土蜘蛛
叢雲は同じ女を二度失った。二度目に出会ったとき、これは天命であると確信したが、天は叢雲に厳しく二人の間には多くの障害が横たわっていた。結局、一度目も二度目も彼女と結ばれることなく、ろくに幸せを与えることも出来ないまま彼女を失った。
彼女はいつも運命に囚われている。生まれ落ちた時から役割を与えられ使命を背負い、逃げ出すことはできなかった。二度目こそは逃してやろうと画策したのだが、叢雲の力が及ばず、目の前で切り捨てられた。あれは満月の夜のことだった。女に追いついた時にはすでに遅く、屍を前にして叢雲は崩れ落ちた。
「ざまあないな、叢雲よ」
憎々しいあの男は、彼女の血をたっぷりと吸った刀を薙ぎ払い、鞘に納めた。叢雲を見下すような冷めた目が腹立たしく、同時に自分の無力が悔やまれた。叢雲は女と共に死んでやるつもりであったのに、女はあの男に殺されてしまった。三度目に女と出会うことが出来たら。そしたら今度こそ幸せにしてやるのに、と後悔ばかりが胸を締め付け、手のひらの上に涙が落ちた。
女を殺すのは、叢雲であるべきだった。そうでなければ呪は成立しない。
満月の夜に心中した者は、来世で結ばれる。
それは土御門の当主にのみ脈々と語り継がれる呪術の一つであった。
***
叢雲と女が初めて出会ったのは、神域と呼ばれた滝壺だった。土御門家の当主として神域の見回りをしている際、体を清めていたのがその娘だ。紅葉を集めて染まる水面が叢雲の目に鮮やかに飛び込んできた。一糸まとわぬ真白の裸体に黒髪が落ち、紅い水面を割る様にしばし見惚れた。
「……誰です、無礼者」
鋭く問われ、叢雲はすぐさま頭を下げた。胸の動悸は滝の音でかき消せぬほど大きく、額が地面にこすれても平静を取り戻せない。
「し、失礼いたしました。伝令が上手く機能しなかったようで」
喉の奥を引き絞るようにして出した声はあまりに頼りなく、情けない思いでさらに頭を下げる。
「……よい。下がりなさい」
女は叢雲に背を向けて禊を続けた。辺りに巫女の姿はなく、女は一人で身を清めているのだ。美しさと迫力は似ているのだと、初めて知った。気圧された叢雲は逃げ出すようにして滝壺を後にした。
女の名は、依姫という。神域の滝壺を禊に使うなんて、依姫以外に許されていないためすぐに断定することができた。しかも神域は大屋敷に隣接した私有地であり、叢雲を始めとする土御門家の面々が警備にあたっているので他者が入り込む余地がない。
正確には、依姫を見かけたのは初めてのことではなかった。ただ、祭事で神降ろしの舞を披露する依姫はいつも祝詞を施した半紙で顔を覆っており、叢雲には遠い国の人形のように見えていた。神降ろしの稀有な巫女が、生身の人間であるなんて、考えたことがなかった。しかも、それがこんなにも叢雲の心を乱すとは。
土御門家の屋敷に帰宅すると、家人が叢雲を出迎えた。呪術を得意とする一族とあって、どこか薄暗い屋敷で家人も落ち着いた者が多い。頭を下げた女の口から、赤く二つに割れた舌が覗いている。土御門家の家人は、人間であるとは限らなかった。
「酷い顔じゃ」
「惚けておる」
「魂でも抜かれておるのか」
自室に戻るなり、餓鬼たちが好き放題に叢雲を詰った。散々な言い様であったので、上手く人型に化けた一匹が餓鬼たちの脳天に拳骨を食らわせてゆく。
「口の利き方がなっちゃいねえ。叢雲がいなけりゃ野垂れ死んでた癖に、恩を忘れるなよ」
「……柏木の奴、絆されおって」
「……」
まだぶつぶつと続けようとする餓鬼たちに、柏木は腕まくりをして見せた。途端、餓鬼たちは蜘蛛の子を散らして逃げてゆく。叢雲が畳の上に座り込んでため息を吐くと、柏木は蛇女にお茶を用意させた。
