付喪神・能面 2

 なんとも単純で馬鹿げたことに、以前に増して式菜が愛おしくなった。あんな小さな手で縋られて、抱きしめられて、愛おしくならないはずがない。あの満ち足りた幸福感の中で、きっと式菜の心に触れることが出来たのだと思う。なるほど溺れるとは言いえて妙で、抗うこともできず式菜との時間を求めた。

 側にいてほしいという思いは夜ごと募るばかりである。式菜と結ばれ、生涯の伴侶とできればどれほどよいだろうか。家庭を作り、温かい日々をおくることができればどれほど心安らぐだろう。縁談の話を断ったところで、結局二染屋はただの商人なのだから式菜を嫁に迎えてもいいはずだ。寅治の心は決まっていたが、大きな問題があった。

 寅治は式菜の素性を知らない。どんな出自の女であっても受け入れる覚悟はあるというのに式菜は何も語ってくれない。

 心地よい夏も盛りの夜、寅治と別れて帰路につく式菜の後を追う。先に格子戸から出ていった式菜はまったく警戒しておらず、振り返ることなく雲雀坂を下っていく。式菜が選ぶ道は木々が生い茂って薄暗く、人目につかない獣道ばかりだ。式菜の足取りは慣れたもので、草葉を掻き分けて進んでいるはずなのにほとんど音がしなかった。だがそれ以上に蝦蟇や梟が延々と鳴いており、寅治の物音だって式菜に届かない。

 式菜が辿り着いたのは、こじんまりとした鬼瓦の蔵である。雲雀丘を挟んで二染屋の対角にあたり、能楽堂の裏手に位置している。そのまま一座の長屋に向かうのかと思いきや、式菜は左右をうかがって蔵に消えていった。寅治が驚いて茂みから立ち上がった隙に、低くしわがれた声をとらえる。

「……人の子じゃ」

「あれを追いかけてきよった」

 囁く声の主を探しても、辺りにはただ草木が広がるばかりであった。寅治は首を傾げ、能楽堂を後にした。

 奇妙な点は、式菜が向かった能楽堂が旅の一座ではなく桑名の一座の公演に使われる舞台であるという点だった。桑名の一座には何度も納品しているが、式菜の見事な唐織に覚えがない上、式菜という能楽師に心当たりがない。つまり式菜は修行中か裏方仕事の者ということになるのだが、座長に話を伺っても式菜という女はいないという。

 腕を組んでうなる寅治の眉間を綾が突く。驚いて、休憩中だというのにぴしりと居住まいを正した。綾が訪ねてきたことにも気付かなかった。

「よっぽど式菜さんが好きなのねえ」

 式菜のことを考えていたのはお見通しらしく、綾は楽しそうに目を細める。若い女は他人の色恋沙汰をも好むというが綾もまさしくそうだった。やけに協力的で桑名の女の名前をすべて調べ上げる勢いだったが、大旅籠宿り木の娘をもってしても式菜の正体は分からずじまいだ。

「そうね、今度は能面そのものを探すっていうのはどうかしら」

「ただの能楽堂の能面だろう」

「つまりその能面に近しい誰かってことよね。まあ着いてらっしゃい」

 綾は寅治の袖を引いて二染屋から連れ出してしまった。いつでも明るい綾は奉公人達に人気で好き勝手に振舞っているのに得意客相手だからと微笑ましく見逃される。棚卸の準備をするはずが、二人で能楽堂に向かった。

 綾は能楽堂でも人気である。加えて二染屋とも懇意にしているため、座長は快く増女の面を持ってきてくれた。能楽堂で使われている増女の面を二つ並べ、そのどれもが式菜の面とは異なる旨を伝えると、神妙な面持ちで二人を蔵へ案内する。長屋の裏の蔵は式菜が吸い込まれていった夜のままの姿で佇んでおり、どきりと胸がなる。

