ぬらりひょん 2

 思わぬところで余暇が出来た。入道雲に戻ると、百鬼夜行の妖怪たちはすっかり宴を始めるつもりでいたもので、ふざけた調子で文句を言ってきた。しかしそれも月見酒と聞いて期待に胸を膨らませる。妖怪たちに東海道が人気なのは八咫烏の宴のお陰でもあるのだろう。派手好きと自称するだけあって絶品珍品が勢ぞろいする。

 月が膨らむまでの数日、京にあやかしが増えた。その多くは友人を尋ね、一足早く宴を始めていた。化けるのが上手い狐や狸は人に紛れて京の町の変化を楽しんだ。長屋に紛れ込んだ付喪神に首を傾げる奉公人も各地で見られた。そこに市女笠の奥方の姿はない。

 茨木も例にもれず、入道雲を一人離れ京に降り立った。日も沈む頃、六角通りの甘味屋で餡と黄粉のおはぎを手に入れて、古い友人の気配が色濃く残る神社へ向かう。墓参りと行きたいところだが、奴は自分の墓すら有耶無耶にしていなくなってしまった。薄情で合理的な思いやりは食えないあの男らしくてどこか可笑しい。

 ちょろちょろと流れる堀川に沿って上っていると、ふと野狐の姿が脳裏をよぎった。力のない、何も知らない、それでいて大祓を生き延びた野狐だ。折角なので誘ってやろうと足を止め行く道に背を向けると、先ほど通り過ぎたばかりの堀川に恐ろしい形相の猿が立っていた。

 身の丈九尺はあろう。咄嗟に左右を伺い、通行人の視線を確認した。人通りが少ないとはいえ、夕暮れの京の町に異形の姿はよく目立つ。すん、と狒々の鼻が鳴る。

「なんだ狒々か。話なら」

 場所を変えようと提案する前に、茨木は地面を蹴った。反射で避け損ねた拳が頬をかすめ、鈍い痛みと共に血が滲む。崩れた体勢を手で支え、脚をぐるりと回して起き上がる。懐から転げ落ちたおはぎが堀川に流れており舌を鳴らした。

 狒々の両目はまっすぐに茨木を睨みつけていた。間髪開けずに頭よりも大きな平手を振り下ろす。茨木は後ろに飛び、堀へ着地した。続けざまに追いかけてきた狒々の手が川底を抉り、跳ね上がった飛沫が通りまで散る。轟音に驚いた人間の悲鳴が響いた。鳥は羽を広げてどこかに飛び去って行く。

 狒々は息を荒げて肩を上下させている。憎しみの込められた目は僅かに濡れていた。

「やはりお主だったな茨木」

「なにがだ」

「ほざけ」

 狒々は再び鼻を鳴らし皺を寄せた。歯をむき出しにした口の端から涎が垂れている。話を聞こうにも、次々に叩き込まれる拳でろくに会話ができない。先ほどの悲鳴も気になる。人通りは少なかったが堀を覗き込まれたら化け物の存在は一目瞭然だ。人目を避けるため狒々を橋の下に誘導するには何発か腹で受け止めねばならなかった。

 水しぶきや音は誤魔化しようがない。人間は喧嘩と判断したのか不用意に覗き込んでは来なかった。代わりに近付く複数の足音は奉行所の人間か。面倒なことになった。目撃人数が多いほど誤魔化しようがなくなる。

 狒々の巨体から繰り出される重い一撃を余分に受け止める。優先するべきは橋の下に身を隠すことだ。狒々の目は血走り、鼻息も荒い。その両手が茨木の首を押さえつけ、ぎりぎりと締め上げた。

「見損なったぞ卑怯者め」

 しかし、生憎と茨木には忍耐力というものが欠如していた。

「あぁ?」

 一瞬であらゆる思考が吹き飛んだ。切れた口の中に滲んだ不味い血を吐き出す。

 不愉快だ。人間に姿を見られたとしても、やり返さなければ腹の虫が収まらない。頭に上った熱で指先まで血が巡る。指の関節を鳴らして鋭い爪に力を込めた。

 と、辺り一面に大量の赤提灯が浮かんだ。何事かと左右に注意を逸らした狒々の腕を掴み、そのまま爪をめり込ませてゆく。茨木はもはや人間の足音が遠ざかっていることにも気付かなかった。

