第八集 名前を奪う

 遠い昔。過去の王朝には、君主や両親などの名は尊いものであり、そこに使われている文字の使用を避ける慣習があったという。不便なことこの上ないその慣わしは、同じ音の別字で代用したり、点画を増減するなどで対応されたが、やがて廃れていった。

 一方で、葆の古い法に『奪字』という刑がある。罪を犯した者から文字を奪い、それを書くことを禁じるのだ。文章を綴る機会の少ない市井の民ならば、さほど苦にならないかもしれない。だが書くことを生業とする文官には、致命的ともいえる厳しい罰だった。

 偽筆を用い孟志範の名を騙った林文徳には、その刑が科せられた。禁字は「林、文、徳」の三文字。つまりは名を奪われたのである。


「罷免になったわけではないのですよね。でしたら、辞めなくてもいいんじゃないですか」


 謹慎期間を終え蓮華閣へ私物を片付けにきた文徳に、書吏の欧陽が同情をみせた。


「もっと珍しい字の名前だったらよかったんですけどね。それに、こうして生きているだけでありがたいことです」


 命を失っていてもおかしくはない状況だった。たった三文字が書けないくらい、たいしたことではない。皇恩に感謝し、重ねた手を掲げる。ただ、文官として勤め続けることは事実上不可能だ。当然ながら太子の書の指導の任も解かれ、官職を辞すことを余儀なくされた。

 少ない荷物をまとめて外に出ると、蝉の声が降ってくる。


「ここも寂しくなっちゃいますね。宇粛はもう着いたでしょうか。北の冬は寒いんだろうなあ」


 欧陽然が、万年雪を頂く雷珠山に阻まれて見えるはずもない北方の地に思いを馳せる。

 極刑は回避できたものの、宇愈信は北の辺境に流罪となった。そこで十年の労役に就く。

 妹の宇粛は、後宮に戻り一生を官奴婢で終わるか、兄とともに北へ行くかの二択を迫られた。そして、いまよりも過酷な生活となることを承知で兄を選んだ。

 どれもこれも、皇帝の意を汲んだ公孫大理寺卿の裁決だ。その情に厚い皇帝を、文徳は失望させてしまった。それも、官吏でいられない理由のひとつだった。


「太子殿下にご挨拶ができないのは残念です」


 まだ昇陽殿の皇后のもとだというが、東宮にいたとしても謁見は許されなかったかもしれない。

 そして、心残りはほかにもある。


「明麗のことは、やはりわかりませんか」

「すみません。後宮にいるとは思うんですけど」

「それならまだいいのですが……」


 文徳が投獄されている間に明麗がおこしたいくつもの騒動を聞き、血の気が引いた。牢獄へやってきた際、もっと強く諫めなければいけなかった。激しい後悔に襲われたが、反面、彼女がそれを聞き入れるようなではないこともよく知っている。

 せめて明麗だけは、これまでと同じように太子や皇后の傍にいられるといいのだが、もはや文徳にできることはなにもない。


「そうだ。これ、よかったら使ってください」


 まだ未使用の小筆を数本、まとめて欧陽然に渡す。軸に梅の花が数輪描かれたものだ。


「いいんですか。助かります」

「今後はもう、それほど書くこともないだろうから」


 自嘲気味にいう文徳の代わりに、欧陽然が泣きそうに顔を歪めた。


「どうかお元気で。またどこかで会うかもしれませんけど」

「欧陽書吏も、身体に気をつけて」 


 その後も東宮内をまわるが、明麗の詳細な消息を知ることはできなかった。そもそも科人となった文徳を疎ましく思う者も多く、退官の挨拶すら避けられてしまう。

 劉剛燕の邸を訪ねればなにかわかるかもしれないが、いまの文徳の立場でそれをするのはためらわれる。

 歩き疲れ、東宮寝殿の裏手に建つ四阿でひと休みしていた。殿舎の北側にあるため若干涼しく、人気もない。

 今日、皇城を出る際には返却しなければならない佩玉の文字を、すっかり元に戻った人差し指でなぞる。一官吏でさえもなくなる文徳にとって、後宮はこの世の果てよりも遠い世界だった。


