付喪神・能面 1
何とはなしに月見をしていた夜更け、春の風が頬を撫で心地よさにうとうとと瞼が重たくなったころ、雲雀丘に人影が見えた。雲雀丘は桑名の街を一望できる小高い丘で、寅治の暮らす二染屋からもその輪郭がよく見える。西の方向に張り出した瘤から一本松が伸びて夜空に影絵を作り出していた。見間違いかと両目を擦れば、一本松がゆらりと蠢く。今度は間違えようもなくはっきりと。
蝶が羽化するかのように一本松から影が別れた。影は天を仰ぎ、月光にその姿を露わにする。紅入りの唐織を身に纏う絶世の美女である。豊かな黒髪が風になびき、照らし出されたその顔にはなんとも神秘的な能面があった。
「いやいや、絶世の美女ってのは何処へ行ったんです。能面じゃ顔なんて見えんでしょう」
二染屋の番頭である靖彦は寅治の話を遮ると、寅治の文机に饅頭をのせた。いろは庵の焼印が入った紅白の酒饅頭は得意客である塩木の旦那の差し入れだ。湯気を立てている湯呑みに並び、ほっと気が緩む。
「あたしが思うにその美女の正体は男ですよ男。能面だったなら間違いない。若旦那の初恋が男とはねえ、こりゃあいい」
靖彦はそう言って笑うと可笑しそうに膝を叩いた。小気味良い音が店の表にまで届きそうだ。つられて二染屋の奉公人がちらりと二人を振り返ったが、若旦那を揶揄う不届き者はこの番頭だけであった。
「絶っ対に美女だった。俺には分かる」
寅治は根拠のない確信を掲げ、したり顔で腕を組んだ。靖彦にくすくすと笑われたのは、寅治がついこの前まで縁談をどうにか逃げ出したいと愚痴っていた張本人だからだろう。色恋など興味もないといった態度が一転すれば、浅黒くがっしりした体も恋情には不格好で余計に笑いを誘う。
「ああ、どうにか話してみたい」
「で、野郎の低い声にがっかりする、と」
「……もう少し俺を応援できないもんかね」
「あたしはいつだって応援してますとも」
靖彦は白の酒饅頭を口に放り込んだ。呉服二染屋の番頭である靖彦は寅治が物心つく頃には既に丁稚として奉公していた。いたずら好きでしっかり者の靖彦は寅治にとって兄のような存在だ。熱中すると周りがみえなくなる寅治に休憩をとらせるため、こうして時々差し入れをしてくれる。気のおけない二人のやり取りを傍で見ていたご隠居は目を細めて湯呑みを傾けた。
「それは付喪神かもしれないねえ」
「……付喪神ぃ?」
かつての威厳は何処へやら、のんびりと茶をすすっているご隠居がついに呆けたかと寅治は眉を寄せた。社会を離れた悠々自適な生活では空想ぐらいしか娯楽がないのかも知れない。
「じゃ、じゃあ若旦那は付喪神に惚れたってんですか」
靖彦が腹を抱えてひいひい笑い始めたので、寅治にも笑いが伝播する。馬鹿げた話だけ残したご隠居は、ふと目を離せば店内をうろうろと物色して奉公人に声をかけていた。まるで耄碌爺そのものだが、たまに指摘する内容が的確なので奉公人たちも背筋を伸ばしている。
休憩を終えて仕事に戻れば、呉服二染屋はてんてこ舞いの大繁盛だ。帳簿の管理は靖彦に任せているが、その確認は寅治の仕事だ。大量買付けによる値下げ交渉と、上得意客に仕立てた振袖の仕上がり確認も忘れない。昼間の忙しさではそれ以上能面の女に言及することはなかった。
実は寅治が能面の女を見かけたのは、昨夜が初めてではない。寅治は何を考えるでもなくぼんやりと雲雀丘を眺める時間が好きだ。そうして眺めている間に能面の女が現れた。二染屋でも少数しか扱わないような見事な唐織を身に纏い、彼女は夜空を仰いでいた。寅治の目を引いたのは、神秘的な能面や奇妙な状況はさながら彼女の物憂げな立ち姿であった。
