん中に浮かぶ島に居るらしいことがわかった。湖は恐ろしく広大で、小雨が降っているのにも関わらず、さざなみのひとつも立っていなかった。

 巨大な鏡面にも見える湖のその岸は遥か遠く、霧がかっていて目視することは叶わない。


 浮き島の中央、アリソンの背後にそびえ立つ城塞は、我らが学舎、エルダー・シングス魔術学院とそっくりで(実物よりもひとまわり大きく、ところどころの縮尺が狂っており、巨大な湖のど真ん中に建っていること以外は)、ほとんど現実のそれと同じと言ってよかった。


 どこをどうやって流されてきたのか、アリソンには皆目見当もつかなかった。鉄砲水の勢い強く、上下左右もわからないまま、水洗いのひよこ豆みたいに流されて、気づけばここに打ち上げられていた。一緒に流された岩や木片で大けがをしなかったのは幸いと言える。


 アリソンは、彼女をここまで押し流してきた濁流について考えた。あれはいったいなんだったのだろう? あの奇怪な山羊の怪物たちはどうなってしまったのだろう?


「やつらは、ここまで追いかけて来れないと思う」


 アリソンの疑問に、コーシャーソルト少年が答えた。彼はとても疲れている様子で、岸辺に大の字に寝っ転がっていた。アリソンと同様に全身ずぶ濡れで、水を吸った前髪が額に張り付いている。


「もう門の内側だ」


 そう続けて、コーシャーソルト少年は身体を起こし、それから水浴びしたあとの犬みたいに頭を振った。濡れてしなびたトップハットをかぶり直して、鼻で息をつく。


「あの鉄砲水はなんだったの?」と、アリソン。


 コーシャーソルト少年は彼女の質問に答えあぐねて、黙って顎を撫でさする。


 その態度は、アリソンにとって新鮮なものだった。この常になんだか人を小馬鹿にしたような少年が、ひどく真剣な表情で次の言葉を考えている。

 不確かな足場を踏み抜かないように、次はどこに足を踏み出すべきか。アリソンには彼が、そういうことを考えているふうに見えた。


 ようやくコーシャーソルト少年が口を開いたのは、一分の半分ほどの時間が経ってからだった。


「怒らないって約束できる?」


 少年の神妙な顔に、アリソンは戸惑った。


「急になんなの?」


 コーシャーソルト少年はアリソンの問いかけには答えず、じっと黙って彼女の目を見る。アリソンは彼の薄紫の瞳に根負けして、「……約束するわよ」と言った。


 少年は、ほっとして胸を撫で下ろし、それからとても言いにくそうに、ほとんど謝罪するみたいにして、告白した。


「その、つまり……、おしっこなんだ」


「なんですって?」


 アリソンは自分の耳を疑った。冗談にしたってあまりにも酷い。どこの世界に山林をまるまる破壊して押し流してしまえるようなおしっこをする生物がいると言うのだ。

 あまりにも馬鹿馬鹿しくて、笑う気にもなれない。


「そうじゃない、違うんだ」とコーシャーソルト少年。


 なぜだかすごく申し訳なさそうにしている彼を見て、アリソンの頭には「もしかしてあれは彼のおしっこだったのだろうか?」という考えが一瞬だけよぎったけれど、慌てて打ち消した。


 だって彼はしっかりと「アリソンの中でおしっこをしない」という約束をしていたからだ。成された約束を疑うような恥ずべき真似はすべきではない。


 アリソンにとって、約束というものごとは秘密の聖堂みたいなものだ。破ってはならない、静謐で荘厳な絶対の契約。

 だから彼女は、彼のふざけた説明に対して短絡的に怒り出すようなこともしなかった。そういう約束だからだ。


 アリソンは落ち着き払って少年の説明の続きを待ち、少年は苦しそうに告白を続けた。


「違うんだ……。あー、その、つまり……現実のきみの肉体が、その、もよおしたんだ。……経験あるでしょう? おねしょする時の、そういう夢――」


 アリソンは落ち着き払って、目玉が飛び出すくらいに目を見開き、口をわなわなさせ、顔面を紅潮させた。それから膝をがくがくと震わせて、髪の毛が逆立っていく感覚を覚えた。そのあいだ、彼女の身体の中を「とにかくめちゃくちゃに魔法を撃ちまくってあたり一面を焼き尽くしたい」という衝動が駆け巡ったけれど、彼女は恐るべき精神力でそれをどうにか押さえつけた。