 その面は、滅多に使用されず大事にしまってあるのだという。名のある名工が命を削って作り上げたと座長に語り継がれてきた能面だ。

「命を削って?」

「能面を作って死んだのさ」

 座長はおどろおどろしく告げ、綾は寅治の袖をつかんだ。埃っぽい蔵の中、天井近くの窓から細く光がさしている。沢山の木箱が並ぶ中の一つの蓋を取り、畳紙を開けば、美しい増女の能面が現れた。

「寅ちゃん」

 座長にばれぬよう耳打ちした綾に頷く。まぎれもなく式菜の能面だ。しかし座長の話によれば蔵は鍵で堅く閉ざされており、その管理を担当しているのは男であるという。全ては振り出しに戻った。

 夏をかけて探したというのに手がかりさえもつかめず、分からないことだけが増えていく。式菜が何者であろうと受け入れる覚悟があるというのに、首を振るばかりで何も教えてはくれない。どんな顔でも関係ないと伝えても、素顔をのぞかせてはくれない。素顔を知りたいというよりも、式菜の信頼が欲しかった。寅治は式菜が美しい黒髪の女であるということしか知らない。

 どれだけ夜を重ねても能面が唇を拒む。苦し気に縋る式菜が愛おしくもどかしく、ただ物言わぬ能面に静かに唇を一つ落とした。

「……むなしいだけだな」

 寅治は苦く笑い、式菜の白い肩をなぞる。返事の代わりに背に回された腕の強さが何より雄弁で、いともたやすく絆される己の単純さがいっそ憎かった。

 お堂を離れた式菜の後を追うのも習慣と化していた。獣道を通って蔵に消える式菜をそっと見守る。結ばれたとおもったのに、蔵の閂の音を聞くときははるか遠くに行ってしまったかのようだ。

「今年は東海道じゃと」

「ではそろそろ入道雲がいらっしゃる」

 しわがれた低い話声が再び聞こえた。寅治は辺りを見渡したが、草間には動物の影さえ見えなかった。三日月の細く頼りない光では何物も見つけられないように思えた。

 それから少し月が膨らんだ上弦の夜、お堂に向かうと机の上に筆と半紙を並べたまま式菜の姿だけが消えていた。毎夜帰りには几帳面に箱へ戻しているので、一度お堂に寄った後どこかに出かけたようだ。しかし亥の刻が一つ過ぎ、二つ過ぎても式菜は帰ってこなかった。

 心当たりと言えばお堂と能楽堂の蔵のほかは雲雀丘くらいしかない。寅治は久しぶりに雲雀丘の一本松を目指した。秋が近づいた風は涼しく、出会った春のころを思い起こさせる。一本松の周りは背の低い草と土ばかりで開けている。寅治はそこに想定していなかった人影を見つけて、反射的に身を隠した。

「お前のような高位の者が勿体ない」

 凛とした声の人影は市女笠で身を隠している。まずは今時珍しい鮮やかな壺衣装が目についた。肩にかかる黒髪が美しい一方でその顔は厚い布に隠れて見えない。丁度寅治に背を向けるようにして一本松に話しかけていた。

「……いいえ無粋はよしましょう」

 市女笠の女は能面を手にしていた。それが増女の能面であると気付いた時、寅治は思わず声をあげた。

「式菜」

 女は美しい黒髪で、顔を隠し、式菜の能面を手にしている。まさか、と数歩よれば鋭い声が寅治を咎めた。

「誰です」

 女は振り返り、芯のある声でぴしゃりと言い放った。意思の強さを伺わせる口調は式菜のものではない。あまりに印象が乖離している。

「……ふうん、お前が」

 女の顔は隠れているといるのにまるで品定めでもされているかのようだ。脈打つ心臓の音がうるさかった。

「式菜の知り合いか」

「お前よりは知っていますよ」

 寅治は息を呑んだ。式菜を知っている者にようやく出会うことが出来たのだ。

「教えてくれ。式菜は一体……」

「なぜです」

 真実を求める声を途中で遮り、女は増女の面を愛おしそうに撫でた。季節外れに冷たい一陣の風が吹き抜けて寅治の肌を粟立たせる。ただの女に何故か恐怖しているのだとようやく気が付いた。