柏木はただの餓鬼の一人である。力は弱く、叢雲が切り捨てればその命はかき消えてしまうだろう。だが、姑息で卑しい餓鬼の中にあって、柏木だけは勤勉だった。力は弱いままだったが、人間の形を取ることができた。叢雲が信頼を寄せる数少ない相手の一人であった。
「……これまた難しい女を」
依姫のことを話すなり、柏木は頭を抱えた。神降ろしの巫女と言えばその類稀なる清らの力で大屋敷どころかこの国に祝福を与えている女だ。対して土御門は呪術を扱う、根本的には穢れを引き受ける家系である。正反対にも程があることは叢雲も重々承知の上だった。
「俺は、姫君の側付きを志願するぞ」
「そりゃあ、神事も呪術も要領は変わらねえだろうが……」
柏木が言葉を濁すのは、土御門家当主としての在り方を危惧しての事だった。土御門家は大屋敷の者共が威張り散らすのが気に食わない。これまでは奴らが頭を下げたら手伝ってやらんでもない、という態度を貫いてきた。それが大屋敷の娘一人に惚れ込んで忠誠を誓うなど、笑い話も良いところだ。
叢雲とて生家をいたずらに貶めたくはない。何とか土御門家当主の面目を保ったまま依姫に近付けぬものか。側付きとして仕える以外の方法を柏木と共に数日考え込み、暦に目をつけた。
その年は閏一月の年だった。ちょうど新年を迎える時期になり、大屋敷でも来る七月をどう乗り越えるかが話題となっていた。前回の災厄でようやく暦との関係が明らかになったが、このままでは七月の望月に目覚める野槌は人を食い殺し作物を食い荒らすだろう。土御門の当主として取り組むべき事項なのは事実。それが偶然にも、清らの姫に協力を申し込む口実にできただけだ。
遂に依姫の前で膝をつくことが叶った時、何も言葉が出ないほど叢雲の胸中は依姫で溢れかえっていた。大屋敷の北御殿には雪が積もってただでさえ数名しか立ち入りを許されていない場所が殊更静かだった。
「お前、あの時の……」
怪訝そうな声を聞いて、真っ先に浮かんだのは感謝だった。ただ一度会っただけの叢雲を覚えていた事が嬉しくてならなかった。
土御門が神域の警備にあたっている事を思い出してか、依姫は得心した風に頷いた。滝壺での無礼に言及する事なく、凛々しく背筋を伸ばして采女に巻子を用意させる。
「いつまで頭を下げているつもりなのです、叢雲とやら。七月はすぐにやって来ますよ」
投げかけられた声は、先程よりも和らいでいた。それだけで叢雲が言葉に詰まるので、依姫は奇妙な顔で見つめ、数刻の後耐えかねるようにくすりと笑った。
依姫と過ごす日々は満ち足りていた。同じ目的をもち時間を重ねれば、自然と二人の距離は近付いた。ああでもないこうでもないと床に広げた地図と睨み合い、大屋敷の北御殿から時々笑い声があがった。
依姫は幾名かの采女や巫女と静かに暮らし、肉親の他は神職で無ければ顔も見ることが出来ない存在だ。北御殿からの外出は、神域への禊と大屋敷の舞台で神降ろしの舞を披露する時だけだ。世間を知らず、箱庭の中で温かく育てられて、何の自由も認められていなかった。
かつて神秘的に思えた依姫は、生来明るく生命力に満ちた女であった。神降ろしと呼ばれた舞は美しく、何度でも叢雲の目を奪った。依姫が薄布を両手に持つと、ただの布が天女の羽衣になった。いくつにも連なった神楽鈴の音色が澄み渡って清浄な力を持った。北御殿に向かう叢雲はしばしば人ならざる者を連れていたが、彼らの大半は神楽舞に嫌な顔をして北御殿に向かうことを嫌がった。依姫の持つ清浄な気が彼らの力を奪い、肌をじりじりと焼くのだという。
桜が散るころには北御殿への供は柏木だけになった。その柏木も神楽舞のたびに脂汗を浮かべて清浄な気に耐えていた。
「すみませんね、柏木。災厄までは耐えてください」
