懐璧

浪岡茗子

第一集 明月を書く

 ほう国後宮の東に位置する東宮府。蓮の浮かぶ池を臨む蓮迦れんか閣は、次代の皇帝を育成するため集められた数多の典籍を納める書庫である。

 その楼閣の奥の書房で、りん文徳ぶんとくは高窓を見あげた。まぶしげに目を細めたのは、北面に設えれられたそこから注がれるやわらかな外光にではない。 

 思い出し笑いをした口から小さく息を吐いて、書卓の上へと視線を戻す。おもむろに筆を執った右手が、滑らかに動き始めた。

 墨を含んだ筆先でしなやかに払う。伸びやかな縦画の収筆の撥ねは鋭く、玉を手中に抱くように二本の横画を加える。


幾望きぼうの月か」


 降って湧いたように落ちてきた声に、文徳が顔を跳ねあげた。

 銀冠を戴く頭に目立つ白髪のわりに、まっすぐ伸びた背筋から見下ろされる視線の主に、慌てて筆を置いて立ちあがる。


太子太傅たいしたいふ!」


 胸の前で両手を重ねて礼をとる文徳を横目に、宜珀ぎはくの節くれた指が、卓上で冴え冴えと輝く『月』をつまんだ。


「昨晩はよい月が出ていたな」


 文徳はうなずく。窓越しの淡い光に誘われて出た院子にわから仰いだ、夜空に浮かぶ真円にはわずかに足りない月は、十分に明るくうつくしかった。


「太子殿下もご覧になったそうなので、手本にしようと思いまして」

「……殿下は」


 夜更かしした幼い皇太子諒元りょうげんは、まだ褥から出てこない。非公式ながら彼の書の師を務める文徳は、待ちぼうけを食らっているのだ。

 葆の次期皇帝となる諒元に君主としての道を説く役目を担う宜珀も、同じく講義ができずにいるのだろう。文徳ひとりきりの房内に片眉をあげ、書卓の片隅にある螺鈿の文箱に視線を向けて嘆息した。

 そこに積み重なっているのは、落書きのような書の数々。すべて諒元の手蹟によるものだ。


「あのような文字で、奉元の儀をつつがなく務められるであろうか」

「まだ、五つになられたところではありませんか」


 文徳は箱の中から一枚取りあげた。その紙面を埋める縦横の棒線を、一画ずつ指でなぞる。横、縦、横、横。


「殿下はまことに素直な線を書かれます。ご心配は無用かと」


 四画からなる文字は『王』。その地位を象徴するまさかりを表したものとも、大地に手を広げて堂々と立つ人物を示すともいわれる。ここに光り輝く『白』を頂けば、『皇』だ。成り立ちと意味を教えられた諒元は、たどたどしいながらも神妙な面持ちで筆を運んでいた。

 そう告げても、なお眉間のシワを解かない宜珀に、文徳は内心で苦笑する。 


「それに、太子殿下がご即位なさるのは、もっとずっと先の話ではありませんか」


 想いをこめて書いた文字には力が宿る。そのような伝承の残るこの国では、代替わりの際に皇帝自らが筆をふるい、新たな元号を書にして納める儀式、奉元の儀が執り行われていた。しかし今帝苑輝えんきは、齢四十を過ぎたとはいえ壮健である。諒元が泰平の世を継ぐまでには、まだまだ時があるだろう。


「……そうだな」


 宜珀は己に言い聞かせるようにうなずくと、卓上に『月』を戻し踵を返す。


「李太子太傅。あの、め――」


 文徳は、諒元が誕生してほどなく政の第一線から退いた、老臣の背を引き留めた。しかし、うろんげに振り向いた宜珀の鋭い眼光が、文徳から二の句を奪う。御花園の池で餌を乞う鯉のように口を開け閉めしても、吐息は声にならない。

 その様子に宜珀は小さく首を振った。


「林文徳。そなたは、いつまでこのような薄暗い場所におるつもりなのだ」

「暗いですか?」


 文徳は戸惑いながら房内をみまわす。書庫という場所を考慮し、卓を挟んで左右に配した二台の枝燈にあるろうそくのすべてには火を点けていないが、高窓もあり筆を執るに不自由はなかった。

 しかしそれも、己の目が慣れているだけかもしれない。文徳は灯り増やそうと、ろうそくに手を伸ばした。


「そうではない。今の東宮史書局の長という立場に満足しておるのか、と申したのだ。その上を考えはせぬのか」


 宜珀から苛立たしげに問われ、文徳は「上……」と天井を見やり、引っこめた手で後頭部をかく。農民の出としては現在の職位でも大出世なのだが、宰相職を務めた人物とは比ぶべくもなかった。