「このようなところにおったか」

「李太子太傅殿!」


 石段を踏み四阿にゆっくり上ってくる李宜珀を、文徳は立ちあがって迎えた。


「官を辞すそうだな」

「お役に立てず、申し訳ありません。右筆の件は……」

「むろん白紙だ」


 当然の結果だが、同じ名の失い方でも雲泥の差である。しかし文徳は安堵していた。もとより、皇帝の右筆を務める資格などなかったのだ。 

 それでも文徳は、右筆になろうとした。


「あの、明麗殿はどうなさっているのでしょう。――もしやもう、臨洶へ?」


 常に宜珀の眉間に刻まれているシワが、一段と深くなる。


「あの話は、柳家の方から断ってきた」

「え?」


 驚きと喜びが同時に文徳の顔に表れた。それを宜珀はひと睨みしてから、欄干に沿って設けられている座席に腰をおろす。いつになく緩慢な動作が、ずいぶんと疲れているように見えた。


「はじめから、私はこの縁談を承諾するつもりなどなかった。ああ、思い違いをするでない。右筆のそなたならともかく、無位無官の輩など論外だ」


 文徳が書家としての名を諦め皇帝の右筆を引き受ける条件として、宜珀に頼んだことがある。

 右筆を拝命したあかつきには、明麗を妻にと願いでた。婚約さえしてしまえば、ほかの縁談を持ち寄られることはなくなるだろう。明麗は嫁ぐまで女官の勤めを続けられる。彼女が納得するまで、たとえそれが生涯に渡ったとしても、文徳は婚礼を待つつもりでいた。

 文徳との結婚はなくなったが、柳家との縁組も流れた。結果としては、さほど悪くはない。


「それでは、彼女はこのまま皇宮にいられるのですね」


 ひとまずは安泰だ。胸を撫でおろしていた文徳に、宜珀は静かに告げた。


「そうだ。この先永久に、後宮から出ることはない」


 雷雲が近づいていた。



 激しい雷雨に足止めされた文徳が、最後の勤めを終え皇城を退出するころには、日が傾いていた。荷物を抱えた足取りは、限りなく重い。

 ときおり立ち止まり、暮れなずむ空を見上げる。雨雲が去ったそこに目当てのものを見つけられず、また下を向く。それを繰り返しながら帰路につく文徳を呼び止める者がいた。


「失礼ですが、林文徳殿ではありませんか」

「そうですが。あなたは?」


 愛想良く笑みを浮かべる男に見覚えはない。


「柳子喆と申します」

「あ、明麗の……」


 とたん、紙片の文字が脳裏によみがえる。だが、彼の見た目と文字から受けた印象が、今ひとつ一致しない。


「退官されたと耳にしましたが」

「ええ。本日が最後でした」

「それはお疲れさまでございました。もしよろしければ、少しお付き合いいただけますでしょうか。李明麗殿のことです」


 文徳に、否やはなかった。

 子喆に案内されるまま酒楼に入る。まだ、西の空に夕焼けの名残があるというのに、なかなかの盛況ぶりだ。辺りに満ちる酒の匂いだけで酔えそうだった。


「当家と李家の縁談はなくなりました」


 注文した酒も届かぬうちに、子喆が口火を切る。なるほどあの手蹟の持主だと、文徳は妙に納得した。


「太子太傅殿からうかがいました」

「……理由をお尋ねにならないので?」

「僕には、関係のないことです」


 極彩色の内装も、給仕の娘たちがまとうきらびやかな衣も色をうしない、文徳には白と黒の世界に映る。墨絵のようだと思った。

 ちょうど届いた酒をいきなり呷る。喉や胃の腑が炎を呑みこんだように熱くなるが、文徳の視界に色彩は戻らない。


「しかしこれで疵を負った者同士、いっしょになれるのではありませんか」


 ひとり勝手に杯を重ねていく文徳の手が止まった。目の前で、揶揄するような顔が揺れている。視線を杯に戻すと、そこでも水面にさざ波が立っていた。


「彼女とは結婚できません」

「まだ李宜珀殿がお許しにならない? それとも、ご本人が拒否してらっしゃる?」

「彼女は……李明麗は、亡くなりました」


 子喆が目と口を開けたまま固まった。

 父親である宜珀も、笞の傷がもとで明麗が亡くなったことしかわからないという。今朝報せを受けて参内したが、皇后に赦されぬまま冷宮で死亡したため、遺体を引き取ることはおろか、対面も許可されなかったそうだ。

