付喪神・簪(かんざし)

 百鬼夜行の宴があけて日が昇るころ、女郎蜘蛛は大口を開けて欠伸した。酒に呑まれてふり乱れた黒髪が首筋をぺたりと這い鬱陶しい。入道雲に隠れてひと眠りする前に纏めてしまいたいという欲のまま、女郎蜘蛛はあたりを見回した。小鬼たちが目を合わさぬようにと逃げまどっては頭をぶつけている。琴や刀の付喪神も逃げてゆく。

「あれ、簪はどこかのう」

 がさがさと四つ足で探すも、簪の姿がない。美しい見事な簪を気まぐれに髪にさすのが女郎蜘蛛のお気に入りだったのに。

「おいでおいで、簪やい。わらわを飾ってはくれんかのう」

 猫なで声で呼びかけながら、酔いつぶれた妖怪たちの合間を探る。きっと隠れておるのじゃ、と遠巻きに耳打ちしていた小鬼たちも次第に異変に気付き始めた。箪笥の付喪神の中ではないか、しゃれこうべに隠れているのではないのか、あれこれ探すが、簪の姿がない。

「……そういえば昨日の簪は俯いておった」

「なんじゃ、簪が俯くものか」

「いやいや、分からぬ。あの簪はかなりの長寿じゃった。力も強いはずじゃ」

 こそこそと小鬼たちが噂する。なかでも、宴会を簪と楽しんでいた小鬼たちは昨夜の簪を思い出し、ううむ、と二日酔いの頭をひねった。女郎蜘蛛はまだ諦めていないのか、狐衆の所にまで進んで、煙たがられている。ああ、そうじゃ、と或る小鬼が思い出した。

「簪が俯いたのは、総大将が冗談をいうてからじゃった」

「冗談?」

「ほれ、奥方様と前世から結ばれておるとかいう」

 満月の夜に心中すれば、来世で結ばれる。笑いを誘った総大将のあの文句を小鬼は簪と共に聞いた。

「……まさか、真に受けたんじゃ、あるまいな」

「まさか、まさか」

「いや、まさか」

 小鬼たちは顔を見合わせたものの、すぐに笑いながら首をふった。きっと女郎蜘蛛から上手く逃げているのだろう。入道の影に隠れているのかもしれぬ。奥方様がかくまっておるのかもしれぬ。

「簪や……簪やい……」

 探し続ける女郎蜘蛛も、瞼の重さに耐えられなくなってきた。酔いつぶれた妖怪たちから酒の香りが漂っている。首にまとわりつく髪など、もうどうでもよいではないか。うつらうつらと、おぼつかない四肢で歩を進め、ついには濡れ女の蛇体の上に折り重なるようにして崩れ落ちた。妖怪たちを包み隠した入道雲が夏空にぽかりと浮いていた。


***


 山王祭の夜は宵待屋も大繁盛で、まだ半玉の藤吉もてんてこ舞いの忙しさだった。商人は祭りに忙しく、客といえば浪人や侍ばかり。吝嗇家のお客だって祭りとあっては気前よく、目当ての芸者以外にも手土産を持ってきた。おかげで藤吉は一度口にしたいと思っていた江戸の飴細工の金魚を松重ねえやに譲ってもらうことができた。甘い金魚をぺろりと平らげてしまうはずだったのに、いざ目の前にすると消えてしまうのが惜しく、割り箸に刺さったままの金魚を簪立てに並べる。下り藤の簪の横に、頭の赤い金魚が泳いだ。飴細工は腐らないというし、しばらく簪にまざって泳いでいてもらおう。朝の光できらめく姿は宝石のようだ。

 今日も浅草の花街に朝がやってくる。祭のあとの朝はけだるいもので、皆が起きてくるはずの時間に働いているのは藤吉だけだった。割り振られていた炊事当番を終えたころに寝ぼけまなこを擦りながら松重ねえやが起きてきた。とっくに朝食を終えている藤吉を見つけると、元気ねえ、とあきれてしまう。おふくに結った髪を彩る下り藤の簪は、藤吉が祖母から貰ったもので、やる気が十分の時に決まってつけていた。

