第七集 筆蹟を偽る

 錠前が外される金属音で、文徳は目を覚ました。腫れぼったい目蓋をこじ開けて格子に目をこらす。しかし戸は開いていない。続いて、例の異国の言葉が牢獄中に反響した。

 ――自分の牢房ではなかったのか。

 効果がないとしたのか、ここ数日は拷問を伴う審問はやんでいた。それでも痛めつけられた身体は、まだ回復には至らない。林文徳は少しでも体力の温存を図ろうとまた目を閉じた。が、妙に目が冴えて眠れなくなってしまった。

 軋む身体をゆっくりと起こし、懐に入れた手巾を取り出す。折りたたんだそれを広げると、さらに小さく折った紙片が現れた。数日前に配られた饅頭のなかに入っていたものだ。そこにはひと言『尊翁平安』とだけある。養父である周楽文の無事を知らせるものだった。

 使われたのは、官庁ではどこででも手に入る官製紙。見知らぬ筆蹟だが、おそらく偽の情報ではないだろう。ただ、送り主がわからない。楽文がだれかに頼んだのだろうか。

 薄暗いなか、文徳は行書で書かれたちいさな文字を注視した。

 無駄を省いた効率的な筆運びをしている。かといって、草書ほどは崩されてはいない。速く、なおかつ他人にも読みやすくしたためることができそうだ。芸術性を重視しがちな貴族たちには、あまりみられない手蹟だった。

 右手の薬指で、石の床のうえにこの文字を再現してみる。紙も筆も、棒切れ一本さえないここに来てから幾度となく繰り返してきた行為で、すでに人差し指と中指の皮は擦りむけてしまっていた。

 何度も書いているうちに、薬指の先も同じように血が滲みはじめる。ちりちりと痛むその指先に息を吹きかけていて、ふいに気づいた。


「商人の手蹟だ」


 戦災孤児だった文徳は、自分が酒舗で働いていた当時を思い返す。注文取りの際など、早口の客に対応するには速さが求められる。しかし、店には書に明るくない使用人がいる場合も少なくない。そのために、自然とこのような書体になったのではないか。


「……商人かあ」


 会ったこともない名が浮かんだ頭を抱えた。

 饅頭を受け取った日を前後して、配られる食事の質があきらかに改善されている。ほかの牢房からも歓喜の声があがっていたので監査でも入ったのかと思っていたが、あれは明麗が訪ねてきたあとからだ。彼女が関わっているに違いないが、生家と後宮しか知らない女官に、獄吏との交渉などできるわけがない。

 そうなると、縁談相手の弟だという商家の柳なにがしが間に入っている可能性にたどりつく。


「話が進んでいるのかな」


 紙片を手の中でくしゃりと丸め、低い天井を仰いだ。


 大声の異国人はあのまま出獄したようですっかり静かになったほかは、これといった進展はなかった。

 だから文徳は、今日も同じように連れて行かれ、同じようなことを訊かれて、同じ答えを返すのだと思っていた。ところが先導する獄吏は、いつも取り調べを受ける小房を通り過ぎてしまう。


「あれ?」


 思わず疑問が口をついて出るが、舌打ちが聞えたので黙って従った。

 久しぶりに浴びる日の光にめまいさえ覚えながら歩き、ほどなく到着したのは明るい広間だ。真正面には、公孫こうそん大理寺卿が着座している。高齢ゆえにあまり出仕していないと耳にしていたが、ぴんと伸びた背筋はまだまだかくしゃくとしたようすである。これまで取り調べをしていた法官は、と首を巡らせると書記官の並びにみつけた。さらには意外な人物と目が合う。