 明麗の遺体が後宮の集団墓地に打ち棄てられたと聞き、文徳は言葉をなくした。

 こうして自分で言葉にしても、まだ信じられない。信じたくないのではなく、信じられない。


「それは……残念です」


 しかし、だれかが認めてしまうことで、文徳のなかでそれが現実となってしまう。

 早く独りになりたかった。ここは故人を偲ぶには騒がし過ぎる。

 沈黙を期に、両手を卓子について腰を持ちあげた文徳は、まだ一滴も酒に口をつけていない子喆に引き止められた。


「お代をいただけますか」

「え? ああ、すみません」


 ただ酒を期待していたわけではないが、請求され慌てて首に提げた巾着をひっぱり出す。文徳が知っている酒楼より上等だ。どのくらい置いていけばいいのかわからない。率直に尋ねると、子喆はゆるやかに首をふった。


「そうではありません。私はあなたに情報を提供した。それに対する報酬です」

「情報? 養父のことですか。あれは、本当にありがとうございました」

「おや、私と気がつかれていたのですか」


 もったいつけたつもりが簡単に言い当てられて、子喆が目を丸くする。


「明麗とかかわりのある商人の手蹟だと思ったので」


 まだ不思議そうな顔をしている子喆の前で、巾着の口を開いた。

 ますます相場がわからない。少し悩んで、文徳は一番大きな銀の塊を選んだ。ところが卓子に置いたそれを、子喆は受け取らない。


「足りませんか。申しわけないのですが手持ちが……」

「明麗殿は、林殿の書を「葆の宝」とおっしゃいました。ですから、あなたに書いていただきたいのです。いま、ここで」


 子喆は卓子を示すと、給仕に声をかけた。湯気のあがる皿を脇に寄せ、さっさと場所を空けてしまう。

 ほどなく用意された書道具。広げられた紙に、文徳は思わず指先を滑らせた。文徳が知っているどの紙とも違う、しろぎぬにも似たはじめての感覚に、戸惑いと興奮を覚える。


「これは?」

「東の島国で作られた紙です。こちらの技術が渡り、独自の技法が発展したようですね」


 その後も子喆が東方から紙を仕入れた過程を説明するが、そのほとんどが文徳の耳を右から左に抜けていく。真っ新な紙になぜか気後れして、人差し指が端を何度も往き来する。


「なにを書けばいいですか」


 とうとう、なかなか終わらない子喆の口上を遮った。文徳の右手はもう筆をとり、穂先を墨海に沈めている。


「お好きな文字を」


 文徳は目を閉じた。喧騒が消え、漆黒の世界に白金の光芒が射しこむ。それはみるみるうちにまばゆい塊となった。

 すうと、息を吸う。ゆるりと目蓋を持ちあげると同時に、右手はなめらかに筆を紙の上まで運ぶ。

 次の瞬間、光の玉が紙の上を走りはじめた。文徳の筆は、無我夢中でそれが引く尾を追いかける。

 摑まえた。そう感じた瞬間、玻璃が割れるように光は弾け、筆先が紙から離れた。


「明、ですか」


 突然、文徳の耳に音が帰ってきた。艶やかな紙の上で、墨蹟は煌々と光を放つ。

 文徳が選んだのは、著名な詩の一節でも、縁起の良い文字でもなかった。


「日と月。天にあって輝くものを並べた字ですが、まどから眺めた月を表したという説もあります。明瞭、明信、明春などにも使われ、あかるい、はっきりしている、とにかく前向きな意味をもつこの文字が、僕は……」


 再び固く目を瞑る。次に目蓋の裏側に現れたのは、玲瓏たる明月ではなかった。


「この才を手放すとは。陛下も存外、眼識をお持ちではないらしい」

「僕が、陛下のご信頼を裏切ったんです」


 それに手放したのではない。「林文徳の書」を封じることで、永久に己のものにしたのである。ゆえに落款のないこの「明」とて、ただの手習いも同然だった。


「これでもう、いいでしょうか」


 書家として大成したい。後世に名を遺したい。自分にはそんな欲望などないと思っていた。だが、「これは自分の文字ものだ」といえないことが、想像以上にこたえる。


「十分です。良いものが手に入りました」


 そんな書を手に子喆が満足げにうなずいたのを確認し、文徳は席を立とうとした。ところが、足に力が入らない。


「不躾な質問ですが、これからどうなさるおつもりですか」

「どう、って」


 不本意ながら座り続ける文徳に、子喆は様々な職を提案してきた。代筆屋、写本業、柳家の店の帳簿付けまで勧めてくる。けれどどれも、科せられた禁字があるために厳しいだろう。