「ちょ、ちょお待てえや!どないなっとんねん!」

 二人の間に烏の黒羽が落ちる。掴んでいたはずの肉が手の中から消え去り、茨木は舌打ちした。狒々を庇うように羽を広げる八咫烏も苛立たしい。喧嘩を吹っかけてきたのは狒々だ。沸き立つ敵意で睨むと同時に喉が鳴る。

 瞳孔が開ききった茨木を前に、八咫烏は狒々へと視線をやった。こちらもこちらで止まる様子は見られず、憎々しげに息を荒げている。

「こらあかん……」

 両者ともろくに話ができる状態ではない。仲裁に慣れているはずの八咫烏も頭を抱えた。すばやく判断するやいなや、翼を広げてはらはらと羽を落とした。抜け落ちた黒い羽は地面に落ちることなく細い黒紐へと姿を変えて、狒々の手足を縛り上げていく。黒紐に抵抗し暴れる狒々が川の水を乱したが、そう簡単には解けない。

「やめろ八咫烏、儂はこいつを倒してやらねば気が済まぬ!」

「すまんけどあとで聞くな」

 八咫烏に話を聞く余裕はなかった。瞬きも惜しいほど茨木童子から目をそらせない。狒々と同じように縛り上げたはずの四肢には無残に千切られた黒紐がひっかかっている。馬鹿力め、と悪態を付きたくなった。八咫烏は眼中になく、浅い川に転がされた狒々を見下してにたりと笑う。

 一歩、また一歩と狒々に近寄り、鋭い爪で切り裂こうと振りかぶった瞬間。

「手前はちょっと大人しくしてろ」

 茨木の体は横に吹き飛び、両手足がだらりと垂れた。川の水で着物が色濃く染まりゆく。

「紫暁!助かったわ。どないなるんか思たで……」

 八咫烏はすっかり気を緩め、胸をなでおろした。紫暁はそのまま気絶した茨木を肩に担いだ。乱れた着流しの裾が川に濡れていた。

「こんなんお互い様だろ。茨木が悪かった」

「ええねんええねん。茨木はどうしたんや。いっつもすかしとんのに」

「……まあ、喧嘩っ早いのは元からだ」

 眉間に皺をよせ、空いたもう片方の手で狒々も持ち上げる。縛られてもなお身をよじって抵抗していたが、紫暁は意に介さず地面を蹴った。八咫烏は横で羽を広げており、羽ばたくたびに赤提灯が道を作る。東へ続く空の一本道は鵺が待つ糺の森に繋がっている。紫暁が堀川まで八咫烏を追いかけてきたのは、糺の森を訪れるやいなや烏たちに騒がしく急き立てたからだ。

 そもそも八咫烏への話も恵西山関連である。鵺が訪れた恵西山は前評判通り静かなもので、松ヶ枝神社の狛犬から信じがたい話を聞いたという。

「狗神が逝ったらしいな」

「……ほんまかいな」

 赤提灯の道を駆けながら告げた紫暁に、八咫烏だけでなく狒々も目を見開く。狒々と争う狗神が消えたことで恵西山に静寂がもたらされたのだった。名物と言われた犬猿の対立は不自然に終了し、何故かその恨みが茨木に向けられている。

「狒々。話してくれるな」

 狒々はがくりと項垂れ、それ以上は抵抗しなかった。

 夕暮れの糺の森には参拝客や神主の姿がちらついている。しかし八咫烏が浮かべた赤提灯に気付く者は一人もいなかった。赤提灯が紗幕のような役割を果たしており、体の大きな鵺や狒々が見咎められることもない。総大将は鵺の横に茨木を降ろし、狒々は赤提灯の中心辺りに降ろした。意識を失っている茨木をみた鵺は大体察しがついたのか、やれやれと息を吐く。朱音がいればこうなる前に止められただろうに。

「狒々、そしたら話を聞かせてくれへんか」

 八咫烏は柔らかい口調で問いかけた。声音やまなざしまでもが思いやりに満ちており、裏がないことは他でもない狒々が良く知っている。後ろ手に縛られた狒々の口が震え、ぽつりぽつりと話し始めた。

 狗神には狒々の他に敵と呼べる存在なんていなかった。松ヶ枝神社の神仕として尽くし、脈々と続く恵西山の人間を守っていた。狗神という妖怪が生み出された過酷な状況を鑑みれば人間を恨んで然るべきなのに、確かに人間を愛していた。

