番外編 氏名を擲つ

  強い日差しが白い首筋を焼く。空の桶を置き、明麗は流れる額の汗を袖で拭った。

 厨の水瓶には、まだ半分も水がたまっていない。あと何往復必要だろうかと考えただけでうんざりする。

 冷宮で使用する水は、敷地内に引込まれた小川から調達していた。雷珠山から湧き出る水で、夏でも冷たく澄んでいる。その清流に、明麗は肉刺がつぶれた両手をそっと浸した。

 どうしてこんなことを、とは思わない。米さえ満足に届かない冷宮にいるのは、明麗と口の利けない老女だけである。一杯の水を飲むにも、自分で調達しなければならない。

 とはいえ、笞で打たれた傷が癒え動けるようにまでは、あの老女が明麗の世話をしてくれていた。いつまでも口内に残る苦い薬湯や傷口にしみる膏薬が効いたのか、痛みはもう残っていない。あのつらさに比べれば、慣れない労働でもはるかにましだった。

 明麗は手を冷やすだけでは物足りなくなり、冷水で顔を洗う。さらには裙の裾をたくし上げ、素足を流れにさらした。

 青々と茂る木々の下でせせらぎを聴いていると、ここが冷宮だと忘れてしまいそうになる。けれど、両足の周りに小魚をみつけ、とっさに手を出して空腹を思い出す。

 ざるならどうだろうか。からかうように指の間をすり抜けて泳ぐ魚を捕まえる方法を思案していると、肩を叩かれた。驚いた明麗のつま先が水面から飛び出し、飛沫をあげる。


ようさん。びっくりさせないで」


 振り返ると、冷宮のもうひとりの住人がいた。姚珊は明麗の腕をとり、腰の曲がった老女とは思えぬほどの力で引っ張りあげる。


「痛い! なに? ちょっと待って」


 腕を引かれて歩きながら、筆談に使う木切れを探す。先帝の後宮で宮女として仕えていたという姚珊は、簡単な文字なら理解できる。単純な単語を並べて意思疎通を図った結果、彼女の名前と経歴、そして毒で喉をつぶされたことがわかった。

 その姚珊に理由を問う暇も与えられず、明麗は寝起きに使っている殿舎へと連れ戻された。理由は、扉が開け放たれた房内をみてすぐに判明する。


「皇后さまに拝謁いたします」


 ところどころささくれのある床にひざまずく。


「身体は、もう大丈夫なのね」

「はい。おかげさまをもちまして」


 皇后が冷宮を訪ねてくるのはこれが二度目だ。最初の訪問時は、明麗がまだ床から満足に起き上がれない状態だった。



 深夜、人目を忍んで方颯璉だけを伴いやって来た皇后は、明麗よりもやつれていた。

 ――どうして、もう少し待てなかったの。

 蓮華閣での騒動のあと、諒元と昇陽殿に戻った皇后は、また体調を崩していたらしい。明麗が最初に送ったものとアザロフ語でしたためた書簡は、まとめて封を解かれたそうだ。

 血痕のついた書を読み、急ぎ東宮へ使いを送ったが、明麗の小房はもぬけの殻。捜すうちに騒ぎは大きくなり、東宮門を無断で抜けていたことが発覚した。

 あの血は、毛筆では書きづらいアザロフの文字を綴るために作った竹筆のせいだと告げると、皇后は泣き笑いのように顔を歪めた。

 それから、明麗が知らされていなかった真相を教えられた。

 林文徳は皇太子暗殺には関わっておらず、蓮華閣の事件は、宇愈信が彼を狙っておこしたこと。しかし文徳が、孟志範の筆蹟を偽造した罪を告白し、奪字の刑が科せられたこと。奪われた文字は、彼の名だったこと。

 そして、火災のあと、李宜珀が婚姻を理由に明麗の出宮を願い出ていたと伝えられる。

 このまま冷宮にいるか、父に従い嫁ぐか。どちらかを選べといわれても、明麗は返事ができなかった。

 ――文徳が偽書を? 名を奪われた?

