鏡よ、鏡(2)

「〝やるのよ、アリソン〟」


 聞き慣れない男の子の声は、アリソンの口調を真似て言った。

びっくりしたアリソンは跳ね上がるように振り向くと、素早く室内を見渡した。そこには誰の影も見当たらず、ただ煙だけが彼女の部屋をたゆたっていた。


 アリソンは警戒心をあらわに、身を固くして眉をひそめる。「誰なの?」と、何もない空間に向かって、質問を投げかけた。


 しばらくの間があって、漂う煙がせせら笑うようにゆがんだ。

「〝誰なの?〟」

 返ってきたのは、またしてもオウム返しの声だった。悪意たっぷりに戯画化された、ひどい物まね。

 アリソンの中で、困惑といらつきの優先順位が変わった音がした。

 わたしは、絶対にこんな馬鹿みたいなしゃべり方なんてしない。アリソンは背中に壁がぴったりくっつくように部屋を迂回して、かに歩きで勉強机の方に向かった。それから、机の上にある自分の杖を慎重に手に取って、中空に向けて突きつけるように構えた。


「……十秒以内に出てきなさい。さもなければ、めちゃくちゃに矢を撃ちまくるわよ」


 アリソンは決然とした調子で言った。

 はったりのつもりは全く無かった。これが夢の中の出来事だと完全に自覚しているからだ。夢の中の自分の部屋を魔術で穴だらけにしたとして、誰に怒られるでもないし、実際には被害なんて存在し得ない。愛着のある部屋をできれば破壊したくない、という感情だけを無視すれば、むしろ(彼女にその自覚はなかったけれど)、ちょっと自分の魔術の実力を試してみたいという気持ちすらあった。

 そういうわけで、アリソンが唱えたのは、彼女の知り得る限り最大級の破壊の呪文だった。


「【Activigo,発理、】 【Sago de besta 獣骨の矢。osto.】 【Drapanta羽ばたきの dento,歯、】 【Reversa逆巻きの najlo,爪、】 【Masko血肉 de karno.仮面。】 【De turo de痺れの paralizo.尖塔より】 【Atendi,来たれ、】 【Atendi,来たれ、】 【 Aendi!来たれ!】」


 アリソンの詠唱に伴って、彼女の杖先に理力の青白い光が灯った。無数の生卵を地面に一斉に落としたような音とともに、みるみるうちに光が大きくなってゆく。暴風の獣イタカの雷光のように枝分かれした理力放射光が、部屋全体を真っ白に照らした。

 触れただけで肉や骨をずたずたに引き裂く、けれど精緻にコントロールされた光矢は、彼女がとびきり優秀な魔女のたまごであることを端的に示していた。

 少なくとも、魔術を本格的に習いだして一年とちょっとの女の子の杖先に灯っていい類いの光ではない。


「残り二秒!」


「わかった! 降参する!」


 声とともに、部屋を漂う煙が渦を巻くように一カ所に集まって、人の姿をかたち作った。下から順番に大まかな形が出来上がり、それから末梢的なディテールが現れた。人影はアリソンよりはいくらか背が低いようだった。

 アリソンは油断なく杖を突きつけながら、その様子をにらみつけていた。

 かたち作られた表面に質感が施され、最後に色がついた。

 姿を現したのは、アリソンと同じくらいか少し年下の、黒髪の男の子だった。


「悪かったよ」と、男の子は未成熟な声で言い、帽子を脱いで頭を下げた。円筒形のトップ・ハットは、男性魔女ヘクサーのための帽子だ。


「出来たら、きみもその杖を下ろして欲しい」


 大人びた口調でそう言うと男の子は顔を上げ、神経質そうに切れ上がった目でアリソンを見た。どことなく物憂げな紫色の瞳は、濁ったアメジストを思わせる。

 彼はどこかの学校のものであろう魔女のローブを羽織っていて、その下に詰め襟のブラウスを着ていた。膝くらいの丈の短いズボンは少し大きいのか、サスペンダーで吊っていた。それらすべては、ほんの少し古くさいデザインのものだった。

 線が細く、色白で、ありていに言って美しい男の子だった。ぼさぼさの髪の毛を櫛で梳いてやれば、女の子にすら見えるかもしれない。 


「未知の敵対者に対して詠唱に時間の掛かる魔術を使うのは……あまり褒められた戦術ではないよ、ミス・シュリュズベリー」


 少年は言った。


「とはいえ、脅しとしてはとてもよかった」


 男の子は肩をすくめて非対称に眉を動かす。美少年然とした彼の姿かたちからは想像しづらい、けれどアリソンにとっては(不本意ながら)慣れ親しんだ所作だった。


「……先生、なの?」


 杖から光を消して、アリソンは言った。

 少年は唇の端だけを器用に動かして笑った。


「正確には違う。ぼくは確かにフリント・クラーク・コーシャーソルトの現し身で、そこについてはきみの推測通りではあるけれど、彼本人ではない。ぼくはきみの演算野によって出力された彼の影だ。トゥルパっていえばわかる?」