 だから亡骸を見つけた時、狒々はまず己の目を疑った。狗神を憎んでいるのは己だけではなかったのかと立ち尽くした。狗神は後ろから袈裟に斬りすてられ、血の海の中で胴体が上下に分かれていた。亡骸の周辺は綺麗なもので、抵抗の跡が見られない。気の置けない知り合いに背を見せたところを突然斬られた、と考えるのが妥当だ。

「かの茨木童子がどうしてわざわざ手を下すんだ。あんまりじゃねえか、なあ」

 狒々の視界が滲む。いけ好かないあの男には狒々が直々に引導を渡す予定だった。狒々の縄張りに後から入ってきたくせに、我が物顔で松ヶ枝神社を歩き回っているのが我慢ならなかった。毎度決着が付かず仕留めそこなっていたことも気に入らなかった。だが、そうやって永遠に争うのだとも思っていた。

「待て、待て。そもそもそれは何時の話だ。俺たちが京へ入ったのは昨日だぞ」

 総大将は狒々が話し終わるのを待って顔をしかめた。身内をかばうつもりはないが、茨木には動機がなければ根拠もない。

「あれは今月の三日だった」

 狒々は下手人が茨木だと確信していた。砂利に横たわる茨木への憎々しげな目線がそれを物語っていた。まずは誤解を解かなければならない。

「三日なら俺たちはまだ桑名にも着いちゃいなかった」

「ほな茨木とちゃうな。紫暁の目を盗んで京との往復はできひんやろ」

 うんうんと頷く八咫烏に対し、狒々は押し黙った。眼光は鋭く緊張が解けない。理屈は理解できるのだろうが、奥歯をかみしめ言葉を探している。

「……だが、儂の鼻はごまかせぬ。狗神からは茨木の香りがしたのだ。……本当だ」

 悔しそうに項垂れる狒々は真実を語っているようにしか見えず、八咫烏は首を傾げた。狗神の遺体に茨木の移り香があったとして、埋葬も終えた今となっては消え失せているだろう。かといってこれだけ確信を持っている狒々の鼻を疑う道理もない。

 そもそも、茨木は朱音が戯れに持たせた時くらいしか香を纏うことはない。馴染み深い市販品ならば狒々が気付いて然るべきであり、茨木の持ち物が悪用されたのだとすれば何かが盗まれた事になる。

 そして紫暁はとある可能性に行き当たる。

「……まて、狗神が死んでいたのは松ヶ枝神社の境内か」

「そうだ。あやつが守っていた神社で殺された」

 それがどうした、と狒々は顔をしかめる。狗神は松ヶ枝神社の神仕だったのだから、当然の帰結である。しかし紫暁にとっては違う。深い呼吸で動揺を抑えつけながら、振り返ることなく鵺に問いかけた。

「まさか、松ヶ枝神社の御神体が盗まれていたんじゃねえだろうな」

「……よくわかったな」

 鵺が訪れた時、松ヶ枝神社は静かなもので神仕と御神体を失った狛犬たちが困り果てていた。まさにそれを八咫烏に相談しようとしていたのだ。狗神を殺した何者かは御神体も盗み去っている。

 紫暁に遅れて、鵺もその可能性に思い至り息をのむ。

「この件、俺に預けちゃくれねえか」

「……そら、まあ、ええけど」

 戸惑いながら答えた八咫烏は、ちらりと狒々に目をやった。怪訝そうに紫暁を見ているがもう敵意は感じられない。解いてやった黒紐は風に溶けるようにして消え去った。

 いつの間にか日が暮れて、空が鮮やかに色づいていた。夜に浮かんだ雲の西側だけがまだ朱い。御神体を取り返すことを約束すると、狒々は不承不承恵西山へと引き返した。茨木への疑念は犯人を明らかにするまで消えない。

 八咫烏は何かを勘付いたのか、詮索することはなかった。代わりに、いつでも力になると言って羽を揺らした。宴までにどうにか片をつけて無事に百鬼夜行が終わればいい。宴の準備は順調で、各地の名品が続々と京に集まっていた。