 ままならない身体で牀から抜け出した。裸足で門を目指すが、地に降りるほんのわずかな段差で転んでしまう。

 どこへ行くのか。段上からの皇后の問いに「文徳に逢いたい」と答えた。「後宮から出してくれ」と懇願した。

 当然皇后の返答は「否」だ。正当な理由もなく出宮の許可は出せない。ましてやいまの明麗は、罪人同然だ。ここで特別扱いをすれば、皇后ばかりでなく皇太子も軽んじられる。

 ――でしたら、いっそ殺してください。

 夜目にもうつくしい翡翠色の瞳が、ふざけたことを言うなと剣呑に細められた。その声の鋭さに、自分は言い方を間違えたと気づかされた。

 そうではない。宜珀には、李明麗は死んだと伝えてほしい。家を――李家を捨てるのだと言い直す。

 ――わたくしたちも、捨てるのね。

 皇后は、かすかに笑んで了承した。



 あの夜から今日まで、皇后からはとくに音沙汰はなかった。

 動けるようになると、姚珊は容赦なく明麗に仕事を与えた。水汲みから火の番、掃除に洗濯。これまでの暮らしでは、だれかが代わりにしていてくれたことである。もちろん髻も結えず、おろし髪をただまとめるのが精一杯。短く切ってしまおうかと小刀を手にしていたら、さすがに姚珊に止められた。

 下賜品の米は、冷宮のあちこちに生えている野草でかさを増して薄い粥にする。ときには姚珊が捕まえた魚や小さな鳥を捌くのを手伝った。庭木になる果実はご馳走だ。

 失敗ばかりする明麗は、幾度となく食事を抜かれた。そのたびに明麗の荷物から、釵や腕輪、絹の衣などが減っていく。姚珊はそれらを、不足する品に替えるらしい。

 早朝から日没まで働き、夜は夢をみることもなく泥のように眠る毎日を送っていた。


「先日、李宜珀には明麗が亡くなったと伝えたわ。李家では、空の棺で葬儀が行われたとか。――本当によかったのね」


 これで、李家の系譜からは明麗の名が消されたはずだ。あの宜珀がどこまで皇后の話を信じているか疑問は残るが、葬儀を執り行ったからには、内外に明麗との絶縁を宣言したも同然である。

 李宜珀の娘、明麗は、あの家からいなくなった。


「感謝いたします」

「縁談は流れていたと聞いたわ」

「そうでしたか」

「林文徳は官吏を辞めたそうよ。それでも彼のところへ行くの?」

「はい」


 予想はしていた。たとえ奪字の刑を受けていなくとも、彼ならそうしただろう。

 変わらぬ明麗の決意に、皇后は呆れたように嘆息した。


「あの日から、諒元は雷をひどく怖がるようになってしまったわ。火災の前後をよく覚えていないくらいだもの。よほどの事だったのでしょう。ごめんなさいね。あの子をそんな目に遭わせたあなたたちを、わたくしはまだ赦せないの」

「いいえ。当然のことです」


 明麗は深く頭を下げる。ようやく授かった子を、危険に晒したのだ。何度謝っても足りない。


「でも、諒元が毎日のように訊くのよ。「明麗はいつ迎えに来るの?」って。「文徳でないと書の練習をしない」と駄々をこねるわ。それでもあなたまで、後宮を去るというのね」

