第六集 罪過を問う
身体全体に伝わる振動が変化する。それまでは不快ながらも規則的なものだったが、上下左右の区別なく伝わる揺れはいっそう大きくなった。石畳で舗装された道から、閑道へと入ったのだろう。
ほどなく、耳の奥まで直に響いていた車輪の音が消え、振動も止んだ。
「この奥で待っているはずです」
息を殺し、耳を澄ませなければ聞えないほどの小声が去っていく。ゆっくり十を数え、李明麗は身を起こした。荷車の荷台の前板に貼りつくように縮こめていた身体は、緊張もあってこわばっている。いつもより多い紙くずの山を、門衞が疑う可能性は想定していた。あらかじめいつも点検する場所を教えられてはいたが、いざ目の前に棍を突き入れられたときには悲鳴を呑みこむのに苦心した。
荷車の荷台を覆う布の隙間から明麗は顔を出し、清涼な空気を吸い込んだ。
葆の
紙くずを山と積んだ荷車が停まっていたのは、集積場へと続く小道の中ほどだった。
荷台から降りると、自身を埋めるために東宮府中からかき集めた紙くずがはらはらと落ちる。髪に、衣に、いくつもの紙片をつけたまま、明麗は木立のなかに入っていったはずの宇粛のあとを追った。
「兄さん! どうしてあんな物を渡したの?」
姿をみつけるより先に、宇粛の悲痛な声が届く。彼女はこの閑道で、環魂院で働く兄
ぎりぎりまでふたりに近づいた明麗は、大木の陰に身を寄せ聞き耳を立てる。
「東宮で火事があったんだろう。それで、どうなった!?」
妹の腕を引き寄せ周囲を警戒する、宇愈信の表情にも声にも余裕がない。
「危うく太子殿下が火災に巻き込まれるところだったのよ。兄さんは、これまでより明るいろうそくの試作品だと言ったじゃない」
反対に宇粛が兄の肩をつかんで揺さぶる。宇愈信の顔が真っ青になった。
「太子が? おれは、林文徳の房に使えと……」
「そうよ。蓮華閣の書房の枝燈に使ったわ。そうしたら、殿下がいらっしゃるときに火事になった! きっと、あのろうそくのせいよ」
出火を招いたばかりか、皇太子を危険な目に遭わせた罪の重さに、宇粛は池の畔で怯えていたのだ。そしてその原因を作ったのは兄だと、泣きながら明麗に告白した。
もし宇愈信にだれかを害する目的があったとすれば、それは間違いなく重罪だ。しかし宇粛から話を訊いた限りでは、事故の可能性も捨てきれない。故意と不可抗力とでは、問われる罪も変わってくる。だから明麗は、真相を確かめるため荷車に潜んだ。
「ねえ、兄さん。自首しましょう。ろうそくは失敗作で、火事を起こすつもりではなかったのよね?」
「……林文徳はどうしてる」
「え?」
「死人が出たという噂は聞いていないけど、大火傷や怪我をしたとか?」
「林東宮書史局長はご無事よ。けど、大理寺に連行されたまま戻られないの」
宇粛が文徳の身を案じる。ところが、その兄は真逆の反応を示した。
「じゃあ、あいつは付け火で投獄されのたか! そいつはいい。あんなやつ、そのまま死罪になればいいんだ」
ついさきほどまで青ざめていたのが別人のようだ。周囲をはばかることもせず喜色を浮かべたあと、聞捨てならない言葉を吐く。宇愈信の狙いが林文徳にあったことは明白だった。
これ以上黙っていられなくなった明麗は、ふたりの前に姿をみせる。
「それはどういうことか、話してもらえるかしら」
「李明麗さま? なんでここに……。粛、おまえ!」
宇愈信は突然ひとが現れたことに驚きはしたが、明麗の素性を知っていた。妹に咎めるような視線を向ける。
「あなたは、文徳が無実の罪に問われてもかまわないと思っているのね。そもそも、ろうそくの細工は彼を狙ったものなのでしょう?」
推測があたった喜びなどもちろんない。明麗の胸に湧きあがってくるのは、疑問と怒りばかりだ。激しい剣幕で詰め寄ると、宇愈信は一転して怯えたように目を伏せた。
ふと、その表情に既視感を覚える。
「わたし、あなたと会ったことがあるわ」
いつ、どこでだったか。思い出そうとする明麗は、無意識に鬢を指先で梳く。髪に絡んでいた紙片がはらはらと落ちていった。
「そうよ! 志範兄さまに会ったとき、荷車を曳いていた男の子!」
まだ入宮したばかりのころ。皇城内で道に迷っていた明麗は、以前李家の書生だった
思い起こせば、宇粛経由で志範から判じ絵のような牡丹の画を受け取ったことがある。広大な皇城で繋がった線の、どこまでが偶然だったのか。その後に判明した事件に回想がおよぶと、苦い思いが胸に広がっていく。