神楽鈴を鳴らして舞う度、依姫は申し訳なさそうに菓子の皿を差し出した。誤って触れてしまえば清浄な気で柏木を痛めつけてしまうので、いつも御膳台ごと采女に運ばせた。なんとも心優しい依姫の気遣いを知ってか知らずか、柏木は顔を明るくして受け取った。いくら人に化けているとはいえ、所詮は畜生の仲間だ。餓鬼が依姫の神楽舞の美しさを理解することはなく、叢雲が見惚れる横で首を傾げている。
日を追うごとに神楽舞の精度は増していった。側にいるだけでも柏木は青ざめて、中座することもあった。神降ろしの舞は纏う空気すら神聖で麗しい。しかしそれ以上に彼女は楽しそうで、巫女ではなく一人の女として一層魅力的であった。
叢雲は舞の稽古をする依姫のそばで災厄を封じ込める策をいくつも描いては投げ捨てた。完璧な策は何処にもなく、土御門家としての重責が肩にのしかかった。目の下には隈が現れ、心配する柏木にあたったこともある。けれど顔をあげれば美しい依姫の舞が荒れた心を癒した。床を踏むたび、鈴を鳴らすたび、思いを募らせるのも仕方がないことだった。
災厄に無策であることを大屋敷の連中は糾弾した。呪術を得意とする土御門家にしかできない大業とはいえ、連中は災厄を恐れていた。柏木に命じた調査は一向に進まず、柏木自身も悔しそうに口元を歪めた。しかし、依姫だけは一度も叢雲を責めなかった。
「大丈夫、上手くいきますよ」
舞の稽古で流した汗を手布で抑え、まっすぐに叢雲を見つめた。上手く事が運ぶことを微塵も疑っていない目だった。側にいた期間は短くとも、いつの間にか支え合う存在となっていた。何物でも代用できない存在になっていた。
「依姫、俺は……」
思わず溢れた言葉が、その途中で消えてゆく。依姫が唇に人差し指をあてて、困ったように笑っていた。
「お前が好きなのは私の舞でしょう」
とっくに、叢雲の心は何もかも伝わっていた。諭すような口調で誰に言い聞かせているのか。すぐさま否定したくとも、彼女の微笑みがそうさせない。
「いい案があります。私の気を隠す術を編んでくれませんか」
依姫の言う術を試したことはないが、さほど難しくないだろう。自然に存在する清浄な気に溶け込ませるだけで済む。構成を頭で練りながら、ある考えに思い至った。
叢雲は、弾かれたように頭をあげる。偶然にも、周りには柏木や采女が居なかった。北御殿の欄干で羽を休める目白ののどかなさえずりが空々しかった。
「災厄は腹を空かせています。ですから……」
「……やめろ」
「気付かず丸呑みにしてくれればよいのですが」
依姫は背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま楽しそうな目白を眺めている。
「やめろといった!」
叢雲は声を荒げ、思わず立ち上がった。筆や紙に足を引っかけてしまい、飛び散った墨が床を汚す。腹の底から湧き上がる怒りで目の前が赤く染まってゆくかのようだった。頭に血が上り、呼吸もままならないほどだ。
「叢雲、忘れてはなりません。私達の使命は災厄から人々を守ることですよ」
無為に日々を過ごし、暦は既に六月晦日。来月の十五夜に向けて、結論を出さねばならない時期だ。凛々しく背を伸ばす依姫は叢雲の前に覚悟を示している。叢雲が望まぬ形での覚悟を。
「力を貸してくれますね」
依姫は卑怯だ。叢雲の気持ちを知っていて、都合よく頼ろうとする。叢雲はがくりと項垂れ、ついに断ることは敵わなかった。
それからというもの、依姫は身の回りの整理を始めた。大切にしていた小箱や翡翠のいくつかを采女に譲り、憑き物が落ちたようにすっきりした顔で舞の稽古に励んだ。その横で術を編む最中、滲む視界が腹立たしい。
皮肉にもその日は朝から晴れ渡っていた。術はすでに完成しており、大屋敷の連中は依姫の覚悟を嘆いたが、誰一人止めなかった。無力に打ちひしがれ、太陽が昇るのをながめていると、柏木が忍び寄り依姫にばれぬように耳打ちする。
「叢雲、北山の洞窟だ」
「……確かか」
任されていた調査を終えて、柏木は誇らしげに頷いた。