能面の女は平穏だった寅治の頭を占領し、もはや一刻の辛抱もならない。能面の正体を知りたい、会って話してみたい、能面を剥がしてみたい。泡のように次々と浮かぶ欲に身を任せ、その晩寅治は二染屋を抜け出した。裏手の井戸を抜けて雲雀丘を登れば夜ごと能面の現れる一本松の瘤にたどり着く。
茂みに身を隠し、一本松をじっと見つめて能面を待つ。春の夜の寒さも気にならないほどの熱意が己のどこから湧き出ているのか分からない。奇妙な光景だったから、退屈していたからと理由を並べ立てても上手い説明にはなっていないように思える。ただ、物静かな能面の底知れない佇まいに見惚れたのは事実だ。
その日は亥の刻を過ぎても能面は現れず、大人しく二染屋に引き返した。体を冷やして風邪をひき、翌朝靖彦にけらけら笑い飛ばされてしまった。二染屋の出窓から覗いていた時も毎晩現れたわけではない。作戦を変更する必要があった。
寅治は、毎晩自室から雲雀丘を監視することにした。そして来るべき三月の上弦、雲雀丘の一本松に寄り添う能面の姿を見つけた。いつ現れたのやもわからぬ。ふと目をそらしたすきに紅入りの唐織を身にまとった能面が雲雀丘に佇んでいた。寅治は二染屋を飛び出して雲雀丘を駆け上がった。呉服屋の若旦那を勤めるには無駄に大きいといわれてきた体躯がここにきて役立った。休憩も挟まず一本松まで走り抜け遂に追い求めた能面にたどり着く。
寅治の立てた物音に振り返った能面は月下を浴びてぞくりとするほど魅力的だった。
二染屋からではわからなかったが、お決まりの唐織には見事な鳳凰の紋様が織り込まれている。その上にはらりと落ちる黒髪は豊かで艶があり、きっと指を通せば滑らかですぐに零れ落ちてしまうだろう。顔を隠しているのは江口遊女などに用いられる増女の能面でなんとも神秘的な面差しだ。
寅治は心臓が痛いほど脈打っていることに初めて気が付いた。部屋から雲雀丘まで駆け上ったのだから息が絶え絶えになるのも道理だ。呼吸を整えて、かける言葉を探した。
「こ、こんばんは。よくここで夜空を見ていますよね」
「……」
能面は寅治に答えることなく胸元で両手を合わせ、数歩下がった。女の仕草だ。船乗りのような地黒でがっしりとした体つきの男に声をかけられれば誰だって不安だろう。どうにか能面の警戒を解けないかと寅治は両手を広げて見せた。武器も何一つ持っていないし、適度に距離を取っていれば威圧感が減るはずだ。
「俺は寅治、呉服二染屋の寅治です。あなたは能楽堂の方ですか」
「……」
桑名には能楽堂が二つある。一つは桑名の一座が定期的に公演を行っている能楽堂、もう一つは旅の一座が公演を行うための能楽堂だ。春先から雲雀丘に現れた謎の能面は、春から桑名を拠点に活躍している京の一座の者ではないかと考えている。が、寅治の満足のいく答えは貰えない。
能面は左右を確認し、寅治と反対側の茂みに向かって駆け出した。下手を打ったつもりはなく、しかも何の前触れもないので寅治は驚いたが、ほとんど反射的に追いかける。待ち望んだ機会をろくに会話もできないまま終わりたくない。唐織ということもあって足の遅い能面の背中はすぐにとらえることができた。雲雀丘の一本松を少し下り、四畳ほどのお堂の目の前で寅治は能面の腕を捕まえた。細い腕が寅治から逃れようともがくので、思わず後ろから抱きすくめた。
「ま、待て、悪いようにはしない」
