第四集 牢獄を訪う

 葆国では任官の際、皇帝から『鞠躬尽瘁きっきゅうじんすい』の文字が刻まれた玉佩を賜る。官人としての身分を証明すると同時に、その四字に恥じぬ働きをせよ、との戒めとなるのだ。

 李明麗は、父や兄の腰で揺れる翡翠のおびだまに憧れていた。女人がそれを拝受することはかなわない。理解はしていても、国のため、皇帝のためならば、私を滅し、命も惜しまず尽力するという心積もりで入宮した。その決意はいまでも変わらないはずだ。

 林文徳もまた、その玉珮を賜った官である。彼ならば、皇帝の意向を余すところなくその手蹟にのせることができるだろう。

 頭ではそれを理解しながらも、自分は私を優先しようとしてる。

 丞明じょうめい殿の瑠璃瓦を雨粒が激しく叩く音を耳に、李明麗はくちびるを噛む。


「李女官殿がおいでになったことは、陛下にお伝えしましたので、一度東宮へ戻られてはいかがですか」


 皇帝が執務を行っている殿舎の前で侍従が、目を泳がせる。

 雷雨のなかを駆けてきた明麗の衣はしとどに濡れ、泥の跳ねた裙子がまとわりついて脚の形を顕わにしていた。


「そうね。そうします」


 頭と身体が冷えてくれば、簡単に謁見が許される相手ではないと思い至る。ましてや、このような格好だ。

 肩を落として殿舎に背をむけた明麗は、見知った顔とすれちがう。「報!」と叫ぶ東宮侍衞のただならぬようすにつられて振り返ると、固く閉じていたはずの扉が開いていた。侍従の制止を無視して、彼が落としていく雫をたどる。明麗自身も水滴を滴らせながら進んだ。

 御書房の入口で東宮侍衛が膝をつく。積まれた奏上書に目を通していた皇帝は、静かにそれを閉じた。


「申しあげます! 太子殿下がお倒れになられました。また、蓮華閣にて出火。直ちに消火活動を開始しております」

「殿下……火……」


 報告される言葉を拾った明麗は愕然と東の方角に顔をむけるが、そこには花鳥が描かれた天井しか見えない。次の瞬間には、床を蹴って走り出していた。


 急ぎ戻った東宮は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。 


「太子殿下のお傍を離れ、どこでなにをしていたのです。李明麗」


 ひざまずく明麗を、皇后付きの女官である方颯璉ほうそうれんが叱責する。


「おひとりにしたわけではありません。書房には林東宮史書局長がおりました」

「それが問題となったのがわからないのですか」


 緊張感に包まれる東宮の寝殿で潜められた颯璉の声にさえ、皇后は眉をひそめた。ねだいに横たわる息子の手を祈るように両手で握る。

 太医の診察を受けている間も、諒元は意識を取り戻すことなくうなされていた。

 ――いや。文徳。きらい。こわい。

 荒い呼吸に混じる単語はそう聞こえる。田東宮侍衞長がここまで運ぶ腕の中でも、同じようにうわ言を繰り返していたいたらしい。

 人事不省に陥るほどのなにが、このちいさな身のうえに降りかかったのだろうか。眠りながらも苦悶の表情を浮かべる姿は、見守る者すべての憐憫を誘い、様々な憶測がささやかれる。

 元来の白さを通り越して青ざめた顔は諒元にむけたまま、皇后が明麗を問いただした。


「どこへ行っていたの」


 抑揚のない声に、明麗は深く頭をさげた。


「申しわけございません」

「どこで、なにをしていたの」

「……丞明殿へ。陛下にお目通りを願い出ておりました」

「諒元の件を報せに参ったのではなかったのか」


 田東宮侍衞長に状況の詳細を質していた皇帝が、思い出したように口を挟む。


「……いえ。私事で」


 ごまかしてたところで田赫らに訊ねれば、明麗が蓮華閣を飛び出したのは、騒ぎが起こる前だとすぐに発覚する。とはいえ、本当の理由をここで告げ、あらぬ誤解を生むことは避けたい。結果、言葉を濁す。

