第二集 銘茶を飲む

 文徳を右筆に、という李太子太傅からの打診は、おそらく皇帝の負担を減らすためだろう。

 今帝は、地方へ届ける些細な勅令の文書まで、自らの手で作成するという。それではいくら時間があっても足りない。忠臣が主の体調を危惧するのは当然だった。

 葆の臣として、文徳にもその思いはある。それに右筆ともなれば、その重い役目に見合うだけの俸禄が望める。


「皇城の近くにそれなりの邸を構えて、ひとを雇って……。どのくらいあれば足りるのかな」


 床に敷き詰められた紙を片づける文徳の脳裏に、薄墨に濡れた袖がちらついた。


「申しわけありません、林局長。なにか不足がありましたか」


 床の上から文徳が顔をあげると、開け放たれたままの戸口に少女が不安そうに立っていた。


「ごめん、しゅく。ただの独り言」

「そのようなこと! 私がやりますので、入ってもよろしいでしょうか」


 床を拭く文徳に気づいた宇粛が、顔を青くする。清掃や備品管理は、彼女たち典設局の仕事だ。


「もう大丈夫だから。あ、反故集めだね」 


 手を出そうとするのを断り、宇粛が持ってきた籠の中に再生に回す反故紙を入れようとして、文徳はすこし眉を寄せる。


「漉き返すには問題ないはずだけど、濡れている紙もあるんだ」


 皇城内の書き損じは集められ、選別ののちに環魂紙として生まれ変わる。こぼれた筆洗の水を吸い取った紙は、しっとりと重たくなっていた。


「こちらも反故ですか」


 宇粛が、先に書いたほうの『月』を拾いあげてたずねる。無造作につかんだ紙束から逃れ、無事だったらしい。


「あ……うん」


 籠の中に月が没むと同時に、房内がごくわずかに暗くなった気がした。何気なく見回すと、枝燭の一番高い場所にある灯皿から細い煙が昇っている。

 文徳の視線に気づき皿の中を確認した宇粛は、ほかのろうそくに火を点けた。淡い明かりが戻った。


「ろうそくが燃え尽きていました。新しいものをお持ちいたします」

「ありがとう。でも、いそがなくていいからね」


 一本くらいなくても不自由はしない。宇粛にそう告げると、彼女は「ですが」と眉をさげる。

 文徳は反故紙でいっぱいになった籠を指さした。


「環魂院にいるお兄さんが来るのでしょう。少しくらいなら、話せる時間があるんじゃないかな」


 宇粛はもとは後宮の官婢だ。それが諒元の立太子の際の恩赦により、身内の犯した罪を赦された。明麗のと縁で宮女の身分を得たのち、東宮府の典設局に異動してきたのである。

 同じように官奴として使役させられていた兄も、現在は官営の紙工房である環魂院の工人として働いているそうだ。ときおり反故紙を集めに来る兄にひと目会うため、宇粛が力仕事を買ってでているとは、文徳も伝え聞いていた。


「あ、いえ……。兄が当番とは限りませんが」


 そう言いつつも、落ち着かないようすが見てとれる。兄のほうも、二度と顔を見ることはないと諦めていた妹に会う機会を、一度でも多く作ろうとしているに違いない。


「それは行かなきゃわからないよ。ほら、早く」


 追い立てるようにうながすと、宇粛は籠を抱えたまま深々と頭をさげて出ていった。

 腰で木牌が揺れる女官服の後ろ姿に数年前の明麗が重なり、文徳は細い目をさらにほそめる。

 当時に比べると、後宮の女たちもいくらかの自由と権利が増えてきた。ともに皇城で働く兄妹が、互いの息災を確かめ合うくらいは問題ないだろう。それもこれも、文化も風習も異なる遠い西国から嫁いできた皇后と、女の身で仕官の志を捨てられずにいる明麗の影響が少なくない。


「いつか本当に官吏なったりして」


 また独り言をこぼし、文徳は筆を取る。いまやもう手癖となっている渦巻きを、延々と書き続けた。



 その夜。文徳の養父であるしゅう楽文がくぶんの邸を、劉剛燕が訪ねてきた。

 紙や書物を押しのけてあけた床で、熊と見まごう巨躯と向きあう。剛燕の前には彼が持参した酒が杯になみなみと注がれ、文徳の手元では熱い茶が馥郁たる香りをのぼらせている。

