第九集 玉璧を懐く
墨の香が満ちていく。ただ墨を摺るだけの無心になれる時間。唐突に、それを乱す者が現れた。
廂房まで届く大声には聞覚えがある。異国語で叫び、壊れんばかりに扉を叩く男は、おそらく牢獄にいた異国人だろう。
表に出た文徳が開門を迷っていると、男に負けず劣らずよく通る声が彼を呼ばわった。
「文徳、出てきなさい! ここにいるのはわかってるのよ!」
――そんなバカな。
思うより早く、文徳は動いた。けれど閂を外す手は焦るばかり。ようやく外した横木を放り投げる。
「明麗!?」
勢いよく開けた門の前に、大きな目を見開く李明麗がいた。その瞳の強さは、とうてい幽鬼などには見えない。
「やっぱりいるじゃない。どうして早く開けないのよ」
開口一番、文句を飛ばす。
「そんなことじゃなくって……」
死んだと聞かされた人間が、突然目の前に現れたのだ。戸惑うなというほうが無理である。
呆然とする文徳を横目に、明麗がいっしょにいた大男に何事かを告げる。すると異国人は奇声をあげて、文徳に抱きついた。肋骨が軋むほど強く回された腕から開放されたかと思うと、両手で文徳の手を包んで上下に振る。終始異国の言葉でわめいているが、何ひとつ解らない。最後にもう一度引き寄せられ、髭面を文徳の頬に擦り寄せた。さらに文徳から離れた異国人は、両腕を大きく広げながら明麗に近づいていく。
いやな予感がする。とっさに文徳は、彼の正面に立ちはだかった。
「こ、ここは葆国です! 古くから、郷に入っては郷に従えという言葉がありましてですね。この国では名節が重んじられ、
当然ながら、文徳の言い分もあちらには伝わらない。それでも必死に言い募ると、背後から明麗が肩を叩いた。
「大丈夫よ、文徳。ファトは別れの挨拶をしたいだけだから」
横に並んだ明麗が、文徳の言動を訳して説明する。ファトは大仰な身振りで相づちを打ち、頭を抱えて天を仰いだ。
その後、二言三言明麗と言葉を交わして、ファトは立ち去った。大きな背中が路地を曲がっていくのを見届けると、文徳の口から安堵のため息が吐き出される。
「なんで罪人といっしょにいたの。いや、それよりどういうことなのか教えて? 僕は、君が亡くなったと聞いて……」
「とにかく
「ここに住んでいるのは、僕独りだよ」
「知ってるわ。だから来たんじゃない。こんな場所で話すことでもないでしょう」
文徳に抱えていた布包みを押しつけると、さっさと門を通ってしまった。
明麗は、以前訪ねた周楽文の邸よりも小さい房子を物珍しげに眺め回す。華やかさの欠片もない、麻織の質素な衣。束ねただけの黒髪には、釵ひとつ挿していない。東宮府で見慣れた女官姿とまったく異なる装いだが、凛と背筋の伸びた立ち姿は間違いなく明麗だった。
何もない院子の中央に立つ彼女の手を、文徳は思わず掴んだ。そこから伝わるほのかな温かさが、秋の気配を含みはじめた風に心地好い。
「本当に、生きていたんだ」
死んだことが信じられなかった。それがいまは、目の前にある現実が夢のようだ。手で触れ、口にすることで実感する。
悪い夢から覚めたような気分でいる文徳に、明麗は嫣然と微笑んだ。
「李明麗は死んだわ」
文徳は握る手に力をこめた。そこには確かな温もりがある。幽鬼に触れたことなどないが、こういうものなのだろうかと首をかしげる。
「成仏できなかった、とか?」
明麗はむっとした顔で、眉間にシワを寄せた。
「李宜珀の娘で女官の明麗は、死んだの。ここにいるのは、ただの明麗」
「頼むから、わかるように説明して。君に、いったいなにが起きたのか」
瞳を覗きこんで尋ねると、明麗は泣き笑いのような表情になる。
ひと言では語れないという明麗を空の正房に案内し、ふたりは向かい合って座った。
「縁談があったの」
「聞いた。臨洶の商家でしょう」
「そう。やっぱり知っていたのね。じゃあ、わたしが冷宮に送られた話も?」
「だいたいのことは。……僕のせいで」
「それは、ちがう」
明麗はきっぱり否定し、冷宮に入ってからの出来事を語った。
