本の呪い(4)

「最初はけちな呪いだったんだ」と、ミスター・コーシャーソルトは言った。詰まるところ、ほんの小遣い稼ぎの魔法だった、と。


 自由律魔導百科事典の初版本(つまり原本のことだ)が、いにしえの大魔女、希代の天才マリオン・ウェインライトに発明されたとき、魔術界には激震が走った。

 いや、今となっては誰もあれが発行された日付を知らないのだから、これは後世からの推察でしかないけれど、とてつもない衝撃が走ったのだろうというのは想像に難くない。

 始まりの魔女以来脈々と、けれど細々と個別に継承されてきた魔法術理その他もろもろ――例えば、魔法結社エルヴィラの誇る精緻な暗銀操作術理や、それとは全く技術体系の違うシェイネの占星術。ダスピルクエット派の降霊術などなど――いわゆる秘伝や極意といったものが、いきなり一冊の本に編纂されてしまったわけだ。無差別に、網羅的に、しかも勝手に。

 それは限りなく暴挙に近い技術革新だった。世の中すべての魔法に携わる人間を相手取った、史上最大規模の営業妨害だったとも言える。


 普通の感覚で言えば、マリオン・ウェインライトはほうぼうの魔女に袋叩きにされて逆さ吊りの目に遭っても文句は言えないのだけれど、どうもそうはならなかったようだ。

 いい加減かつ合理的で無闇に前向きな魔女という人種は、マリオンが生きた時代も同じくそうであったらしい。

 彼女たちはむしろ、魔導百科事典の登場を大いにありがたがり、ここぞとばかりに他学派の魔術を盗み合った。盗み合い、混ざり合い、無数の小さなせせらぎが合流して大河になるように、魔術史に言うところの学派大統合時代が幕を開ける結果となったわけだ。

 学派の合流は切磋琢磨と洗練を生み、学徒の裾野を広げ、自由律魔導百科事典は勝手にどんどん分厚くなっていった。

 そういうふうに、結果的に魔女の黄金時代を生み出した自由律魔導百科事典は言うまでも無く我々に必要不可欠なものとなり――、


「先生」


「なにかな? いますごく良いところなんだけど」


「……確かに興味深いお話なんですけど、それがわたしにかけられた呪いとどう関係が?」


 両手でかき抱くようにしてティーカップを握りしめたアリソンは、憔悴といらだちが入り交じった表情でミスター・コーシャーソルトの長い話に抗議した。言い回しこそ普段通りだったものの、彼女の声は消え入りそうにか細いものだった。線の細い両肩は、氷水にたっぷり一時間浸けてから引っ張り上げたあとみたいに小刻みに震えている。


「実は、これが大いに関係があるんだな。焦る気持ちもわかるけれど、まずはきみが置かれた状況について理解を深めるところから始めるべきだよ。迷子になったときの鉄則だ」


 ぷかり、と煙の輪っかを吐き出しながら、ミスター・コーシャーソルトは悠長に反論した。それからアリソンの手元を指差して、「ところでミス・シュリュズベリー、お茶のおかわりは?」と言った。


 アリソンは返事の代わりに、力なくため息をつく。短く深い落胆のため息だ。ほんのひとときの間に、アリソンはすっかり疲弊しきってしまっていた。降って湧いた生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、普段と変わらない煙の魔術師ののん気な振る舞いは、相当以上にアリソンの精神に多大な苦痛をもたらしていたのだ。


 ついに返事をする元気も失ってしまった教え子の憔悴ぶりに、煙の魔術師は一瞬だけ面食らった顔をした。どうやら彼は、アリソンの礼儀正しくもとげとげしい返事を期待していたらしかった。

 ミスター・コーシャーソルトは少し迷ってから、「〝お気遣いどうもありがとう。でも、もう十分です〟。〝いいえ、どういたしまして〟」と、ひとりで礼儀正しく会話した。前半部分はアリソンの物まねで、これはとてつもなくひどい出来だった。とっさに「手元のティーカップを投げつけたい」という強い衝動に襲われたアリソンだったけれど、これはすんでのところで踏みとどまることができた。彼女にもう少しだけ元気があれば、ティーカップは即座にミスター・コーシャーソルトの顔面めがけて飛んでいただろう。

 アリソンは力なくミスター・コーシャーソルトをにらみつけ、それからもう一度、諦めたようにため息を吐いた。

 ミスター・コーシャーソルトは肩をすくめ、ちょっとだけしおらしそうな顔をする。


「……少し脅かしすぎたかもしれないな。謝るよ、ミス・シュリュズベリー」


 弱り切ったアリソンの無言の抗議に、さしもの《烟霧》のコーシャーソルトも少しだけ反省したらしい。

 彼の謝罪にアリソンは小さく首を振って言う。


「……でも、事実なんですよね」


「そうだね」と、彼は答える。


「このままだと、わたしは本になってしまう」


「うん」と、彼は答える。


「その呪いを解く方法が知りたいの。出来るだけ簡潔に」


「じゃあ、ここで問題」


 いい加減アリソンは泣き出しそうだった。どうしてこの男はけむに巻くような返答しかできないのだろうか?