「あなたの知る式菜が式菜のすべてですよ。体を結び、心を手に入れ、他に何がいるというのです」

「……」

 答えを間違えてはならないと直感する。それは女が恐ろしいからではなく、式菜を大切にしてきた自負があるからだ。

 女の言う通り、ただ愛し合う為に式菜の素性を知る必要はない。式菜を何も知らないことがただ虚しく、信頼の証拠が欲しいのは事実だが本質ではない。

「素性の分からない相手を嫁に迎えることができないからだ」

「婚姻を結ばなくても愛し合うことはできます」

 淡々と女は指摘した。返事に窮する問いだった。好いた相手と結ばれたいと望むのは当然の事だと思っていた。式菜にとってそうでないのであれば別の選択肢もある。しかし寅治は違う。

「式菜だけが俺のすべてじゃない。俺は二染屋の奴らが好きで、二染屋の仕事も好きで、桑名の街も気に入ってる。俺は全部引っくるめた人生がいいんだよ」

 そのために婚姻という在り方を望むのは結局、ただの我儘だ。普通の人間ならそれで互いに了承できるはずである。よほど問題のある素性でなければ。

「……呆れた男。ならば勝手になさい。式菜、いつでも逃げるのですよ」

 女が式菜に呼びかけたので寅治は戸惑った。一本松の隣には市女笠の女が一人立っていたはずだ。ふと見ると女の手元にあった増女の能面は消えており、代わりに一本松の影から式菜が現れる。式菜は市女笠の女に隠れるようにしていたが、女が促すと寅治に駆け寄った。

 式菜をしかと抱きとめて顔を上げれば、市女笠の姿は消えていた。

 式菜の正体は更に謎に包まれた。市女笠の女の情報を探ってもやはり何も出てこない。竹取の姫のように月のものが迎えに来たのかと問えば、式菜は楽しそうに肩を揺らした。

 解決しなければならない問題は寅治にもあった。ついに寅治の父が縁談を持ち込んできたのだ。

 殆ど確定事項として大旅籠宿り木に連れられた寅治はずっと仏頂面で靖彦の気をもませた。宿り木の広間を貸し切った豪華な宴席である。宿り木を営む塩木の旦那が連れてきたのは、派手な振袖に身を包んだ一人娘の綾だった。

「私、知らなくって」

 襖を開けて現れた綾は申し訳なさそうに身を小さくした。気まずい沈黙に嫌な汗が落ちた。塩木の旦那と寅治の父ばかりがにこやかで空々しい会話を続けている。

 いつだってそうだ。己の都合で進めて寅治の感情を置き去りにする。母が病に臥せったときも京へ反物を買い付けに行っていた。寅治が泣きつける相手は靖彦くらいのもので子供ながらに恨めしく思ったことを覚えている。根本的に他人を慮ることができない人間なのだ。

「俺は綾とは結婚しない」

「……なんだと」

 寅治はきっぱりと告げた。

「好き勝手に決めるのはやめてくれ」

 苛立ち混じりに息を吐いて、この日のために整えられた髪を掻きむしる。睨み合う二人に綾が気を使って白湯を勧めたが、凍ったような空間を溶かすには至らない。どうせ話しても無駄だろうと諦観が頭を占め吐き気がする。

 難しい顔をした父の口が開いたのを見つけて、反射的に立ち上がった。説教も説得も耳に入れたくなかった。寅治は唖然とする皆の注目が集まる中、綾も靖彦も差し置いて宿り木を離れた。戸惑っているだけでしょう、と父の肩に手を置く塩木の旦那の言葉が寒々しく響いた。