「志範……さまって、奴婢時代、兄さんによくしてくれたっていう官吏でしょう」
宇粛もこの繋がりを知らなかったようだ。
「おれは孟志範さまに、あちこちの官庁から出された反故を渡していたんだ。だって、どうせ溶かして漉き直されるごみじゃないか。それを食い物に換えてなにがいけない!?」
問題しかなかった。再生されるべき資源を横領しただけではない。志範はそこから筆蹟を盗んでいたのだ。
明麗はため息をついて首を左右にふった。いまは、過ぎたことにかかずらっている場合ではない。
「文徳たちが志範兄さまの罪を暴いたから恨んでいるの? それとも父親のほう? どちらにせよ、それは逆恨みというものよ」
いまにも暴走しそうな感情を抑えていうと、宇粛が目を見開いた。
「父のこと、ご存じだったのですか」
「宇姓とあなたが後宮に来た時期を考えれば無関係とは思えないわ。けれど、父親が罪に問われたとはいえ、宇粛自身は皇后さまに含むところがあるようにはみえなかった」
皇后が后候補として葆国へ来たことで公金横領の発覚を恐れた官吏たちが、この婚姻の破談にするために呪詛や暗殺未遂を起こす事件があった。宇粛たちの父
「もちろんです! 己の境遇に嘆きはしましたけど、皇后さまをお恨み申しあげたことなどありません」
「ええ、わかってる。それは、太子殿下や文徳に対しても同じだってことも。でも――」
宇粛が官奴婢となった経緯は、後宮で彼女と出合ったのちに調べた。明麗はそれを承知で、むしろ、だからこそ東宮へ連れてきたのである。
文徳を陥れようとする者の存在を考えたとき、宇粛を思い浮かべなかったわけではないが、まさかという思いのほうが強かった。
後宮の外にいる兄にまで考えが至らなかったのは、明麗の落ち度だ。薄いくちびるを噛む宇愈信の顔からも、妹とは違う想いを抱いていたのは一目瞭然だった。
「とにかく。宇愈信には、正直にろうそくの件を申し出てもらうわ」
「ま、待ってください! 兄は、私たちはどうなるんですか」
宇粛が明麗の袖にすがりつく。これだけ事が大きくなったからには、相応の刑罰が下ることは避けられない。
「それは……。最悪の事態にならないよう、わたしもできる限り力になるから」
かく言う明麗とて、処分を受けたばかりの身だ。それを知っている宇粛は、まさに最悪の結果を想像したのだろう。絹を裂くような悲鳴をあげる。
「見逃していただくわけにはいきませんか」
「罪は償わなくては。それに、文徳をあのままにはしておけないの」
目の前で宇粛が涙を流しているにもかかわらず、明麗の眼裏には傷だらけの文徳が浮かんだ。さらなる拷問を受けているかもしれない。それに耐えられず、冤罪を受け入れてしまったら。考えただけで粟立つ自分の両腕をかき抱いた。
それを嘲るように、宇愈信がふっと息をもらす。
「償うのは林文徳だ。お嬢さまは、あいつに騙されているんですよ。志範さまもそう言ってた。李明麗さまは国母となるべきお方なのに、林文徳が邪魔をしているって」
「そんな、ばかげた話を真に受けたの?」
李家への忠義心のあまり、志範が盲目的なまでに明麗を皇后にと考えていたことは感づいていた。いや、知っていた。その想いもあって、皇后への呪詛に手を貸したのだろうということにも。
入宮を果たしたにもかかわらず、いっこうに明麗は妃にならない。そこで、親しげにする文徳との仲を勘繰った志範が、宇愈信に空言を吹き込んだのだろうか。
思いこみの激しさに戸惑いを隠せずにいる明麗に、なおも宇愈信は言い重ねる。
「あの男は大罪人だ」
「いい加減にして! 文徳がどんな罪を犯したというの?」
明麗の大声に、下草を踏むいくつもの足音が重なって聞こえた。三人が息を呑んで首を向けると、鎧を着込んだ禁軍の兵士のひとりが声をあげた。
高い城壁に囲まれた皇城に、逃げる場所などあるはずもない。兵士らは、ゆっくりと間合いを詰めてくる。宇粛が呆然と膝をついた。
それぞれの顔貌がはっきりと見てとれるまでの距離になると、宇愈信は意を決したように顔をあげ大きく息を吸う。屈強な男たちの手が彼の腕にかかる寸前、それのすべてを声にして吐き出す。
「林文徳は、偽書を使って陛下を謀った大罪人だ!」
ざわっと、葉擦れの音だけが木立の間を抜けていった。
自分は激しく考え違いをしていたようだ。それがわかったのだから、この経験も無駄ではない。明麗がそう思えるようになるには、もう少し時が必要だろう。それでも、文徳が受けた苦痛には共感できた、と前向きに捉えことにした。
