E1-5:アリソン・C・シュリュズベリーの受難 - Alison's Passion :or The "Celaeno Fragments"
アリソン・C・シュリュズベリーの受難
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――
◆
地獄の底から鳴り響くような、低く不吉な地響きの音で目が覚めた。
アリソンは机に突っ伏すように眠っていたらしく、重厚な樫の天板にはかなり大きなよだれの水溜まりができていた。彼女は(表面上は)落ち着き払って、ハンカチでそれを綺麗に拭いた。
沽券に関わる証拠が速やかに隠滅され、寝ぼけた意識がゆっくりと回りだす。アリソンの頭はまだ、夢とうつつを適切な場所に振り分けることが出来ずにいた。祈祷薬のもたらす夢の質感が真に迫りすぎていたせいで、目が覚めたことにすら半信半疑だった。これが夢の入れ子――「目が覚めた」という夢でないことを、どうやって証明すればいいのだろうか。
アリソンは寝ぼけまなこをこすり、首を回して部屋を見渡した。いつも見慣れたコーシャーソルト研究室の風景がそこにあった。窓から差し込む夕日に、ちりやほこりが反射して、光の薄膜がそこ
地響きのような音の正体も、すぐにわかった。コーシャーソルト氏の息づかい――というよりは、ひどいいびきだ。ソファに横たわり、大口を開けて前衛的な寝相を披露しているアリソンの担当教諭は、いまだ現実世界への帰路をたどっている途中なのだろう。
げんなりするほどの大いびきにアリソンは眉をひそめ、前髪を一房つまんでいじり、それから、さきほどまでかぶっていたはずのトップ・ハットが消えてなくなってしまっていることに気づいた。
そこでようやく、戻ってきた実感というものがどっと溢れ出した。水門を開いたみたいに、世界の真理に気づいたみたいに、急激に。
無意識のうちにこわばっていた肩から急に力が抜け、夢の中の長い旅路が終わったことを胸の奥で理解した。
アリソンは椅子に深く座り直して、大きくため息を吐くと、コーシャーソルト氏の間抜けな寝顔をしばらくの間眺め、それからフリント少年のことに思いを馳せた。
――ぼくは、大人のぼくは、いい先生になれている?
フリント・クラーク・コーシャーソルト。夢の中の、初めて出来た男の子の友だち。
アリソンは彼の質問について改めて考え、しばらくの後に、その判断を保留することにした。
フリント少年と、目の前で小汚いいびきをかくコーシャーソルト氏が、うまく結びつかなかったからだ。
自分の演算した彼の過去の幻影が、どういう道すじを辿ればこうなるのかを、アリソンの脳みそは彼女自身に説明してはくれない。「自分の演算も大したことはないな」、そう思って、彼女は大きく伸びをした。
けれどでも、フリント少年にしたって、コーシャーソルト氏にしたって、どちらの煙の魔術師も、自分の命を助けてくれた人物で、そのことについて最大限の感謝をしなければならないとアリソンは思った。
きっと彼が目覚めても、自分と煙の魔術師は、そりが合わないままなのだろう。それはもう、どうしようもないことだ。褒められたことでないことはわかるけれど、自分から彼に歩み寄る場面を想像することはアリソンには難しいし、コーシャーソルト氏のほうから生徒に媚びへつらったりすることは絶対にないだろう。
お互いが人間である以上、合う合わないはどうしたってある。それは仕方ない。けれど、それは彼の行動に謝辞を述べなくていい理由にはならない。少なくともアリソンは、払うべき敬意と感謝を個人的な好悪の感情で踏み倒すことは、恥知らずなことだと考えていた。
アリソンは「助けてくれて、ありがとう。フリント先生」と、小さな声でつぶやいた。担当教諭とその少年時代へ、ふたりぶんの感謝を込めて。もちろん煙の魔術からの返事はなかったから、アリソンは自分で「〝どういたしまして〟」と答えた。
アリソンはそれから席を立ち、コーシャーソルト氏を起こさないように気をつけて、静かに研究室をあとにした。先生が起きたら、改めてお礼を言わなければならない。
けれどまずその前に、喫緊の課題を解決するために――アリソンはトイレへと早足で向かった。
◆
「ねえ、アリソン。なんだか……大丈夫?」と、友人が言った。夢の冒険から一週間後、放課後の自習室でのことだ。
折りから降る雨のせいで、彼女の茶色い巻き毛は生き生きと膨らみ、うねり倒し、もうほとんどサーカスかなにかのようになっていた。
試験期間の
彼女たちは向かい合って、資料室の奥底から引っ張り出してきた古い
「大丈夫って、なにが?」