 それに文徳には、試してみたいことがある。

 偽筆を用いた自分は、書の師である周楽文のもとにはいられない。文徳は周楽文の邸を出ると決めていた。


 退官した日の夜。すっかり酔いが回った文徳は、子喆に「これから」を語っていた、らしい。その流れで、柳家が所有する、永菻の西下にある房子いえを借りるという話になった。臨洶の店の者たちが、商用で上京した際に寝泊まりするため用意したものだが、もっと便利な場所に移そうと考えていたそうだ。当然借賃は発生するが、まったくあてのなかった文徳には、ありがたい申し出だった。

 困ったのは、賃借に関する証文である。文徳には署名ができない。迷惑をかけた楽文に代書してもらうわけにもいかなかった。

 ところが数日後に訪ねてきた子喆は一転して、署名は要らない、さらには所有権を渡すとまで言い出したのだ。わけを訊くと、あの「明」を手に入れたとたん、大きな商談が舞いこんだのだと笑う。にわかには信じ難い話を訝かしむ文徳に、子喆は房子の証券を押しつけて帰っていった。

 うまい話には必ず裏がある。わかってはいたが、いつまでも宿にいるわけにもいかない。文徳は譲られた房子に移った。

 西下と呼ばれる宮処の西南には、工人や振り売り、露天商などで生計を立てる者たちが集まる。文徳の房子の周囲も、日中は雑多な生活音で賑やかだ。

 依頼を承けていた命名書を届けた帰りしな、文徳は道ばたで店を広げる母子に出合った。


「書けたほうがいいのはわかっちゃいるんだけどね。こんなでも、うちでは働き手のひとりだからさ。悪いね」


 竹かごを抱える男児の頭に、野菜売りの母親が爪の間まで土に汚れた手をのせる。


「いえ。そうですよね」


 曖昧な笑みで応え、文徳は瓜をひとつ買い求めた。羹にしたら当分は食べられそうな大きさである。蒸し焼きにするのもいい。そういえば、もう何日も肉を食べていない、などと考えながら歩いていると自宅に着いていた。

 十歳くらいの少年がひとり、閉じた表門を叩いている。


「どうしたの。なにか用?」

「林文徳ってひとの房子は、ここ?」

「僕が文徳だけど」


 わずかな期待は、少年が突き出した書簡に裏切られた。見るからに上質な紙は、彼とは無縁のものだ。

 文徳が宛名の几帳面にうつくしく並ぶ文字に見入っていると、書簡を胸に押しつけられる。


「ちゃんと渡したからな」


 少年は走り去ってしまった。

 譲り受けた房子は商人たちの仮住まいだったとはいえ、一人で暮らすには広い。厨に瓜を置き、殺風景な院子なかにわを回る。柳家が置いていったねだいと小さな書卓しか置いていない廂房で、文徳は書簡を開いた。

 そこにあった筆蹟は、雪解け水がつくる清涼な流れに、ほんの一滴、墨を落としたかのよう。水に溶け込むことなく、墨はどこまでも細く長く流れていく。差出人の記名はなかったが、この手蹟は間違いようがない。李博全からだった。