 その日の夜空には厚い雲がかかり月の姿を隠していた。二染屋でも靖彦が時々様子を見に来てくれていたが応える気になれない。自室で無為な時間を過ごし、亥の刻よりも早く雲雀丘に向かった。

 お堂の格子戸を開けば既に式菜が寛いでいた。寅治を見付けてにじり寄り三つ指揃えて出迎える姿に将来を夢見た。いつまでもこうして側にいてくれたら、いつかはこうして二染屋に来てくれたらいいのに、と。あの父に式菜を紹介することを思うと今から気が重く、式菜を説得してもいなければ素性も知らないことがもどかしい。

 どうにも気が立っていた。温かく迎え入れてくれた式菜に話しかけることなく抱き寄せる。笑いかける余裕がない寅治に式菜は優しく手を回した。今宵は雲が厚く月明かりが殆ど差し込まない。燭台を消してしまえばお堂は暗闇に包まれた。

 手荒に帯を解く。異変に気付いてか、式菜は戸惑い身を固くした。寅治は見ないふりをして無理矢理に組み伏せ、か細い抵抗を無かったことにする。何を今更とさえ思った。

 昼間から燻っていた苛立ちが、酷い形で顕現していた。二人の間に言葉はなく、軋む床に乱れた髪が広がった。懸命に受け入れようとする式菜が愛おしく、そして憎らしい。

 一生をともに過ごすことは了承してくれるのに、婚姻は拒絶する。どんなに醜い顔でも愛する気持ちは変わらないのに未だ許されていない。己の欲は増大するばかりで、雲雀丘を眺めるだけの日が懐かしかった。

 背中の鋭い痛みで寅治は我を取り戻した。爪を立てられたのは初めての事で、胃の腑が冷えた。手酷い仕打ちをした自覚があり、胸のうちに後悔が滲む。

「……すまない」

「……」

 雲間の僅かな月明かりが式菜の美しい体を映し出す。寅治は脇の下に見覚えのない黒子を見つけ、ぎくりと身を引いた。

「いいわ。お互い様だもの」

 式菜はポツリと呟いて、体を起こした。茫然とする寅治の目の前で増女の能面を床に置く。

 淡い月明かり、四畳間の端で寅治を見つめているのは紛れもなく綾であった。

「し、式菜は」

「能面を取られて今頃困ってるんじゃない」

 動揺のあまり声が裏返る中、つまらなそうに答える。増女の能面の所在を特定するべきだと助言したのは綾だ。式菜に先んじて能面を奪うのはそれほど難しいことではない。

「私が縁談を喜んでたなんて考えもしなかったのよね」

 綾の告白に寅治は目を見開いた。親同士が勝手に決めた縁談だと思い込んでいた。綾は式菜との関係を応援してくれているのだと信じていた。

「ただの幼馴染だって分かってたわ。でも一度でいいから……ふふ、馬鹿な寅ちゃん。ずっと気付かないんだもの」

 綾はくすくすと笑った。ささやかな笑い声であったのに、静かなお堂のなかではっきりと響き寅治をかき乱す。ただ強気な言葉と裏腹に綾の瞳に溜まった涙が溢れて床に落ちた。笑顔は一瞬で崩れ去り、ぐしゃぐしゃに顔を歪める。

「いや、嫌よ、違う、こんなの。忘れて。どうか」

「綾」

「忘れて、それで、なかったことにしましょう。式菜さんに、謝ったら駄目よ。そんなの、き、傷つけるだけだわ」

 綾は泣き崩れ、床に広がった唐織の上に伏した。背中に添えようとした手を払いのけ、一人肩を震わせる。綾は手巾で口元を押さえつけているのに堪えきれない涙が堰を切って溢れ出す。落ち着くには少し時間が必要だった。

 一人にしてほしい、先に帰ってほしい、と頼み込む綾が哀れで、しかしどうすることもできない。綾だって大切な存在であるのに、寅治の一挙一動は傷付けることにしかならない。