「とうきっちゃん、初めてのお客さんがそんなに楽しみなのねえ」

 藤吉は芸者を目指す半玉であり、舞を披露したことはあるものの、得意な三味線を披露したことがない。憐れんだ松重ねえやは松重の贔屓客である明石が設けた宴席なら三味線を披露していいと藤吉に約束した。

「松重ねえや、見て見て」

 藤吉は襷をほどき、松重ねえやに三つ指をついた。期待に満ちた笑顔が瑞々しく、松重ねえやも息を止めてじっと見守る。

「藤吉と申します。よろしくお願いいたします」

 優雅に、深々と、一礼。たすき掛けしていた袖がくたびれていたが、挨拶は一人前の芸者だ。すごいすごいと手を叩こうとしたところで藤吉は天を仰いだ。

「……あかん。やっぱりお江戸の言葉は慣れへんわ。このままやといつかボロがでんで」

「いいじゃないの京ことばでも。京舞妓みたいでかわいいわよ」

「あかんよ。うちのは京ことばちゃうもん。笑われてまうわ」

 どないしょ、と両方を頬を手で包み、眉を下げる。

 藤吉の生まれは播磨である。父は東回りの菱垣廻船で船夫をしており、母は仕立屋で下働きをしていた。貧しい生活のなかで三人目の弟が生まれたとき、嬉しかったと同時に食い扶持を減らさなければならないと悟った。迷わず藤吉は花魁を目指した。かつて人ごみの隙間からみえた吉原の花魁道中があまりに美しかったからだ。親が藤吉を放り込んだのは大阪の芸者小屋で、花魁と芸者の違いを学び、いつしか藤吉の目標は芸者になっていた。宵待屋と京の芸者小屋で出会い、江戸に行きたいのだと自らを売り込んだのが齢十三の時。以来、ひたむきに一人前の芸者を目指して精進している。明石の宴席といういい目標ができてから、より稽古に身が入った。

 べん。べべん。

 三味線の稽古が藤吉は一番好きだ。銀杏型の木撥が弦を弾くだけなのに七色の音色を奏で、同じ音でもその時々で深みが異なる。お給金を貯めて猫革の三味線を選んだときは胸がいっぱいになった。安い三味線ではあれど、他の芸者の三味線にも劣らないと胸を張って演奏できる。

「――恋の品川女郎衆に」

 藤吉の唄に稽古場の半玉たちが聞き入った。『お江戸日本橋』には東海道の名所が唄われており、まだ見ぬ景色を思い浮かべては言葉を唄にのせる。幼さを残した顔から見事な唄が紡がれ宵待屋に響き渡った。

「小夜の中山夜泣き石――……松重ねえや!」

 藤吉が顔を向けた稽古場の隅から、髪結いに出掛けていた松重ねえやが覗き込んでいる。島田に結った艶やかな黒髪にとりどりの簪が咲いている。翡翠の玉簪、銀杏型の簪の中では螺鈿の菊が花開き、蒔絵の塗櫛には牡丹が咲く。美しい姿に半玉たちからため息が零れた。

 松重ねえやが手に下げた紙袋に描かれた大きな桔梗は桔梗屋の紋だ。目ざとく見つけて喜ぶ藤吉に松重ねえやはくすくすと笑い、稽古場の半玉たちに配っていく。白玉の入った冷やしぜんざいである。

「うち、桔梗屋さんのぜんざいが一番好きやわ」

 小さな匙にぜんざいをのせて満足そうに頬張る。桔梗屋のぜんざいはあっさりとした甘みと柔らかな白玉が絶品である。一番年若い半玉が入れてくれた麦茶と交互に少しずつ楽しむのだ。

「……やっぱり、藤吉やないとあかんのかな。せっかくなら藤姫とか綾藤とか可愛らしい名前がええわ」

 ぜんざいを食べながら藤吉は空想した。播磨からずっと連れてきている下り藤の簪が、芸名の由来である。藤の花は好きだが、男のようなこの名前は可愛くない。どうにか少しでもかわいい名前にならないものかと空想する。あれこの子ったら、と松重ねえやは笑った。

「そしたら、お客様が困ってしまうわ」

「……やんなあ」

 芸者の男のような名前には理由がある。お客が外で芸者の話をしていても、奥方にバレないようにするためだ。人前で芸者の話をしなければいいのに、と藤吉は不満である。しかし松重ねえやにとうきっちゃんと呼ばれるのは好きなので、たまに愚痴を言うだけにとどめている。