どこぞの悪役のような台詞をのたまって、頭を抱えたくなる。もう少し靖彦にこちら方面の言い回しを教わっておくべきだった。後悔とともに頭も冷え、自らの行いを客観的に理解した。あんなにも神秘的だった能面が、今はその小さな体を震わせて寅治の腕の中にいる。初対面の男に力づくで捕らえられている。離してやりたいが、じたばたと抵抗している能面は再び逃げだして寅治と話してくれないだろう。
そこで寅治は違和感に気が付いた。これだけ抵抗しておきながら、能面は助けの一つも求めない。いや、抱きすくめたその瞬間ですら、悲鳴をあげなかった。
「お前……声が出せないのか」
「……」
能面はほんの一瞬動きをとめたが、再び寅治を押しのけようと藻掻き、人を呼ぶことはない。
「出せないんだろう」
今度は断定的な口調で問い詰めた。都合がいい、と卑怯な考えが頭をよぎり、振り払うためにもただじっと能面を抱きしめる。身動きができないほど強く。幸いにも能面は寅治を押し返すことができず、力を使い果たして抗わなくなった。両腕で自身を包み込むようにして小さく小さく体を丸めている。長い艶やかな黒髪からは木の香りがした。
「……手荒なことをしてすまなかった。話してみたかっただけだ」
体を解放してやってお堂の階段に腰かけると、古い木造のお堂が寅治の体重で軋んだ。少し遅れてもう一度階段が軋む音が響く。寅治から出来るだけ体を離した位置にちょこんと腰かける能面の姿があった。まだ警戒は解けていないのだろうが怯える様子が小動物のようで愛らしい。
「能楽師であれば男のはずだが、お前は女か?」
「……」
能面は首を振る。声は不自由でも耳は問題ないようだ。
「では、男?」
「……」
能面は再び首を振った。
「ははっ、冗談で返されるとは思わなかったな」
どこからどう見ても能面の正体は女だ。力が弱く、華奢で、線が細い。何より仕草の一つ一つが女らしく色めいている。
「お前が女でよかったよ」
笑いかけると、能面は不思議そうに首を傾けた。
「分からないか?お前に見惚れたんだ」
寅治の強い視線に能面はたじろぐ。あまりにもわかりやすく狼狽えて座っていた階段から転げそうになったので、素早く体を支えてやった。美しい佇まいとの落差が可愛らしく、熱に浮かされたように本音が口をついて出る。
「できればもっと仲を深めたい」
「!」
能面は両手で口元を隠し、ふるふると首を振った。あわせて揺れる髪から漂う木の香りは檜のものだ。心が安らぎ、しかし身の内の熱は消えない。
「嫌だ、俺は決めた。亥の刻になれば雲雀丘で待つ」
言いおいて、寅治はお堂を去った。能面は何か言い返したかったのかもしれないが声が不自由ではどうせ届かない。すでに自分の意思は伝えたのだし、嫌ならば雲雀丘から能面の姿が消えるだけだ。帰路も能面のことで頭がいっぱいでどうやって二染屋に帰り着いたのかも思い出せないが、翌朝は珍しく寝坊して靖彦に叩き起こされることになった。
それからというもの、毎晩宣言した通り亥の刻になると雲雀丘に向かった。初日の反省を活かし綿入れを着込んで寒さをしのいだ。着ぶくれして不格好だが女に浮かれて仕事に穴をあけるわけにはいかない。
能面はなかなか姿を現さなかった。正確に言えばそっと陰から寅治の様子を伺っていたのだが、目の前に出てきてはくれなかった。隠れ鬼は不得意と見え、草むらに隠れているのは丸わかりだった。多少興味を抱いて貰えたのだろうか、と期待が混じった心地で亥の刻を過ごす。動物のような警戒がもどかしくも愛らしく、視線を感じるだけでも寅治は楽しんだ。
二染屋が特に忙しかった春の終わり、脱いだ綿入れを側に置いて一本松を眺めていると心地よい睡魔に襲われた。ほんの少し、と雲雀丘に横たわると一面の星空が広がっており寅治はそのまま眠りに落ちた。