 それぞれが己の杯を口に運んで、感嘆のため息をはいた。


「うまい酒だ」

「高そうなお茶ですね」


 薬湯のように濃く出た水色すいしょくのわりに、喉を通ったあとには爽やかな香気が鼻から抜けていく。舌に残るかすかな渋みが眠気を覚ました。

 空になった杯を再び満たして、剛燕がニヤリと笑う。


「博全もたまには気の利くものを送ってくる」

「まだ永菻には帰られないのですか」

「夫人に宛てた書簡には、あと二、三の州を廻るとあったそうだから、しばらくは無理だろうな」


 李家の嫡子である博全はくぜんは、父が政の表舞台から退くと自らも中央から離れた。現在は監司として各地を転任し、財政の立て直しに奔走している。行く先々で、地方役人たちを震え上がらせているそうだ。


「それでは、李家の皆さまはご心配でしょうね」


 赴任に際し博全は、妻子を宮処みやこに残していった。夫人は日課のように文を送っていると聞くし、一人息子の英世はまだ父親が恋しい年頃だろう。

 文徳は両手の中で茶杯を静かに揺らした。底に残った茶がゆっくりと渦を巻く。


「まあ、妹が後宮を出れば、さすがに戻るだろうよ」


 水面から視線をあげると、剛燕が下から覗きこむように文徳を見ていた。

 なにかを含ませた瞳は、悪戯を思いついた悪童そのものだ。猛将と周辺諸国からも恐れられる三十路過ぎの大男のものには見えない。


「……どちらのご子息なのでしょう」

「知っていたのか。存外耳が早い」 


 鼻を鳴らした剛燕は、組み替えた足に片肘をつく。杯を軽くあげて先をうながされた。


鴻臚寺こうろじの官吏だということしか」


 数日前の退庁時、元同僚の文官に捕まり聞かされた話だ。李家のご令嬢に縁談があるらしい、と。

 おおかた、さっそく縁談相手に近づいてみたものの、相手にされなかったに違いない。眉の細さやほくろの位置など些細なことをあげつらい、「あの顔相では出世しない」などと悪態をついていたが、出自などはわからずじまいだった。

 しばらく訝しげな顔をしていた剛燕が膝を打つ。


「ああ、それは弟のほうだな」

「弟?」

「相手は、臨洶りんきょうにあるりゅうとかいう商人だそうだ。家は海運業でそこそこ稼いでいるらしい」


 臨洶といえば、永菻の南東州にある大きな港市だ。南方諸外国や海を越えた東の島国などとの交易も盛んで、この永菻にも、臨洶の港を介して多種多様な品が運ばれてきてる。

 柳家との縁組は、査察で赴いた博全から持ちかけた話だった。今宵の酒や茶は、父親の意向をうかがう書状とともに届けられたのだという。


「商人、ですか」


 文徳は、冷めきった茶で喉を湿らせてからどうにか声に出した。

 皇帝の妃にという話もあった明麗だ。これまで縁談を聞かなかったほうが不思議なくらいである。しかしながら、どれほどの大店だったとしても、葆で一二を争う名門李家の嫡男が、妹の嫁ぎ先に市井の者を薦めるとは意外だった。


「それで、太子太傅殿のご返答は?」

「まだだ。なにせ過去にも例がないだろうからな。当主として慎重になるのもむりはない。それに、陽媛ようえん殿は大反対していた」


 自身も古くから続く家門の出である博全の妻なら、その反応も当然だろう。家格の釣り合いがとれない縁組など、あってはならない。

 文徳の視線が、再び茶杯に落とされた。

 おもむろに剛燕が杯を置く。ひとつ咳払いをしたかと思うと、ひげが覆う顎をあげて奇妙な裏声で叫んだ。


「ぜったいに、あのをそんな遠くへお嫁になんて行かせません!」


 突然の奇声に驚いた文徳に、剛燕は片方の口角をあげてみせる。似ても似つかぬが、李夫人の声まねのつもりだそうだ。


「だそうだ。それが博全の目的なんだがな」


 水音のしない酒瓶をふり、酒気まじりのため息をはいた。


「安酒でよければ、お持ちしましょうか」

「おう。……いや、やめておこう」


 腰をあげかけた文徳を、剛燕が引き止める。安酒に不満があるのかと思えば、そうではないらしい。ついと膝を詰めてきた。


「太子の周囲には李家が多すぎる」


 太子太傅の宜珀、賓友として英世、そして明麗。現状で三名の李氏が東宮府に出入りしている。


「でも、それは……」

「そう、必要なことだ。望界ぼうかい帝の轍を踏まぬよう教え導くには宜珀殿が適任。若い英世は太子が帝位に就いたときの支えとなる。では、明麗は?」


 もちろん乳を与えた乳母ではない。学問に武芸、宮中作法とそれぞれに師がついている。しかし、ただの侍女というには関わりが深い。


「おそれながら――母親代わり、でしょうか」


 まだ年端もいかぬ幼子とはいえ次期皇帝だ。皇太子冊立の聖旨を賜ったときから、実母である皇后とは居殿を別にされた。そのことで母子の情が薄くなったという話は聞かないが、必然的にともにいる時が母親より長くなる明麗が、それに似た感情を抱いても不思議ではない。


