野狐(やこ)

 狐という妖怪は、降り積もる歳月を淡雪のように重ね、その力を伸ばしてゆく。有象無象の狐衆を束ねる天狐ともなれば千年以上もの時間をかけるとか。狐に限った話ではないが、一般的に歳月は成長に欠かせないものとされている。一般的にと注釈がつくのは、それが通常の狐の話であって、紺のような落ちこぼれがただ八百年も年を重ねたところで狐火一つだせやしないからだ。人に化けて百鬼夜行の下女として働くことはできても、年若い狐にさえ小間使いにされる始末である。

 江戸に幕府ができたころから、自身を情けない狐と卑下して落ち込むことは無くなった。襷掛けした赤い袴の巫女装束のことは気に入っていたし、下女の仕事が誰かの役に立っているのならそれだけで自分を認めてやることができる。

 百鬼夜行には狐衆の一員として長く名前を連ねていたが、総大将のお顔はほとんど拝見したことがない。近くを通る機会があってもその都度律義に頭を下げているためだ。宴の時には裏方として妖怪の面々をもてなし、楽しげな彼らを微笑ましく見つめている。

 だから紺がその話を聞いたのは、山王祭の宴よりもずっと後のことだった。同じ下女の狐たちがひそひそ声でしていた噂を立ち聞きしたのだ。

「百目鬼さまが戻っていらしたのですって」

「ああ、人間の女と心中しようとしたらしいわ」

 情報通の狐の言葉に下女の狐たちがどよめく。百目鬼といえば百鬼夜行の鈴持ちで、その鈴の音で百鬼夜行の到来を告げる妖怪である。狐たちは顔を見合わせた。

「まさか……総大将の話に影響を受けたのかしら」

「満月の夜に心中すれば来世で結ばれる、とかいう?」

 カシャン。

 紺が布巾で磨いていた皿を落とすと、じろりと視線が突き刺さった。ごめんなさい、と小さく呟いて、紺は皿が割れていないことを確認する。嫌な動悸が胸を苦しくし、紺の手が微かに震えた。到底仕事を続けられそうもなく、こっそり台所を抜け出して鵺のもとに向かった。

 鵺は恐ろしい猿の顔をした妖怪だが、紺のような下働きにも優しかった。紺の名前を覚えていて、よく言葉をかけてくれた。女郎蜘蛛や天邪鬼に見つからないように忍び足で鵺の前に進みでると、市女笠の奥方と歓談している最中だった。てっきり一人でいるものと思っていた紺はひどく狼狽えたが、勇気を出して問いかけた。どうしても聞かなければならなかった。

「奥方さま、鵺さま、噂は本当なのでしょうか。満月の夜に心中したら来世では結ばれるのでしょうか」

 問われた鵺は面食らい、言葉に詰まった。本当なのかと聞かれると鵺に真偽は分からない。総大将は前世の話をほとんど打ち明けておらず、打ち明けたところで今の二人が結ばれているという事実は何も変わらないため重要視したことがないのだ。

「本当ですよ」

 答えかねている鵺のかわりに奥方が市女笠の奥から呟いた。みるみるうちに紺の目に涙が溜まり、紺は膝から崩れ落ちた。


***


 八百年も昔、平安の都では妖怪と人間の世が交わり、混沌とした、しかし秩序だった社会を作り上げていた。次々に生まれる妖怪がみるみる力をつけてゆき、京を暴れては名を馳せた。

 山で暮らす野狐は、腹を空かせては人里に降りて木の実や果物を盗んでいた。野狐にはお気に入りの屋敷があった。寝殿造りで、垣根の内側に紫陽花の庭が広がる屋敷だ。なんとも清潔で心地の良い庭だった。季節によって枇杷や無花果などの果樹がなり、しかも無人とあって野狐は何度も庭に忍び込んだ。おかしなことに空き家にしては埃一つない欄干で、庭も整えられている。

 何度も侵入していると屋敷の軒下に魚が並べられるようになった。胡桃の日もあれば、きのこの日もあった。罠かと警戒した野狐も食べ物を前にしては辛抱できない。家主に見つからぬように軒下から拝借していた。