「……申しわけ、ございません」


 いま皇后の表情を見てしまったら決心が揺らぎそうな気がして、顔があげられなかった。

 それなのに、皇后のほうから明麗に近づいてくる。ふわりとユリの香が動いて、古びた床と明麗の顔の間に、巻物が差しこまれた。


「あなたといっしょに埋葬してほしいと、博全が届けたものよ」

「兄が?」


 思わずあげた視線が、雷雨に打たれた緑のような瞳と合ってしまう。慌ててそこから目を逸らし、もたつきながら軸の紐を解く。

 なめらかな紙面に現れた、たったひと文字が、明麗の意志を確固たるものにした。


「……わたしも、文徳に逢いたい」



 それからは、川辺で洗濯をしながら、竈に薪をくべながら、明麗は具体的な方法を模索した。

 秘密裏に後宮を脱出することも可能だといわれたが、それでは発覚した場合に皇后が罪に問われかねない。


「お願いしたように、私の話は父だけにしていただけましたか。籍などには、まだ手を加えてはいらっしゃいませんよね」

「ええ。書類上は、李明麗は冷宮にいることになっているわ」


 後宮の名籍にはまだ明麗の名がある。それを合法的に削除しなければならなかった。


「では、後宮の則に流罪を加えることは可能でしょうか」


 後宮で罪を犯した者はその罪状に応じ、笞刑や杖刑などによる体罰のほか、後宮内の穢れ仕事などの労役が課せられることもある。冷宮送りもそのひとつだ。それらが外での流刑に相当するのだが、後宮から放逐されることはなかった。


「流刑。ここから追放するというのね。――どうかしら?」


 皇后は終始険しい顔を崩さない颯璉に、がたつく椅子の上から目をむける。


「これまでも皇后さまは、出宮をお認めになる則などを提案し、陛下もご承認なされました。先だっては、大理寺の決定で宇粛が北に流されております。不可能ではないかと。ですが……」

「なに?」


 逡巡する颯璉を皇后がうながす。いっそう顔をしかめて、颯璉は続けた。


「外に出たいがために、法を犯す者が現れるかもしれません」


 虚を突かれたように何度も瞬きをして、ついに皇后は吹き出した。


「そんなひと、明麗以外にいるかしら?」


 ひとしきり笑ったあと、真顔になる。


「それに、罪を犯してまで出たいと思う場所にしないよう務めるのが、後宮の主たる皇后わたくしの役目でしょう」

「皇后さま。わたしは決して……」


 明麗に最後まで言わせず、皇后は立ちあがった。


「大切なものすべてをなげうってでも貫きたい想いは、わたくしもわかっていたはずなのにね」


 衣擦れが遠ざかるまで裙を握りしめていた明麗が、弾かれたように顔をあげると櫃をあさる。底でみつけた小箱を手に、冷宮の門を出ていこうとする皇后に追いつた。


「こちらをお返しいたします。陛下との大切な思い出の品をいただくわけにはいかないと、永らく林文徳から預かっておりました」


 訝しげに箱を開けて中身を確認した皇后は、そのまま突き返す。


「一度手放した品よ。要らないのなら、売るなり捨てるなりなさい。陛下もそれを望まれるでしょう」


 明麗の手に残された銀のユリが、晩夏の日差しを受けて鈍く光った。



 小川に長く足をつけていられなくなったころ、内々で明麗に「後宮からの追放」の令旨がくだった。

 手に持ちきれるだけの荷物とともに、明麗は皇宮の不浄門の前にいた。高い城壁に設えられた門は、死人や罪人、屎尿などが通る小さなものだ。そこを守る門衛も、心なしか陰鬱とした雰囲気をまとっている。

 明麗は指示された帳面に自分の名を記した。門衛が手元にある文字と見比べる。それは、明麗が入宮時に提出した身上札だった。

 あのとき書いた名前といまの文字。文徳ならば、この五年あまりの間に生じた明麗の変化に気づくかもしれない。それとも、やはり根本的な部分は変わっていないというだろうか。知らず知らずのうちに、くちびるが笑みを象っていた。


「それは?」

「皇后さまが持ち出しをお許しになった私物です。私も確認済みです」


 颯璉から令旨を示され、門衛は明麗の荷に伸ばした手の方向を、扉の鍵に変える。耳障りな音をたてて、門扉が開かれた。


「お行きなさい」


 吹きこんでくる城外からの風に躊躇する明麗を、静かに颯璉がうながす。

 明麗は振り返り、見慣れた甍の波を眺めてから揖礼した。


「颯璉さま。皇后さまと太子殿下のこと、どうぞよろしくお願いいたします」

「あなたに言われるまでもありません」


 颯璉の右眉がひくりと動く。


「はい」


 明麗は無理やりに作った笑顔で応えた。




 【 氏名を擲つ  完 】

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懐璧 浪岡茗子 @daifuku-mochi

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