「博全はそれが気に入らんのだ。このままいけば、李家がになってしまうと恐れているのだろう」


 遠い小国から嫁いだ皇后には、後ろ楯がないに等しい。だが世間は、李家が後見だとみなしている。実際そのようなものだ。

 歴史を遡ってみれば、外戚が大きな力を持ったがために国が乱れた例は枚挙にいとまがない。妬みにより、李家が佞臣や逆賊という汚名を着せられぬためにも、明麗を政治的に物理的に、皇家から距離をおかせることを博全は考えたのだ。


「あの家の方々が、殿下や葆のためにならないことをするはずがありません」


 それに文徳は異を唱える。膝の上に置いた手で、着古した深衣を握りしめた。


「だよな」


 それまで固い表情をしていた剛燕が、豪快に破顔する。


「俺もそう思う。第一、周りの声に左右されて正道を見失うようなら、それまでの器ということだ。義侑ぎゆうにも、仕えるに値しないと感じたらいつでも見限れと言ってある」

「将軍!?」


 思わず、ふたりだけの狭い房を見回した。老齢の楽文ははやばやと床についているはずだが、隙間だらけの古家では、どこから声がもれるかわからない。

 にもかかわらず、剛燕は平然と危うい話を続ける。


「それでもまあ、敵意が李家に向いているうちはまだいい。あの家の者なら、火の粉を払う方法はいくらでも思いつくだろう。厄介なのはその逆だ」


 びくりと文徳の肩が跳ねた。皇后にかけられた呪詛に関する一連の事件が思い起こされる。


「なにか、問題がおきたのでしょうか」


 文徳が尋ねると、剛燕は太い腕を組んで煤けた天井を仰ぐ。


「まだだ、と言いたいのだが――」


 さすがに声音を落としたので、文徳も膝を揃えて身を乗り出した。


「いまさらだが、太子殿下には異国の血が混じっている。それを快く思っていない輩がいるのは知っているな」


 黙って首肯する。髪や眼の色があきらかに葆の民とは違う皇太子が、雷珠らいじゅ山に封じられた龍の加護を受けられるのかと疑う声は、当人が暮らす東宮府にまで届いている。周囲が注意してもその気配は諒元にも伝わっているだろう。ときおり彼は、他人の目からその翠色の瞳を逸らす。


「そいつらが、皇帝の直子が太子一人では不安だと訴えだした」

「しかし、皇后さまはお身体を壊されたとか」


 諒元の出産以降体調を崩しがちな皇后は、表に出てくることが少なくなった。次の御子は望めないというのは、公然の秘密である。


「あいつらもそれを承知での奏上だ。また皇后に皇子ができても意味がないからな」


 婉曲に皇后の病状を示唆した皇帝に、「ならば妃嬪を置かれませ」とぬかしたのだと剛燕は鼻息を荒くする。


「陛下はなんと?」

「むろん、太子は健康に育っている、皇后以外に妃は不要と退けられた。それでもまだ食い下がるやつもいたが、俺が黙らせた」


 白虎に跨がり戦場を駆け抜けただの、大熊を素手で倒したなどという武勇伝が、まことしやかに噂される将軍に睨まれたその高官は、さぞや肝を冷やしたことだろう。あの眼光に耐えられる剛胆な者がどれほどいるか。

 まずは主上。それから夫人とその御尊父に、李家の面々。指を立てながら数えていた文徳は、思いのほか多いのかと首をひねった。


「だが、これで諦めるとは思えん」


 低い声が文徳の脇道に逸れていた意識を引き戻す。灯火が濃い陰影を作る剛燕の顔からは、すでに酒気は消えていた。


「東宮府に出入りする者は限られているが、念のためおまえさんも太子殿下の周りには気をつけてくれ」

「まさか、殿下の御身が危険だというのですか!?」


 自分の大声で、文徳は一気に目が覚める。慌ててふさいだ口から、早鐘を打つ心臓が飛び出しそうだ。


「わからん。はたして、そこまでの覚悟と度胸があるかどうか。ただやつらが、殿下を帝位に就けたくないと思っているのは明白だ。用心に越したことはないだろう」


 文徳は深く息を吸い、まだ速い脈を落ち着かせると頭をさげた。


「僕にお役に立てることがあるとも思えませんが、尽力いたします」


 幼い主の危機と知っても、自分には守るための地位や財産はもちろん、策を練る頭もない。そしてそれを口惜しく感じていることに、文徳自身が不思議に感じている。

 戦乱により家族とのささやかな暮らしさえ失い、生きているだけで御の字だったときから比べ、どれほど贅沢に、貪欲になったのだろうか。「上を目指さぬのか」という宜珀の言葉が脳裏によみがえった。