 しかしあいまいな答えでは、皇后を説得させられるはずもなかった。


「それは、この子を置き去りにしなければならないようなこと?」


 即答できず、ただ叩頭する明麗のまえに、衣擦れをさせて皇后が立つ。


「この子より大切なこと?」


 ここは、否と言わなければ。太子の命と一文官の人事など、比べるべくもない。けれども明麗の口は動かなかった。


「言えないのなら、しかたがないわね」


 怒りや失望といったものが感じられる嘆息が落とされ、額ずく明麗の頭上を長い袖の袂がかすめた。ほのかな百合の香が離れていく。


「颯璉。この国の、職務を怠った女官への罰を教えてちょうだい」

「その者の不用意な行いにより、太子殿下のご健康が損なわれたとあらば、万死に値します。――しかしながら」

「ご安心なされませ。お怪我ひとつなく、毒にあたられたわけでもございません。おそらくは、ひどくなにかに――火事の炎にでも驚かれたのではないかと。じきにお目を覚まされましょう」


 言葉を引き継ぎあらためて諒元の容態を説明するてい太医令から、颯璉は平伏したままの明麗へと厳しい視線を移す。


「殿下が失心なされたことの因果関係が不明のうちは、笞刑が適当かと存じます」


 冷静に返された刑が思いのほか重かったのか、皇后が小さく息を呑む。それでも、明麗が諒元から目を離した件を不問に付すことはできないのだろう。明麗に背をむけたまま、沙汰を言い渡そうとした。


「そう、笞打ちね。回数は……」


 それを、悲鳴とも泣き声ともつかない叫びが遮った。目を覚ました諒元から発せられたものだ。奇声とともに飛び起き、小さな肩を数回大きく上下させてから、おどおどと視線をさまよわせる。自身を取り囲む大勢のひとに驚き、さらには東宮ここにいるはずのない人物をみつけ、ぼんやりと紗がかかったようだった翠の瞳を見開いた。


