E1-2:アリソンの夢のなか - "mirror, mirror"
鏡よ、鏡(1)
◆
次にアリソンが目を覚ましたとき、彼女は自室のベッドの上に横たわっていた。
頭には三角帽子の代わりにシルクのナイトキャップが被さっていて、魔女のローブの代わりに薄手の寝間着を着ていた。肌触りの良い木綿で出来た、薄桃色のお気に入りの寝間着だ。
窓の外は比較的明るかったけれど、太陽は雲に隠れていて、針のように細い雨が音もなく窓ガラスを湿らせていた。
アリソンは寝ぼけまなこをこすってから、ナイトテーブルに置かれた懐中時計を取り上げる。時計の針は六時半を指し示していた。登校までにはまだ幾ばくかの余裕がある時間だ。
短く鼻息を吐き、身体を起こしてうんと伸びをする。なにか夢を見ていたような気がしたけれど、内容はよく覚えていない。寝覚めの気分から逆算すると、あまり愉快な夢ではないようだった。
アリソンは時計のぜんまいを几帳面に三十五回きっかり回してから、ベッド脇のスリッパに足を突っ込んでもそもそと立ち上がり、ドレッサーに腰掛ける。
ナイトキャップを取り、「さて、今日はどんな髪型にしようか」、なんてことを考えながら、自慢の金色の髪をくしで梳く。
細かな彫金が刻まれ、色ガラスが上品にちりばめられたヘアブラシは、一昨年のお祭りに彼女の父から買ってもらったものだ。彼女は(多くの女の子がそうであるように)いくつかの宝物を持っていて、これもそのうちのひとつだった。
静かな部屋に小さく鳴り響く髪をとかす乾いた音を聞きながら、アリソンは「今日は三つ編みにしよう」と思った。ロープみたいにきつく編み込むのではなく、ゆったりふんわりと、大人っぽく。ドレッサーの引き出しの中に、水色の飾り紐があったはずだ。
アリソンは、飾り紐を取り出そうと、引き出しの取っ手に手を掛け、そこではた、と思った。
――違和感が、ある。
とても小さな、でも、彼女の手を止めるには十分な違和感だった。
宝物のくしをそっとドレッサーの上に置き、考えを巡らせる。
何かがおかしい。でも、何が?
アリソンは前髪を一房、指でつまんでねじる。考え事や不安から前髪を触るのは、アリソンの小さな頃からの癖だった。
懐中時計のわずかな音だけが、アリソンを急かすように、無音の部屋に鳴り響いていた。とても静かな思索だった。
これだ。と、アリソンは不意に気づいた。
朝鳥の声も、雨音も、階下の朝餉の支度の音も、聞こえるはずのいつもの音のなにもかもが聞こえない。
この朝は静かすぎる。
わたしの現実は、もっと音で満ちあふれている。
気づいた瞬間に、アリソンは大きく咳き込んだ。肺の中に、急に空気ではない何かが混ざったような感覚。広い寝室を埋め尽くすくらいに大量の煙が、彼女の口から吐き出される。
涙目で咳き込むたび、アリソンの脳裏に記憶の断片がひとつずつ蘇っていった。
ああ、思い出した。
こちらこそが夢なのだ。
◆
「解呪の方法がないなら、もうどうにもならないじゃない」
アリソンは頭を抱え、ひどく暗然とした気持ちになった。彼女の目には、研究室に立ちこめる厚ぼったい煙草の煙が、行き止まりを示す憂鬱で絶望的な半透明の壁のように映った。
煙の向こうには、ミスター・コーシャーソルトが薄紙をくるくると円筒状に巻いているのが見える。どうやら彼は天秤で量り終えた材料を紙で巻いて、手巻き煙草を作っているようだった。
「こういうとき、大人は一服つけて落ち着くんだ」と、彼は言って、出来上がった二本の煙草のうち一本を、アリソンのほうに転がして寄越した。
テーブルの上をころころと転がった煙草は、アリソンの手元でぴたりと止まる。彼女はそれを一瞥してから、嫌悪感をあらわにして言った。
「……嫌よ、煙草なんて。それにわたし、まだ十五なんですよ?」
改めて言うまでも無いことだけれど、アリソンは煙草の煙や臭いについて、肯定的な意見をひとつも持ち合わせていなかった。
「賭博は立派にやるのに? なかなか堂に入った賭けっぷりだったって聞いているけど」
わざとらしく意外そうな顔を作って、ミスター・コーシャーソルトはアリソンの抗議に返答する。
そう言われると、アリソンには返す言葉がなかった。とはいえ、それはそれとして嫌なものは嫌だ。彼女は無言でしかめっ面を作って、抵抗の意志を表明することにした。
煙の魔術師は、アリソンの様子に苦笑して言葉を続けた。