 茨木を背に乗せた鵺と共に夜空を駆け上る。上空には形を変えながらも入道雲が留まり、主人の帰還を待っている。糺の森から十分離れると、鵺はちらりと目くばせをした。

「紫暁」

「分かっている……嫌な方向に繋がってきたな」

 胸の内に苦いものが広がった。これは自分たちの手で解決せねばなるまい。八咫烏の前で黙っていたのは英断だ。

「どういうことです」

 もぞもぞと鵺の背中で茨木が体を起こした。真面目そうな顔にもどっており、四肢に絡んだ黒紐をぶちぶちと引きちぎっていく。途中で意識を取り戻したときは狒々に殴りかかるのではないかと肝を冷やしたが、狸寝入りを続けてくれてよかった。

「御神体の香りなんてしますか」

 頬に土をつけたまま、自分の腕に鼻を埋める。香りなんて繊細なものが分かるはずもなく、首を傾げた。川の水で濡れたままの着物を絞り、町に雫が落ちる。町人の上に降らなきゃいいが、と雫を目で追ったがすぐに見えなくなった。

「狒々が嗅ぎつけたのは浄化の力だろうよ。松ヶ枝神社の御神体は破魔の太刀だからな。それもその刀の真打だ」

 紫暁は茨木の腰に下げた太刀を指で差した。平安の都で打たれた破魔の太刀は帝に献上された後、神社に奉納された。手元にあるのは晴明から譲り受けた影打である。狗神は盗んだ真打によって斬り伏せられたのだとすれば、その清らなる香りを茨木のものと誤認したのも頷ける。

 それなりに力のある狗神が抵抗した跡もなく後ろから斬られたのは、相手が知り合いだったからだと狒々は予想した。だが抵抗の跡がなかった可能性はもう一つある。下手人が狗神よりも圧倒的に強い場合だ。しかも破魔の太刀に執着しているとなると、どうしてもある影が頭をよぎる。破魔の太刀は、大妖が自害するための数少ない手法の一つだ。

「まだ戻ってねえのか」

 入道雲に戻るなり見慣れた市女笠を探すも、あやかしたちが不思議そうに見返してくるばかりだ。足音も荒く几帳を払いのけて、淡い期待も砕かれた。一体いつからいないのだろう。

 妖怪の多くは京に出掛けて姿もまばらである。様子のおかしな総大将に小鬼や付喪神が遠巻きに眺め、ひそひそと囁き合った。

「なんじゃ揉め事か」

「ほれ茨木も土塗れじゃ」

「喧嘩かのう。見たかったのう」

「いやいや遊んでおったに違いない」

 小鬼の噂に河童も横やりをいれる。三つ目が夫婦喧嘩だと野次を飛ばせば、八咫烏に無理難題を吹っかけられたのだろうと唐傘が笑った。話の輪は自然と広がり、一同が総大将に注目する。口はふざけていても、総大将の纏う怒気には気付いていた。

「最後にあいつを見たのは誰だ」

 紫暁は振り返ることなく妖怪たちに問いかけた。努めて冷静に、いくつか息をのみ込めば、普段通りを装うくらいはできる。骨の長椅子に腰掛けるとがちゃがちゃと乱雑な音を立てた。鵺が難しい顔で首を左右に振る。腕を組んだ茨木が促せば、何人かがぽつりぽつりと声をあげた。

