百目鬼

 海岸沿いに樽廻船や菱垣廻船がずらりと並び、船橋は活気にあふれている。漁夫や船夫が豪快に笑えば、あれよあれよと積荷が降ろされていく。港までまっすぐに伸びた大通りには漆喰の大蔵や船宿のほか、色とりどりの店屋が並ぶ。中でも西日を遮る野点傘は赤白の二色張りで通りを行きかう人々の目を集めた。毛氈を掛けただけの床机の上に並んだ夏の歌舞伎団子は、肉桂と砂糖と蓬の三色だ。老舗のお茶屋とあって客足が絶えず、看板娘があくせくと走り回ってもてなした。

 総大将はお気に入りの肉桂の団子を薄茶で流し込み、鋭い目で通りを監視している。町娘、大問屋、船夫、侍、女将。西の言葉や北の言葉が混ざっている所をみると、港を歩く人々はその出生まで様々だ。人の世にあわせて結いあげた髷が総大将の横顔を凛々しく見せている。

「こんな街中をふらふらと歩きはしないでしょう」

 茨木は三本目になる蓬の串を平らげて、からん、と皿に戻した。真面目な顔つきに似合わず、甘味が好きな男だ。肩肌脱ぎの野袴が港の活気によく馴染んでおり、総大将は感心した。

「分からねえぜ。あいつは人の世が好きだからな」

 目を細めて人に紛れた百目鬼の姿をさがしたが、そう簡単には見つからない。東海道に向かっていた百鬼夜行から百目鬼が消えたのは、まさに富士を越えようかという頃だった。百目鬼は百鬼夜行に必要な妖怪である上に、人の世に隠れるのが上手かった。すなわち、探すためには人間に紛れることができるような高位の妖怪がこうして出向かなければならない。化け物そのものといった見た目をしている鵺や姑獲鳥に留守番を任せ総大将は人の世に降りてきた。多くの付喪神にも協力してもらい、江戸の端まで探し回るのだ。

「今回は総大将に非があるかと」

「……ああそうかい、悪かったよ。あいつの前で軽率だった」

 茨木の咎めるような口ぶりに、総大将は半眼になった。『満月の夜に心中すれば来世で結ばれる』。人の世を愛する百目鬼が総大将の言葉を聞いたらどうなるか考えれば分かるというのだろうが、あれは酒の席だった。心中するにしたって、百鬼夜行の後にすれば良いものを。

「っとに、いけ好かねえ野郎だ。早く見つけねえとな」

「――あらお侍さん方、人探し?」

 総大将と茨木の会話を小耳にはさんだ看板娘が声を掛けた。侍と呼ばれて反応が遅れたが、どうせなら協力してもらおうと知恵を働かせる。

「ああ、宗衛という名でね。長い前髪で目元をかくした、腰の低い優男だ」

「ふうん、その宗衛さんもお侍さんなの?」

「刀は持っていない」

 茨木はすぐに総大将の意図を察して看板娘に補足した。自分にできる範囲なら協力すると笑いかける看板娘と薬指を結ぶ。客が多いこの茶屋で聞いて回れば案外すぐに百目鬼の情報が集まるかもしれない。満足して茶屋を去ろうというときに総大将は重要なことを忘れていたことに気付き、看板娘を呼び止めた。

「宗衛は、体中を包帯で巻いている」

 人の世にまぎれるため、百目鬼は体中に生えた無数の目玉を隠しているはずだ。


***


 夏子が宗衛を拾ったのは一週間と少し前の夜だった。夏子の家の軒先に体中を包帯で巻いた男が行き倒れており、どうしたのだと人を呼ぼうとすると、追われ者だからと断った。夏子は少しおせっかいなところがある娘で、倒れた宗衛を見逃すことなど出来なかった。誰にも言わないで欲しいと頼まれたって、それでいいからと自室にあげることを躊躇わなかった。

「ありがとうごぜえやす」

 宗衛は夏子の腰のあたりまで深々と頭を下げると、夏子の部屋の隅に小さくなって座った。渡した座布団も遠慮するような腰の低い男で、長い前髪で目元を隠していた。行き倒れていたのは飲まず食わずで逃げていたからだと聞き、夏子は芋粥を用意してやった。

