アリソンの夢のなか(1)

 オーゼイユ街から続く峠道は、本来なら一本道のはずだったけれど、現実のそれとは大きく違っていた。


 夢の中の道のりはちょうどシダの葉っぱのように、規則正しく、複雑に、自己相似的に無数に枝分かれしている。森の雑木はてんででたらめの植生で、あちらこちらに捻じ曲がっており、むやみやたらに巨大だった。


 天蓋のように頭上を覆う梢のせいで空は見えず、山頂にそびえ立っているはずの学舎もまた見えなかった。自分がいま峠のどのあたりにいるか判然としないまま、アリソンは栗割石が敷き固められた坂道をえっちらおっちら歩く。


 夢の水先案内人、先をゆくコーシャーソルト少年の小さな背中を目で追いかけながら、アリソンはこの日初めて、「彼が居てよかった」と思った。もしコーシャーソルト少年がいなければ、アリソンはこの幾何学的に入り組んだ森の中で、三分と持たずに迷子になってしまっていただろう。


 でもそのことを口に出すのは、なんだか何かに負けた気がして少々癪に障るし、なにより十五歳の女の子であるアリソンにとって、山あいの馬車道は少々ながら険阻な道のりだった。

 息を切らして喉で呼吸する彼女には、コーシャーソルト少年に対する褒め言葉は、そこまでして口に出すべきことではなかった。

 

 先をゆくコーシャーソルト少年は、腹ごなしの散歩のように、鼻唄を歌いながら歩く。いつのまに拾ったのか、彼の右手には感じの良いまっすぐな木の枝が握られていて、無軌道に振り回されていた。

 どうやら、夢の中の住人である彼には、疲労や倦怠といった現実の法則は適用されないようで、アリソンは率直に「ずるいな」と思った。


 コーシャーソルト少年はたまに立ち止まってはあたりを見渡して、木の枝を荘厳な財宝のようにうやうやしく地面に置き、トップハットの中から紙きれを取り出す。それから、そこに書かれているものを何度も確認した。


 彼によるとそれは〝夢の設計図〟で、アリソンとコーシャーソルト少年が辿るべき正しい道のりが記されているらしかった。羊皮紙のようにもコットン紙のようにも見える不思議な質感の紙で出来ていて、大小の図形と文字列のようなものがびっしりと書き込まれていた。

 コーシャーソルト少年の肩越しに見たそれは、でもアリソンには判別できないものだった。

 そこに書かれているものが難解だとか複雑だとかではなくて、寝ぼけまなこで読む高度な専門書のように、図案と意味がうまく頭の中で結びついてくれない。


 それでも、アリソンにとってその小休止はとてもありがたいものだった。彼が〝設計図〟を確認するあいだ、アリソンはほんの少しだけ息を整えることができたからだ。

 少しだけ呼吸を落ち着けたアリソンは、立ち止まるコーシャーソルト少年の背中に疑問を投げかける。


「なんで歩いて登らなきゃいけないの」


 本当ならオーゼイユ街から学院までの道のりは、駅馬車で移動するのだ。運賃は銀貨一枚で、時間にして三十分ほどかかる。人間の脚だと二時間くらいは歩き詰めで、そのうえ夢の中の峠道は、現実のそれよりも随分長いように感じられる。


 問いかけにコーシャーソルト少年は振り向かず、地図を傾けたり逆さまにしたり、何度も向きを変えて確認しながら、アリソンに背中で返事をした。


「ミス・シュリュズベリーは、お金が足りなくなる夢を見たことはないかな? 何か買いたいものがあって、いざカウンターにその品物を持っていって財布を開くと、中には銅貨一枚も入ってない。そういう夢を見たことは?」


「あるかもしれない」と、アリソンは答える。「けれど、それとなんの関係が?」


「だからさ、〝そういう夢〟になったらもうなんだ。駅馬車にお金を払って楽をするのはいいけれど、君はマリオン・ウェインライトにお金を支払って許してもらうために来たんだろう? 肝心なときにお金が足りなくなったら、どうするの?」


 なるほど、とアリソンは思った。ローブの内ポケットに仕舞ってある彼女の財布には、運賃とウェインライトへの支払いを済ませてなお、街で少々贅沢なお茶の時間を過ごせるくらいの金額が入っていたはずだけれど、いかんせん夢の中だ。何が起こるかわからなかった。あったはずのお金がすっかり無くなっている、なんてことも、充分にあり得る。

 でも、とアリソンは思った。


「でも、学院まで鳥みたいに飛んでいったりは出来ないの? 夢の中なんだし」


 アリソンは自分の背中に白く大きな羽が生えてきて、大空を羽ばたく想像をした。身体ひとつで空を飛ぶことの、なんと自由なことだろう。

 けれどコーシャーソルト少年は、アメジストの目を伏せてかぶりを振った。心底残念そうな表情で。


「そうしたいのは山々なんだけど、どうもきみはきみ自身が思っているよりも現実的な頭のつくりをしてるみたいなんだ。例えば、山みたいに大きなケーキを、ひとりで食べ切ってしまう夢とか、見たことないだろう?」