 怒り出さない。そういう約束だったからだ。

 遺憾ながらアリソンの聖堂は、半竜ワイバーンの爆撃にだって耐えうるほどの堅牢さを持っていて、聖歌隊は延々と「約束を守りなさい」と歌っていた。


 だからアリソンは、周囲を焼け野原にする代わりに、両手で顔を隠し、しゃがみ込んで、ほとんど呻くみたいにして言った。


「そんな……じゃあ、わたしは……」


 漏らしたの? とは、恐ろしくてとても聞けなかった。聞けるわけがない。アリソンは十五歳の女の子なのだ。


「大丈夫、まだ尊厳は保ってる」


 最大限の配慮とともに、コーシャーソルト少年は答えた。アリソンはしゃがみ込んで顔を隠したまま、深い安堵のため息を吐いた。


「でも、そろそろ限界が近いことは確かだし、そうなるとたぶん……きみは起きてしまうと思う。眠りが随分浅くなってきてるんだ。夢の終わりが迫ってる」


 少年はそう続け、アリソンはもう一度ため息をついた。

 確かに彼の言う通り、夢の世界には徐々に綻びが見え始めていた。建物の狂った縮尺や、雨が落ちても波打たない湖面は、その綻びの一端だ。

 アリソンの無意識が演算する箱庭は、少しずつだけれど崩れ始めている。


「……急がなきゃいけないってことね……」


 つぶやくような声でアリソンは言い、でも、と続けた。


「……もうちょっと、落ち込んでいてもいい?」


「もちろんだとも」と、コーシャーソルト少年は言った。


 アリソンが湖岸にうずくまって落ち込んでいるあいだ、コーシャーソルト少年はなにも喋らなかった。代わりに彼は湖をふらふらと散歩して、平べったい小石を拾い上げてはポケットに仕舞い込んでいた。

 湖の小石はどれもつるつるとしていて、磨いたように輝いていた。少年はその中から一等きれいでよく跳ねそうな小石を選び取って、うなだれるアリソンのすぐ脇に置いた。


「ありがとう、でも、いらない」とアリソンが言うと、少年はアリソンの隣に黙って座った。

 アリソンは、とても優しい男の子だな、と思った。


 すごくよく跳ぶ水切り石なんて別に彼女には必要なかったけれど、少年の気遣いは十分に理解できたし、なにより彼は、一生懸命アリソンのことを守ろうとしてくれていた。


 アリソンには隣にいる少年が、煙の魔術師の少年時代の影だとは到底思えなかった。少年本人いわく、すごくよく再現できているということだけれど、それが本当なら「もしかしたら、彼なら友だちになれるかもしれない」なんて、思うはずがない。

 この男の子の思いやりが、十年や二十年そこらで、あの愉快犯じみた皮肉に変貌する道すじが、アリソンには上手く想像できなかったのだ。

 

 アリソンは「自分の演算能力なんて大したことないな」と結論づけ、立ち上がってスカートのお尻をはたいた。

 砂粒がスカートから落ちて、ぱらぱらと音を立てる。


 それから彼女は少し思い直して、水切り石を拾うと、湖に向かって放り投げた。


 水切りなんてしたことのないアリソンのフォームはでたらめで、石は当たり前のように一度も跳ねず、湖面に吸い込まれていった。


「……へったくそだなあ」と、少年の呆れた声が、隣から聞こえた。


 アリソンは胸を張り、腰に手を当て、ふんすと鼻息を吐く。


「もう大丈夫。行くわよ、案内して、


 いきなりファースト・ネームで呼ばれたコーシャーソルト少年がぎょっとしてアリソンを見上げる。


「さっきわたしのこと、アリソンって呼んだでしょう? ……これでおあいこ。それに、自分より小さい子を『先生』って呼ぶのは、なんだか変だもの」


 アリソンは、コーシャーソルト少年改めフリント氏を見下ろしながら、そう言った。


 フリント少年は顎に手を当て、「今さらではあるけど、確かに道理だ」と同意した。


 それから少年も立ち上がり、お尻の砂を払い落とす。

 ふたりは学舎の城塞に向き直って、どちらともなく歩を進める。


「アリーって呼んでもいい?」


「それはだめ」


 そう少年が提案し、アリソンが却下する。

 ふたりは確かな足取りで、エルダー・シングスの石階段を上っていった。

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