「お嬢さん、どうしてあっしのような不審な輩に親切にしてくださるんです?」

「お嬢さんじゃなくて、夏子。御池屋の夏子よ」

「夏子さん……あっしは宗衛といいやす」

 宗衛はへこへこと頭を下げると、匙にのせた芋粥を口に入れた。体中包帯だらけの痛々しい姿をしているにもかかわらず、人好きのする顔でおいしいと笑う。

「夏子は薬問屋の娘だもの。宗衛さんのような怪我だらけの人を見捨てたら、御池屋の名が泣くわ」

 御池屋は港の大通りに店を構える小さな薬問屋だ。東廻りで運ばれてきた薬を取り揃え、調合まで行っている。御池屋は夏子の誇りであり、胸を張って得意げに紹介する。

「ああ、可愛らしいだけでなく、お優しいんで」

 宗衛が恥ずかしげもなくほめたので、夏子はむせてしまった。江戸にこうもまっすぐ女を褒める男はいない。何より愛おしげなその視線が雄弁で、夏子はどうにも居心地が悪く、咳で誤魔化した。

 宗衛は夏子の知る男衆とはどこか違っていた。怪我人かと思えば平気で歩き回るし、なよなよとした優男かと思えば米俵をひょいと担いでみせた。調合した塗り薬も火傷薬も断り、包帯だらけの体を決して夏子には見せなかった。

「城下のご両親はいつ帰って来るんですかい」

 朝餉の後の苦い漢方を飲んでいると宗衛が尋ねた。御池屋を一人で切り盛りする夏子にいい加減疑問を抱いたのだろう。

「夏子、城下町に行ってるなんていったかしら」

「あっしの目はよく見えやすから」

 訳のわからないこといって宗衛は包帯をおさえた。包帯の下が蠢いたような気がしてぱちぱちと瞬きをすると、宗衛がにこりと微笑んでいた。疲れているのだろうと、目頭を揉んだ。

 夏子の両親は舶来のめずらしい薬を買い付けに城下町に行っている。船橋に寄港した船が積んできた薬を何とか買おうとしたことがはじまりだ。仕入れた青柳商店の旦那は、まず将軍家御用達の薬問屋に運ぶとの一点張りで、城下町に出向かなければ買うことはできなかった。毎日両親から届く文によれば、まだしばらくかかるらしい。

「それまでは、二人きりね」

 夏子はいたずらを仕掛けた悪童のように笑った。留守の間、何人たりとも御池屋の敷居を跨がせるなという両親の言いつけはとっくに破っている。どころか年若い男と生活していると知ったら父は卒倒するだろうか。

「何でも言ってくだせえ。夏子さんの力になりやす」

 穏やかな表情で頭を下げれば、夏子はふいと顔をそむけた。人の良さそうな宗衛を真っ直ぐに見つめ返すとどうにもむず痒くいたたまれない。

 言葉の通り、宗衛は夏子の言いつけを何でもこなした。床掃除をしろと言えば家中を磨き上げ、着物の日干しをしろと言えば座布団まで天日にさらした。茶碗を割ったときなどは眉を下げて心から申し訳なさそうにするものだから、夏子の笑いを誘った。気遣いがうまく、穏やかに微笑んでいる宗衛は、決して誰かに追われるような悪い人間ではない。

 有り体に言えば、宗衛との日々は楽しかった。御池屋の中で孤独な日々を送っていた夏子は側にいるだれかの温もりを初めて知った。両親が帰ってくるのは一月後でもいいくらいだ。

 ある日、宗衛に食べさせてやろうと茶屋の歌舞伎団子を買いに出掛けると、壁に尋ね人の張り紙がされていた。体中に包帯を巻いた優男、目元が隠れるほど長い前髪で、名は宗衛というらしい。