「それに、そいつは厳密に言えば煙草でもない。れっきとした薬物だよ」
「……薬? これが?」
「そう、祈祷薬ってやつだ。大陸南部の
「待って待って待って」
「なに?」
流暢に原材料を暗誦するミスター・コーシャーソルトを制止して、アリソンはおずおずと尋ねる。
「間違っていたら申し訳ないんですけど」というのは、一応の前置きだ。
「材料を聞く限り、すごく危険なもののように思えます。それっていったい、どういう作用のある薬なの?」
並べられた材料には、アリソンの知っているものもあったし、そうでないものもあった。けれど、少なくとも、知っている材料については簡単に「薬」と言い切ってしまって良いものではないということは確かだ。
毒と薬は表裏一体のものであるという事実は、薬学を爪の先ほどでも学んだものなら知っている。それを差し引いても、劇物と呼んで差し支えない。そういうものだった。
「きみが思っているほど危険なものじゃあないよ」と、ミスター・コーシャーソルトは答える。それから、とびきり素敵な粉砂糖のかかったスイートロールについての説明と同じ調子で言葉を続けた。
「すごく良い気分になって、こう……説明が難しいんだけど、幾何学的な……すごく良い感じの幻覚を見るんだ」
「ふむ」
「それから昏倒して死の淵をさまよう」
「やっぱりろくでもないじゃないの!」
アリソンは叫んだ。
ほんの数秒の間でも真面目に話を聞いた自分が馬鹿みたいで、両手の指がわなわなと震えた。
「まあ最後まで聞きなって」
ミスター・コーシャーソルトは胸ポケットから煙草を取り出し、火を付ける。
アリソンが呼び出されたときに空っぽだった灰皿には、すでに無数の吸い殻が捨てられていて、前衛的なシルエットを形づくっていた。
煙の魔術師は煙草を素早く二回吸って吐き、その間に「どこから説明したものか」の算段をつけたようだった。
「ううん、そうだな……。光の矢などに代表される直接的な攻性魔術と、呪詛との最も決定的な違いは何だと思う?」
アリソンは、短くため息をつく。真面目に勉強していればまず間違えることのない、呪文学についての初歩的な質問だった。
「どこで破壊が起こるか、でしょう?」
「その通り」
言いながら、ミスター・コーシャーソルトは顔を上げ、天井に向けて煙を吐き出す。吐き出された煙は中空にふたりの魔女を形作った。煙人形の魔女たちは向き合い、お互いに杖を構える。
「攻性魔術は胎より出で、杖から放たれる。放たれた矢は着弾した先で衝撃力を生むが、破壊の力そのものは杖先、術者の身体の延長上で発生する」
ミスター・コーシャーソルトの言葉に応じて、煙人形の魔女たちが同時に杖を振った。一方の魔女の杖先から矢が放たれ、もう一方の魔女に当たる。撃たれた魔女は雲散霧消して、ただの煙に姿を変えてしまった。
「一方、呪詛による破壊は間接的なものだ。生殖能力の喪失、家庭不和や事故、突然死。形は様々だけど、一様に対象者――つまり、呪詛座標の周囲で起こる。なぜか?」
不意に、残された魔女人形が、膝からくずおれる。頭を抱えて、苦痛に耐えているように見えた。そうこうしているうちに、頭の内側から破裂するようにして、彼女もただの煙に戻る。
「呪いとは、対象者の深層意識を触媒にして脳内で発生し、成長するからだ」
――自分は子を生せない身体だったかもしれない。
――自分は死んでいるのかもしれない。
――自分は人間ではなかったのかもしれない。
呪詛はそういう風に、脳みそが勘違いを起こすように仕向ける術理だ。
本人が意識できない深さで、けれど肉体に致命的な変容を起こすくらいに強烈な思い込み。端的に言えば、それが魔女の呪いだ。
「〝
ミスター・コーシャーソルトはそこで言葉を切り、差し棒代わりの吸いさしの煙草で、アリソンの手元にある祈祷薬を指し示す。
「シュパリョは我々の言葉で、鏡という意味を持つ。獣人たちは成人のおり、これを使って深く短いかりそめの死を体験する。眠りの中で自らの深層心理と対面し、己が獣性と向き合うんだ」
ようやく、アリソンにも話の着地点が見えてきた。
大魔女マリオン・ウェインライトに会うことが叶わないのであれば――、
「きみ自身の内側に潜って、直接的に呪いを切除する。つまり、眠りの中で、呪いそのものに代金を支払う……これが現状で最も可能性のある方法だと思う。もちろん、危険性は十分にある。身体が薬に耐えきれずに帰ってこれなくなったり、結局呪いを解くことが出来なかったり」