 トゥルパ。

 化現・喚起されたもの・幻像。知覚を持ち比較的自律的な意思を有する魔術的顕現の一形態。と、


「つまり……あなたは、わたしが作った〝空想のお友だちイマジナリー・フレンド〟ってこと?」


「理解が早くて助かる」


ああOhなんてmy……」


 ……なんてこと!Gosh! という言葉を吐き出すかわりに、アリソンはおでこに手を当て、諦めたようにため息を吐く。

 それからしばらくして、「オーケイ」と忸怩たる様子で言った。


「わかった、もういい。状況を受け入れるわ」


 コーシャーソルト少年は彼女の返答に満足してにっこりと笑い、それからローブの袖口に手を突っ込んでごそごそやった。彼が取り出したのは大方の予想通り煙草と燐寸マッチの箱で、それは少年の柔らかく細い指先にはひどく不釣り合いなものに見えた。


「わたしの頭の中で煙草を吸わないで」


 見とがめたアリソンが、強い語気で言った。


「それに、ここは、女の子の部屋よ!」


 着替えるから出ていきなさい、と怒鳴りつけられる前に、男の子は煙になって彼女の部屋から退散した。



   ◆



「端的に言うとね、ぼくはきみの無意識の具現ってこと。夢の地図、座標に導くもの。要するにぼくは夢の水先案内人ってことさ」


 夢の中のオーゼイユ街を歩きながら、コーシャーソルト少年は言った。早朝のオーゼイユ街の人通りはまばらで、とても静かだった。

 コーシャーソルト少年が言うには、アリソンの頭の中の呪いを切除するためには、アリソンの意識を呪いそのもののに肉薄させなければいけない、ということだった。

 呪いはアリソンの無意識下――つまり夢の中――に隠し込まれていて、普通にしていては認識することが出来ない。知覚することが出来ないものをどうこうできないのは当たり前の道理で、だからこそ、意識体を夢の中に送り込み、呪いのかたちを観測する必要がある。

 呪いの本体を観測し、確定させることで、初めてアリソンは呪いを切除することができる。


 そして――、


「そしてわたしの無意識の具現であるあなたなら、呪いの正確な座標がわかるってことね」


 アリソンはコーシャーソルト少年の講釈を引き継ぐかたちで強引に締めくくった。男の子の回りくどく示教ぶった話しかたが、うんざりするくらい現実のコーシャーソルト先生とそっくりだったからだ。


「その通り」


 優秀な生徒の模範的な回答に満足したような調子で、アリソンよりも小さな男の子はうなずく。このことはアリソンにとってかなり不満だった。


 ――どうしてわたしの無意識は、こんなものをとして選んだのだろう?


 これが仮に尊敬すべき父や、いつだって綺麗な母や、茶色の巻き毛の親友の姿かたちを取っていれば、彼女にとって心強い冒険の導き手となったはずだったのに。

 アリソンは心の中で悪態をつき、路肩の石ころを蹴っ飛ばした。ぴかぴかに磨かれた通学用のコイン・ローファーのつま先が、音もなく降る雨でわずかに濡れていた。

 律儀な夢だな、とアリソンは思った。どうせ夢の中の雨なんだから、本当に濡れる必要なんてないのに。

 自分の夢のはずなのに、どうしてこう自分にとって都合の悪いことばかり起こるのだ?


「なんで子供の先生なの」


 不満の一部がアリソンの口からこぼれた。


「自分の脳みそに聞きなよ」とコーシャーソルト少年はつっけんどんに言う。


「だから聞いてるの」


「なるほど、一理ある」


 少年は素直にうなずいて、それから言った。


「理由はぼくにもわからないけれど……それはそれとして、コーシャーソルト氏の幼年期の再現としては、かなりいい線行ってるはずだ。きみは自分の演算能力を誇りに思っていい」


 アリソンはあまりうれしくなさそうに「それはどうも」と言った。


「……それで? その、呪いの本体っていうのは、夢の中のどこにあるの? わかるんでしょう、あなた」


「どこにあると思う?」


「質問を質問で返すのをやめて。そういう話し方ばかりしてると、将来すっごく嫌な大人になるわよ」


 必要十分量の実感がこもっている言い方だった。


「じゃあ言い変えるよ。呪いに足はない。どこにも動いてない。最初から、どこにも」


「この期に及んでなぞなぞ?」


「きみの問題なんだから、きみが考えなきゃ」


 アリソンは辟易とした。

 かしこぶって、はぐらかして。本当にこの少年は座標なんて知っているのだろうか?

 けれど、そんな嫌疑を彼にぶつけてもしょうがないことは理解していた。だって彼は結局のところ小コーシャーソルト風の自分であり、自分自身と喧嘩して得になることなどはひとつも無い。埒が明かない上に時間の無駄だ。

 だからアリソンはなぞなぞについて考えることにした。立ち止まり、顎に手を当て、視線を落とす。大通りの古くてすり減った石畳がアリソンを見返していた。


 呪いに足はない。最初からどこにも動いていない。


 最初。とアリソンは思った。最初って? 最初とは、どの時点を指している? このトラブルにおける最初とは?

 アリソンは顔を上げ、それから街の向こうの小さな山の頂上を見つめた。

 山のてっぺんには、見慣れた建物が乗っかっている。古めかしくて物々しく、あまり愛想が良いとは言えない大きな建物だ。


「エルダー・シングス魔術学院、非公開書庫」


 それが最初。


「そこにあるのね。呪いの本体が」


 コーシャーソルト少年の白い手のひらが、小さく拍手の音を立てた。

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