「先々代の手記に残ってたぜ」
叢雲が探していたのは、かつて土御門家が封印したという大妖の場所であった。苦心して封じたという記録はあるものの、場所だけが曖昧だったのだが北山と分かれば話は早い。いくら先々代が隠してあってもその痕跡を探せばよいのだ。叢雲と柏木はすぐに大屋敷を飛び出した。
その大妖を人々は土蜘蛛と呼んだ。巣を仕掛けて言葉巧みに人をからめとって子蜘蛛の餌にした、と記録にある。歩けば土地がやせて、泳げば水が濁ったため忌み嫌われた存在だ。
叢雲と柏木が洞窟に辿り着くと、入口にまで瘴気が漏れだしていた。柏木の顔は赤みを取り戻しており、よほど依姫の側が苦しかったのだとわかった。瘴気に慣れていない村人であればたちまちに眩暈を起こして倒れただろう。
用意した松明に柏木の鬼火が灯る。洞窟の中は湿っていて、ごつごつした岩の合間に水が溜まっていた。壁一面に呪詛が彫りこまれており、柏木は顔をしかめていた。
洞窟の奥に進むほど空気が重く、冷たくなっていった。夏だというのに凍えそうで、鳥肌がぷつぷつと浮かび上がる。吐いた息が洞窟の闇を白く染めては消えてゆく。水が滴った音が響き渡るが、辺りを見渡しても湖のようなものはなく、岩場の水溜まりに水滴が落ちただけらしい。己の歯すらも上手く噛み合わなくなってきたころ、松明の明かりが黒く巨大な体の輪郭を照らし出した。
「誰じゃ」
地を這うような声が洞窟の闇に反響した。洞窟の天井まで届く大きな体に、細かな毛の生えた足が八本ついている。しゅーしゅーと音を立てて吐く息に瘴気が混ざっており、叢雲は目を細めた。土御門の人間を何人も屠っただけのことはある。
「土御門の叢雲がお願い申し上げる。土蜘蛛よ、野槌を追い払うだけの力を貸してはくれまいか」
土蜘蛛はゆっくりと体を動かして、叢雲をまじまじと覗き込んだ。松明の炎で明らかになった顔には、大きな牙が上下それぞれに二つずつ、赤い目が六つ並んで、面構えの禍々しさを増幅させていた。叢雲を頭から丸呑みにできそうな大きな口は、野槌と呟くと一転、笑い始めた。
「俺を封じて数十年たったというに、人はいまだ奴を克服しておらぬのか」
はっはっ、と笑って体を揺らしているが、表情は読めない。宝玉のような赤い瞳はただ松明の明かりを反射して輝くだけだ。
「では土御門の末裔よ、代償に何を差し出すのじゃ」
「……俺の命だ。全て終わればお前にくれてやろう」
叢雲は頭を下げたが、土蜘蛛は一笑に付した。
「安い安い。封を解いてくれたら協力するがの」
「安くはねえだろ。土御門家当主の血肉だ」
なぜか柏木が不満そうに口を曲げ、土蜘蛛を睨みつけた。対して力のない餓鬼のくせに、裏の無い男なのである。 洞窟内を凍てついた風が通り抜けて叢雲は体を震わせた。岩場の水がたちまち白く凍る。
「ふむ……では血を分け与えてやろう」
土蜘蛛は己の足の一本に牙を突き立て、肉を裂いた。滴り落ちる血を叢雲に差し出し、手のひらで受け止めるよう促す。叢雲の手に満ちた血は洞窟の闇のように黒く、濃い瘴気が溢れだしている。
「血は俺と同じだけの力をもたらすじゃろう。だが少しずつお前の体を蝕み、丁度一月後に俺のものとなる」
逃げることはできんぞ、と土蜘蛛は念を押した。六つ並んだ目が興味深そうに叢雲の様子を伺っている。一月も猶予があるなど願ってもないことだ。叢雲は一息に血を飲み干した。
体の変化は途轍もない痛みを伴った。呻き、暴れ、のたうち回り、とがった岩場で己の体さえ傷つける。臓器が圧迫されたように気持ち悪く、吐瀉物には鼻水と涙が混ざった。土蜘蛛は楽しそうに笑って眺めるばかりで、心配するだけの柏木には何もできない。
長い間叫び続け、柏木の肩を借りて朦朧と洞窟を抜けるころには、夕暮れ時になっていた。赤い夕陽が今にも山際に吸い込まれようかとしており、東の空から夜がやってきている。