「母上と、ち……陛下?」

「諒元!」


 皇后は自らも牀にのり、我が子を腕のなかに閉じこめる。ほどなく、胸にしがみつく諒元から嗚咽が聞えはじめた。


「大丈夫よ。もう大丈夫。母さまがいるわ」


 背中をなでながら耳元でささくように繰り返すと、次第に泣き声は細くなっていく。

 皇帝が長身を折って顔を寄せ尋ねた。


「書房でなにがあった」


 諒元は母の懐からこわばらせた顔をあげ、ふるふると首をふる。


「……わかりま、せん」


 ようやくそれだけ言うとうつむいて、涙の跡がついた顔を隠してしまう。いくら皇后がなだめすかしても、結んだ口を開こうとしない。


「話せぬのか」

「苑輝さま。恐ろしい思いをして、混乱しているのかもしれません。どうかすこし、お時間を与えてやってくださいませ」


 皇后に乞われ、皇帝は目をしばたたかせた。


「そうか。そうだな。――痛むところはないか? 落ち着いたら、しばらく昇陽殿で静養するがよい」


 麦穂色のやわらかな髪が乱れた頭をひと撫でしてから、田赫に向き直る。


「まずは林文徳を大理寺に連れていき、審問させよ」

「はっ」

「お待ちください!」


 床から明麗が声をあげた。

 田赫はいったん足を止め皇帝を振り返ったものの、「行け」と手を振られ、足早に退室していく。

 それを追いかけようと明麗は腰を浮かすが思い留まり、居住いを正した。

 東宮に戻ったときに、文徳の無事は伝え聞いている。火が出た蓮華閣から太子を抱えて出てきた彼が、罪人のような扱いを受けることに納得がいかない。


「ご無礼を承知でおうかがいいたします。なぜ林東宮史書局が捕らえられるのでしょうか」


 自分の事を棚上げした明麗の訴えを聞いて動いたのは、諒元だった。皇后の腕をほどいて、牀から転がるようにおりる。明麗に駆け寄り、揃えた膝の前に両手をついた。


「太子殿下……」

「文徳が打たれるの? 悪いこと、したの?」

「これよりそれを詮議するのだ」


 重々しい声音で返す父を、目に涙を溜めた諒元が仰ぎ見る。

 少々困り顔の皇帝も腰を落とし、諒元と目線をあわせた。


「林文徳が調べに偽りなく応じ、無罪であることがあきらかになれば、打たれることもない」

「せんぎ? むざい? ……よくわからないけど、文徳はわるくない……と、おもいます」

 幼い諒元には耳馴れぬ言葉を懸命に自分のなかで噛み砕き、たどたどしいながらも師を弁護する。

 たまらず明麗も身を乗り出した。


「殿下のおっしゃるとおりです! 文徳が罪を犯すはずありません」


 皇帝が目を眇める。


「諒元はなにが起きたのかわからないと言う。ならば、林文徳に訊くよりほかあるまい」

「それでしたら、東宮ここでよろしいのでは!?」

「控えよ」


 食いさがる明麗を、静かだが険しい皇帝の声が制した。

 皇后の寵に、皇帝の寛大さに、思いあがっていたのだ。首筋に寒気が走り、明麗は低頭する。


「書房が燃え、太子が倒れた。たとえ罪はなくとも責任は生ずる。それは李明麗、そなたも同様」


 諒元を抱きあげると、皇帝は皇后に手を差し伸べた。


「昇陽殿に戻ろう。百合にも休養が必要だ」


 皇后はおぼつかない足取りで進み、伏した明麗には一瞥も与えることなく、倒れこむように夫の手をとった。


 その後明麗は、罰として雨が止んだ東宮殿前庭の石畳に、日が沈みきるまで跪いた。

 さらには、皇宮の西――内廷やその先の後宮へと通じる宮門の通行証である腰牌の返却を余儀なくされる。これでもう、皇帝に直談判しに行くなどという蛮行は不可能となった。諒元が母親のもとにいるいま、明麗は実質的に東宮で謹慎しているようなものである。

 東宮府の至るところに見張りの兵が配置され、不要な出入りを禁じられていた。とくに現場となった蓮華閣などは厳重な監視下に置かれ、建物に近づくこともできない。

 そこで明麗は、軽率な行動と数々の非礼を詫び、赦しを乞う文を皇后に宛てて書いた。終日東宮門に張りこんで返事を待つかたわら、前を通る宮女や官人を片っ端から呼び止めて、なかば強引に話を聞き出した。それでも思うような情報は得られない。

 かろうじて、蓮華閣は小火ですんだことと、連行された文徳が翌日になっても東宮に出仕していないことがわかった。大理寺の獄に繋がれているのではないかと噂する者もいる。

 過失による小火の聴取りに、それほど時がかかるものだろうか。気を揉むことしかできない自分が、もどかしく恨めしい。これならば、笞刑と引き換えにしてでも腰牌を死守したほうがよかったのではないかなどと考えるのは、明麗がその凄惨さを知らないだからだ。

 門衛に迷惑がられながら日が落ちるまで門前に居座っても、なにも収穫が得られずに東宮の寝殿にあたえられた小房に戻り、膝頭をさする日が続く。

 歯がゆい思いを抱えて過ごしていた明麗のもとに届いた報せは、少々意外なところからだった。


「明麗殿に来ていただいて助かりました。西域の言葉には明るくないので困っていたんです」


 工部の官庁を出ると、りゅう子喆してつが仰々しく揖礼した。


「ご謙遜を。わたしなど必要ないくらい流暢に、あちらの職人と話されていたではありませんか」

「世間話の範疇です。さすがに昨日の今日で、建築の専門用語までは無理でしたよ」


 無愛想な明麗の返しにも、そつのない微笑みを浮かべて応える。怪しげな壺でも薦められれば購入してしまいそうな顔立ちだが、その腹の中では金勘定しかしていないことを、明麗は知っていた。

 皇帝は思悠宮の改築に際し、皇后の母国より設計や施工にかかわる職人らを呼び寄せた。彼らとの話合いの場に同席していた通詞が、この度父親の喪に服すことになったそうだ。アザロフ側とと取り交わした滞在期間の問題もあり、明麗が呼び出されたのである。

 それにしても、ほかに言葉のわかる者が、外交を担当する鴻臚寺にいないとは考え難い。少々不審に思いつつも、東宮から身動きが取れずにいるよりはるかに良いと出向いてみれば、いささかの因縁をもつ柳子喆が待っていた。


「あの者たちと懇意になって、西への販路でも開拓するおつもりですか」

「なるほど。東の島国の品などは人気が出そうですね。それも大変興味深い話ですが……」


 子喆は北東の方角を見はるかす。


「先だって東宮で火災があり、太子殿下も被害に遭われたと耳にしました。なにがあったのですか」

「あなたが知る必要のないことです」


 突き放すと、子喆は苦笑いで肩をすくめ、不躾に明麗を眺めまわす。


「しかし明麗殿にお怪我がなくてよかった。未来の義姉上になにかあったらと、心配していたのですよ」


 殊勝に安堵のため息をこぼしてみせるが、案じているのは兄嫁としての価値だ。この男は、初対面から明麗を商品扱いする。

 身から出た錆とは言え皇帝の不興を買い、懲罰を受けたと告げれば、あちらから破断を申し出るのではないだろうか、などという考えが浮かぶ。とはいえ、軽々しく後宮の事情を教えるわけにもいかない。