「顔が」
このぼんやりした友人は、しばしばこういった物言いをした。聞きようによってはアリソンの顔のつくりを唐突に侮蔑したようにも聴こえるものだけど、アリソンはそうではないことを知っている。単純に、恐ろしく口下手なだけだ。
アリソンが思うに、巻き毛の友人は、外側の自分と内側の自分の境界線が人よりも広く、それを繋ぐ橋が細いのだ。内なる彼女は伝えたい言葉をしっかりと持って常に走り回っているのに、なぜかそれを強固に抱え込んでいて、外なる彼女にそれを上手く渡せないでいる。
今までの付き合いの中からそういうふうにアリソンは解釈していて、それは概ね間違ったものでもなかった。そして大体の場合、それは次の言葉を辛抱強く待てば済むことだ。
友人はアリソンの顔を心配そうに覗き込んで、言葉を続けた。
「ひどいくまだよ。ずいぶん疲れてるように見えるけど……」
「あー……」と、アリソンは曖昧に笑って誤魔化す。「まあ、いろいろとね」
実のところ、アリソンはこの一週間のあいだ、満足に眠れないでいた。とにかく夢見が悪いのだ。正確に言えば、マリオンの件以降、眠っている時に見る夢の質ががらりと変わってしまっていた。
眠りに落ちると決まって夢を見てしまうし、その夢はあの解呪の巡礼と同じように、奇妙に現実的で明晰な質感を持っていた。それは眠りの中にあってずっと目覚めているのと変わりなく、そのことにアリソンは疲れ切ってしまっていた。
「具合が悪いなら、今日はやめておく? このくらいで」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
「本当に大丈夫?」
「ええ」
アリソンは答える。友人は「ふむ……」と唸ってから、詮索を諦めてノートに向き合うことに戻った。アリソンの返答に納得はしていないし、心配するのをやめたわけではなかったけれど、とりあえずのところはそれを飲み込むことにしたようだった。アリソンを根本的に信用しているからだ。
巻き毛の友人は口下手だったけれど、表情のほうは必要以上に雄弁で、アリソンにもそれがわかる。アリソンは友人のその朴訥な性質を、とても好ましいものだと考えていた。
そうして、しばらくの間ふたりは黙って作業を続けた。ふたりの中間には、羽ペンを走らせる音と、乾いた紙をめくる音、それから、ガラス越しの雨音だけが静かに響いていた。
暖かく湿った沈黙の中で、アリソンは自分のことについて考えをめぐらせた。
眠れないことのほかに、呪いの後遺症はもう一つあった。
アリソンの中からマリオンの――呪いの存在は確かに消えてなくなっていた。アリソンはその消滅を確かに感じ取ることができていて、そのことについて断言することができる。
けれど同時に、脳みそのいたるところにバラバラになった本のページの切れ端が埋まっているような感覚を、アリソンはまた抱いていた。
いにしえの大魔女の残滓の、さらにその散り散りになった存在の破片のようなものだ。
その証拠にアリソンは、目の前の巻物の記述を一字一句違わず知っていた。彼女の中に着床した知識のばらばら死体は、その全てでは無いにしろ、膨大な量の断章だった。
アリソンが知らないことに出会うたび、知識の断章は気まぐれに顔を出し、頼んでもいないのに勝手にアリソンの脳みそに知識を流し込み続けるのだ。
友人と巻物の復元をするふりをしながら、アリソンは落胆し、自分を情けなく感じていた。アリソンは自ら学び知ることの喜びを愛していたし、なにより彼女にとって全く公平なことではないからだ。
目の前の友人は一生懸命自分の頭でものを考え問題を解決しようとしているのに、自分は降ってわいたような貰い物の知識を盗み見ている。こんなものはずるだと思った。
客観的にはアリソンは押し売りの被害者と言っていいし、むしろ考えようによっては授かり物――戦利品とも言える。けれど、彼女自身はそういうふうなものの考え方をする女の子ではなかった。
アリソンはどうか早くこの知識の死体が溶けて腐って消えてしまいますようにと、切に願った。本当にいつか消えてなくなるのか、それがいつになるのか、アリソンにも、誰にもわからなかったけれど。
そうしてアリソンの受難の日々は人知れず密かに始まり、その始まりと終わりは彼女以外、誰もが知ることはなかった。
〈Sequel ~アリソン・C・シュリュズベリーの受難~ 了〉
Sequel 〜アリソン・C・シュリュズベリーの受難〜 逢坂 新 @aisk
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