「時恵さん、この人、そんなに恐ろしい人なの?」

 閉店間際になって紅白の野点傘を片付けていた看板娘の時恵に問いかけた。茶屋に遊びに来ていた侍が探していた男なのだ、と時恵は教えてくれた。

「仕事を放り出して、逃げたんですって。怠け者もいたものよね」

「……そうかしら」

 夏子は時恵に聞こえぬように呟いた。宗衛は怠け者ではないし、夏子が言いつけた仕事から逃げたことなんて一度もない。

「はい、たくさん食べてね夏子ちゃん」

 夏子が考え込んでいる合間に、頼んでいた歌舞伎団子が包まれていた。御池屋夫婦は不在のはずでそれ以外の誰かと食べるようだと察して、時恵は微笑んでいる。食の細い夏子一人で団子を二本頼むことはない。手渡された団子の包みには長く伸びた夏子の影が落ちていた。

 手土産の歌舞伎団子を渡すと宗衛は大いに喜んだ。手を叩いた拍子で緩んだ包帯の下に、無数の切り傷のようなものが見えて夏子の笑顔が固まった。

「宗衛さん、なぜ逃げているの」

 聞かずにはいられなかった。本当に逃げ出したのだとしたら何か理由があるはずだ。茶屋の張り紙のことを伝えると、宗衛はばつが悪そうに湯呑を置いた。夏子に膝を向けて背筋を伸ばし、まずはこれまで言及しなかったことを感謝した。一つだけ灯した燭台の炎がぼんやりと宗衛の横顔を照らしている。

「誰かと結ばれてみたかったんでございやす。人を愛し、愛されたらどれほどよいか」

 遠くをみるような切ない目が、宗衛の言葉を裏付けていた。どういう理屈なのかは分からないが決して冗談ではないのだ。夏子がほっと胸を撫でおろしたのを宗衛は見逃ず、にやりと笑った。

「あっしが傷だらけだからって、主人に厳しい折檻をされていると思いやしたか」

「……悪い?大体、何なのよその理由は」

 夏子は腕を組んで怒った顔をつくり、つんと顎をあげた。包帯の下の無数の切り傷が宗衛を追っているという侍につけられたのではないかと心配していたのだ。

「夏子さんは、なんといいやすか、本当に可愛い方ですねえ」

 宗衛はまたしても歯の浮くような言葉を口にしながら蓬の団子にかじりついた。天気の話でもしているかのように自然で、夏子を口説くかのような熱はない。宗衛ならではの言葉選びなのだと自分を戒めなければならなかった。愛おしそうに夏子を見つめる目も、他の誰かに向ける目と同じなのだろう。

 宗衛と距離を置き、一人になりたいと考える日が増えた。宗衛との毎日は楽しく充実していたが、一方で寂しいような心許ないような気持ちにも陥った。日が暮れて月が夜空に浮かびだしたころ、夏子は宗衛に黙って御池屋を離れた。御池屋の人間である夏子が出ていくのもおかしな話で、ただの散歩だというのに何か悪いことをしているかのような高揚感があった。夜の船橋を歩けば夏の潮風が夏子の考えを綺麗にまとめ上げてくれそうな気がした。

 夜は始まったばかりで、大通りは昼間と異なる活気を見せていた。料亭や船宿から笑い声があがり、通りには一仕事終えた漁夫や風呂敷を抱えた女将が行き交っている。酒の香りや甘ったるい女の声は夏子に馴染みの無いものだ。考え事をするには向いていない賑やかさだったので海岸沿いならばと砂浜に向かった。

 波にあわせて船がおどり、鏡の月が水面で揺らぐ。どこまでも続きそうな水平線を一本松の影が遮っている。大きく寄せては引く波のなんと力強いことか。飛び交う鴎のなんと自由なことか。夏子は息をついて岩場に腰かけた。

 宙ぶらりんに放り出した足の下、岩によせた波が砕ける。ふとした瞬間、宗衛のことばかり考えている。それは薬の調合をしている時だったり、朝夕の薬を飲んでいる時だったりと日常のささやかな合間に不規則に訪れ、夏子を困らせた。惹かれているのだと気付きたくはなかった。惹かれているとして、いったいどうすればいい。

 港で酒を飲んでいた漁夫が岩場の夏子を見つけて赤ら顔で近寄る。足取りも覚束ず、浜の砂に足をとられて体を大袈裟に揺らして歩を進め、夏子を覗き込んだ。

「こりゃあ別嬪さんだ。お嬢さん、いくらだい」

 漁夫の息にむせ返りそうなほどの酒気が混ざっており、夏子はわずかに顔をしかめた。普段は気のいい漁夫なのかもしれないが酔っぱらいをまともに相手するだけ損だ。視線も定まらない男を強気で睨み返す。考え事くらいゆっくりさせてほしい。