 その日の夕刻に街外れに呼び出された文徳は、廃堂の壊れかけた扉を押した。すでに日がほとんど沈んだ堂のなかは薄暗く、博全の輪郭がうっすらと確認できる程度だ。

 その表情のわからない影が、笑う気配を感じた。


「のこのこと現れるとはな。消されるとは思わなないのか」

「殺すつもりがあったのですか。でしたら、あなたはこんな面倒なことをしないでしょう」


 それでも彼には、文徳を殺したい理由がある。文徳は先んじて頭を下げた。


「申しわけ、ありませんでした」

「なぜ謝る」

「明麗は……」


 その先を言えなかった。博全は明麗の婚礼の準備で宮処に戻ったのだろうが、当人の訃報をしらされたのだ。


「あれ自身の軽率な行動が招いた結果だ。いわば自業自得。文徳が気に病む必要はない」


 淡々とした口調からは、妹を亡くしたという悲哀はうかがえない。むしろ怒りさえ感じられた。


「それなら僕もです」

「あれは……あの遺言は、渋るおまえに私が無理に書かせたものだ」

「同じことです。書くと決めたのは、自分ですから」


 博全にどれほど望まれても、請けないという選択もあった。けれど自分は書いた。まったく後悔していないといえば、それは嘘だ。だが、いまさらそれを言っても、失ったものは返らない。

 実は、孟志範の遺書は遺されていた。偽書屋に関わる重要な証拠の数々とともに、博全のもとに届けられていたのだ。

 そこにあった内容は、文徳が作成したものとはまったく異なっていた。

 文中で志範は、異国出身の皇后など葆の民として認められない、万一皇子が産まれ帝位に就いたならば、葆国は衰退の一途を辿ると誹謗した。批難は皇后をその座に据えた皇帝にも及び、廃后と葆にふさわしい新たな皇后を立てることを訴える、過激なものだった。

 そこで志範が皇后にと名を挙げていたのは、もちろん李明麗である。命を賭した彼の嘆願は、李家との密接な関係を邪推させるに十分な筆致で綴られていた。

 皇帝は志範の言葉など信用しないかもしれない。しかし折り悪く、時は謀反の激震に揺れている最中だ。満を持したかのような明麗の入宮も、朝臣たちには疑わしくみえてしまうだろう。

 遺書だけを破棄すればよかったのだろうか。けれど、文徳たちが聞いた、彼の証言なしには暴けなかった罪もある。

 後継問題が未解決の朝廷から、まだ李家が離れるわけにはいかない。博全のその葛藤に、文徳は手を貸した。

 一方で、皇帝の前で話したことも偽りではない。彼を「兄さま」と呼んでいた明麗に、惨い話は聞かせたくなかった。

 志範は、どこまでを見越し、なにが誤算だったのだろう。

 文徳のくちびるから乾いた笑いがもれる。この結果は、偽筆などという邪道に踏み入った、己への報いだ。


「まだ欺いていることがあると陛下がお知りになられたら、今度こそ死罪ですよね」

「そのときは、李家もいっしょだ」 


 文徳はゆっくりと首を横にふる。


「よく房子がわかりましたね。ですが、もうこれきりにしてください。心配なさらずとも、この件は僕が墓まで持っていきますから」


 李家とも朝廷とも関わることのない、市井の片隅での静かな暮らし。それがいまの文徳の、身の丈にあった望みだ。


「書法の私塾をはじめるそうだな。柳子喆から訊いた」

「そんな大層なものじゃありません。ただ、子どもたちに読み書きを教えたいと……って、柳家の大口の話は博全さまでしたか」

「失った名の代償にもならないが、それくらいはさせてくれ」


 事も無げに言うが、子喆相手では単に土地家屋の代金だけではすまなかっただろう。口止め料として、どれだけの大金をふっかけられたのか。

 そもそも博全が明麗に縁談などと言い出さなければ、もっと違う道があったかもしれない。考えてもしかたがないことばかりが、頭に浮かぶ。


「本当にもう、やめてください」


 拒絶するように、懇願するように、文徳は声を絞り出す。


「そのつもりだ」


 文徳よりもはるかに多くのものを持ち、そして負う博全の背が、月明かりが照らす堂の外へと向かう。すれ違いざまに「頼む」と、独り言のような小声が文徳の耳に届いた。


「ご息災を」


 身分も立場もはるかに離れた博全に、二度と会うことはない。会ってはいけない。

 宵の闇にまぎれていく後ろ姿を、拱手して見送った。

 墨色の空に浮かんだ望月の静謐な光が、往来の途絶えた夜道に降り注ぐ。この辺りでは、酒楼や妓楼のある区画のように、灯りを無駄に使わない。日が落ちると同時に大半の人びとは寝静まる。

 家路をたどる文徳を、明るい月だけが追いかけていた。

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