「失敗したらどうなるの?」
「死ぬ」
アリソンは端的に質問をし、ミスター・コーシャーソルトは端的に答えた。
「でも、放っておいても三日後には死ぬ」
ミスター・コーシャーソルトは煙混じりのため息をつき、煙草を灰皿でねじり消した。
それから、改まった態度で姿勢を正し、真剣な声で言う。《烟霧》の魔術師、エルダー・シングス薬学部教務主任、フリント・クラーク・コーシャーソルトそのひとの身体から発せられたとは思えない、ただただ平坦で、真摯な声だった。多くの大人がよくやるような、難しい年ごろの女の子を諭すような響きすらも混じっていなかった。
「それでもだ、アリソン・セラエノ・シュリュズベリー。もしきみが、きみ自身が得てきたもののすべてを一回のコイントスに賭けることが出来る人間なら、それは分の悪い賭けじゃないと思うんだ」
アリソンは顎に手を当て、深く考え込んだ。
考えている間、彼女はテーブルの天板をじっと見つめていた。
その様子は端から見ると、天板を走る木目の流れに、なにかの示唆や啓示を読み取ろうとしている風にも見えたかもしれない。
でも実際のところ、テーブルの木目が我々の人生における指標になってくれることはめったにないし、アリソンだって別にそんなことを期待しているわけでもなかった。
アリソンが考えていたのは、彼女の親友と、それから自分のことだった。
〝ブービー〟。《劔》の魔女に勝った、くせ毛の魔女のことだ。落ちこぼれのそしりを受けながら、それでも臆することなく忌み名持ちに勝負を挑み、そして勝って見せたアリソンの友人のことだ。
それは本人に言わせれば、やけっぱちの自暴自棄だ。彼女がその場にいたら、買いかぶりだと即座に否定していたことだろう。けれど、そのときのアリソンにとって、彼女の行動は勇気の道しるべに他ならなかった。
アリソンは、思う。
あのときだって、わたしは彼女が勝つ方に全部賭けたのだ。
だったら、今回だって賭けてやる。賭けの対象が、自分自身だったとしても。
長考が終わるとアリソンは顔を上げ、「やるわ」とだけ答えた。
「よろしい」
ミスター・コーシャーソルトは満足げにうなずいた。アリソンの顔から恐怖とうろたえと敗北の匂いが洗い落とされ、瞳に決意の色が宿ったことが、彼にはとても喜ばしく思えたようだった。
アリソンには、彼のそういった細かい表情の機微は、残念ながらわからなかった。
その代わり、手のひらをミスター・コーシャーソルトの方に向けて、「ただ、」と言った。
「ただ……その、煙草は嫌なんです。くさいし、煙たいから。なにか別の方法はないの? 例えば……水薬とか」
ミスター・コーシャーソルトは、ひどく些末な問題だというように両眉をつり上げる。
「大丈夫、怖いのは最初だけだ。すぐにこれは良いものだってわかるから」
「いや。絶対に、いや」
「まあまあ、何事も体験だよ。痩せるし、肌だって綺麗になる」
椅子から立ち上がり、一歩ずつアリソンににじり寄る。
「まあまあ」
「いや、ねえ先生、お願い、やめて」
「まあまあまあ」
「あああああああ」
◆
アリソンは両手で顔を覆い、ドレッサーの天板におでこをくっつけて深いため息を吐いた。せきはもう止まっていたけれど、夢の中の部屋はすっかり煙で充満してしまっていた。
眠りにつく前、遠い地のまじない薬がもたらした極彩色の酩酊は確かに神秘的かつ驚嘆に値するものだったけれど、彼女にとって、出来れば思い出したくはないものだった。
すっかり髪の毛を編む気分が失せてしまったアリソンは、ドレッサーの引き出しから一番お気に入りでない髪紐を取り出した。髪の毛を頭の後ろで馬の尻尾みたいにまとめ、馬の尻尾をあまり大事でないバレッタで固定した。水色の髪紐や、大人っぽいふんわり三つ編みは、きっとこれから始まる過酷な冒険のさなかに失われて損なわれるだろうことは容易に予想できた。仮にそれが夢の中での出来事だったとしても、きっと自分は落ち込んでしまうだろう。
アリソンは両手で自分の頬を挟み込むように軽く叩く。
それから、鏡に映った自分の顔をじっと見つめて、「やるのよ、アリソン」とひとりごちた。
アリソンの背後で、男の子の声がした。
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