「花売りじゃないわ。……ちょっと、離して」

 力仕事で鍛えた男の太い腕が華奢な夏子の肩を抱く。夜更けにはまだ遠く、浜辺にちらほらと見える人影に助けを求めるべきかと夏子が躊躇っているうちに、男は体を寄せてくる。声をあげようと心に決めて、しかし、思うような声がでない。血の気の引いた顔で指先を震わせても男は赤ら顔で上機嫌だ。

 じわりとにじんだ涙を宗衛の声が遮った。

「夏子さん、おなごの一人歩きは感心しやせん」

 途端、男の圧迫感から解放され、夏子はせき込んだ。宗衛に片手で持ち上げられた男の手足がみじめに空をかく。なよなよとした体のいったいどこから力を出しているのだろうか。宗衛が手を離すとともに、なんだ男連れかと吐き捨てて漁夫は浜辺に逃げていった。

 宗衛は追われている身であり、これまでずっと御池屋の外に出ないようにしてきた。こんな時にかぎってどうして、と泣きそうな声で尋ねる。

「夏子さんにはああいう手合いの相手は務まらんでしょう」

 困ったように頭をかく宗衛からはなんの後悔も感じられない。腰が抜けて歩けない夏子の隣に宗衛はそれが当たり前のように腰掛けた。

「だからって」

「……見えてしまっては体が動き出すのを止めれんのです」

 ぽつりと遠くの海を望む。潮風が宗衛の包帯を撫でている。どちらかといえば貧相な体つきなのに、逞しい漁夫を持ち上げてみせた、見ていたかのように夏子の前に現れた……。夏子は宗衛が人ではないことをうすうす勘付き始めていた。

 夏子は宗衛の腕に体を絡め、戸惑う宗衛をよそにその包帯をはぎとった。宗衛は包帯を暴かれても抵抗せず、諦めたようにされるがままじっとしている。月下で露わになった宗衛の腕には無数の切り傷があった。夏子の視線に耐えかねてふるふると傷が動きだし、ぱちり、とまたたく。

 腕を埋め尽くすおびただしい数の目に夏子が映る。目はぎょろりと辺りを見渡しては、時折宗衛の体を這った。おぞましい姿に身震いする夏子の姿に宗衛は寂しそうにしている。

「いままで……ありがとうごぜえやした。得体のしれないあっしを置いてくださって、夏子さんには何とお礼を言うべきやら」

 腰掛けた岩に頭をぶつけそうなほど深く宗衛は頭を下げる。怖がらせてすまなかった、と。化物の自分はもう去るから、と。

 化物だから……だから、なんだ。夏子はそれでも引き返せないほど、とうの昔に惹かれていた。

「いいじゃないの。御池屋にいたら」

 縋るように宗衛の袖を引く。夏子の明るく勝ち気な笑みも今ばかりは頼りない。

「夏子が……夏子がずっと宗衛さんを隠してあげる」

「できやせん。夏子さんにご迷惑がかかりやす」

 夏子の申し出を宗衛はきっぱりと断り立ち上がった。このまま消えるつもりなのだと夏子には分かった。慌てて立ち上がり宗衛の背を追おうと岩場を駆ける。

 しかし夏子はその場で咳き込んだ。何度も咳き込み体を丸め、宗衛を引き止めることもできない。咳には血が混ざっていた。吐き出された血が砂浜に染みを作り、すぐさま消えていく。異様な姿を突きつけられて宗衛は呆然と立ち尽くしている。

「夏子さん……まさか……」

「……夏子、年を越すことはないと言われているの」

 いかに無様で惨めでも、宗衛が足を止めてくれたことが嬉しい。夏子は生まれながらの弱い体で仲のいい友人なんていなかった。医者も匙を投げるような病状なのに両親が城下に買付けに行った薬が効くとは到底思えない。