 傷だらけの文徳の姿を見留めると、肘掛けつきの椅子に座す皇帝は険しく顔をしかめた。


「なにをつっ立ている。陛下の御前であるぞ」


 呆然と立ち尽くす文徳の背が押され、転ぶように膝をつく。そのうえ頭を押さえつけられた。


「やめよ。そのようにしては礼でない」


 鋭い皇帝のひと言で、後頭部に感じる圧がさっとなくなった。

 文徳は座りなおし、あらためて自らの意思で拝跪する。文徳に遅れてやって来た者が、一間ほど間隔をあけたその横で同じく平身低頭した。


「揃ったようなので、はじめてもよろしいですかな」

わたしは証人の一人としてきた。この場はすべて大理寺卿の進行に任せよう。そなたらも気遣いは無用。ありのままを証言するように」


 免礼を命じる皇帝に謝辞を述べから、文徳は身を起こした。


「まずは東宮書史局長、林文徳。その者を知っておるかな?」


 大理寺の長とは思えぬほどやわらかな物言いだ。少しだけ緊張が解けて、隣を見る。二十に届くかどうかという年齢の青年の横顔があった。彼も責めを受けたのか、目の周りにはまだ新しい痣があり痛々しい。


「存じません」

「と申しておるが。環魂院工人、宇愈信よ」

「……面識は、ありません。でも、妹から、話は聞いています」


 青年はうつむいたまま、小声で答える。


「もしかして、宇粛のお兄さん?」


 文徳はいやな予感がした。仕掛けがあったろうそくというのは、火事がおきる少し前に宇粛が交換しておくと言った場所だったからだ。まじめで気弱な彼女に疑いがむけられぬよう、担当の法官には告げずにいたのだが、こうして兄が隣にいるからには、無関係ではないのだろう。

 大理寺卿が、物語のように手もとの調書を読みあげた。


「顔も知らぬ林文徳に恨みを抱いた宇愈信は、自ら細工したろうそくを用いて火災を起こし、殺害もしくは重傷を負わせることを企てた。しかし運悪く、居合わせた太子殿下までもが被害に遭われた。これに相違ないか」

「え? ちょっと待ってください。殿下ではなく、僕を!?」


 先日剛燕から聞いた話もあり、当然目的は皇太子暗殺だと思いこんでいた文徳は、あかされた真相に驚愕する。なぜ、どうして。困惑を浮かべた顔を、宇愈信にむけた。


「殿下がごいっしょだなんて知らなかったんです! ただ――」


 うなだれたまま、宇愈信は目玉だけを動かして文徳をにらみつける。


「林文徳のいるところに火が点けば、と」


 宇愈信の予想より火花が少なかったのは、独学で作った硝薬がうまくなかったのか。あるいは雷雨による湿気が関係していたのかもしれない。文徳はもちろん、宇愈信にとっても、それは不幸中の幸いといえるだろう。


「あくまでも狙いは、林文徳ひとりだったとのことだな。なにゆえ、かような凶行に及んだ。その理由を陳べてみよ」


 大理寺卿は長卓に身を乗り出し、孫に言い聞かせるように問う。

 膝のうえで枷をつけた両手を握り、宇愈信は顔をあげた。


「偽書により陛下を謀るという大罪を犯した林文徳を、だれも裁いてくれないからです」


 声を震わせながらも、目は皇帝に向けられている。

 その視線を真正面から受け止めた皇帝は、ひらりと片手をふった。すると数枚の紙が舞い落ちて、床のうえを滑る。そのうちの一枚が、文徳たちの正面でで止まった。


「この怪文書の送り主は、宇愈信だったのだな」


 それはまさしく怪しげな書だった。官製の環魂紙に、一字ずつ切り抜いた文字が貼りつけてある。すべて別人の筆蹟で綴られていたのは、いま宇愈信が言ったことと同じ内容だ。

 ――東宮書史局長林文徳は、偽書で皇帝を欺いた大罪人である。


「己の名も示されていない奏上を信じられるか? 主張が正しいと思うならば、なぜ堂々と自身の手蹟で書かなかった」


 不快感を滲ませる皇帝からの詰問を受け、宇愈信は押し黙ってしまう。

 返答を待つ長い静寂を、公孫大理寺卿が指先で長卓を叩く音で終わらせた。


「ここに、宇愈信の父、宇仲宣が書いたという、孟志範に宛てた念書を用意した。宇愈信は、これが林文徳の手蹟によって作られた偽書だと訴えておるのだが、そなたの言い分を聞こう」