「私には、書しかありませんから」


 宜珀や彼の嫡子のように、朝廷の中心に割りこんでいく能力も気概もない。

 ところが宜珀は、考えこむように鋭角的な顎をひと撫でした。


「書か。たしかに、そなたならば陛下の右腕にもなれような」

「とんでもない!」


 間髪を入れずに否定する。この国に達筆な能吏は多数存在するが、書を能くするからといって、政の才があるとは限らない。

 大声を出した文徳に、宜珀は眉を寄せた。


「そなた。右筆として、陛下の御為に働く気はないか」


 その名のとおり、筆をもって皇帝をたすける職掌だ。文字の国ともいわれる葆において、皇帝に侍りその意を記す役目は格別に重く、職位は六部の長にも匹敵する。

 しかし、書の才も求められる葆の君主が右筆を置くことは、四百年あまりの歴史を遡ってもまれであった。文徳もよく知る今帝の手蹟に、右筆が必要とも思えない。

 思いがけない出世話の深意を図りかね、文徳は慎重に尋ねる。 


「……それは、勅命なのでしょうか」

「いや。まだ単なる私見だ。だが覚悟が決まったら言いなさい。奏上しよう」


 即答を避けた文徳に一瞥を投げ、宜珀は書房から出ていった。

 見送りのためにさげた視線の隅で、煌々と『月』が輝く。そのまぶしさに、文徳は目を細めた。

 幼子の手本にするなら、もっとわかりやすい看字かんじにした方が良い。

 まだ墨蹟も瑞々しい小望月を、足もとに作った反故の山に重ねて新たな紙に向かうと、文徳は再び筆を執った。



 扉の向こうから、にぎやかな声が近づいてくる。甲高い子どものものと、それをたしなめる女人の張りのある声。

 文徳は戸口まで赴き、拝跪で小さな主を出迎えた。


「太子殿下に拝え――」

「文徳っ!」


 頭をさげる文徳のもとへ、諒元が体当たりするように飛びこんでくる。文徳は彼を、よろめきながら受け止めた。


「どうなさいました?」


 新緑の山を映したような瞳には、うっすらと涙の膜がはられていた。


「臣が朝参してくる時刻どころか、このように日が高くなるまでおやすみとは嘆かわしい」


 薄暗い書架の陰から届いた声に、諒元がびくりと肩を揺らす。


「父君であられる主上は、寝過ごして朝議に遅れるなど、ご即位以来ただの一度もされていらっしゃらない。ゆくゆくはこの国の主となられるお立場を、いついかなるときもお心に留めてお過ごしなされませ」


 大股で長裙の裾をさばきながら現れた女官の容赦ない物言いに、諒元は文徳の官袍にますます顔を埋めてしまう。言葉のすべてを理解できなくとも、そこに含まれる棘は感じるのだろう。