 図星を突かれたアリソンは、うっ、と息を詰まらせてしまう。ちょうど、鳥の翼で羽ばたくには、人間の身体が重すぎるということに思い当たったところだったからだ。


 どうにも彼女の精神性は、良くも悪くも公平に過ぎた。夢の中ですら、自分にだけ都合のいい出来事を上手く想像できないのだ。


 実際のところ、アリソンの演算野で生成された夢の世界は、現実の延長線としてかなり高度なつくりをしている。そこには力学があり、法則があった。鉱石リフ粒子ダスト空力かぜの助けなしには、夢の中でだって人は空を飛ぶことができない。


「でも、地に足がついていることは、悪いことじゃないと思う」


「ふうん」、とアリソンは納得し、それから、コーシャーソルト少年と含むところなく会話できている自分に少し驚いた。

 現実世界のコーシャーソルト氏と相対したときに彼女が感じる緊張や嫌悪が、ずいぶんと薄い。

 彼の所作や物言いは煙の魔術師そのもので、十歳とちょっとの男の子としては老成し過ぎて気味の悪いものだったけれど、でもそれは、アリソンにとって存在を許しがたい、というほどのものではなかった。


「それはきっと、見た目に引っ張られてるんだよ」と、アリソンの心の中を読んだように、コーシャーソルト少年は言った。


 アリソンは一瞬だけ不意を突かれたけれど、実際のところ、コーシャーソルト少年は、アリソンの〝心の中〟そのものなのだ。心の声に応えることくらいは、出来て当たり前のことでしかない。コーシャーソルト少年は続ける。


「ひどく嫌われたものだけど、現実のぼくはもっとこう、歳を取ってて、小汚いんでしょう? その点ぼくはきみよりも背が低いし、じょりじょりした髭も生えてない。すねだってつるつるだし、傷んだ油みたいな臭いだってしない。だからきっと、きみはぼくのことが怖くないんだ」


 アリソンはむっとして反論した。


「わたしは先生なんて怖くない。嫌いなだけよ」


 コーシャーソルト少年は、アリソンの反論を意に介さずに、短く鼻息を吐く。


「まあ、どっちでもいいけど。とにかく、ぼくたちの価値判断は外形に強く影響を受けてるってこと」


「ぼくたち?」と、アリソン。自分はともかく、この少年も少年自身の外見に影響されているということだろうか。それってどういうことだろう? と、アリソンは思った。


「たとえば、ちょうどいい棒を見つけたら振り回したくなるし、そこらを這い回ってるかたつむりを素手で掴み上げたくなる。カエルを追いかけ回して踏み潰したり、それから、地面におしっこで絵を描いてみたくなったり――」


「信じられない!」


 男の子って! と、アリソンは声に出して叫び、コーシャーソルト少年の台詞を強制的に打ち切った。


 アリソンには男の子の友だちは居なかったから、彼の言葉は実に衝撃的だった。子供とはいえ、見る限りコーシャーソルト少年は十歳を超えていて、ものごとの分別もつくはずの年頃なのに、なんて幼稚なのだろう。女の子たちならば、恋や、お砂糖や、その他の素敵な物事について考えている年頃だ。それが、言うに事欠いて、かたつむりと、カエルと、おしっこだって?


「ねえミス・シュリュズベリー。それは男女差別だよ」とコーシャーソルト少年。「木の枝が好きな女の子だってきっと――」

「黙らっしゃい」


 アリソンはにべもなく言い、コーシャーソルト少年はそれに従った。

 アリソンは、はっきりとした発音で、小型犬に言い含めるように、コーシャーソルト少年に宣言した。


「絶対に、わたしの中で、動物を踏み潰したり、おしっこしたり、しないで」


「努力してる」


「約束して」


「わかったよ……」


 話が終わると、コーシャーソルト少年は地図をしまい、木の棒を拾い上げ、それからまた歩き出した。

 アリソンは後ろを歩くあいだ、彼の行動を注意深く監視することにした。彼から目を離すことは、アリソンの精神を〝男の子的なもの〟で不可逆的に汚染される恐れのある、ひどく危険な行為だった。


 無言のまましばらく――夢の中なので、時間の感覚は曖昧だったけれど、かなり長い時間――ふたりは歩いた。何度も辻を曲がり、いい加減アリソンがうんざりした頃、ぽっかりとした広場に出た。

 広場は立木に取り囲まれていて、完全なのように見えた。


「行き止まりじゃない」とアリソンは言った。コーシャーソルト少年が、地図を読み違えでもしたのだろうか。

 小さな煙の魔術師は、アリソンの言葉には答えなかった。答えなかった代わりに、「そろそろだ」とだけ言った。


 彼の言葉を引き金にしたかのように、取り囲む木々の葉が、みるみるうちに真っ赤に色づいていった。夏から秋にかけての季節の移り変わりを、早回しで見ているようだった。ふたりを取り巻く空気の質も、湿り気をどんどんと失ってゆく。


「降り切ったんだ」とコーシャーソルト少年は言った。

 登り切ったじゃなくて? とアリソンは思ったけれど、口には出さなかった。ただならぬ気配に、彼女の身体が、口を開くよりも警戒することを優先したからだ。


「ミス・シュリュズベリー、杖を構えて。深層イドの門番が来る」


 コーシャーソルト少年の声の、最後のほうは耳をつんざく轟音でかき消された。

 頭上から、巨大な、人の手足を持った、白い山羊が降ってきたのだ。

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