背中は直火で炙られたように熱いというのに、手足はひどく冷たく悪寒が走る。しかし
門符を持たずに東宮府の門外に出た咎で、明麗には笞刑が科せられた。手助けした宇粛も共犯だといわれ、その笞も自分が受けると息巻いてみたものの、十を数える前に意識を手放した。最終的にいくつ打たれたのか明麗は覚えていないが、おそらくは手加減されている。求刑どおりの回数が執行されていれば、すでに明麗はこの世にいなかったはずだ。
もうけっして、打たれるほうがましなどとは思うまい。
明麗が東宮に連れ戻されたあと、宇兄妹がどうなったのか、文徳はどうしているのか、何日経っているのかさえ定かではなかった。
ふたたびうつらうつらしていたらしい。扉や窓の破れからもれていた陽光が消え、油灯がひとつだけともる房内は夜の闇に包まれている。失神しているうちに運ばれてきたここが自分の房でないことはたしかなのだが、明麗の記憶にはない場所だ。
喉の渇きを覚え、痛みをこらえてうつ伏せ寝の頭を持ちあげる。茶壺がのる小卓には、牀から出なければ指先も届かない。だれかが来るまで待つか、悩んだのはほんの一時だった。そろりと身体を起こすと、背にかけられていただけの内衣が滑り落ちる。上半身は胸を覆う抹胸のみとなったが、絶え間なく襲う痛みに構ってなどいられない。顔をしかめながら、両足を床におろした。
牀の支柱を頼りに立ちあがる。右足を先に、続いて左足を一歩前につく。とたん膝から力が失われ、明麗の身体がかしぐ。とっさに手を伸ばした小卓ごと床に転がる派手な音が、夜陰に響いた。
痛みはもちろんだが、茶壺が割れてしまったことがつらい。床に広がる水を恨めしげに見た。
息を整えると、新たな水を求めて身体を引きずる。やっとの思いでたどり着いた扉に閂はなく、軋む音を大きくたてながら開いた。
「ここは……」
灯籠ひとつ灯らない荒れ果てた
罪を犯した妃嬪が幽閉されるという冷宮である。その妃嬪の世話や、殿舎を維持するためという名目で配される女官や宮女もまた、それ相応の者たちだ。そこでは最低限の衣食住さえ保証されない。ゆえに後宮の掃き溜めとも呼ばれ、恐れられていた。
明麗は、冷宮に送られたという現状に長嘆息する。そして、顔をあげた。
今帝の後宮に該当する妃嬪はいないはずだが、入れられた宮女なら存在するかもしれない。少なくとも、明麗の房に茶壺を置き、灯りを点けた者はいる。
「だれ、か」
かすれた声で、さまざまな噂をもついわくつきの宮殿に呼び掛けた。すると伸び放題の雑草の向こうに、ぽつりと灯火が現れた。ゆらゆらと揺れながら、炎は徐々に近づいてくる。
手燭をもっているのは、腰が大きく曲がった見知らぬ老女だ。片足を引きずりゆっくりと歩く。明麗のもとまでくると彼女の姿を照らし、垂れ下がった目蓋のしたの目を細めた。
「お水が飲みたいのだけど」
あやかしや幽鬼の類いではなさそうだが、訝しげに首をひねるだけで返答がない。
「水場を教えてくれるだけでもいいわ」
あまりに遠くだと体力の自信がないが、このままでは渇き死にそうだった。
咳きこむ明麗の脇を抜けて房内に入った老女は、倒れた小卓を戻し、割れた茶壺の破片を拾う。
「……ごめんなさい。割ってしまったの」
手にした破片を突きつけられて謝った。しかしそれは、明麗の小房で使用していた茶器だ。李家から送られてきた品で、なめらかな手触りが気に入っていた。明麗とともに身の回りの物も運びこまれているのかもしれない。
「う……あ……」
はじめて老女の口から発せられた音は、言葉にはなっていなかった。
「もしかして、耳が?」
独り言のような明麗の言葉には首を横にふる。聞えてはいても、話すことができないらしい。筆談するにも書道具がどこにあるのかもわからない。そもそも、くたびれた宮女服をまとうこの老女が、文字を解するのかも疑わしかった。
意思疎通の方法に思い悩む明麗に、老女は集めた破片を手巾に包んでから牀を指さした。
「寝ろ、というの?」
白髪の頭を縦にうなずくと、手燭とともにまた夜闇の中へ消えていく。
しかたなく、這い出てきたのと同じだけの時間をかけて牀に戻ると、力尽きた明麗はそのまま目を閉じてしまった。
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