 発言を促され、文徳は大きく息を吐く。

 五年ほど前、流産を繰り返していた皇后への呪詛が発覚した。それが、偽筆を得意とする孟志範に、昇進を報酬に宇仲宣が依頼したものだと判明したのだ。その際の念書が、不正な売官の証拠として残っている。発見時も真偽は取りだたされていたが、複数の筆蹟鑑定官の判定のすべてが「宇仲宣の真蹟」だった。そしてそれを、皇帝も認めている。

 余罪が明るみに出た宇仲宣自身はすでにこの世になく、宇愈信らへの縁坐による刑の追加はされていない。

 宇粛が宇仲宣の身内であるとは、明麗から知らされていた。しかし、怨恨を抱かれていると微塵も感じなかったのは、文徳が楽天的すぎたのだろうか。


わたし林文徳は、念書を偽造してはおりません」

「そんなはずはない! 志範様はおれにそんな書があるなんてひと言もいわなかった。縁坐で奴婢に堕とされたおれたち兄妹を憐れんでくれていた。もし本当にあったとしても、残しておくような方じゃない!」


 興奮して立ちあがろうとする宇愈信の腰に巻かれた縄の先を、獄吏が強く引いた。

 文徳は、孟志範という人物にさほど詳しいわけではない。それでも、李家――とりわけ明麗に対する想いの強さは知っていた。それは家族や異性間に生じる情とは、少し異なる種類だったように思う。忠誠や崇拝というものかもしれない想いは、傍目にも危うく感じられるほどだった。そのような男ならば、不正の動かぬ明かしとなる書や不遇の兄妹の存在を、手駒として握っていても不思議ではなかった。

 現に宇愈信は、東宮にいる妹を利用して今回の事件を起こしている。


「宇殿は、あの念書の文字を確認したのでしょうか」


 文徳が問うと、不機嫌な顔をしながらも宇愈信は「否」と答えた。そこで文徳は大理寺卿に断りを入れて、念書を彼に見せる。


「これがお父上の書かれた文字か、君にはわかりますか」

「そんなの、あんたくらいの書の腕があれば偽物を作れるんだろう。粛が文で、あんたの字をいつもほめいていた。「すっごいひとだ」って」


 嘲りと、わずかに嫉妬の混じった口調で鼻を鳴らされ、文徳は苦笑いを浮かべた。


「葆の文字には書いた者の想いが宿る。このことはもちろん君も知っていますね。念書とは、約束を交わすときに記すものです。万一書き手に相手を騙そうとする気持ちがあれば、文字に表れてしまうでしょう」


 宇仲宣の手蹟からは相手に対する蔑みや畏れを感じ取れるが、その中にはない。もしわずかでも混じっていれば、志範が気づいたはずだ。

 文徳は手枷をされた腕を伸ばし、念書にある『口』の二画目の直角に近い角を指し示す。


「僕は、工部の高官だったという宇仲宣殿を知りません。ですがこの転折からは、お父上が繊細な心の持ち主だったことがうかがえます。とても……心配りの細やかなかたではありませんでしたか」


 文徳は言葉を選ぶ。物は言い様である。繊細と表現すれば聞こえは良いが、ようは神経質ということだ。家人も気むずかしい家長の扱いに難儀したに違いない。

 それをどう受け取ったのか、宇愈信は父親の手蹟を長いこと眺めていた。

 やがて、大きく肩を落とし、背中を小さく丸める。


「おれは父の筆蹟どころか、どんな性格だったかもよく覚えていません。ただ、よく死んだ母を怒鳴りつけていた声だけは耳に残っています」


 項垂れたまま、宇愈信が身の上をぼそぼそと語りはじめた。


「そんな父のせいで、おれたちは官奴婢になったんです。知っていますか? 奴婢になった罪人の子どもが、どんな扱いを受けているか」


 直接は知らないが、想像はつく。それまで、自分たちを家畜同然に使役してきた層の人間が同じ場所に堕ちてきたのだ。奴婢のなかでもつらい立場となるだろう。


「ずっと、逆らわず、騒がず、おとなしくしていました。意志などもたず、生かされているだけの日々を過ごすおれを、志範様はちゃんと人として接してくれたんです。だから、反故紙が欲しいという頼みにも応じてしまいました」

