もっとも強いもの(2)

「――冗談きついぞ……!」


 巻き毛の友人の顔と声で、コーシャーソルト氏はうめいた。やけくそで箒に跨がり、助走をつける。紫檀の箒に埋め込まれた反射鉱石が、空気中の粒子をこそぎ取り、紫色の火花を散らす。


「これで、どうしろってんだ! ちくしょう!」


 瞬く間に火花は大きく燃え上がり、巨大な紫電はけたたましく唸りを上げて空を舞う。けれどでも、それは、それだけのことでしかなかった。

 マリオンからすれば、地を這うねずみが小鳥になった程度のこと。どころか、鋭い触腕も火を吹く頭もにはない。ただ五月蝿く飛び回るだけの蝿ほどの脅威すら、呪いの大蛇は感じなかった。


「「「【Aktivigo,発理、】【la sago de lumo,光の単矢、】【Ribelulo.逆巻け】」」」


 理力が激発され、マリオンの身体中から矢の術理が放たれる。致命的な威力を持った、千の光の暴風雨だ。

 宙に浮かぶ立方構造の隙間を縫ってぎざぎざに飛び、茶色い巻き毛のコーシャーソルト氏は懸命に避ける。

 驚くべきは、またがる箒の運動性能だ。恐るべき速度で空をひた走り、稲妻のように急旋回する。けれどそれは、制御されたものではなかった。矢を回避できたのは偶然の賜物で、ほとんど暴走に近いと言っていい。たまたま箒の形に産まれた人を憎んでやまない怪物が、またがる人間を振り落として殺そうとしているようにすら見える。


「なんなんだ、くそったれ!」


 箒を操るのに四苦八苦するコーシャーソルト氏の悪態を遠く聞きながら、アリソンは思った。


 ――違う。


「ミス・シュリュズベリー! だめだ、は! じゃあ勝てない!」


 箒に振り回されながら、魔術師が声を張り上げる。ほとんど懇願に近い叫びだった。


 ――違う。


「喋りかたが違う」


 アリソンがぼそりと呟いた。

 瞬間、コーシャーソルト氏は、自分が何か透明でぼやけたものになるのを感じた。色もにおいもない絵の具で、自我を直接べったりと塗りつぶされるような、抗いようのない大きな力の感覚だ。

 口を利こうにも声は出ず、世界の全てがゆっくり見えて、身体が勝手に、自動的に動く。

 自分の存在が塗りつぶされて、その余白に彼の知り得ないものが――あるいは忘れてしまっていたものが、凄まじい速度で書き込まれていく。


「ニナはそういうふうには飛ばない」


 煙の魔術師――巻き毛の魔女に内包されたコーシャーソルト氏――は、「そういうことか」と思った。ひどく愉快な気分になって、笑い出しそうになった。本当は腹の底から笑いたかったけれど、身体の主導権はすでに彼にはない。夢の乗車券は破り捨てられていることを、彼は理解していた。だんだんと、自分の存在が、アリソンの夢から引き剥がされてゆくのを感じる。


 ぱん、という、空気の壁を突き破る音がして、大蛇の前から巻き毛の魔女の姿が消えた。

 首を回して姿を追えど、見えるのは紫色に光る航跡だけ。立方構造体を足場に蹴りつけて、発狂した毬のように跳ね回る。


 急激な箒動きどうの変化に舌を巻いて、マリオンは困惑し、声を漏らした。


「「「……なんだ、こいつは」」」


 箒はこんなふうに飛ばないことを、マリオンは知っていた。人がこんなふうに飛ぶとどうなるか、ということも。

 純然たる法則に支配された夢の中で、こんなことはあってはならない。煙も、鎧も、鳥も、犬も、三つ首の竜でさえも、力学に則った〝存在しうるもの〟だった。母胎の娘がそう夢想したからだ。けれど、この蝿は、この小虫は、おかしい。ことここにあって、こいつだけがルールを逸脱している。 


「「「だ、こんなのは」」」


「ばかね……大人は……」


 アリソンは心底そう思った。

 大人は、本に書いてあることしか知らない。それで識った気になっている。

 大人は、自分の経験したものしか信じない。見聞きしたもの以外は、無いのと同じだと考えている。

 どんな人間にだって未来は厳然としてあるのに、それを時間の経過としか捉えることができない。未来は夢で、夢は現実と地続きの可能性なのに。


「わたしの友だちは……すごいのよ。いつか、何よりも高く、速く飛べる」


 血の涙に赤く染まり、ぼやけてよく見えないはずのアリソンの瞳は、目にも止まらぬ速度で飛び回る巻き毛の魔女をしっかりと捉えていた。指先や、その先にある小さな爪。髪の毛の一本一本、息遣いに至るまで。


「これは、わたしの夢よ。マリオン」


 アリソンは、強く、強く、強く信じた。

 やせっぽちの身体が豊かに曲線を描き、細い手足が伸びやかに生長することを信じた。

 茶色の巻き毛が艶やかに伸びて編み上げられ、風にたなびくことを信じた。

 異国のドレスのような薄く美しいローブを身にまとい、十指には見事に輝く真鍮の王冠みたいな指輪が嵌まっている。黒い瞳は濁りなく、ここではないどこかの輝かしい光景を映している。くだらない世界の法則なんて蹴散らして、いつか世の中のどんなものよりも速く、高く、善いものになれる。それらすべてを、アリソンは祈るように信じた。

 頭の奥、アリソンの扁桃のつぶが、誠実に、公平に、破綻なく、いつか手が届くはずの夢想を、演算した。


「「「ありえない。あってはならない!」」」


 ありえる。あっていい。

 海から天に昇った水の霊が雲をなして、雨を降らすこと。その雨が川となり、水車を回し、籾殻をすりつぶして小麦の粉を作ること。

 それらの普遍的なことがらと同じように、現実性をもってそれを信じることができるなら。

 煙の魔術師の少年時代や、太古の大魔女のありし日の姿――過去の可能性を、精緻に演算できるのであれば。未来の、その可能性を、演算できない道理はない。

 雨のように、祈ることができるなら。


「ニナ」


 どこかの未来、いずれかの場所から来た友人は、アリソンに振り返って、懐かしそうに、泣き出しそうに微笑んだ。それから何かを言いたそうに唇を動かし、けれど困ったように、諦めたように、口をつぐんだ。


「口下手は、変わらないのね……」


 アリソンはおかしくなって笑ってしまう。拍子に、血の塊が喉をせり上がってきて、ひどく咳き込んだ。

 

「「「やめろ、やめろ、やめろ!」」」

 

 風も、音も、光も影も、あらゆる全てを追い越して、いつかどこかの未来の魔女が、歌うように祝詞を紡ぐ。


 散ることを恐れて咲く花があるものか。【Neniu floro floras pro timo fali, 】

 堕ちることを恐れて飛ぶ鳥があるものか。【Neniu birdo flugas pro timo fali.】


「「「やめろ!」」」


 わたしは全ての恐れを振り切って、【Mi volas forskui ĉian timon. 】

 ただの翼になりたいのです。【Mi volas esti nur flugiloj. 】


「「「消えたくない……」」」

 

 紫色の夜明けが、死者の魂の航跡が空間を埋め尽くした。無数の魂の残滓が、いにしえの魔女が遺した彼女の断片を、借金の取り立てのように、どこか遠くに連れて行こうとしていた。

 拭き取られ、こそぎ取られ、大蛇の身体は消え去って、アリソンの夢は、そこで終わった。

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