「……いたっ」

 突然頭に鈍い痛みが走り、藤吉は顔をしかめた。下がり藤の簪を引き抜いて髪型を崩さぬように頭皮をおさえる。

「簪がずれたみたいやわ。変やな、さっきまでええ具合やってんけど」

 ガラス細工の藤の花が手の中でしゃらしゃらと微かな音を立てる。藤吉は首を傾げたが、気に留めることなく鬢付け油で艶を出したおふくに戻した。

 それから間もなく、宵待屋に奇妙なことが起こりはじめた。明石の宴席の日取りも決まり、藤吉が心を躍らせていた頃だ。たしか初めは、半玉の一言だった。

「私の木撥、見てなあい?」

 藤吉より二つ幼い半玉が目を皿のようにして稽古場を探し回っていた。誰か間違えたのではないか、うっかり落としたのではないか。管理がなっていないと豆奴ねえやに叱られ半玉は目に涙を浮かべていた。数日後、見つかった木撥はいつもの三味線に寄り添うように立てかけられていた。

 その次に無くなったのは、豆奴ねえやの塗櫛だった。豆奴ねえやは几帳面で髪の毛の一つも落とさないと揶揄されている。豆奴ねえやが失せ物探しなんて、と宵待屋の皆が驚き探したが、どこからも出てこない。

 その次は宵待屋の旦那が大事に抱えていた漆の薬箱。次は向かいの料亭のお玉。そのどれも、無くなってしばらくすると元の場所に戻っている。足でも生えたみたいねえ、と半玉たちは無邪気に笑ったが、こう何度も続くと偶然では済まない。きっと盗人が浅草を歩き回っているのだと宵待屋の旦那は腹を立てていた。

 近頃はお江戸中が似たような被害にあっていて、奉行所の面々の頭を悩ませた。昔から江戸には物がなくなりやすい時期というものがある。きっと盗人たちが示し合わせて各地で盗みを働いているのだ。

 他人事だと思って明石の宴席のことばかり考えていた藤吉も、ついには被害にあった。よく晴れた夏空に入道雲が浮かんだ日のことだった。うだるような暑さの中、朝餉を終えて稽古場に向かう最中、下り藤の簪を忘れたことに気が付いた。部屋に戻り、簪立てを確認するも飴細工の金魚が泳いでいるだけで下り藤の簪がない。

「うせやん……」

 これは大いに藤吉を気落ちさせた。下り藤の簪は播磨の生家を出るときに祖母から貰ったもので、いわば相棒のようなものだった。最近は三味線の稽古で必ずつけるようにしていて、明石の宴席にも連れて行こうと思っていたのだ。

「うちの簪、見いひんかった?」

 藤吉は手当たり次第に聞いて回った。宵待屋の旦那も半玉たちも見ていないという。稽古の時間になっても見つからず、松重ねえやも申し訳なさそうに首を振った。

「もしかして下り藤の簪がなくなったの?」

「せやねん……」

 藤吉の小さな肩ががくりと落ちた。代わりにつけた玉かんざしでは上手く三味線が弾けない気さえする。そんなことより練習をするべきだと分かっていても稽古は上の空で、松重ねえやがしびれを切らした。

「今日ははやく上がりなさいな」

 他の芸者や半玉に迷惑をかけるわけにもいかず、言われるがまま稽古を早抜けした。明石の宴席が近づいているのに情けない。明石は幕府御用達の呉服屋で、今度の宴席では多くのお客を呼ぶらしい。藤吉の役割は盛大な宴席に花を添えることだ。

 やはりこのままでは宴席に出られない、と三味線を抱えて部屋に戻り、もう一度部屋を探すことにした。夏の午後、油蝉が鳴いている。障子に一匹ぴたりと張り付いており、手拭いを振り回して何とか外に追い返した。大立ち回りでどっと疲れ、座布団の上に座り込むと簪立ての様子が朝と変わっている。

 下り藤の簪が、簪立てに行儀よく収まっていた。藤吉は歓声をあげて簪を手に取った。おふくに結った髪に、つ、と差し込む。頭の動きに合わせてしゃらしゃらとなるガラス細工の花弁がしっくりとくる。