「いや、文徳。おまえさんにしかできないことがあるぞ」


 どこか揶揄するような剛燕の声は、文徳の無力感をあおる。

 文徳が胡乱げに顔をあげると、にやけた髭面が目の前にあった。


「早く明麗といっしょになれ」

「……意味がわかりません」


 いまごろ酒がまわりはじめたのだろうか。床に転がされた酒瓶を見やる。

 酔い覚ましに茶を淹れようと立ちあがった文徳の腕ががっしりと掴まれた。肩が抜けるかと思うほどの力で引かれ、倒れるように座らされる。


「俺は、いまの朝廷の状況を博全に伝えるつもりだ。あいつが知れば、一日でも早く宮処に帰ってこようとするだろう。戻ってもらわねば、俺が困る。腹の探り合いは、元来むいていないんだ」


 反皇太子派の真の目的はともかく、後嗣の心配は臣下の務めであり、そのための後宮である。彼らの正論を、正論ではねのけなければならない。様々な思惑が蠢く場所で宜珀や博全が担っていた役割は、直情的な武将の手に余るのだろう。頭をかきむしるようすから、剛燕の困窮ぶりが伝わってくる。

 文徳はきちんと座り直して、手を膝の上に置いた。


「博全さまが戻るため、明麗に結婚を申し込めというのでしょうか」


 この数年で後宮の則が見直された。年頃の娘たちは良縁を得れば嫁いでいき、老いや病などで宮仕えが難しい者も退宮を許されるようになったが、いまだ既婚の女官や宮女はいない。例外に先頃郷里に帰った乳母がいたが、それも夫を亡くしたばかりの寡婦だった。あとは奴婢に堕とされた者くらいだろう。表の官吏たちのように、通いで後宮に勤めることは不可能な話なのである。

 相手がだれであれ、結婚したら明麗は女官を続けられない。


「それだけでない。臨洶の商家の件は、いまならまだ「そんな話もあった」で済ませられる。だが、戻ると決めたら、博全は強引にでも進めるに違いない。そうなってしまえばおまえとの婚姻は難しくなる」

「でも彼女は、女官を辞めるつもりはないと思います。皇后さまと太子殿下のお傍を離れたくないと言うでしょう」

「永菻に留まれるんだ。華月のように訪ねていくこともできる」

「それではおふたりを守れません」

「そのふたりを守るためだ」

「明麗があの場所にいるのは、それだけのためではないのです」


 気づくと文徳は前のめりになっていた。真正面から見据ていた剛燕の目が細められる。


「……申し訳ありません」


 身を引いて、墨汚れのある袖口にみつけた深衣の綻びを爪で引っ掻いた。

 剛燕は先ほどよりも困惑を深くして、大きな歎息を吐き出す。


「わからんな。いっしょになりたくないのか? おまえさんと嬢ちゃんは好いた者同士だと思っていたぞ」

「え? ……あ、はい。したいです。したいと思っています。けど……」


 単刀直入に訊かれ、ごまかす余裕もない。袖のほつれは次第に大きくなる。


「それが彼女の望むことなのか、彼女のためになるのか、わからないんです」


 もとより、なにかの約束を交わしているわけではない。互いの想いを確かめたことさえない間柄なのだ。

 明麗がやりたいことを諦めてまで妻になる価値が、自分にあるとは思えなかった。

 しかめ面で聞いていた剛燕が、拳を床に叩きつけた。積み上げた書は雪崩をおこし、建て付けの悪い戸が震える。


「面倒くさい男だな。妻にしたいからする。ほかになにが要るというのか!」


 立ちあがると、ほんの数歩で届いた戸を勢いよく開け放つ。


「明日にでも博全のもとへ文を出す。早馬は使わずにおいてやるが、そこまで時はないぞ」


 剛燕の足音が消えてもまだ耳の奥に残る怒声を反芻しながら、文徳は灯火が照らす埃がゆっくりと落ちていくのを眺めていた。

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