「叢雲……目が……」
半身を支える柏木の声が愕然と震える。叢雲の目は土蜘蛛と同じ赤色に染まっていた。決して夕陽の赤を反射しているからではない。紛れもない赤の中、視界は良好で一厘先まで見渡せそうだ。
「急ぐぞ」
声は掠れてしゅーしゅーと音を立てた。
痛みはすぐに過ぎ去り、柏木の肩を借りず歩きだせば、一歩踏むごとに二間ずつ進んでゆく。すこぶる調子がよく、手足に力が漲っていた。柏木では着いていくだけで精一杯だ。真っ直ぐかけぬける叢雲がぶつかった枝は折れ、踏んだ草は枯れた。大屋敷に近付くにつれ芳しい香りが強くなり、口の中に唾液が満ちた。
大屋敷の広い中庭に血だらけの人間が転がっている。その中央には屋根まで届く長い体をくねらせ笑う野槌の姿があった。目鼻はなく、大口を開けた際に覗く歯は三重に並んでいて、そこから零れた血液が依姫の前に落ちる。
「奉納すれば見逃すと言ったではありませんか」
依姫は悔しそうに野槌を見上げた。祭壇に並べた作物は野槌へ奉納するために大屋敷の連中が用意したものだ。しかし祭壇の作物には手を付けておらず、配置していたはずの人間が減っている。
「なんだ、こいつらは奉納品じゃあないのか。うふふ」
「分かっていたくせに」
恐怖に顔を染めた人々が逃げまどう中、依姫は野槌を睨みつける。篝火が倒され灯火が無くなっても、夜空に浮かんだ望月に照らされて野槌の体は醜く禍々しい。
「おいしいなあおいしいなあ。うふっ、やはり人間はおどり食いに限る」
すこぶる気分のよさそうな野槌は大きく口を開けて依姫の袖に噛みつき、地面を引きずった。目と口をきつく閉じて痛みに備えている依姫が宙に放りなげられ、その横腹におびただし数の歯を立てようとした瞬間。
ぎゃあ、と叫んだ野槌は大きく仰け反り、取り落された依姫の体が砂利を乱す。柏木が駆け寄るときにはすでにぐったりと項垂れていた。口の端から漏れる呻き声で彼女が無事であることを確認できた。
野槌はきょろきょろと辺りを伺ったが、逃げ遅れた人間は居ないように見える。薄情にも柏木と依姫を残して逃げ去ったようだが、と大きく体を持ち上げたところで再び横殴りにされ、地面に体を打ち付けた。
「うふっ、うふふっ……お前は、何だ」
地面を這いながら、大屋敷の屋根の上に人影をとらえた。じっと野槌を見下すその目は赤色、抉り取った野槌の体を雑に投げ捨てる。口から瘴気が漏れて、月夜を穢す様は只人ではない。混ざった大妖の力は一目瞭然であった。
「去れ、野槌。ここはお前の狩場ではない」
「おお、こわ」
しゅるしゅるととぐろを巻いて、俵のように太い体を震わせる。怯えた振りをしながら声はからかうような調子で、用心深く叢雲に語りかけた。
「お前を蝕む力だなあ……うふふっ、もってひと月だ」
それが土蜘蛛の力を指していることに叢雲はすぐ思い至り、にやりと笑った。全てが上手く運んでいる。あのしたり顔の土蜘蛛をまんまと騙し仰せたのだ。
「ふはっ構わんさ」
もはや込み上げる笑いを抑えることはできない。もとより土蜘蛛に与えてやる命などない。約束の日はひと月後の十五夜。十五夜だ。
「望月のもと、命をかけて繋いだ絆は来世にまで続く。……来世では、結ばれる」
己が身の高揚感から叢雲は口走った。にやつく口元を抑えるため左手で覆った。あまりにも血まみれの手だったので頬から顎にかけてべっとりと赤く穢れる。つい、柏木に守らせている依姫を視界に映した。力なく倒れているが胸は上下を繰り返し、尊い命を示していた。
依姫の為ならば現世の命を捧げることになんの悔いもない。大屋敷の屋根の上、血だらけで笑いを浮かべる叢雲はもはや人とは形容し難かった。
「うっふっふ。よい、よい、恐れ入った」