「……ほんま、なんなんやろ」

 盗人だとすれば、無くなった簪が戻ってくるのもおかしな話だ。すべて藤吉の勘違いで、本当はずっと簪立てに並んでいたのだろうか。しかし、簪立てに並べていた金魚の飴細工が倒れているということは誰かが触ったのだ。考え込むようにして簪立てを膝に乗せた。夕日が藤吉の部屋に差し込み、金魚がきらりと光った。ぼんやりと眺めていると、視界の端で通りに赤色が咲いた。宵待屋が軒を連ねる通りである。藤吉は二階の窓から身を乗り出して目を凝らした。

 それは真っ赤な番傘の男だった。喪服のような暗い色の袴で帯刀しているため、侍のように見える。番傘に隠れて顔は見えないが、じっと宵待屋を見ている。こんなにも晴れているのに番傘なんて、と藤吉は訝しむ。松重ねえやや豆奴ねえやを狙う悪漢かもしれない。松重ねえやは昔、付き纏い被害にあっている。用心棒を呼ぶべきだろうかと躊躇しているうちに番傘がゆらりと動き、藤吉を見上げた。目が合う前にぱっとそらすことで素知らぬふりをし、再び顔を戻すと、通りに番傘の男の姿はなかった。煙のように消えていた。

 夕暮れの浅草はそれなりに賑わっているのだが、誰に聞いても番傘の男なんて見ていないという。宵待屋の計らいで用心棒を二人増やして貰ったものの、どうにも落ち着かない日々を送った。藤吉は、明石の宴席に向けて芸を完成させる一方で、簪をなくす日が増えていった。

 そうして明石の宴席の夜がやってきた。今日こそは簪をなくすまいと藤吉は何度も簪の位置を確認し、藤の花のしゃらしゃらという音で心を落ち着けた。料亭ことぶきは明石が好んで使っている料亭で、今回の宴席に宵待屋の芸者が五名も呼ばれていた。贔屓にされている松重ねえやを筆頭に芸者たちが料亭ことぶきに向かい、その殿を藤吉が歩いた。夜道をぼんやりと照らす行燈を右手に持ち、空いた片方で三味線を抱えている。余所行きの豪華な三味線を貸してやると宵待屋の旦那が申し出たが、練習に使っている三味線を連れて行くのだと決めた。いつも通りの重さと形が、初めての演奏に対する緊張をほぐしてくれるはずだ。

 料亭ことぶきの暖簾が見えたところで、ずきんと頭が痛んだ。顔をしかめた藤吉の頭から下り藤の簪が滑り落ちる。

「っ……」

 稽古場の時と同じだ。簪の位置が悪かったのか突然頭が痛くなったのだ。先に入ってるわよ、とねえやたちは料亭ことぶきの暖簾をくぐっていく。藤吉はくるりと踵を返して落とした簪を拾おうとした。

 目の前に、赤い番傘の男が立っていた。びくりと藤吉の肩が跳ね上がり、三味線も行燈も落としてしまう。落ちた拍子に行燈が消え、料亭ことぶきの明かりだけが通りを照らす。

「……お、脅かさんといてえや」

 藤吉は心臓の早鐘を誤魔化すように愛想よく笑い、慌てて三味線と行燈を拾った。男の番傘は深く傾いており、やはり顔が見えない。番傘の男の手の中に下り藤の簪があり、藤吉に向けてまっすぐ差し出される。落とした簪を拾ってくれたようだ。

「……その簪、うちのやねん。拾うてくれてありがとう」

 少し変わっているが悪い人ではないのかもしれない。藤吉は深々とお礼をすると下り藤を丁寧に差し直した。

「とう、きち……藤吉……」

 ぼそぼそと番傘の男が口にする。まだほとんど宴席に出ていない藤吉の名前を知っているということは宵待屋のお客のはずだ。

「お兄さん、もしかして明石さんとこのお客さんやろか」

 これから料亭たちばなに入るところだったのだとすれば得心がいく。自分の推論に納得して藤吉は微笑んだ。変わった人だと不気味に感じていたが、これから相手をするお客となれば別の話だ。