「尾張のあたりで三味線を嗜んでおられた」

「儂も聞いたぞ。美しい音色じゃった」

「草津の土産に最中を渡そうとしたらもう出掛けておったな」

 少しずつ場が賑わう中、巫女装束の狐が頬に手をあてた。

「桑名で出掛けられていましたよ」

 そうよね、と隣の狐にも確認する。狐は緊張して上手く話せず、首を上下に振った。今度は呼応するように猩々がのそりと巨体を起こした。

「ああ、あれは桑名だったかの。高位の付喪神に会うと言っていたが」

 猩々の横では篠笛の付喪神がぴょんぴょんと跳ねている。話せないながらどうにか頷き、ぴいひゃらりと音色を奏でた。

「桑名以降見かけた者は」

 茨木は全員に向けて声を張った。互いに顔を見合わせ、あるいは記憶を手繰るも誰も手を上げない。桑名ならば茨木の記憶とも大体一致する。朱音が消えて一週間近くたった。

「百目鬼」

 長椅子で肘をついていた紫暁は鈴持ちを呼び出した。へい、と進み出たのは体中を包帯で巻いた優男であった。体を動かすのに合わせて担いだ竹の鈴が鳴る。

「探せるか」

「……やってはみますが、期待せんでください。奥方には目くらましの市女笠がありやすから」

「いい」

 紫暁の合図とともに百目鬼はするりと包帯を解き、傷だらけの肌を夜風に晒した。縦横に走る傷が大きく開き、体中を蠢く目がぎょろりと辺りを伺う。もっとも遠くを見通す百目鬼の目は四半刻ほど動き続けたが、朱音が見つかることはなかった。申し訳なさそうに頭を下げる百目鬼を労わると、眉間の皺を深くする。

 これは極めて個人的な事情だ。松ヶ枝神社の狗神殺しについては鵺と茨木に任せられるが、朱音の件は自力で解決するべきである。

 心を決めた紫暁は手始めに桑名で話を聞こうとしたが百目鬼に引き留められた。笑いながら力になると言うその後ろには他のあやかしも順番待ちのようにずらりと並んでいる。百鬼夜行の妖怪も、そして話を聞きつけた八咫烏を代表とする京あやかしも加わって朱音の行方を辿る。普段好き放題している彼らが協力を申し出るような妖怪だったとは知らなかった。

「どや、恩を売ってきた甲斐あったやろ」

 にやりと八咫烏が揶揄ってきたが、ありきたりな感謝くらいしか出てこない。かっか、と八咫烏は笑った。

 妖怪たちが集めてくれた情報を受け取るため、紫暁は入道雲の中で知らせを待った。体を動かさねば焼けつくような焦燥が消えないというのに、鵺や茨木に窘められてじっと留まった。ただの一週間しか経っていないのに、もう長い間声を聴いていない気がする。

 調べれば調べるほどきな臭く、消え去ってほしい杞憂は徐々に確度を上げていった。先の上弦に朱音は確かに桑名に降り立った。桑名にいた能面の付喪神によれば、その後海岸に向かっていたそうだ。しかし足取りはそこで絶え、不自然としか思えぬほど煙のように消えている。日に日に膨らむ月はもうすぐ真円を描くだろう。

 叢雲が朱音を連れて行こうとしている。決定的な証拠は何一つないが、紫暁には分かった。気休めの慰めは要らなかった。叢雲のことなら他の誰より知っている。

 二人寄り添う来世への旅路は甘く穏やかな幸福を伴うのだろうか。それともざまあみろと胸がすく思いで笑って見せるのだろうか。いや、命を捨てて守った女を奪い返すのだから、きっとその両方なのだろう。

 あるいは朱音にとってその方が幸せなのかもしれない。叢雲は誠実で実直な男だ。行き倒れた柏木の命を救ってくれた。柏木だけではない。あの時代に忌み嫌われていた妖怪たちを土御門の屋敷に招き入れ、仕事を与えた。土御門の役目だからでもあったのだろう。だが、そこには確かに慈悲と尊重があった。叢雲はまっすぐに依姫を愛していた。それにたとえ今の朱音が拒絶したとしても、呪の前では無力だ。

 奪っておきながら、未だに迷いがある自分に驚く。後悔からか気後れかあるいは月の光がそうさせるのか、待つだけの時間は余計なことばかり浮かび煩わしい。大事な人を失う覚悟をしなければならない。それは朱音かもしれないし、叢雲なのかもしれない。朝日と共に瞳を閉じて、まどろみに身を任せた。


***


 京の町は朝から賑わっていた。今宵は中秋の名月とあって、見廻組の連中も浮足立っている。夜の宴に向けて団子屋に行列ができ、河原では芒を集める子供の姿が見えた。

 京の上空に留まり続ける巨大な入道雲を不審に思う者はいなかった。入道雲は移動しながら形を変えて同じ空を動き続けているのだった。昼間の太陽光を遮り淡く落ちた影の中、妖怪たちが安らかな寝息を立てている。時折混ざる大きないびきも目覚ましには役不足で、顔をしかめたあやかしもいたが重い瞼は開かない。

 上下に動く幾多の背の横を、一匹の野狐が歩く。足取りが覚束ず、時折よろめいてはあやかしにぶつかり転がった。乾いて固まった土がこびりつき、汚い毛並みの狐だ。よく見れば体の表面には細かな傷がついて血が滲んでいる。そして、小さな瞳からは涙が溢れてやまない。