 野狐は時を重ねるにつれて少しずつ力をつけ、人間の言葉を理解するようになった。思えばこの頃の京という場所が特別だったのだろう。年若い野狐がついに話せるようになるまで時間はかからなかった。

 鞠のように紫陽花が広がる季節のことだった。雨宿りついでに軒下の山桃をつついていると、どうにも衣擦れの音がする。家主がついに姿を現したのだと悟り、野狐は息を殺した。

「果樹を盗んでいたのはお前か?」

 凛と澄んだ男の声が床上から野狐に問いかけた。人に捕まった狐の行く末は毛皮である。野狐はぶるぶるとふるえて時が過ぎ去るのをじっと待っていた。

「人の庭に入るとは余程の命知らずと見える」

 男はからりと軒先に浅沓を放り投げ、紫陽花の中庭に降り立った。小雨の中、ふわりと広がった藍染めの直衣のなんと清々しいことか。野狐はうっかり男に見惚れ、逃げ出さなかった己を悔いた。軒下を覗き込んだのは、色白で涼やかな狐目の男だった。

「おや、盗人の正体が野狐とは。お前、名前は何という」

 男は野狐を見つけて瞬き一つすると、その唇がにやりと弧を描いた。野狐は口の端についた山桃が気恥ずかしく今更ぺろりと舐めとった。人間と話すのははじめてのことで、緊張のあまり声が震えた。

「名前はございません。あなたは?」

「大事な名前を他人に渡すものではない」

 自分は聞いたくせにと野狐は不満だったが、男の声色が柔らかくなったことに安心し胸を撫でおろした。男に敵意はなく、毛皮にされる事態は免れたようだ。

 男は空を仰ぐようにして思案すると、竹林が描かれた扇子を野狐に向けた。

「では、紺と名付けよう」

 紺は大層驚き、そして喜んだ。物心ついたときには父も母も毛皮にされており、本来あるはずの名前を知る機会はなかった。名前があるというだけで何者かになれた気がするのだ。

「なぜ紺なのです」

「狐はこんと鳴くだろう」

 名前が気に入ったようで、肩を震わせて男は笑った。紺が軒下から少しずつ男に這いよると、直衣がぐっしょり濡れて深い藍色を作り出している。

「どうぞ雨をしのげる場所に戻ってください、鈴さま」

 冠も傘もないままこうも雨に打たれては体を冷やしてしまう。しかも男は色白でいかにも体が弱そうだった。

「……鈴というのは?」

「あなたのお名前です。名前をいただいたお礼なのです」

 紺は風邪をひかないように屋敷へ鈴を急かす。何を当たり前のことを、と思っていると鈴は楽しそうに笑った。

「どうして鈴なんだい」

「目元がすずしげだからです」

「はっはっは」

 きっぱり答えた紺に、鈴は腹を抱えて笑いはじめた。人間は体が弱いということを知らないのだろうか。紺は鈴が風邪をひくのではと気が気ではない。鈴が屋敷に戻るまで、足元にすり寄って急かした。

 聞けば、軒下の食べ物は紺をおびき出すための物だったらしい。盗人の正体を確認したかったようだが、罠の一つも仕掛けなかった鈴は優しいのかやる気がないのか。食べるものには困っていないから、と鈴は庭の果樹を盗むことを許してくれた。京は妖怪も人間も共生しており、紺のような弱い妖怪が食料を確保するのは難しい。鈴の提案は非常にありがたいものだった。

 紺は根城にしていた山を捨て、鈴の庭に住み着くようになっていった。庭は居心地がよく、鈴が家に戻るたびに声をかけてくれるのは幸せだった。おそらく家族とはこういう温かな存在なのだ。鈴はしばしば紺に土産を持ち帰った。紺のお気に入りはふっくらとしたお揚げで、鈴が買ってくれる度に飛び跳ねてよろこんだ。

 鈴が疲れて帰って来たときには脇息の側で自慢の毛並みを撫でさせてやった。わしゃわしゃとかき乱すので抗議したが、その度に鈴が笑うので許してしまうのだった。紺はいつの間にか庭先だけでなく屋敷内にも上がるようになっていた。