「うち、今日は三味線披露すんねん。楽しみにしといてや」

 藤吉は砕けた口調で無邪気に笑い、料亭たちばなの暖簾をくぐった。豆奴ねえやに見つかれば叱られてしまいそうな口調だったが鯱張っていてもつまらない。返事がないことに違和感を覚えて、入ってこないのかと後ろを振り返ったがそこには誰もいなかった。

 明石の宴席は料亭たちばなで一番大きな広間で行われた。ずらりとならんだ明石のお客が酒を酌み交わし、しだいに顔もほぐれ、声が大きくなっていく。藤吉はお客に酒をついでまわり、番傘の男を探した。大広間で番傘をさしている侍はいないが、佇まいや背格好から何とか探し出そうとする。しかし、それらしきお客はいなかった。

 宴もたけなわ、最高潮に盛り上がったところで松重ねえやが藤吉を紹介する。ぎくしゃくと進み出て三味線を構えた。

 しゃらしゃら。

 あたまの動きにあわせて下り藤の簪が揺れる。思えば簪はいつも藤吉を見守ってくれていた。身を売った時も、宵待屋に拾ってもらった時も。この下り藤の簪がついていて、何の恐ろしいことがあろうか。無我夢中で撥をはじく――。

「――見事じゃ、これはたまげた。この腕でまだ半玉とはの」

 明石が褒めたたえ、他のお客も藤吉に拍手喝采を送った。明石の隣に座っていた松重ねえやも誇らしげに微笑んでおり、天にも昇る気持ちとはまさにこのことだと胸が震えた。

 藤吉はその後の宴席をあまり覚えておらず、気付いたら締めになっていた。大成功に終わった宴席がただ嬉しく、誇らしく、帰り道も走り出してしまいそうだ。

「ねえやたちは先に帰っといて。うち、このままやと寝られへんわ」

 宵待屋の近くまで帰ったところで、藤吉は我慢できずに口にした。握り締めた両の拳と輝いた目が藤吉の興奮を物語っている。松重ねえやは初めて宴席に立った時のことを思い出してくすりと笑った。成功の後の熱は夜の闇でなければ溶かせないものだ。幸い、盗人騒ぎのおかげで役人がよく巡回していることだし、問題ないだろうと芸者同士で頷き合った。

「早く帰ってきなさいね」

「ちょっと散歩するだけやから」

 松重ねえやのもとに威勢のいい言葉が帰ってくる。三味線を松重ねえやに預けて、行燈一つで夜の浅草に飛び出していった。

 宴席のあとの遅い時間とあって、浅草も眠りについている。行燈の蝋も限られているので浅草寺を拝んで帰るだけにする。通りにずらりと並んだ長屋の明かりは消えていた。夜の浅草を一人で歩くのははじめてのことだった。蛙や鈴虫が鳴いており、案外賑やかなのだと認識を改める。こうして歩いてみると、月が明るさは予想以上だった。月の満ち欠けで蝋のもちが違うと宵待屋の女将がぼやいているのがよくわかる。

 雷門を抜けて浅草寺の仲見世で夜空を見上げると、頭上に満月が輝いていた。口をあんぐりと開けて眺めていると、再び頭に鈍痛が走る。

「いったあ……もう、ええかげんおかしいんとちゃう?」

 下り藤の簪を引き抜こうとした手が空をかき、からん、と音がした。先ほどまでおふくを飾っていた簪がない。これまでとは違う、あまりに不自然な動きであり、ひとりでに落ちていったとしか言い様がない。つ、と汗がうなじを伝った。恐る恐る振り返る。

 下り藤の簪から、足が生えていた。

「ひっ」

 慣れ親しんだ簪のはずが、あまりの恐ろしさに内臓まで震えあがる。声を失った藤吉に向けて簪は走り出した。

「い、いや、いやや!なんなんこれ」

 震える足で逃げ出した藤吉を簪は追いかける。距離を詰めてはふくらはぎを何度も突き刺し、藤吉は悲鳴を上げた。こんな夜更けの浅草寺には誰もおらず、助けを求める声は広い境内に吸い込まれてゆく。