 眠るあやかしたちの間を抜ければ百鬼夜行の総大将がいる。その左右には茨木童子と鵺の姿もある。野狐は足を止めて、おろおろと左右を行き来し八の字を描いた。総大将は膝を立てて眠っている。覗き込んでみると前髪の下は難しい顔で声をかけにくい。ならば鵺はどうかと近寄り、涙を振り払って前足を伸ばした。

「ふふっ」

 前足が触れる前に、絡み、縺れ、野狐は横に倒れた。自分の足を束ねる白い糸の先を辿れば、女郎蜘蛛が顔に笑みを張り付けて糸を手繰り寄せている。

「美味しそうな狐じゃのう」

「!」

 野狐は声を上げようとしたが、口に巻き付いた糸が阻む。ずる、ずる、と引き摺られ、ただ恐怖に震えた。狐火も出せない野狐には糸を燃やすことができない。そもそも長い距離を移動した後で、もう腕を持ち上げる気力さえ残っていなかった。

 女郎蜘蛛は愛おしげに野狐を抱きかかえ、縛り上げた糸の上から何度も体を撫でた。つかまえた、と紅を引いた形のいい唇が動く。野狐は固く目を閉じた。

「女郎蜘蛛、何してる」

 その時、眠っていたはずの総大将が体を起こした。あまり眠れていないのか、疲れた表情で眉間を揉んでいる。女郎蜘蛛は狼狽えることなく、人形にするように野狐の体を抱き締める。腕の中に押さえつけられると、わずかに四肢を動かすこともできなかった。

「総大将、別によいじゃろう?野山の動物くらい、みな食うておるではないか」

「そいつは駄目だ。放してやんな」

 総大将は瞬きする間に女郎蜘蛛の目の前にやってきた。ぎくりと固まった女郎蜘蛛とは対照的に、欠伸をかみ殺して野狐を優しく引き剥がす。こんなにも震えて、憐れなものだ。絡みついた糸を少しずつ解いてやると、野狐は総大将に縋るようにして大粒の涙を流した。言葉を詰まらせ、嗚咽が息をも止める。何とか口を動かすたびに、こん、こん、と鳴き声が混ざった。

「お、奥方様が……」

「……何?」

 思ってもみない言葉が飛び出して、ぴしりと場が凍る。茨木と鵺もこの騒ぎに遅れて体を起こした。野狐の言葉を待つも涙を流すばかりでなかなか続きが出てこない。じりじりと後ずさる女郎蜘蛛を紫暁は見逃さなかった。

「手前、なにか隠してるな」

「はて。……わらわは山に降りようかのう。腹が減って仕方がない」

 女郎蜘蛛は首を傾げ、腹を軽くなでた。くるりと踵を返してあやかしの間を八本の足で駆けるが、すぐにその背を茨木が捕らえる。綺麗に結い上げられた女郎蜘蛛の髪を掴み、身動きできぬようきつく腕を固めた。唇の端から呻き声が漏れた。

「何をするのじゃ。おお、痛い……痛いのう」

 それでも女郎蜘蛛は微笑んでいた。もとより掴みどころのない女だが、やはり何か様子がおかしい。どう吐かせたものかと腕を組んだところで呑気な声が遮った。

「何じゃあ、女郎蜘蛛が裏切っておったか」

 ふらりと現れたのは土産を肩に下げた天邪鬼だ。人間に近い時間で生活している彼は、他の者より早起きで昼間も町へ降りていた。帰ってきたところにこの騒動である。

「……何を言うておるのじゃ」

 とぼける女郎蜘蛛に、天邪鬼は腰に手を当て深く息を吐いた。余計な疑惑をかけられぬように黙っていたが、結局疑惑の方が正しかったようだ。

「お主、奥方に桑名の付喪神の話を教えておったではないか」

 聞くや否や女郎蜘蛛を押さえつける茨木の手に力が込められた。苦痛に呻き項垂れたがそれも一瞬のことで、再び顔を上げた時には笑顔を張り付けている。桑名におびき出すところから仕組まれていた。連れていた狐を取り逃がしたことだけが叢雲の失態だ。