「反故を?」


 新たに得た情報で、志範が筆蹟を集めていたのだと文徳は察する。そう考えると、文武百官の筆蹟が集まる反故の集積場は宝の山だった。


「しかし現在は、恩赦を賜り奴婢ではなくなっていたのだろう。なにに不満がある。そもそも、林文徳が偽筆を用いたという根拠はどこから出たのだ」


 公孫大理寺卿が口を挟んだ。宇愈信は自嘲するように顔を歪める。


「一度堕ちたという事実は、一生ついて回るんです。むしろ、いまの方がこたえます」


 父親の更なる罪が明らかになったというのに、その子どもは赦され自分たちと同じように働いている。気の荒い工人のなかには、おもしろく思わない者もいるに違いなかった。

 自身が犯したわけでもない罪に、宇愈信は苦しめられてきたのだ。理不尽な罰を受けた怒りは、文徳にむけられた。


「志範様が亡くなる前に会ったんです。林……殿は、必ず偽筆に手を染めると言われました。志範様もまねできない手蹟をもつ林文徳なら、恐れおおくも陛下を欺くことさえ可能だとも。おれに遺された、最期の言葉を信じてしまいました」


 そういいながら、疑いも捨てられずにいたから、あのような怪文書を作ったのだろう。


「証拠は? なにか、預かった物などはあるのかね」


 宇愈信は力なく、首を左右に動かした。

 歎息が大理寺卿の口からもれる。


「呆れたものよ。そなたが咎人の妄言にも等しい話を鵜呑みにしたおかげで、どれだけ多くの者が巻き添えになったか知っておるか」

「粛は! 妹はなにも知らなかったんです。お願いします。罰はおれひとりに!」

「それはできぬというものだ。東宮を含めた皇宮へ不確かな品の持ち込みを禁じる法を、宮女が知らなかったではすまされまい」


 それから公孫大理寺卿は、過去に行った反故紙の横流しを含めた罪状を並べ立てていく。

 皇太子を危険に晒したこと、蓮華閣への放火、林文徳殺人未遂、禁制品である硝薬の製造所持、こまかなものを入れれば両手に余るほどだった。


「よって環魂院工人、宇愈信を……」

「お待ちください」


 頭を垂れて身体を震わせる宇愈信に刑を言い渡そうとする公孫大理寺卿を、文徳がとめた。このままでは、宇兄妹の極刑は免れないだろう。

 自分の望みのためならば、だれがどれだけ犠牲になろうともかまわない。文徳には、そこまでの意気地はなかった。


「彼――宇愈信殿の訴えは、間違っておりません」

「どういうことだ。説明せよ」


 目を閉じて次々と挙げられる罪名を聞いていた皇帝が、椅子の背もたれから背中を離す。文徳は額を床に打ちつける勢いで拝跪した。


「孟志範の遺書とされているものは、臣が書きました」

「……遺書? 念書ではないのか」

「はい」

「それは今、ここにあるか」

「申し訳ございませぬ。直ちに取りにいかせますが、少々お時間をちょうだいいたします」


 大理寺卿に命じられて例の法官が飛び出していくが、大量の証拠品が眠る蔵書庫から探し出してくるのだ。相応の時間がかかる。その間に、文徳は詳細の説明を求められた。


「陛下は、皇后さまのもとにあった鴛鴦図を覚えていらっしゃるでしょうか」

「子流しの呪詛がかけられた画だ。忘れられるはずがなかろう」


 苦々しげに言い捨てる皇帝に、神妙にうなずく。皇后がどれほど心を痛めてたか、一番よく知っているのは夫である皇帝だ。


「通行証として保管されている身上札や菊花の宴での競書などを利用してあの画の作者を捜していた臣は、偶然それが孟志範であることに気づきました。そこで、彼に会って直接確かめることにしたのです」