 せめて本堂までたどり着けば、観音様が助けてくださるだろうか。無我夢中で走り、手水場も通り過ぎたところで、人影を見つける。

 二天門の方向に、真っ赤な番傘の男が立っていた。

「お兄さん!」

 助けを求めると、簪は焦っているかのように藤吉をおいたてる。すぶすぶと刺された足が痛い。息が上がって肺が痛い。

 男は赤い番傘を放り投げ、藤吉に駆け寄る。月光に照らされたその顔は、顔があるはずのその場所には、大きな菊の花が咲いていた。藤吉は腰を抜かして二匹の化け物を比べ見た。足の生えた下り藤の簪と、菊頭の男だ。菊頭を銀杏型の簪が飾っている。螺鈿細工で描いた美しい菊模様は、松重ねえやの簪によく似ている。

 菊頭は腰の刀を抜いて藤吉に迫る。足元の藤の簪はその間も急き立てるように藤吉の足を何度も刺していた。逃げろ逃げろと刺していた。

 藤吉は立ち上がり、再度本堂を目指す。本堂の左右には篝火が焚かれ、あたりを明るく照らし心強い。下り藤の簪は藤吉を襲っていたのではなく、きっと本堂に誘導していたのだ。

「藤吉……」

 菊頭が藤吉を呼ぶ。口もないのにどこから声を出しているのやら分からない。本堂の階段に足をかけたところで菊頭の刀がきらりと光り、ついに藤吉の背を捉えた。

「あぐっ……ああ、ううう……」

 袈裟斬りの激痛で、藤吉は倒れこんだ。背中が熱く、濡れはじめる。菊頭の男は涙を流して喘ぐ藤吉を見下ろし、再度刀を振り上げた。藤吉からは逆光で、月を切っているようにも見える。

「し、死にとうない……うち、うち、いやや、やめて」

 足元で藤簪が藤吉をかばうように跳ねている。菊頭の男の刃が宙で止まる。

「ともに……行くから……」

 菊頭の男が呟くと、藤吉は悲鳴をあげた。心臓を、一突きする。本堂の階段に藤吉の血飛沫が飛び散る。花のように広がった赤い花弁の真ん中で、藤吉はこと切れた。

「……おのれ」

 菊頭の男は地団太を踏んだ。藤吉の胸に刺さった下がり藤の簪が、月光に揺れていた。

「おのれ、おのれぇ!」

 菊頭の男は悔しげに藤簪をにらみつけていたが、目的を果たせないことを悟り、背中を向けて夜の浅草に消えていく。本堂の前には赤い番傘だけが転がっていた。

 ずるずると藤吉の体から簪が抜ける。簪はあたりをきょろきょろと探して、本堂の横に篝火があるのを見つけた。二本の足だけで器用にのぼり、篝火の縁に立つ。一度だけちらりと藤吉を振り返り、その篝火の中に飛び込んだ。

 寺という場所も相まって、身を焼く炎は想像を絶するほど熱く、苦しそうに足をばたばたと動かして藻掻く。ガラスがどろどろと溶けていく――。


「まさかこんな弱い付喪神が心中を果たすたあな」

 長髪に着流しの男が、篝火を覗き込んだ。中ではまだ付喪神の足が動いている。付喪神は高位になるほど人型に近づいていく。はるかに上位の菊簪を退け、藤簪が心中を果たしたのだ。

「……介錯を」

 茨木童子が腰の刀に手をかけた。木の簪ならよかったものを、ガラス細工の簪では死ぬまでに長く苦しむことになる。

「やめろ。心中ってのは他人の手を借りるもんじゃねぇ」

「哀れな。この娘の血筋を見守ってきた簪だろうに」

 茨木童子は刀から手を放し、藤簪に同情した。螺鈿細工の菊簪に娘が殺されて心中がなれば、二人は来世で結ばれてしまう。菊簪から守り切れないと悟り、自ら手を下したのだ。

「茨木、それは野暮ってもんだぜ。娘を殺したのはともかく、自害したってことは惚れてたってことだ。本望だろうよ」

 篝火の中の藤簪はもう動かない。見事、と総大将は呟いた。

『満月の夜に心中すると、来世で結ばれる』

 これは伝説ではなく強力な呪なのだと酒呑童子に教えてもらったことがある。はるか昔、確か平安のころ、酒呑が茨木とともに京を暴れまわっていたころのことだった。

「さて、と。百目鬼のバカはどこに行ったんだか」

 総大将は面倒くさそうに頭をかいて、浅草寺を後にした。ゆらりと消えてしまうので、茨木も慌てて追いかけた。

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