にやにやと大きな口を曲げて、野槌は叢雲に頭を下げる。礼をしているかのように見えるが、ふざけているだけだ。馴染んでいない、しかも分け与えられただけの力では野槌に叶わないだろう。けれど依姫を連れて行くには充分だ。腹を空かせた野槌が依姫を標的にしない限り。
しかし野槌はあっさりと引き下がり、警戒を強める叢雲に笑いかけた。ぐるぐると体をしならせ叢雲に背を向けると、尺取り虫の様に進んでゆく。丸い月に照らされて、地を這う体が砂利を掻き分け路を作り出す。
「俺は別の狩場に行こう。……人はいくらでもいる」
天の思し召しか、はたまたただの気まぐれか野槌の姿は小さくなった。災厄が去る様を見送り、叢雲は呆然と立ち尽くしていた。
大屋敷の人間は野槌が暴れる音が聞こえなくなるとすぐに戻って来た。依姫を残して逃げ出した腰抜けの癖に、戻ってくるなり拍手合切で喜んだ。大屋敷の人間が依姫を崇め奉るのと入れ替わるようにして叢雲は柏木と二人大屋敷を後にした。
依姫は全身を打ちつけていたものの大事なく、しばし療養ののち回復した。叢雲の赤い目は忌避され、ただでさえ人が寄り付かなかった土御門の家はますます人ならざる者の居場所となっていった。口の端から瘴気が漏れるようになってしまっては無理からぬことだが、そもそも他人のことなどどうでもいい。
「守ってやったというのに、勝手ですね」
それでも、依姫が腹を立ててくれるのが嬉しかった。依姫は何度でも根気強く大屋敷の人間に叢雲の功績を訴え、土御門家の勢力拡大に一役買った。嫌われながらも一目置かれる存在であり、災厄の後も大屋敷の北御殿を訪ねることができた。訪ねる度に依姫は心から喜び、叢雲が頼めば神降ろしの舞を披露してくれた。人の体を失いつつある今となっては依姫の気にあてられ肌が焼けつくように痛み、息苦しくなったが、それでもこれほど美しい舞を目に納めることができるのであれば安いものだ。同じく顔を蒼くしている柏木と目を合わせて笑いがこみ上げた。
大屋敷の修復が始まったころ、叢雲は依姫と二人だけで話す時間を願った。命の期限も迫り、心残りは己の感情の行く末であった。柏木や采女も居ない北御殿で叢雲はついに思いを告げたのだが、依姫は首を左右に振った。
「……いけません。私は神へお仕えする身なのですから」
どうにも言い訳めいていて、叢雲は苦笑した。彼女はまっすぐに背を伸ばして、凛々しい顔から心を読み取られないようにしている。災厄の件を受けて依姫は伊勢に向かうことが決定していた。一生を神に捧げ、夫を持たず生涯を終えるのだ。きっとますます清浄な気が磨かれて柏木のような弱い妖怪は近寄ることもできなくなるだろう。
「どうか離れて。今のお前に私の気は毒でしょう」
依姫はいたわるような表情で、叢雲に触れないように笑った。最後まで好きだと言わないあたりが凛々しい彼女らしくて、気持ちに応えてくれなかったというのに叢雲は心穏やかだった。本当は黄泉の国に連れて行き来世を共に過ごしたかったが、伊勢で依姫が幸せな生活を送るのならそれでいい。
そう、思っていたのに。
八月十五の夜、北御殿で叢雲は力なく座り込んでいた。最期に一目会いたいと願い北御殿を訪れた時のことであった。やけに静かで不審に思いながら北御殿に入ると、血に染まった床の上で仰向けに倒れている依姫の姿があった。胸を小刀で一突きに刺されて、溢れる血の量をみれば彼女がもう生きていないことは確認するまでもなかった。
驚くべきことに倒れていたのは二人である。もう一人は依姫の懐に入り込むようにして、こと切れている。
「柏、木……」
拾ってやった餓鬼の姿がそこにあった。勤勉だと思っていたが、所詮は姑息で卑しい餓鬼。災厄の後からずっと機会を伺っていたのだ。柏木ほど脆弱であれば触れるだけで彼女の清浄な気に焼かれてしまう。だから柏木はただ彼女を腕に抱くだけで良かった。依姫が自分より先に死なぬよう、少しずつ血が流れるように小刀を刺したのだ。