 結果として不愉快な思いが増しただけの明麗は、八つ当たり気味に柳眉を逆立てた。


「――そもそも縁談は、先日お会いした際にお断りしたはずです。ご実家に伝えてくださったのではないのですか」

「書簡は送りましたよ。李家のご令嬢が鴻臚寺に乗りこんできた、と。ですが、決めるのは家長である父や当事者の兄で、私ではありませんから」

「でしたら、当事者であるわたしがと言っている限り、あり得ません」


 ふいと顔をそむけ、子喆を追い抜く。

 その後ろ姿に、子喆は再度胸の前で手を重ねて礼をした。


「では、私はこちらで失礼いたします」


 ただの挨拶のはずだが、どうにも言い方が引っかかる。明麗は振り返り、すでに反対の方向へ歩き始めていた子喆を呼び止めた。


「鴻臚寺はそちらではありませんが」


 鴻臚寺は工部の庁舎から南へくだった、皇城の南大門の手前だ。ところが子喆は、通りを西に進もうとしている。


「別件で、大理寺の獄に所用がございまして」


 肩越しに見せた横顔の口の端を、思わせぶりにあげる。

 官服の領首えりくびを掴みそうになった右手と大声を必死に抑え、明麗は精一杯の笑みを作って小首をかしげた。


「差し支えなければ、用件をうかがっても?」

「あなたには関係のないことです」


 予想どおりの返答に頬を引きつらせる。

 その明麗の反応を愉しむかのように十分な溜めをとってから、子喆はゆっくり間合いを詰めてきた。


「ああ、そうでした。明麗殿は、アザロフ語のほかに使える西方の言葉はあるのでしょうか」

「葆と境を接する国々と、アザロフ王国周辺の数カ国でしたら。世間話程度ですが」


 心持ち頤をあげた。王女として他国に嫁ぐ運命さだめを背負っていた皇后より、直々に教えてもらった言語もある。


「それはすばらしい! ぜひとも大理寺までご同行いただき、力をお借りしたい」


 子喆は芝居がかった口調で明麗の語学力を称賛したあとに、くたりと眉尻を下げる。


「ですが、お忙しい太子付きの女官殿を、こちらの都合で連れ回すわけにもいきませんね。残念ですがあきらめましょう」


 慌てた明麗は、くるりと踵を返した子喆の前に回りこみ、両手を広げて立ち塞がった。


「鴻臚寺からのたっての依頼を、お断りするわけにもまいりません。さあ、急ぎましょう!」

「よろしいのですか? 東宮へお帰りにならなくても」

「もちろん戻ります。行き帰りの道順まで指定されたわけではないのだから、少し遠回りをして帰ると思えばいいわ」


 大理寺は東宮とは真逆の方角にある。明麗は強引な言い訳を口にすると皇城の西に進路を定め、子喆の袖を引いて歩き始めた。

 囚われている異国人の罪状は、無銭飲食だという。そのような微罪でなにゆえに皇城の大理寺の牢にいるのか。獄吏は案内しながらぼそぼそと説明した。

 捕吏が捕らえたはいいが話は全く通じず、金銭はもちろん、身元をあきらかにするものも一切所持していない。数回杖打ちして放免という案も出たが、万が一にも他国の間諜だった場合、自分たちの責任問題に発展する。扱いあぐねた末、こちらに送られてきたのだ。

 しかし大理寺にもその男の言葉を解する者がおらず鴻臚寺に助け船を求めた。そう決まり悪そうに話し、獄吏は手にした灯りを掲げる。

 暗い廊下に明麗の緊張した白い顔が浮かんだ。


「本当にそちらの女官様も牢へ行かれるんで? 若いお嬢さんのお目にかけるようなものではございませんが」


 どこの国の言葉ともわからないのでは己の手に余るかもしれないから、と鴻臚寺の官吏である子喆から説明を受けたが、いかにも良家の娘という風情の明麗だったのだ。獄吏が訝しむのも当然だろう。


「女官とはいえ、わたしも国に仕える身です。務めとあらば、どのような場所へも赴きましょう」


 変わらぬ意志を確認すると、獄吏は腰の鍵を使い、ひときわ厳重に施錠された扉を開けた。とたんに不快な臭いや音が、逃げ場を求めるように来訪者を襲う。明麗は思わずそむけた顔を袖で覆うがすぐに下げ、薄暗い牢獄に目を凝らした。


