本の呪い(3)
◆
そうして、話は戻る。
「ふざけないで」とアリソンは言った。
「校則を破ったわたしが悪いのはわかります。わかっていますとも。……ニナが勝って、はしゃいで、浮かれちゃって、自分でも何であんなことしでかしたのかわからない」
アリソンはまとわりつく煙を振り払うように、首を大きく左右に振った。揺れるはちみつ色の髪の毛に、昼下がりの光が反射して踊る。
「でも、だからって、死ぬとか消えるとか、理解できません。ひょっとして、『退学』とか『落第』の、男の人だけにわかる詩的な表現なの?」
ミスター・コーシャーソルトは顎に手を当て、わざとらしく考えるそぶりを見せたあと、「詩はあまり読まないな」と答えた。
「ふざけないでと言いました」
空とぼけたミスター・コーシャーソルトの態度に辛抱たまらなくなって、アリソンは顔を上げ、きっと彼をにらみつける。
ミスター・コーシャーソルトの言動は、ある特定の種類の人物を的確に苛立たせる不思議な力を持っていた。
「だからふざけてないってば。……まあいいや、ようやくきみと目が合った。今日初めてだ」
やれやれ、というふうにミスター・コーシャーソルトは肩をすくめて、アリソンを諭すように言葉を続けた。
「きみが僕を嫌いなのは十分承知しているし、僕の一挙手一投足が気に入らないのは、まあ、わかる。だけど、話くらいは聞いてみてもいいんじゃあないかな? その後できみが決めればいい。僕の言うことが冗談か、そうでないか」
言うまでも無いけれど、彼のその口調はますますアリソンの神経を逆なでした。「嫌いな人間に諭される」という事象は、自尊心をひどく傷つける。
優しく諭されるよりは口汚く罵られる方がよっぽどましだ。
彼がそのことについて自覚的だったか否かについては知る由もないけれど、わざとだったにしろそうでないにしろ、とにかく彼らしい言葉選びだと言えた。
結果としてアリソンの眉間のしわは雄大な自然が作り上げた深い渓谷のようになっていたし、運悪くそこに居合わせた野生動物たちはみんな谷底に転落して残らず息絶えてしまっていた。
それから彼は机の上で両手の指を組んで、少しだけ身を乗り出す。
「おしゃべりしよう、アリソン・セラエノ・シュリュズベリー。お互いになにか新しい発見があるかも。共通の趣味とか」
「……もし、先生さえよろしければ、必要な、会話だけ、端的に、お願いできますか?」
アリソンは怒鳴り出したい気持ちを必死で押さえて、文節をひとつひとつ区切るように言った。
彼女は公正でありたかった。ミスター・コーシャーソルトは大嫌いだったけれど、校則を破った落ち度は自分にあるのだ。それを棚に上げて私的な嫌悪感を表明するのは彼女の信条に反していたし、多少の辱めは受ける覚悟で研究室に出向いていた。
眉間に刻まれた絶滅の谷は、彼女の忍耐の表れだ。
「オーケイ、端的に、ひとつだけ質問しよう。趣味の話はまた今度だ」
ミスター・コーシャーソルトは言い、新しい煙草に火をつけ、深く吸い込んで吐く。
それから、ひとつの質問を口にした。
「きみ、本を触ったときに、手袋か何かはめていた?」
「手袋?」
「正確に言えば、スパイダー・シルクで出来た、透かし穴が九千個以上あるダニッチ・レースの手袋をはめていた?」
ダニッチ・レース? とアリソンは思った。
ク・リトル・リトル王国ラヴィニア領北部の寒村、ダニッチ村に伝わる魔術的図形を組み込んだレース織りのこと? とアリソンは思った。
それも、レン高原の蜘蛛から一日4ベルスタしか採れない糸で編んだ生地であるスパイダー・シルクを使った? とアリソンは思った。
思ったけれど、アリソンは彼女自身の思考の不自然さには気づくことができなかった。
「ねえ、先生。たかだかいち学生が、そんなもの持ち歩いてると思います? ダニッチ・レースだなんて、わたし、さっきまで知りもしなかったのに」
ミスター・コーシャーソルトは、答えるアリソンの様子を注意深く観察し、右手の人さし指でこめかみを掻いた。ひどく残念そうに首を振り、ため息をつく。
「決まりなんだ」と、ミスター・コーシャーソルトは言った。「あの本に触れるときは、ダニッチの手袋を嵌めていなければならない。でないと、今のきみみたいになってしまうから」
「どういうこと?」とアリソンは聞き返した。ミスター・コーシャーソルトの言わんとしていることが、よくわからなかった。
「……避妊具なんだよ、ダニッチの手袋は。あの本は、生殖する。直接的な接触によって」
「ねえ、先生。言っていることが、よくわからないんです」
ミスター・コーシャーソルトは、アリソンの質問には答えなかった。
代わりに席を立ち、窓際の本棚から自分の魔導百科事典を抜き取り、ぱらぱらとページをめくった。それから適当なところでページをめくるのをやめて、見出しを読み上げる。
「126ページ、従者ウミウシ」
「はあ?」
体長11.8ファウナス、直径4ファウナスほどある軟体の魔法生物。オリアブ島近海に分布し、鋭い歯を持つ。吸盤は水中呼吸薬の原料として使用される。味は淡白で美味。と、アリソンは思った。
「……どういうこと?」
「だから、そういうことだよ」と、ミスター・コーシャーソルトは答える。それからまたぱらぱらとページをめくって、見出しを読み上げた。
「275ページ。
「今度はいったい何なの」
騎士の国の対魔術兵装。生き甲冑とも。
あるはずのない知識が頭の奥底から引っ張り出される感覚は、アリソンの身体を緊張させ、小刻みに震わせる。
「1,579ページ、前頭葉花被性脳症」
「やめて」
理力循環不全によって発症するとされる疾患。俗にお花畑症候群と称される。頭痛、嘔気、四肢の痙攣、被害妄想に伴い、大脳真皮質(とりわけ前頭葉)の花弁様変質が見られる。変質した花弁様器官はリコリスに類似。と、アリソンは思った。
「やめてって言ってるでしょう!」
ひどい
「……いったい、何が起こってるの? 先生」
やっとの思いで絞り出した言葉に、ミスター・コーシャーソルトが答える。
「だからさ、きみはあの本に選ばれたんだよ。新しい原本の母胎にね。そのまま放っておけば、三日後にはきみの脳みそは全部
アリソンが彼の言うことを理解するのには、しばらくの時間を要した。彼女はひどく狼狽していて、混乱していたからだ。
かちかちと鳴る歯の根の音を聞きながら、アリソンは「どうすればいいのだろう」と考えた。けれど恐慌状態の彼女の脳みそは、冴えた答えを彼女に与えてはくれない。
そのうち、ミスター・コーシャーソルトが言った。
「どうすればいいのだろう?」
アリソンが顔を上げると、いつのまにかそばに立っていたミスター・コーシャーソルトはアリソンの顔を覗き込んでいた。
煙の魔術師は、「きみの先生として、僕はどうすべきだろう?」と言った。
長い逡巡ののち、アリソンは言った。
「助けて」
「もちろんだとも」
間を置かず答えた彼の顔には、その日いちばんの、最もチャーミングな笑顔が浮かんでいた。
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