「なぜ先に刑部に報せなかった。大理寺でも、禁軍でもよい。秘書省の文官の役目ではなかろう」


 お世辞にも荒事には向いているように見えない文徳の細長い身体へ、太子時代は武芸でも名を馳せた皇帝は痛ましげな視線を送る。


「万が一にも濡れ衣だった場合、孟志範の心身に多大な負担をかけてしまいます。それにあのとき皇城は、陶利とうり様の件で大混乱していましたから」 

「……そう、だったな」


 琥淘利が、自らと息子の命を犠牲にしてまで謀反の芽を摘み取ったことは、皇帝にとってあまり想い出したくない話のだろう。小さくため息をつき、無言で先を促した。


「古紙の集積場へ続く閑道で孟志範をみつけて……」


 ちらりと宇愈信を見る。彼らが会話を交わしたのは、あの後だろうか。


「問いただすと、あっさり認めました。そして、あの書にあった内容を話したんです」


 金と出世のため偽書制作に関与していたこと、呪詛をこめた鴛鴦図を描き、当時はまだ皇后候補だった現皇后へ贈ったこと、それらに関わった官吏や商人の名、その証拠の存在。志範は惜しげもなく、洗いざらいを白状した。

 そしてそれらの情報のすべては、文徳ではなく李博全に託されたのだ。

 ――李家のため、明麗様のために、有効にお使いください。

 積もりゆく雪に膝をつき、博全に拝礼した志範の姿が浮かぶ。いま思えば、あのときにはすでに死を覚悟していたのだろう。


「奇妙な話ですな」


 首をひねった大理寺卿の声で、文徳は現実に戻される。


「偽書屋の件は孟志範の遺書をもとに捜査されましたが、どれも確かな情報でした。あれがなければ、もっと手を焼いていたでしょう」

「内容に偽りはなかったというわけだな。ではなぜ、偽書などを作る必要があった?」


 皇帝がすっかりこの場の主導権を握ってしまう。文徳の隣では、宇愈信が困惑を通り越し、呆然としていた。


「それは……遺書が、なかったからです」


 証拠品を揃えて渡すといわれ指定の場所へ赴いたが、約束の刻限を過ぎても志範は現れない。不審に思い彼の住まいを訪ねたが、そこも留守だった。もしやと鍵のかかっていない戸を開けたが、本人の姿は見あたらない。入れ違いになったのかと戻ってはみたもののやはり会えず、しかたなく帰宅した。すると翌日、孟志範の訃報が届いたのだ。


「あのとき、遺書をみつけていたらすぐにでも探し回ったのですが……。このままでは、火災で多くの証拠が消えてしまった偽書屋の件が解決するまでに時間がかかってしまうと考え、彼の証言を書にして残すことにしました」


 文徳は目を伏せたままいきさつを話し終える。力を入れ続けた全身は冷たく、他人のもののようだった。

 ちょうどそこへ法官が、箱を抱えて走り戻ってくる。受け取った侍従が、ふたを開けてうやうやしく皇帝に掲げた。

 しばらくは紙を繰るかすかな音だけが続いていたが、突然宇粛が身を乗り出す。


「もしかしたら志範様は、だれかに殺されたのではありませんか!?」

「その可能性はないだろう」


 紙の束から目を上げぬまま、無慈悲にも皇帝が切り捨てる。たじろいだ宇愈信に、大理寺卿が補足した。


「飛びこんだと思われる壕周辺の雪上に残された足跡は、ひとり分だった。さらに水音を聞いた衛士の、辺りに人がいたようすはないという証言もある。遺体に他殺を疑う所見もみられなかった」