明麗めいれい


 文徳はため息交じりで立ちあがり、庇うように諒元を背後に隠した。 


「わたしが言ったのではないわ。抗議するなら太子太傅にして。あの人は、子どもにとっての睡眠がどれくらい大切かなんて知らないのよ」


 きつく眉根を寄せた李明麗は、鼻息も荒く文徳の足もとに膝をつく。手を引いて諒元の身体を引き寄せ、磨かれた黒曜石のきらめきを放つ眼で主を見据えた。

 ひくりと諒元がしゃくりあげる。


「殿下は昨夜、遅くまで起きて天文を学ばれました。その時間分をお休みになられただけではありませんか」

「で、でも……」

「でも? ご納得いただけないのでしたら、ご起床のお声がけを怠った女官わたしたちに罰をお与えになりますか?」

「ばつ?」


 不審な顔で首をかしげると、明麗は神妙にうなずき、ことさらに眉間のシワを深めた。


「職務怠慢の罪で笞打ち二十回。皇太子を軽んじたと不敬罪に問われた場合、最低でも笞五十ののち獄送りでしょうか」

「それは、いくらなんでも……」


 かさ増しされた刑罰とは知らずに、諒元が息を呑む。これでは怯えさせるばかりではないか。訂正を入れようとした文徳の口は、明麗があげた片手で制される。


「つまり、罪を犯した者は罰せられ、殿下のお傍にはいられなくなる、ということです」

「明麗がいなくなっちゃうの?」

「はい。わたしだけではありません。太子殿下にお仕えする者すべて」


 諒元は、淡々とした口調同様に表情を変えない明麗をキッと見あげた。


「それはダメ! みんなは悪くない」


 諒元が両手を拳にして叫ぶ。見開いた目の眦にはみるみるうちに涙がたまっていく。それを明麗は、そっと袖口で吸い取った。


「殿下が批難される謂れはない。わたしどもにも咎はないとおっしゃる。つまり、罪を犯した者はいないということで、この件は解決です」


「よろしいですね」とせまられた諒元が、どこか腑に落ちないといった面持ちながらも首を縦にふる。それを確認すると明麗はすっくと立ちあがり、左右の腰に手を当てた。


「そもそも、今朝李府には使いを出しているのです。入れ違いになるほど早く邸を出て、本日は休講だと伝えたにもかかわらずお目覚めを待ち続けたのは太子太傅の勝手。古狐の小言など、殿下が気になさる必要などございません」


 ひと息でまくし立て形良い顎を上向けた明麗を、諒元が目を丸くしてみつめる。涙に濡れていたはずの翠の瞳が、期待と好奇心で輝く。


「明麗の父上は狐なの? じゃあ、明麗も? しっぽ、見せて!」


 無邪気に彼女の裙へと手をのばした。


「た、太子殿下! 本日は昨夜学ばれたことに因んだ字を練習しましょう」


 文徳が慌てて諒元を抱きあげる。宙に浮いたまま運ばれ書卓の前でおろされたとたん、幼子の興味は卓上の書に移った。


「『月』という文字は、三日月の形から作られたといわれています。昨夜の月はいかがでしたか」

「おおきかった!」


 さっそくたっぷりと墨を吸わせた筆を握る諒元の手に、文徳は背後から自分の右手を添える。余分な墨を落として穂先を整え、紙の上まで導いた。


「では、大きな月にしましょう。空に浮かんだ月の輪郭をなぞるように。そうです、腕全体を使って筆を動かして――」


 紙いっぱいに『月』を書いた諒元が首をひねり、文徳を仰ぎ見る。


「次は、おひとりで書いてみましょうか」


 手本と新たな紙を並べて促すと、諒元はそろりと筆先を墨海にひたした。手本にちらちらと視線を送りつつ、ぎこちない手つきで筆を運ぶ。文徳が墨を磨りながらそれを見守り、ときに助言をし、さらには自らも筆をもって指導する。書に関して自分が出せる口はないと、明麗は隅に座って書物をめくりはじめた。

 かすかな衣擦れにあわせて広がる墨の香。ときこぼれる笑い声。穏やかな刻が流れていく。

 何枚も、あきることなく諒元は『月』を書き続けた。はじめのうちは落書き同然だったものが、かかっていた厚い雲が晴れていくように、いびつながらも月が姿を見せはじめる。

 やがて、小さく息を吐き出して筆を置いた。うかがうように、師へと瞳を向ける。


「よい字が書けましたね」


 文徳の言葉に破顔すると、渾身の書を右手で掴む。


「明麗、みて!」


 諒元が手を振りあげた拍子に、紙をおさえていた文鎮が勢いよく飛んだ。虎を象った青銅製のそれは卓の縁にあった青磁の筆洗にぶつかり、文徳が腕を伸ばす間もなくもろともに卓から転がり落ちた。薄墨色の水が床に広がっていく。


「殿下!」


 茫然としたままの諒元に明麗が駆け寄り、濡れた床から立ちあがらせる。その間に文徳は、大量の反故紙をまいて水を吸いとった。


「お怪我はありませんか」 


 明麗の問いに、諒元が無言でうなずく。うつむく視線の先で、水を含んだ衣が色を変えていた。


「濡れてしまいましたね。理由はおわかりになりますか」

「水がこぼれたから」

「ではなぜ、水はこぼれたのでしょう」


 床に膝をついた明麗が、自分の袖で諒元の衣の裾を拭う。因果関係を諭そうとしているのは、責めるような口調ではないことから察せられた。それでも身を硬くした諒元の視線はおずおずと床を這い、筆洗から文鎮へと移動する。小さな手は強く握られ、今日一番の『月』が書かれた紙に大きなシワがよった。


「筆洗を端に置いたわたしも、いけませんでした」


 原因は理解しているのだ。それをうまく言葉にできずに紅いくちびるを噛む諒元に、文徳が助け船を出した。薄墨色の汚れを力任せにこすっていた明麗の片眉が跳ねる。宜珀が諒元に厳しすぎるというが、彼女とて相当なものだ。