「ふふっ……このような力のない狐が一番探しにくいのじゃ。一度目を離せばすぐに野山にまぎれてしまうからのう」

 もはや誤魔化すつもりもない。くすくすと乾いた笑い声をあげて、しかし血の気の引いた顔で震えている。茨木童子はぞっとするほど冷たい目で、腕を掴んだまま女郎蜘蛛の肩に足をかけた。そのまま力を込めれば腕が胴から離れるだろう。この男はやろうと思えば容赦なく情報を吐かせるのだと女郎蜘蛛は知っていたがそれでも押し黙った。強く噛んだ唇から血が滲んだ。

「……やめろ茨木」

 今にも腕が胴から離れようとする間際、総大将が手のひらで制した。女郎蜘蛛とは付き合いも長く、よく知っている。掴みどころがなくとも、信頼に足る女だ。茨木を前にこの気迫ならば、一切口を割るまい。

 騒ぎの大きさに他の妖怪たちも目を覚まし始めた。ただならぬ様子に横で寝ていた妖怪を起こし、互いの顔を合わせ、ひそひそと会話する。更に隣の妖怪へその隣へと伝播する。

「たしか手前にゃ子が十二いたな」

「……今は十じゃ」

 ぎくりと固まった茨木の下で、女郎蜘蛛の声は震えていた。たりない数字が、あるいは残った数字が女郎蜘蛛の決意を支えている。蜘蛛の巣に蜘蛛が囚われ、身動きも出来ずに死の覚悟を決めるほかなかった。

「そんなとこだと思ったよ」

 目で合図すると、茨木は女郎蜘蛛から腕を離した。解放されたところで立ち上がる気力もなく、女郎蜘蛛は細い腕で体を支えた。乱れた髪が頬に落ちる。

 紫暁は女郎蜘蛛の側に座り込み、軽く肩に腕を乗せた。野次馬根性で覗き込んでいた妖怪達には、しっしっと手を払う。総大将の指示とあって、名残惜しそうにしながらも律義に方々へ散った。

「面倒な役目を負わせたな」

「総大将……あれは恐ろしい男じゃ。あの男の前ではどんな宝も誰の命も全て塵芥と捨てられる」

 女郎蜘蛛はどこか自虐的に笑った。一方的な命令に従ったって我が子の安否も分からない。総大将に協力しようにも、叢雲が何処で何をしようとしているのかも分からない。

「わらわは何も知らぬよ。野狐を総大将に会わせるなと言われただけじゃもの」

 それも失敗した今、頼れるのは目の前の男だけだ。勝手な願いと分かっていながら女郎蜘蛛は頭を下げる。頷いてくれたことが、嘘でも嬉しかった。

 鵺の足元では野狐が人にも化けずにぐったりと倒れている。叢雲の元から逃げてきたのであれば朱音の居場所を知っているはずだった。しかし野狐は、自分への期待に気付いているのだろう、ふるふると首を振った。

「いいえ、いいえ。分からないのです。ぐるぐると目が眩む森で、自分が何処にいるのかも分からず、紺は、せっかく隙を見て奥方様が逃がしてくださったのに、紺は、何も……」

 何度も頭を下げて、次々と流れる涙に言葉が消えていく。申し訳なさそうに小さくなった泥だらけの体は酷い有様で、長い間走り続けたのだとわかる。

 相手は土御門の術に精通している。であれば野狐が通った森に方向を失わせるような術を施したのだろう。朱音は当然それに気付いたはずである。その状況で何の言伝もなしに慈悲深さだけで野狐を逃がすとは思えない。ならば答えに辿り着けるはずだ。

「どんな場所だったか、教えてくれるか」

 伏してしまった野狐に優しい声音で問いかける。ぴくりと野狐の鼻先が動いた。紫暁の着物に付いた白檀の香りはどこか懐かしく、野狐はいくつかの呼吸の後に胸を落ち着かせる。

「奥方様が連れていかれたのは、青紅葉に囲まれた美しい滝でございました」

「……、……そうか」

 一瞬呼吸を失ったことをおくびにも出さず紫暁は頷いた。心当たりが一つある。柏木が踏み入れたことのない、紅葉の滝壺。依姫が身を清めた、清らの水辺。

 茨木や鵺が険しい顔で考え込んでいる中、紫暁はふらりと百鬼夜行を離れた。気付いた茨木が後を追ったが、悠長に待つことはしない。

 直に日が暮れる。今宵は十五夜だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る