温かな微睡みの中、ふわりと綿入れが掛けられる。星空を遮る人影が薄目に見えた。朦朧とした意識をなんとか引き起こして、今にも離れようとしていた能面の腕を捕まえる。驚いて離れようとする能面は、今度こそ腕を離しても逃げ出さなかった。
「……もう来てくれないかと思ったよ」
おろおろと手を彷徨わせる能面に思わず頬が緩む。眠りこけた寅治に綿入れを掛けてくれた優しさに一層惹かれた。満天の星空は二人の再度の逢瀬を祝福してくれているかのようだった。
「よかったらお堂で話そう。外よりずっといい」
きっと初対面の印象は悪いだろうから、寅治は礼節をもって接するように気を付けた。一方的に言いおいてお堂に向かうと、数歩遅れて能面がついてくる。寅治が時折足を止めて振り返れば能面も足を止め、駆け出せば慌てて後を追う。お堂の中で待てば、入り口で躊躇っていたものの決心して入ってきてくれた。
古びた木造のお堂だが定期的に手入れがされていて瓦や嵌め殺しの格子窓は問題なく機能している。雲雀丘のお堂は本来罪人を閉じ込めるための牢のような役割を担うためのものであり寺社仏閣とは無縁である。したがって寅治は些かの罪悪感も抱かずにお堂に座布団や小箱を持ち込んだ。子供のころにも靖彦と忍び込んで二人だけの隠れ家を作っていた事が懐かしく思い出された。
お堂に入ってすぐに燭台に火を灯した。差し出した座布団の上に淑やかに座った能面の影が壁に淡く揺らいだ。小箱を手渡してやると、能面はためらいがちに蓋を開けた。
「こうすれば話せると思って」
得意げに紹介した小箱の中身は、筆、硯と半紙である。後から考えれば口説きたい相手への初めての贈り物にしては色気がなかったが能面は大事そうに筆を胸元で握り締めた。
「改めて、俺は二染屋の寅治。あなたは?」
「……」
能面が筆を走らせるにはまた少し時間を要した。隣に座ってくれただけで幸福で、待つのは何の苦でもなかった。
能面の名は、式菜といった。
会話が出来るようになれば、式菜の心が解けるのにさほど時間はかからなかった。毎晩亥の刻になると雲雀丘のお堂に二つの影が現れて束の間温かな光が灯った。それは穏やかなひとときだった。式菜は表情が見えない代わりに手足を大袈裟に動かして表現するので、振れる袖が愛らしい。寅治が話しかけると細く美しい筆が応える。逢瀬の唯一の証拠である半紙だというのに、持って帰るにも式菜が焼き払ってしまうので塵となって何も残らなかった。
式菜は寅治を面白いという。なぜ寅治の前に現れたかと問えば、素性のしれぬ女を雲雀丘で待ち続けるその情熱の在処が興味深かったかららしい。情熱の正体を思い知らせてやろうかとも考えたが、慌てふためくだけの式菜が哀れになってやめた。好都合と言えば好都合なのだが、式菜にはどうも流されやすいところがある。寅治に言えたものではないが、ほとんど初対面だった寅治についていくような押しの弱さで世間を渡り歩いていけるのかと不安になるほどだ。
式菜がすっかり打ち解けて寅治の側で寛いでくれるようになっても、寅治は能面をしている理由を問わない。隠したいのが素顔なのか素性なのかは分からないが式菜の魅力は変わらず輝かんばかりで、わざわざ藪の蛇を突くのも馬鹿らしい。
だがいつも同じ増女の能面であることが気になった。二染屋は能楽の衣装も扱うためそれなりに能楽にも通じているつもりだが、式菜の能面は非常に美しく精巧で高い価値を持っていると見えた。さぞかし名のある名匠が精魂込めて作り上げたのだろう。薄く開いた目には魂が宿っているようにさえ思えた。少なくとも若い女が毎晩顔を隠すために使うには勿体ない鑑賞向けの面である。