笞刑で負った傷を癒やしていると、皇后が密かに訪ねてきた。そこで明麗は、事件のあらましを知ったのだという。
「わたしがあのとき書房を出ていかなければ。文徳の書を守るつもりが、あなたから名前を奪ってしまった」
「そうじゃない、明麗。僕の……僕が偽書を作ったからだ。当然の罰なんだよ」
「それだって、志範兄さまやわたしのためだったのでしょう? わたしのせいで文徳は、名前も官職も失った。だから――皇后さまにお願いしたの。「わたしを殺してください」って」
「なんで、そんなことを!」
怒りさえ覚えて明麗に詰め寄ると、明麗が睫毛の下から文徳の顔を見ていた。たっぷりと見つめ合ってから、小さな口がぷっと吹き出す。
笑いごとではない。彼女がいつもそうするように、文徳は眉根を寄せてしかめ面を作った。
「ごめんなさい。皇后さまと同じ反応をするから……」
文徳の処罰を聞き声を失っていた明麗に、皇后は、父宜珀が婚姻を理由に明麗の出宮を願い出ていることを伝えた。さらには、このまま冷宮に残るか、後宮を出て嫁ぐか、どちらかの選択を迫ったのだ。
「皇后さまは、君が女官に戻ることをお赦しにならなかった?」
「それだけのことしたもの。でも、あんな場所で一生を終えるつもりもなかった」
文徳には、冷宮がどのような環境にあるかを噂で知っているだけである。しかし鋭くなった顔の輪郭からは、そこでの苛酷な日々が容易に想像できた。
いつまでも冷宮にいるわけにはいかない。かといって、父親の言いなりで結婚するなど考えられない。そこで明麗は、そのどちらでもない、「李明麗」の存在を消すことを考えついた。
「柳家との話はなくなったと聞いたけど」
「知らされたのは、わたしが後宮を出ると決めたあとよ。そのときにはもう、あなたのところへ行くことしか考えられなかった」
この無謀な計画に手を貸したのは、ほかならぬ皇后だった。明麗が決意を告げると、あっという間に手はずを整えてしまったらしい。頃合いを見計らって後宮を出された明麗は、道中で偶然会ったファトを護衛代わりにして文徳のもとへやって来たのだ、と武勇伝を語るよう締めくくった。
「どうしてこんな……。女官の仕事は? 今すぐの復帰は無理かもしれない。でも、後宮を出てしまったら、もう皇后さまや太子殿下をお助けすることもできなくなるんだよ」
明麗が女官を続けられるようにと苦心してきた文徳は、つい責め立ててしまう。自身も鞠躬尽瘁の佩玉を返上し、太子に書を教えるという役目を放棄しているではないかと思い至ったのは、くちびるを噛みうつむいた明麗の、睫毛の先のかすかな震えに気づいたあとだった。
「わたしは皇后さまのご信頼を裏切ってしまった。殿下よりあなたの手蹟を――あなたを選んだの。だから後宮にはいられない」
憂いを帯びた面差しは、疲労の色をみせていた宜珀や博全の悔しげな表情を思い出させる。
「李家の方たちは知ってるの? そうだ。知らせないと! 李太子太傅殿なら、陛下に執り成してくださるかもしれない」
腰をあげた文徳の袖を、明麗が掴んで引き止めた。
「必要ない。あの家にもう、わたしは必要ないのよ」
懲罰を受けた、商家との縁組もまとまらない娘など、駒としての価値もない。家名を汚したとさえ考えているはずだ、と他人事のように冷静な評価を下す。
明麗はほどいた荷のなかから軸を取り出し、文徳の前で紐解く。
「皇后さまのもとへ「
それは、あの「明」だった。柳子喆に渡したものが、博全の手を経て明麗に届いていたのだ。
「じつはね。だれかを陥れるためではなかったとはいえ、文徳が偽書を作ったと聞いて、今までのようにあなたの文字を好きでいられるか不安だった。でもわたし、間違っていたのね。文徳の書く文字が好きなのではなくて、文徳が書いた文字だから好きなんだわ」
乾いてもなお瑞々しい墨蹟にやわらかく触れ、明麗は声を潤ませる。
「こんな字をみたら、思いあがってしまうじゃない。わたしはまだ、あなたに望まれているんだ、って。――自惚れてもいいのよね」
「明」という文字は、天高く輝き決して手の届くことのない
そこにある間は自分だけを照らす、玉璧のごとき明るい月を。
