アリソンの夢のなか(2)
身長2ヨルド弱ほどもある大山羊は、落下の衝撃にのたうち回り、ぼおお、と破滅的な鳴き声を上げた。
山羊の身体は白い毛皮に覆われていて、まだら状に何らかの動物の血液が付着していた。毛皮の白色自体も、ちょうど何度か拭き掃除に使った木綿のふきんのように薄汚れている。
顎に生えたひげは千匹の青白いみみずを束ねたように見え、うねうねと動いていた。額に生えた二本の角もまた同じで、常に流動的にそのかたちを変えている。
鞭のように振り回される四肢には人間そっくりの五本の指があって、それぞれの指は鋭い爪を持っていた。爪の先端は不潔に黒く、致命的な殺傷力を孕んでいる。
耳のすぐ真横で汽笛を鳴らす
暴れ狂う山羊の四肢が、山道に敷き詰められた栗割石を剣呑な散弾のように撒き散らし、危険な凶器となった礫がアリソンとコーシャーソルト少年に襲いかかる。
たまらずアリソンはその場にしゃがみ込み、三角帽子のつばを両手で引っ張って頭を守った。
「わあああ!」
目をつぶって大声で叫び、すぐあとに来る礫の痛みに備えたけれど、アリソンがいくら待ってもその時は訪れなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前は一面の灰色で、暴れ回る山羊の鳴き声は聞こえども、姿かたちは一向に見えない。
『なにやってるの! 立って、杖を構えて!』
灰色の表面がたゆたって、山びこ石ごしに聞くような、くぐもった声を発する。
コーシャーソルト少年が全身を煙に変えて、アリソンの前面に覆い被さるように、半球状の煙の傘を作ったのだ。
紫がかった灰色の、雨雲の質感。押し固められた煙の層が続けて飛んできた飛礫の弾丸を食い止める。
分厚い煙が礫を受けるたびに、ぼ、ぼ、ぼん、と、異国の太鼓に似た音がした。
「だから、いったいなんなの!」
『ぼくたちは今、きみの深層意識のふちまで降りてきたんだ! 深層意識の免疫機構が、ぼくたちを排除しようとしてる!』
盾をかたち作るすべての煙の粒子がふたたび振動して、コーシャーソルト少年の声を再現する。飛礫が彼の身体を叩き、太鼓の音を立てる。
――ぼぼぼ、ぼん。ぼんぼん。
「どうしてよ! わたしはわたし自身なのよ!」
――ぼんぼぼ、ばん。
『だから、きみ自身が、きみを守ろうとしてるんだ!』
――ぼぼ、ぼ。
「意味がわからない!」
――ぼ。
そうやってアリソンとコーシャーソルト少年が問答を怒鳴り交わしているうちに、石くれの雨が降り止んだ。
大山羊の咆哮もいつのまにか消えて、あたりは静寂に包まれる。アリソンの視界の端を、真っ赤な木の葉が揺れながら落ちていった。
降って湧いた無音に戸惑いながら、アリソンは言った。
「……死んだ?」
『まさか』
コーシャーソルト少年が答え、アリソンの眼前を覆う煙の傘が晴れてゆく。
視界が開けた瞬間、短い悲鳴がアリソンの喉を押し上げた。
「ひっ……」
奇妙な体勢だった。二階建ての建物よりもなお大きい大山羊が、アリソンに足を向けて腰を反り、両手を地面につけてブリッジしている。
この人間の四肢を持つ白山羊の思考形態が動物的なもの、あるいは人間的なものだったにしろ、それは不可解極まりない行動で、大いにアリソンの嫌悪感を刺激した。ましてやこれは、自分自身の無意識が内包する怪物なのだ。こんなものが自分の奥底に息づいている事実が、とにかくおぞましかった。
「杖を構えるんだ!」人の姿に戻った少年は、アリソンの背後で叫ぶ。「ぼくは夢の作劇そのものには干渉できない! きみしかこいつをやっつけられないんだ!」
飄々の体をかなぐり捨て、危機感を露わにして怒鳴りつける少年の声は、でも、よろよろと立ち上がるアリソンには彼の言葉は届かない。アリソンの目は、白山羊の股ぐらに釘付けになっていた。
ぶおお、と巨獣がいななき身体を打ち震わすと、体毛に覆われた股間が裂け、その裂け目からべとべとした粘液に包まれた落とし子が顔を出す。
真っ赤な体液に包まれた仔山羊は目を開き、ぎょろぎょろとあたりを見回すと、ガラスを金属で引っ掻くような産声を上げた。それはこの世に生を受けた歓喜の声ではなく、明確に指向性を持った敵意の声で、その位相はアリソンにぴったりと向けられている。
アリソンの両脚は、自分自身の
「ミス・シュリュズベリー! 早く構えて!」
早鐘を打つ心臓の鼓動の向こうで叫ぶ少年の声は、どこか他人事のように聞こえる。
眼前で産まれ落ちた仔山羊は、すでに二本の脚で立ちあがろうとしていた。落とし子の身体を覆う粘液のつんとした刺激臭が、もうアリソンの鼻面まで漂ってきている。
アリソンは、当初抱いていた決意や勇気が、額や首元を伝う脂汗と一緒に身体のなかから失われていくのを感じた。
身体の中を渦巻くのは、足元から這い上がってくる、恐れと怖れと畏れ。
「やるんだ! アリソン!」
コーシャーソルト少年が再び煙と化して、アリソンの周りを渦巻く。灰紫色の煙が彼女の身体を覆い、きつく締め上げ、縛りつけ、半透明の
『ぼくが、守るから!』
奇怪な動きで跳ね回る仔山羊は、もう目と鼻の先まで迫っていた。
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