「よく覚えておる」

「あの一連の出来事は、それがしがここに座ることになった案件でしたので」


 皇帝は小さくうなずく。書から顔をあげると文徳を見据えた。


「再度訊く。なぜ然るべき部署への通報を怠った。それをしていれば、彼の者の自死は防げていたかもしれない」


 けれど死は免れない。捕らえられ、厳しい詮議を受け、法に基づき刑に処される。志範の犯した数多の罪は、それだけ重いものだ。


「わずかでも減刑を賜ることができるのではと、自首を勧めていました。お聞き及びだとは存じますが、仕官前の彼は李太子太傅殿の家の書生だったそうです。お子さま方が幼いころ、ともに学ばれた時期もあったと……」

「……亡骸は寺に埋葬されたのだな」


 大罪に問われながらもそれが赦されたのは、志範が遺した証拠の多くが捜査に有利にはたらいたためだ。旧知の無残な姿を市中に晒される彼らの心中を慮っての行動、と皇帝は理解したようだった。そしておそらく、今この場で文徳がそれを自白した理由も察しただろう。


「我らは、まんまとそなたの偽筆に騙されたというわけか。筆蹟はおろか、そこにこめられたものまで、微塵も疑うところはなかったぞ」


 十分に眉間を揉みほぐしてから、皇帝はにもう一度目を通す。それでも偽書だとは信じ難いようで、軽く首をふった。


「しかし理由はどうあれ、偽書を作成したことには違いない。林文徳ともあろう者に、その意味がわからぬわけがないだろうに」


 怒りよりも失望の色が強く出た声色に、文徳はここから逃げ出したくなる。けれど、まだそれはできない。「おそれながら」と顔をあげた。


「そちらが孟志範の遺書ではないとしたら、何と思われますか」


 視線が一斉に文徳へと集まる。書記官までもが筆を止めていた。ほとんどの者が唖然とした表情だ。それをゆっくりと見渡してから、腹を据えた文徳は精一杯に声と虚勢を張った。


「その書は臣が、孟志範の字を手本にして彼の遺言を代筆したものです。こちらにおいでの皆様も、数々の名筆の臨書や倣書をなされてきたことでしょう。それらの基本は、筆者の意をくみ取り理解すること。彼になったつもりで、この耳で直接聞いた話を違えることなく文字にのせたため、直筆と見紛う書に仕上がったのではないかと思います。内容の真偽については、すでにお調べのとおりかと」

「往生際の悪い屁理屈を。己でも、偽書を書いたと白状したではないか」


 まだ汗のひいていない法官が鼻で笑う。それに文徳は真顔で首肯した。


「おっしゃる通りでございます。本来なら代筆者として自署しなければいけないところに、孟志範の名を書いてしまいました。結果、あれは遺書とみなされた。臣が偽書を生み出したといわれても仕方がないのです」

「くしくも、孟志範が宇愈信に遺した言葉が現実になったということか。恩を仇で返されたな」


 文徳が言葉を重ねれば重ねるほど、皇帝の声や瞳、すべてから温度が奪われていく。膝の上にのせた手の枷が、カタカタと音を立てる。


「それは……偽筆で報酬を得ていた彼を、臣がひどくなじったからでしょう。どんな理由があっても、筆蹟を偽るなど絶対に、しては……いけない、と……」


 慎重に言葉を並べながら、頭の片隅でこれは偽筆と同じだと考えていた。自身を騙すこともできないようでは、他人を欺くことなどとうてい不可能だ。 

 ふっ、と張り続けていたなにかが切れる音を、文徳は身体の内側で聴いた。


「申しわけございません! どのように言い繕いをしても、臣が偽書を作った事実にかわりはございません。いかような処分でもお受けいたします。ですがなにとぞ、宇兄妹には皇帝陛下のご慈悲を賜れますよう……」


 最後にそれだけは言い、文徳は倒れるようにひれ伏した。 

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