「奇遇ね。夏子も恋をしたかった。叶ったからもう未練なんてないわ」

 宗衛に縋る手のひらから、熱く見つめる瞳から、夏子の思いがどうか伝わらないものか。宗衛はたじろぎ、夏子の肩に手を添える。夏子の目に涙が滲むのは、喉が焼けるように痛いからではない。

「……そう思っていたのだけど、夏子は欲張りね。どうか夏子の側にいて」

「あっしには役不足でしょうが……」

 月に背にした宗衛が夏子に影を落とした。逃さぬように抱き寄せて、唇を重ねる。息が溶けてしまうほど何度も重ねる。胸を満たす幸福にも寂しさにも似た感情に夏子ははらはらと涙を流した。涙が集めた月明かりが宗衛には眩しい。

「……我儘に付き合ってくれてありがとう」

 淡く微笑む夏子がいじらしく、長い前髪の下で宗衛の眉間にくしゃりと皺がよる。

「夏子さんは何も分かっていやせん。どれほど、愛らしいと触れたいと願っていたことか」

「都合のいいこと言って。夏子は騙されないわ」

 じろりと宗衛を見上げるも、口角をあげて柔らかい表情を浮かべている。相手のまつ毛の先まで分かるほど夜空の月が明るく、明日が十五夜であることを思い出した。月見に誘うと宗衛はあからさまにぎくりと体を強張らせた。

「何?夏子に隠し事はなしよ」

 夏子は宗衛の胸に体重をあずけた。宗衛が躊躇いながら始めたのは妖怪の間で古くからある呪の話だった。満月の夜に心中した二人は来世で必ず結ばれるという。

「ふうん。宗衛さんは夏子のために死んでくださる?」

「……来世の夏子さんの人生をいただけるなら、喜んで」

「違うわ。夏子が宗衛さんの人生を貰うの」

 決断するまでに時間は必要なかった。既に心は結ばれあっており、波の音に隠れて来世を誓う。月夜のもと二人はしかと抱き合った。

 夏子は嬉しかった。何もしなくとも、もうすぐ命を落とすのだ。体は日に日に重くなり、咳が混ざれば息も苦しい。苦い薬を我慢して飲んだって来年を望めない。宗衛と愛し愛されて満足のいく一生を終えることはできない。

 ならば、心中になんの躊躇いがあろうか。両親に迷惑をかけながら米を減らすことしか出来なかった。なにもできないまま死ぬはずだった。しかし、今世は宗衛に出会うためのものだったと思えば、少しだけでも報われる。

 昼間は夢うつつで薬を調合し、両親に文をしたためた。夏子は悲嘆することなく、むしろ、満たされていた。申し訳ないとばかり思っていた両親に、初めて心から感謝する事ができた。

 来たる満月の夜、夏子は守り刀と水筒と少しの睡眠薬をつつんだ。口元に差した慣れない紅は大人びた色をしていて、宗衛を驚かせた。果てるなら、昨夜と同じ船橋の砂浜がいい。港に並んだ船を眺め、人生で一番幸せだった場所で来世に向かうのだ。

 砂浜から人影が無くなる深夜、月下の砂をふむ。波打ち際を二人より添って歩けば、足袋を濡らすさざ波も下駄の内に入り込む砂も気にとめずに済む。将来や体調に対するあらゆる思考から解放されて夏子はようやく自由を手に入れた。大嫌いな夕餉の後の薬だって飲まなかった。

 潮風で体が冷えたのか、夏子は咳き込んだ。宗衛が支えてくれるので一人の時ほど苦しくないというのは新しい発見だった。咳の中に含まれる血が夏子の袖を汚して、夏子は顔をしかめた。

「ごめんなさい。こんな時に汚いわよね」

 口元の血を拭おうとした夏子を遮り、宗衛は口付けた。薄い唇に写し取られた紅と血がぞくりとするほど美しい。

「いったい何が汚いっていうんです?」

 人当たりのよい笑みを浮かべたまま、宗衛は俯く夏子を覗き込んだ。宗衛の優しい目が、夏子に触れる指先が、夏子を愛おしいと言っている。

「夏子、幸せだわ」

 言葉が口をついて溢れた。夏子は御池屋から持ち出した睡眠薬を口に含み、一息に飲み干す。来世は二人で生きて見せる。来世はきっと……。

 力を失う夏子の体を宗衛はしかと抱きとめる。宗衛の体温に包まれて、夏子はうつらうつらと夢の世界に落ちていった。

「……夏子さん」

 宗衛は夏子が深い眠りに落ちていることを入念に確認した。夏子が恐ろしい思いをしないようにその細い首を一息に折ってやる。潮騒がその鈍い音をもかき消していく。だらりと力なく宗衛に抱かれる夏子の遺体を砂浜に横たえた。