――では般若がお好みですか。
疑問を口にした寅治に式菜は怒ったふりをした。握りこぶしを振り上げる仕草だったがそれを両手で行うので締まらない。自然、笑みがこぼれた。
「よせよせ、この増女の面がはるかに美しい」
「……」
能面を褒めると式菜は何故か照れくさそうに顔を袖で覆い隠した。もとより能面で隠れているものを、何を恥ずかしがっているのかさっぱりわからないが可愛いのでよしとする。それから寅治は一層式菜を褒めるようにした。言葉を尽くして誠意を示して伝えていくほかないのだ。
季節は夏にさしかかり、昼日中は屋根の下にいてもじわりと汗を流すようになった。二染屋は人気が多く、ご隠居の好みで休憩時には熱いお茶が配られたのでますます蒸し暑い。湯気が出ている湯呑にも慣れたもので寅治は目を輝かせて毎度毎度式菜の話を披露した。といっても相手は靖彦と幼馴染の綾だけで、人に聞かれぬようこっそり自慢するだけだ。
「あたしはいいと思いますけどね。あたしは」
やけに言い回しで靖彦が言うと、綾も賛同した。
「だって二染屋の大旦那の耳に入ったら怖いわよ」
綾は得意先である大旅籠宿り木の一人娘だ。塩木の旦那は綾を大層可愛がって月に一度は豪華な生地の着物を仕立てる。綾の艶やかな出で立ちは大旅籠宿り木の名物であった。今日も何もない平日の昼間にしては華やかな手鞠と菖蒲が描かれた朱色の着物を身に着けて、奉公人が気の抜けた目線を送っているのを受け流している。綾の言う通り、二染屋をますます発展させたい父は素性のしれぬ女との色恋に難色を示すだろう。
「だからお前達にしか言ってないんだ」
難しい顔をすると靖彦が噴き出した。失礼なことに靖彦は寅治の恋愛模様が可笑しくて仕方ないらしい。今も式菜は男だと疑ってやまないので愛らしい式菜を一度見せてやりたいくらいだ。
「今度はちゃんとした贈り物をしたいと思うんだが、何がいいのか俺にはさっぱりだ」
「色気のあるものがいいんじゃないですか」
くっく、と靖彦が揶揄ったのは、初めての贈り物が筆と硯だったからだ。綾と二人そろってあり得ないと非難されたことを忘れはしない。
「身に着けるものがいいんじゃないかしら。簪とか……そうね、紅とか」
綾は頬に手を当て眉間にしわを寄せている。貴重な若い娘の意見に両手をあわせて拝むと、はっとした綾に軽く小突かれた。腕を組んで口をへの字に曲げているが生来の丸い顔立ちのせいであまり恐ろしくはない。
「……もう、寅ちゃんったらその話ばっかり。縁談の話が来てるんでしょ」
「あたしも小耳にはさみましたよ。大旦那が張り切ってるとか」
寅治にはなんの連絡もないが、番頭である靖彦の耳にまで入っているのなら恐らく噂は本当なのだろう。寅治の父は何でも一人で決めてしまうところがある。身勝手だと訴えるにも寅治が気付いた時にはもう確定した後だ。顔の分からない相手と縁談なんて、と愚痴ろうとして式菜も同じである事に微笑んだ。
「身に着けるもの。身に着けるものか……」
頭はすぐに式菜のことでいっぱいになる。浮かれ調子の寅治に、靖彦と綾はそろって息を吐いた。
口紅は渡しても寅治が見ることができないので却下、櫛はただでさえ美しい黒髪がどうなるのか気になるのでありだ。花簪もいい。黒髪が彩られ明るく愛らしい雰囲気が倍増だ。しかし心を決めて簪屋を尋ねてみると、どれがいいのかさっぱりわからなかった。ちりめん細工の簪や蜻蛉玉の簪を身に着ける式菜を想像して、全て似合うので選べない。