「案外、満たされないものね」

 立ち尽くす寅治に告げた綾の目元はわずかに濡れている。拒絶を突きつけながらどうにか自身の感情と折り合いをつけようとしている姿が居たたまれない。追い出されるようにして去ったお堂には、ただ静かな能面が転がっていた。

 この晩の一件が明るみに出ることはなかった。綾は持ち前の明るい笑顔でおくびにもださず、変わらぬ調子で式菜と寅治の関係を応援した。塩木の旦那に上手く取りなし、二染屋と宿り木の仲は円満なまま縁談は一度保留となった。

 綾は父親と話をするべきだと、根気強く説得した。寅治が一方的に苦手意識を持っているだけで、ちゃんと話の分かる人だから、と。父親と話す心を決めれば靖彦が鬱陶しいほど張り切って場所を整えた。

 結論を言えば、父親は綾との縁談を断ってもいいと告げた。仏頂面でぽつりぽつりと口を動かして、寅治も口をへの字に曲げたまま少しづつ答えた。会話というにはぎこちないやり取りだったが、二人の間に在ると信じていた大きなわだかまりはいつか解けていくように思えた。いい人がいるなら紹介しなさいと言われて即答することはできなかったが、式菜との明るい将来が形をもちはじめた。

 素性が分からないままでも、式菜と家庭を作ることができればどれほど幸福だろうか。二染屋の暖簾をおろし家に帰って、式菜が待っていてくれたら。子供が二染屋を駆け回って、靖彦に叱られて、みんなで笑い合えたら。

 一方で、肝心の式菜は寅治を拒絶するようになった。無理に抱いても寅治の背中に手が回される事はない。家族に紹介したい、素性は明かさないままでいいと言っても、絶対に頷かなかった。心移りした様子はないのに、ふとした瞬間、ぼんやりと顔を伏せていることが多くなった。

 それが丁度あの夜以降続いているので、寅治の胸にひやりと暗い影が差す。何もかもを明かして謝って許されたいが、綾の言う通りそれは自己満足でしかない。何も知らない式菜を傷つけるだけに終わるのであれば伝えるべきではない。

「潮時かもしれないな」

 お堂で呟いた寅治に式菜は首を傾げた。相変わらず仕草の一つ一つが大袈裟で愛らしく、手放すなんて考えられない。式菜の手を取り、寅治の両手が包み込んだ。

「俺が全て捨てて、式菜と二人だけでひそやかに生きようと言えば応えてくれるか」

「……」

「桑名の町を離れ鳴海の方まで行けばあてがある」

 生まれ育った桑名の町が好きだった。二染屋で色とりどりの反物を扱うのも楽しい。靖彦も綾も大切だ。全てが今の寅治を作り上げている。

 それでも、式菜と離れられない。結局寅治に守ることができるのは式菜一人くらいのものなのかもしれない。

 鳴海の近くには二染屋でよく面倒を見てやった取引相手が住んでいる。どちらかといえば友人といった関係で、出世しても寅治に懐いてくれているので式菜と二人で向かえば取り計らってくれるだろう。

「二人だけ、側にあるだけなら、一生添い遂げてくれないだろうか」

 じっと見つめた寅治の視線から逃れるように式菜は顔を逸らした。お堂の燭台の上でゆらゆら炎が踊り、増女の能面に濃淡を作り出す。長い沈黙が落ちた。躊躇いがちに頷いた式菜を寅治はきつく抱きしめた。

 寅治は靖彦と綾にだけ二染屋を離れることを告げた。綾は青ざめていたが二人で決めたことだからとどうにか納得してもらうことができた。寅治は二染屋の一人息子だが、二番目の姉が靖彦といい仲である。二染屋はこの若い番頭に任せることになるだろう。鳴海の友人のことも知っているので今生の別れではない。