あまりの所業にわなわなと叢雲の唇が震えた。血だまりに依姫の黒髪が広がり、視界が真っ赤に染まった。叢雲はげほげほと咳き込み、押さえた口元に糸が垂れた。
――約束じゃ。覚えておるぞ……覚えておるぞ……。
頭の中に地を這うような声が響く。まるで洞窟の中に居るみたいに反響して、頭が締め付けられるように痛い。あまりに眩しい満月で目さえ焼き切れてしまいそうだ。
その夜は美しい満月の夜であった。人々が中秋の名月を楽しむ中、ふらふらと北山の洞窟に向かう男の姿を見た者はいない。
***
桑名からほど近い海岸に二つの影が並んでいる。見晴らしがよい長い水平線も夜に溶け込んで反射する月明かりだけが海の広さを物語っていた。浅瀬の大きな岩には誰が作ったのか鳥居が佇み、注連縄の紙垂が大きく揺れた。広々とした砂浜の海風は強く、二人の足跡もすぐに消してしまう。
「おかしな点を見つけましたよ」
市女笠の女は首を傾げた。顔を隠す分厚い布も大きくはためいていたが、顔立ちはよく見えない。
「土蜘蛛は洞窟に封じられていたのでしょう。それなら目の前にいるあなたは誰なのです」
「俺は土蜘蛛さ。そして叢雲でもある」
土蜘蛛が答えると、口の端からしゅーしゅーという音が漏れた。依姫を失った叢雲の意識は一度途切れ、気付けば土蜘蛛の中にいた。土御門が作った封印を解くのは叢雲である土蜘蛛には簡単なことだった。洞窟を抜け出しても復讐する相手はおらず己を燃やす柏木への憎しみも薄れるほど長い年月が過ぎた。そして最後に残ったのが依姫への愛情だった。
「生まれ変わった依姫も見つけたよ。……でも、また死んでしまった」
夜に上弦の月が浮かんでいた。半分の月はもう半分を探しているのに、海に映る月と出会うことはない。土蜘蛛は赤い目を伏せた。出来るならともに、せめて幸せに生きてほしいと願っても土蜘蛛の願いは敵わなかったのだ。
懐かしい依姫を鮮やかに思い出したのは、此度の百鬼夜行がきっかけである。叢雲が身をひそめる洞窟に女郎蜘蛛が訪れた際、土産話にとある噂を持ってきたのだ。いわく、満月の夜に心中すれば、来世で結ばれる――。
それは土御門家に代々伝わる呪いであった。簡易かつ強力であることから、世の混乱を避けるため土御門家当主の胸の内に留めなければならない呪いであった。つまり、どう言い逃れようとしたところで総大将が呪いを知っていた訳がないのだ。……ただ一人を覗けば。
「誤魔化せると思うたか、依姫」
土蜘蛛は、女の市女笠をはぎとった。美しい顔と、それを真一文字に横切る刀傷。そこには土蜘蛛の目の前で死んだはずの女二宮の姿があった。風になびく市女笠の布の内側に、目くらましの術式がびっしりと描かれている。
二度目に出会ったとき、これは天命であると感じた。しかし、小賢しい晴明が朱雀門で朱音を切り捨て、朱音は再び叢雲の前で息を引き取った。正しくは、朱音の血の香りをした、朱音と同じ顔に見えた女が死んだ。
晴明は罪のない命を犠牲に朱音を逃がし、目論見通り土蜘蛛を騙していたのだ。
「依姫、また会えて嬉しいよ」
笑いかけたつもりが、しゅーしゅーと不気味な音が響いて可笑しかった。清浄な気を纏わない朱音の頬に触れても、焼けつくような痛みはない。叢雲の指になじむ柔らかな女の肌だ。かつて京を震撼させた酒呑童子とは思えないほど力が衰えているのは、ろくに食事をしていないからだ。健気にも、市女笠で隠れるように力を落としたのだろう。
呪いによって、心まであの男に結び付けられている。土蜘蛛が不甲斐ないばかりに苦労をさせてなんとも憐れだ。
「呪いを、結びなおしてやろうな」
土蜘蛛はようやく依姫を抱きしめた。次の満月が、迫っている。
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