「墨は落ちにくいから、早く着替えたほうがいいんじゃないか……な」

「……ごめんなさい」


 うつむいたまま諒元がしぼり出した言葉はごく小さなものだったが、文徳に耳にもしっかり届いた。

 明麗はこわばる諒元の手を両手で包んで解き、そっと紙を抜き取る。丁寧にシワを伸ばしてから、微笑みを添えて彼の手に戻した。


「皇后さまにお見せしたら、きっと喜ばれますよ」 

「ほんとう?」

「もちろんです」


 花開くように顔を明るくさせた諒元は、反省の色もみせずにさっそく書房を飛び出そうとする。その襟首を明麗が「お待ちください」と捕まえた。

 首をひねって明麗を見あげる諒元の顔は不服そうだ。


「まもなくしゅ華月かげつさまがいらっしゃいます」

「華月が!? 今日は剣かな。弓かな。弓がいいな」


 明麗が答える前に、戸口から声がかかった。


「失礼いたします。劉夫人がお見えになりました」


義侑ぎゆう英世えいせいも?」


 りゅう剛燕ごうえん将軍の嫡男と明麗の甥である。同年代の子どもがいない皇宮で育つ諒元のために選ばれた賓友がくゆうだ。


公子わかさまがたもごいっしょに、東宮殿でお待ちいただいております」

「いくっ!」


 じたばたと、衣を脱ぎ捨てそうな勢いで明麗から逃れようとする。


「そのまえにお召し替えを。お願いね」


 報せに来た女官に託されると、諒元は素直に手を引かれて出ていった。

 床には拙いながらも澄んだ月が残される。次期皇帝は、筆よりも弓を扱うほうが楽しいらしい。


「明麗。君も着替えないと……」


 明麗は汚れた袖を一瞥する。興味なさげにひと振りすると、上目遣いで文徳をみつめる。


「そんなことより、父が先に来たはずよ。なにか言っていなかった?」

「なにかって」


 紙を拾う文徳を、明麗の視線が追いかけてくる。父親に負けず劣らずの圧から逃れる術はもっていない。

 諦念の笑みを浮かべ、皇太子の忘れ物を差し出した。  


「殿下の、上達具合を気にされていたな。そんなに心配なさる必要ないのに、ね」


 同意を求めると、諒元の手蹟に目を落としていた明麗は、苦笑して紙を折りたたんだ。李家の者たちの基準は厳しい。


「ほかには?」

「ああ、そうだ。陛下にお変わりはないのかな?」


 とたんに明麗の顔が険しくなったので、文徳は慌てて手を振った。


「李太子太傅はなにもおっしゃってないよ。ただ、とてもお忙しいみたいだから」


 文徳には朝議に参加する権がない。皇帝のようすなど、人づてに知るばかりだ。それでも多忙を極めていることはうかがえる。

 明麗は憂い顔を晴らすことなく、首を横に振った。


「しばらく、昇陽殿にもお見えではないそうなの。昨夜は、諒元さまも待っていらしたのだけど」


 夜ふかしの原因は、父親に会うためでもあったらしい。そしてそれは、叶わなかった。


「いまのままではお身体を壊されてしまうと、皇后さまもお心を痛められていらっしゃるわ」


 政を顧みない君主は論外だが、勤勉すぎるのも問題である。

 大きなため息をついたあと、明麗は小さなあくびを飲みこむ。


「殿下は劉夫人たちにお任せして、君も少し休んだら?」

「前回英世たちに出した課題の添削をして、帰るまでに次の問題を作らないといけないもの。そのあとは、アザロフの職人との打ち合わせが入っているし」


 首をふった明麗が、つい先ほどまでめくっていた本を持ちあげた。葆の書物ではみない革表紙にある、ミミズが這ったような跡は彼の国の文字らしい。


「あざ……? ああ、皇后さまの」


 傷みの激しくなった思悠宮を、皇后の出身である西国風に建て替えることになった。明麗は、そのために呼び寄せた者たちの通訳のほかに、皇后の意向を伝える役目も仰せつかっているのだという。


「だから、のんきに休んでいる暇なんてないわ」


 明麗は右頬を手のひらで叩く。白い肌に赤みが指した。


「とにかく。父がなにを言っても、相手にしないでね」


 来たとき同様、明麗は裳裾をなびかせて出ていった。

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