「ねえ先生、お願いだから」


 ふざけないで、と言いかけたアリソンの言葉を、ミスター・コーシャーソルトは遮る。注意深く聞けば、彼の声のトーンは先ほどよりも少しだけ真剣だった。


「極めて真面目な質問だよ、ミス・シュリュズベリー。できるだけ、可能な限り、自分の脳みそでものを考え続けるんだ」


 言いながら、ミスター・コーシャーソルトはゆっくりと椅子から立ち上がる。動いた拍子に煙草の先から灰が落ちてテーブルの天板を汚したけれど、彼は毛ほども気にしていないようだった。振り返って背後の薬品棚の戸を開け、中を物色しはじめる。乱雑に並べられたガラスびんをがちゃがちゃ鳴らしながら、彼はアリソンに尋ねた。


「自由律魔導百科という偉大な発明を成し遂げたウェインライトは、次に何を考えたと思う? ヒントは本の中。……ページ数は言わないでおこうか。意思に反して勝手に検索しちゃうだろうから」


 アリソンはしばしの間考え込んだ。考えている間じゅう、頭の片隅で何かがページをめくる音がばらばらと鳴り響いていたけれど、彼女はそれを必死で抑えこむ。

 出来るだけ自分の頭で考えなければ。

 ミスター・コーシャーソルトの口ぶりから、それが物言わぬ百科事典になってしまうのを少しでも遅らせるための方策だと、アリソンは直感していた。


 アリソンは思考を巡らせる。彼は、「ヒントは本の中」だと言っていた。ミスター・コーシャーソルトは確かに大雑把で、自堕落で、そのくせ底意地が悪く、回りくどい人間ではあるけれど、答えようのない問題を出す人間ではない。と、アリソンは分析する。それは多分に彼女の偏見が混ざった分析だけれど、概ね的を射ていた。

 例えば、「アリソンが目を通したことが無いであろう記事」について、彼が何かを出題することは考えにくい。であれば、問題は少なくとも「アリソンが読んだことのある範囲」の事柄だ。けれどでも、アリソンが読んだことのある範囲をミスター・コーシャーソルトが把握している、というのも、おかしな話だ。つまり、彼の出題は「魔女の誰もが一度は読んだことがあるはずの記事」のうちから、ということになる。

 そこまで思索を巡らせたあたりでアリソンの脳裏には魔導百科事典の一ページめ、マリオン・ウェインライトによる序文の一節が思い浮かんだ。


「……まさか」


「その通り」


 我が意を得たりといった様子で、ミスター・コーシャーソルトは唇の片側だけで笑った。


 マリオン・ウェインライトに銅貨七枚の募金をすること。

 それが、魔導百科の呪いを解く方法だった。


 魔術史に名を残す偉大なる編纂者は、その実けっこう小市民的な感性の持ち主だったらしい。

「世界中の人びとから少しずつお金をもらったら大金持ちになれるのでは」という、誰もが考えつき、そして(主に羞恥心という理由で)口に出すのを憚るそれを、マリオンは呪いとして具現化したのだ。

 昔はなんてことない呪いだったし、マリオンもきっとそのつもりだった。自身の存在と引き換えに銅貨七枚を出し渋るしみったれなんて、そうそう居ないだろう。


「……せ、せこい」


 脱力と驚愕のあまりに、アリソンは白目をむきそうになる。間違っても年ごろの女の子がしていい表情ではなかった。

 そんなアリソンの様子に苦笑いして、ミスター・コーシャーソルトは答える。


「銅貨七枚であれを使える、と考えれば、破格に安いとも言えるんだけどね」


 薬品棚から目当てのものを見つけたのか、彼はいくつかのガラスびんをテーブルに順番に並べていく。それらの中身はだいたいが乾燥させた植物で、次に多いのは動物の骨粉だった。ガラスびんは新しいものから、ラベルがかすれて読めなくなってしまっているくらいに古いものまであった。中にはアリソンが見たこともないようなものも含まれていた。


「でも、記載されている魔術知識自体はほうぼうから勝手に借りてきたものなんでしょう?」


「確かにそうだけれど、そういう仕組みを考えついて、作り上げること自体がすごいことなのさ。自律稼働し続ける世界規模の編纂装置なんて大術式、これから百年先の未来でも現れることはないよ」


 彼の説明に、アリソンは納得とも不服とも取れる声音で「ふむ」と唸った。

 ミスター・コーシャーソルトはアリソンの様子を尻目に、天秤ばかりの埃を払い、それからテーブルの上に一枚の薄紙を敷いた。


「……まあ、ウェインライトの小遣い稼ぎについての是非は置いておくことにして、今からは実際的な話をしよう」


 彼は順番にびんのふたを開け、中身を天秤の受け皿に移し、ひとつひとつ重さを量ってゆく。

 一連の動作は手際よく、とても正確で、レシピは完璧に彼の頭の中に保存されているらしかった。

 アリソンはその様子を見ながら「お茶を淹れるときも、そういう風にちゃんとすれば良いのに」と思った。思ったのに黙っていたのは、言ったところでまた長話でけむに巻かれることが経験則としてわかっていたからだ。


「呪われる条件はわかっている。呪いの内容も、それを解く方法も判明している。解呪の条件そのものも至極簡単なものだ。さっきも言ったけれど、本来的にはけちな呪いなんだ」


 そこまで言ってから、彼は量り終えた材料を鼻息で吹き飛ばさないように、細心の注意を払ってため息をついた。それから、「けれど」と、話の尻に一言付け加えた。


「……マリオン・ウェインライトはもう居ない」


 結論を待たずに、アリソンは言った。

 マリオン・ウェインライトについての文献は、その功績のわりにずいぶんと少ない。

 けれど、限られた資料から、少なくとも一紀以上は前の時代に生きた人物であることは確かだった。

 耳長エルフならいざ知らず、いくら魔女とはいえ只人でしかないマリオンが、千年以上も生きているとは考えづらい。


「その通り。大魔女マリオンが死んだ今、魔導百科事典、その原本は、魔術界にとってかけがえのない存在であると同時に、解呪の方法が存在しない最低の呪物と化した……というわけだね」


 銅貨七枚あれば助かる。けれど、その支払い先が、この世から消えてなくなってしまっている。


 それこそが、この話の最大の問題点であり、アリソン・セラエノ・シュリュズベリーにとっての受難そのものだった。

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