「ぶん……」

「熊のような大男でして、気安く外には出せんのですよ」


 気が逸る明麗を堪えさせたのは、獄吏の陰鬱な声だった。彼は、出入口に近い牢房のひとつを手燭で示す。すると、怒濤のような声が牢獄全体に響き渡る。

 明麗と子喆は顔を見合わせた。


「これは……」

陌沙はくさ国の言葉のようですね」


 明麗はうなずくと、声のする牢房へ近づく。夏も近いというのに、足もとから冷気がのぼってくるようだ。

 牢の格子を大きな手で掴み、獄吏に向けてわめき散らしている男を確認する。一間半四方ほどの独房が窮屈に感じる巨躯。赤茶けた短い巻き髪、獄吏がむけた灯りが作る陰影で彫りの深さが強調された顔立ちは、あきらかに葆人のものではない。書物で読んだ、永菻からはるか西南に位置する陌沙に住む人々の特徴と一致していた。


「おそらく、時を知りたいと言っているのでしょう」

「は? 時、ですか」


 大声に負けないように伝えると、獄吏は明麗に場所を譲る。


『あなたの、名前は? どこから、来たの?』


 一語一語区切りながら陌沙語で話しかける。

 男は突然現れた明麗に目をみはり、その口から発せられる音に耳を澄ますと、格子に顔を押しつけた。

 唾を飛ばしながらまくしたてられて、たまらずに一歩退く。


『お願い。もっと、ゆっくり話して。――ファト?』


 どうにか聞き取れた、男の名前らしい単語で呼びかけてみる。すると彼はその場で膝をつき、組んだ両手を低い天井に向けて突きあげ涙を流した。


「では、祈祷のために日の出、正午、日の入り、正子を教えろと、叫んでいたのですね」

「それから方角。一杯の清らかな水も必要だそうです」


 窓とも呼べぬ換気孔しかない牢房では、一日たりとて欠かすことが赦されない彼らの神への祈りを正しく捧げられない、と訴えていたのだ。

 子喆との共同作業によりファトから訊きだした情報を伝えたところ、獄吏は苦々しげに舌打ちした。


「そんな要求が通ると思っているのか」

「まあ、そうおっしゃらず。身元を保証できる人物もみつかりそうですし、彼の荷を

盗んだのは葆の民のようです。外交の面でもここはひとつ、我が国の度量の大きなところを示しておいたほうがよろしいのではありませんか」

「そういわれましても……」


 子喆が商談をまとめるように言を並べていくが、獄吏の態度は煮えきらない。

 そこで明麗は、唯一の出入り口を指差した。桜色の爪をもつ人差し指を小刻みに震わせる。


「鍵をかけてあるのに、あの扉を叩く音が聞こえたことはありませんか」

「え?」

「無人の牢房の隅に、影を見たことは?」

「な、なんなんです。いきなり……」


 動揺をみせた獄吏がもつ手燭から、ろうそくの火が消えた。

 一段闇を深めた牢獄に、声が吸い込まれていく。 


「礼拝を怠ると彼への神の守護が弱まり、悪鬼に取り憑かれることもあるとか。ここは特にが集まりやすいと言っています。もしあの大きな身体が、人ならざるモノに乗っ取られたらと思うと……」


 涙声を震わせて語り、両手で顔を覆う。その下で明麗は、こっそりと口の端をあげていた。

 子喆はすっかり腰の引けた獄吏の片手をとり、両方の手で包む。


「どうでしょう。素性があきらかになるまでのほんの数日、彼の要望に応えてはいただけませんか」


 子喆が手を離しても、獄吏の左手はしかと握られたままだ。拳を少しだけ開き、中を確かめるように目を細めてから、もぞもぞと口を動かす。


「……まあ、何日かなら」

「鴻臚寺を代表して感謝します。となれば、そろそろ日没が近いのではありませんか。水を用意しないと! 私どもは、いま少し彼から詳細な経緯を訊いておきますので、どうぞおかまいなく」


 自分より高位の者に頭を下げられて、気を好くもしたのだろう。獄吏は火を点けなおした手燭を子喆に渡すと、急ぎ足で出ていった。

 その間に明麗は、十以上ある牢房のひとつひとつを覗いてまわる。場違いな娘の登場に、下衆な言葉を投げる囚人もいたが、気にしてなどいられない。それに大半は床に転がり、息をするのがやっとという状態だ。

 見つからない焦りと、ここに居てほしくないとの願いが錯綜するなかで、ついに林文徳が収監された最奥の牢房にたどり着いた。

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