さて困った、と手ぶらで店を後にして二染屋にもどると、丁度色とりどりの反物を入荷したところだった。すぐに寅治は帯を作らせた。結局寅治は二染屋の息子で呉服のことしかわからない。二染屋の大旦那にばれぬようこっそりと靖彦に頼めば、仕返しとばかりに揶揄われる。
「さすが若旦那。いやあ積極的ですねえ」
男が女に帯を贈れば、帯を解きたいという意味になるらしい。巷に出回っている馬鹿げた噂を式菜が知っているとは思えないが指摘されれば意識もする。
式菜と共に過ごして理解したのは、己の欲には際限がないということだ。二染屋の自室から雲雀丘を遠く眺めていた時には、ほんの少し話せばそれでいいと思った。仲のいい友人に、出来れば恋仲になりたいと願い、どうにか式菜にとって特別な存在になれたと思う。寅治の前で肩の力を抜いて緩んでいる式菜を見ていると、触れたいと感じるようになる。体に触れることができれば心にも触れることが出来る気がする。
贈るための帯を用意し、気合をいれて挑んだ初夏の夜。亥の刻より半刻も前に到着してお堂で待つうちに雨が降り始めた。お堂周辺の土に染みわたり、時間がたつほど足元が悪くなる。出鼻をくじかれて口をへの字にまげていると、お堂の格子戸に紫の蛇の目傘が見えた。式菜が梅雨の間愛用していた傘だ。
四畳の狭いお堂である。式菜はすぐに寅治の用意した木箱を見つけ、促されるままに立湧の帯を取り出した。帯と寅治を交互に見つめ頬に手をあてている所をみると、喜んでもらえたようだ。紅入りの唐織の上から立湧の帯をあてて小さな手鏡だけで様子を確認しようとしている。寅治の見立て通り、式菜の唐織によく似合った。
「好きだ」
いともあっけなく、言葉が口をついて出た。式菜は飛び上がって、器用なことに座ったまま転んだ。助け起こすために取った手を、その、美しい手を離せない。式菜はじっと寅治を見つめ、照れくさそうに手を握り返した。
夜が更けるにつれて雨足が強くなる。風がないので雨戸を開け放していても濡れることはなかったが、打ち付ける雨でお堂の中は賑やかだ。
「これではまだ帰れないね」
「……」
都合のいい言い訳を並べて、しかし、頷いた式菜に胸が高鳴る。心が欲しいのか、支配したいだけなのか自分でもわからない。あるいはもっと原始的な欲なのかも知れない。
「……触れてもいい?」
口に出して確認するのは、式菜の僅かな仕草も見逃さないようにするためだ。式菜は俯くばかりで頷いてはくれなかったが、少し肩を押せばいとも簡単に倒れた。そのまま背に腕を差し込んで抱きしめても、初めて声をかけた夜のような抵抗はない。むしろ式菜の細い腕が寅治の首に回されて、微かな檜の香りに眩暈がしそうだった。
全てをかき消す雨音の中、声ひとつ上げない式菜が耳元で呼吸を乱す。式菜の希望で消した灯が却って寅治を煽った。嫌がるそぶりを見逃さないよう注意を払っていたはずなのにいつの間にか頭の中が熱く真白に占領されている。
暗闇に目が慣れて僅かな月明かりでも朧げに式菜の姿が浮かび上がった。日に焼けたような地黒の寅治と違って、式菜は透き通るような美しい肌をしていた。手のひらに吸いつく滑らかな肌だ。触れた先から二人の境界が解けてしまったかのようだった。
その夜、寅治は初めてお堂で朝を迎えた。雨上がりの土のにおいがして、雀の鳴き声に起こされる。嵌め殺しの格子窓から朝の陽光が差し込んでいた。満ち足りた気持ちで隣に目をやったが、すでに式菜の姿はなかった。
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