 いざと定めた八月十五日の昼間、寅治は能楽堂で能面を借り受けた。借りるにはあまりに高い金額を手渡すと座長は首をかしげたが、二染屋の若旦那ということもあって快諾してくれた。式菜がなぜこの能面ばかり身に着けていたかはわからないままだが、よほどの思いがあるに違いない。今宵待ち合わせた後はそのまま桑名を去る予定であり、奪うことになる能面の支払いがしたかった。

「塩木の綾ちゃんといい、よほど気にいったんだねえ」

 目を細める座長の言葉が痛いほど胸に刺さり、寅治はそそくさと能楽堂を去った。当面の資金は潤沢で、必要なもの以外全て置いていくと決めてしまえば手荷物はほとんどなかった。水筒、日銭と通行証、わずかばかりの干し肉に小刀を一つ。大きな決断だった割に、準備はあっという間に終わった。

 綾と靖彦に見送られ、日が暮れる前に寅治は雲雀丘を目指した。二染屋の裏手からこっそり離れる影は誰に見とがめられることもない。式菜とはお堂で落ち合う約束で、その前に雲雀丘から桑名の町を一望した。多くの人が行き交う町の景色はどこか懐かしく、心に安らぎを与えてくれる。いつか、式菜が許してくれるのであれば二染屋に戻りたい。そんな期待を胸に寅治はお堂へと向かった。

 日が暮れると同時に地平に満月が顔を出した。今日だけは増女の能面を寅治が持っているため、式菜は別のもので顔を隠さなければならない。般若の面で現れる式菜を想像してみるとなんとも微笑ましい。

 朱く色づいた空の中ではお堂に差し込む光さえも朱く、人の心を惑わせる。逢魔が時、寅治は増女の能面を木箱から取り出した。

 相変わらず美しい能面だ。生きているような静かな表情は神秘的な空気を纏い、寅治を惹きつける。この増女の能面がいつも式菜の素顔を守ってきた。見つめる内に寅治の瞳が暗く濁った。逢魔が時の茜空がそうさせるのか、じりじりと焦げ浮くような衝動が胸に湧き上がってくる。

 寅治はすべてを捨てて式菜と逃げる覚悟を決めた。だが、どうして自分ばかりが捨てなければならない。無理に素性を聞き出すことは出来なくとも、素顔を見ることはできる。それくらい、許されてもいいはずだ。

 寅治は増女の能面を床に押さえつけ、小刀を振りかぶった。所詮、ただの能面である。力を込めれば突き刺さり、再度振り下ろせば二つに割れる。

「……」

 寅治はニヤつく口元を抑えた。心の内の支配欲や征服欲といった浅ましい部分がどうしようもなく満たされた。もっと早くこうすれば良かった。そうしたら式菜だって素直に顔を見せてくれたに違いない。

 割れた能面から式菜と同じ檜の香りが広がる。美しい面は魂が抜けたように無機質な顔を浮かべ、その薄く開いた瞳から黒い涙が流れた。奇妙な光景に顔をしかめ、涙を拭い取ると、それは墨であった。

――付喪神かもしれないねえ。

 ふと、春先の二染屋でご隠居が話していた言葉が頭をよぎった。

 檜の香りのする女だった。決して素顔を見せず、声が出せない女だった。昔から桑名の町にある能楽堂の面をつけながら、何処にも知り合いがいなかった。式菜を作り上げる一つ一つの要素が繋がり始める。

「あの男、殺しよった」

「やれおそろしおそろし」

「やつの顔を見たか」

「みたみた。我らよりよほど鬼のようじゃったのう」

 低く嗄れた声が雲雀丘のお堂に響く。寅治は足元から崩れ落ちた。


***


 ある満月の夜、雲雀丘から西の方へ張り出した瘤の一本松が夜空に可笑しな影絵を作り出した。この一人の男の死について様々な調査がなされたが、式菜という恋人と駆け落ちしようと目論んでいた事の他、何も分からなかった。雲雀丘のお堂で二つに割れた増女の能面が、能楽堂の蔵で立湧の帯が見つかったが、男の死との関連は依然不明のままである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る