 百鬼夜行と総大将のことが気にかかり月を仰いだが、首を左右に振って夏子の守り刀の短刀を鞘から引き抜く。宗衛は夏子の隣で、しかし夏子に自らの血が飛び散らぬよう背を向けた。腹に守り刀をあて、柄まで沈める。長い前髪に隠れた苦痛に歪んだ顔を、夏子に見せずに済んでよかった。噛み締めた唇に血が滲み、それでも呻き声一つあげずにその腹を真横に裂く。倒れこんだ宗衛を砂浜が受け止めた。守り刀にべったりと張り付いた血液の上に砂が重なっていった。


 満月にかかる大きな雲の中で何かが蠢いている。砂浜に倒れた二人の男女の横に総大将はふわりと降り立った。後から追ってきた茨木も二人を見下ろして眉をひそめる。総大将が下駄の先で百目鬼の肩を弾き、仰向けに転がした。真一文字の腹の傷が血で濡れている。

――と、腹の傷がパチリと開いて新たに増えた目玉がぎょろぎょろとあたりを見渡した。

「何度同じことを繰り返せば分かるのか」

「少なくとも目玉の数だけでは足りねえようだな」

 茨木はあきれたように息を吐き、百目鬼の体を軽く担いだ。総大将と共に天で待つ百鬼夜行のもとに昇っていく。百目鬼ほど力をつけた妖怪は自害も難しい。人間の用意した守り刀程度で死ぬことはない。

 小鬼や付喪神たちが総大将の帰還をよろこび、総大将が片手をあげると歓声があがった。

「総大将じゃ」

「百目鬼がみつかったんじゃ」

「なんじゃ死んでおるんか」

「ふざけとるんじゃあるまいか」

 好き放題に言い合っていたが、鵺に一睨みされると蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。茨木童子が放り投げた百目鬼の体が転がって、奥方の市女笠が僅かに揺れた。

「起きろ百目鬼」

 百鬼夜行に戻るやいなや総大将は百目鬼を叩き起こした。緩んだ包帯が百目鬼の体を落ちてゆくと無数の目が開き、ゆらり、と起き上がった。

「……あっしはまたしくじったんでやすか」

 賑やかな百鬼夜行の中で立ち尽くし、呆然として百目鬼は呟く。

「夏子さん……夏子さん……すまねえ」

 情けないことに腹を切っても死ねなかった。守り刀なら死ねるはずだと思っていたのだが、意識を失っただけでのうのうと生きている。夏子と来世で結ばれることはない。百目鬼ははらはらと涙を流した。

 総大将はこの百目鬼の気の多さが気に食わない。本気で心中したい女がいるのであれば止めないが、失敗したところでどうせまた別の人間にうつつを抜かすだけだ。

「手前にゃまだ仕事があるだろう」

 先ほどまで心中しようとしていた相手に掛けるには少しばかし辛辣な言葉を口にする。百目鬼は総大将に膝をついて地面に付きそうなほど頭を下げた。

「……わかっておりやす」

 するすると包帯を解くと、がしゃどくろが抱えていた竹をうけとり高く掲げる。竹には人の頭ほどの大きさの鈴がいくつも連なっている。百目鬼の体中に生えた目が一度に開き、周辺に無数の鬼火が浮かんだ。鬼火たちは竹に連なった鈴の中に入り込み、辺りを照らす灯火となった。

 しゃん。しゃんしゃんしゃん。

 百鬼夜行は鈴の音を取り戻し、東海道を進んで行く。

「やっぱり鈴持ちがいねえとな」

 満足そうに総大将が呟き、市女笠の奥方が頷いた。

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