「ほら。こっちのほうが断然わかりやすいでしょ!」
通りに面した壁に掲げた紙を眺めて、明麗は得意満面で顎先を上向けた。視線の先では、紙のなかで筆が舞い、くるくると墨線を書いている。絵はもちろん明麗が描いたものだ。
その隣の、雷珠山から吹き下ろされる寒風に裾をはためかす、文徳が書いた「書の仕事」を募る貼り紙をしげしげとみつめた。
「なんで、これじゃあダメなんだろう」
親切丁寧な仕事をするという想いをこめたつもりだったが、いっこうに依頼は増えない。その理由がこの文字にある、と明麗はいうのだ。
「書きものを頼むひとは、字が読めない可能性があるの。どんなに上手な文字で書いても、内容がわからないのでは困るじゃない」
文字の国と呼ばれる葆国でも、まだ読み書きが不自由な民は多く存在する。街中にも、絵を看板に併記している店舗は少なくなかった。
「でも、禁字があるから長い文章は承けられないし」
林、文、徳の三文字が使えない。写本や書簡などばかりか、命名書でも断らなければならなくなる場合も出てくるだろう。注意書きを細々と書きこんだら、それもいけないと指摘された。
「こまかいことは、声をかけられてから説明すればいいの。情報が多いというのも善し悪しよ」
文字だけの広告もしっかり貼り直すと、壁から二歩ほどさがり、満足げにうなづく。
「そんなことより、今日こそは李家に行ってもらうからね」
「何度も言ったでしょう。あの家とはもう関係ないの。二度と会わないわ」
明麗の決意は固い。せめて文を、と文徳が説得しても、聞き入れてはもらえなかった。
博全と約束したように、志範の遺書の存在は彼女にも教えるつもりはない。ただ、博全もあの閑道にいたことを知っている明麗は、なにかを勘づいているのかもしれなかった。だからこそ、よけい頑なになるのだろう。
「あの……」
塀に向かって幾度となく繰り返してきた言い争いを続けていると、後ろから声がかかる。ふたり同時に振り返ると、母子連れがいた。赤子を背負い、もうひとりの少年とは手を繋いでいる。
「たしか
次男が生まれた際、命名書の依頼を承けた家である。背中にいる赤子がその子だ。肉屋の妻は長男を文徳たちの前に押し出し、筆の絵を指さす。
「この子がね、先生に書いていただいた命名書を見て、こんなふうに自分の名前を書けるようになりたいなんて言い出したんですよ。よかったら、字を教えてやってもらえませんかね」
待望の教え子候補だった。
「もちろんです! 君、名前は?」
腰を折り曲げて子どもに視線を合わせ、文徳は尋ねる。たしか次男の名は『
「顔
少年は誇らしげに名乗る。一転して、文徳の表情が曇った。
「え……。すみません、僕は「徳」が書けません」
ごくありふれた文字が書けない書の指導者などありえない。母親は戸惑い、長男を引き寄せた。すると明麗が、少年の手を両手で握る。
「顔徳! 人徳、美徳、福徳の徳ね。とっても良い名前。まかせてちょうだい。『徳』ならわたしが得意よ。林
「ちょっと、明麗! 採試って、僕はそんなつもりはないよ」
文字を識らないために不当な扱いをされないよう、そこにほんの少し、書く楽しさを教えられたらいい。そう思っているだけだ。
「何事も目標は必要よ。それも、大きいほうがいいわ」
「そういうことは、せめて粥くらい作れるようになってから言ってもらわないと」
「今朝は、ちゃんと食べられたじゃない」
胸を張るが、あれは粥というより
彼女の生活能力は、後宮にいたころと比べればいくらか向上してはいたが、いまだに紐は固結びか縦結びで、茶は薬湯のごとくまずい。
「あの……林先生」
止まるようすのない口論に、顔徳の母親が口を挟む。
「こちらの
二十歳を過ぎたとはいえ、明麗は若々しい。風采が上がらない文徳との関係を考えあぐねているようだ。
文徳はいったん高い空を見あげる。中天で輝く太陽のまぶしさに目を細めると、隣にいる明麗に視線を戻した。
「いえ。僕の妻です」
【 完 】
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