 鈴はいつも一人だった。広い屋敷に住んでいるにも関わらず従者や下女の一人も見かけない。調度品も少なく寂しい屋敷である。あるいは別邸であって、鈴の本邸は別にあるのかも知れぬ。ただ、ぽつりと座り涼しい顔をしている鈴を見ると、どうにか力になれぬものかと頭を悩ませた。きっと鈴の孤独を埋めるのは狐では駄目なのだ。

 月日を重ね、紺は人間に変化出来るようになってきた。変化には多大なる集中力が必要で気を抜くと耳や尻尾が出てしまう。鈴に隠れて練習を重ね、庭の柘榴が見守る中、ついに多少のことでは変化が解けなくなった。人に化けた紺にはやりたい事があった。人になれさえすれば屋敷が賑やかで温かくなり、鈴がもっと笑ってくれるはずだ。鈴は寂しげな素振りを見せたことがないが、人は一人では生きて行けないのだ。

 この企みは殊の外楽しく、紺は遂に人として鈴の前に現れる事を決意した。他の屋敷から垣間見えた下働きの服装も枯れ葉を集めて再現してみせた。ちょっとやそっとで化けの皮ははがれない。

 御簾から見える庭の景色にぽつりと白いものが混じった。一段と冷え込む日であった。紺の白帳が真白の雪に消えてゆきそうだった。部屋の真ん中を陣取って鈴の帰りを待っていると、玄関の物音が鈴の来訪を告げた。どきどきと胸のあたりが早鐘を打ち、今にも逃げ出したい衝動に駆られた。鈴は涼しい顔で寒いな、と呟くと紺の姿を見つける。紺は深々と頭を下げ、三日かけて考えた言い訳を諳んじた。

「お母様に命じられ馳せ参じました。今日からこの屋敷の下女をさせていただきまする」

 ふうん、と鈴は腕を組み興味を持ったようだった。怒らないということは、やはりこの屋敷で一人過ごすのは寂しかったのだと早合点していると、竹が描かれた扇子が紺の顎を捉え持ち上げた。鈴の口の端がにやりと持ち上がる。

「お前、紺だろう」

「いいえ、紺ではありませぬ」

「違うというなら、名は何という」

「大事な名前は他人に渡すものではないのです」

 紺は動揺を悟られぬように真っ直ぐ鈴を見つめ返した。人の姿をしていれば狐の紺だとバレるはずがない。そうかそうかと鈴が笑って、紺は扇子から解放された。

「では紺と名付けようかな」

「えっ」

 可笑しそうに体を揺らしながら鈴が提案した。警戒することなく脇息に体重を預け、寛いでいる。

「よろしく、紺」

 仕方がないので鈴が差出した手をおずおずと握り返す。紺の手よりも一回り大きく、どうにも頼りない心地になり、大男に化ければ良かったと後悔した。

「……よろしくお願いします、鈴さま」

「鈴さま、か。くっくっく」

 あまりに楽しそうに笑うので、わけも分からぬまま紺の頬が熱を持つ。庭の雪さえ溶かしてしまいそうで、寒さなんて忘れてしまった。

 二人の生活は一層彩り豊かになった。厨房にたち、慣れない料理を作っては、鈴の帰りを待った。野山を駆け巡る楽しさを失っても、鈴が涼しい顔を崩して浮かべる笑顔には叶わない。下女として働くようになってから稀に綺麗な反物を土産に貰った。仕立ててみるともはや野狐の名残はなく、どこか貴族の姫君のようだった。艶やかな服とならぶと目立つ、艶のないくすんだ髪の色を気にしていると鈴がやってきてわしゃわしゃと乱して満足そうに笑った。

 その頃の京は荒れていた。妖怪の力は肥大化し、応じるように人は残酷にその呪術は複雑になっていった。報復のいたちごっこで常にどこかで血が流れ、人の世も諍いや争いが増えていった。

 小路の桜がひらひらと屋敷に花弁を散らすころ、鈴がぼろぼろの格好で帰ってきた。朝焼けが空の底を紫に染めていた。土埃で汚れた直衣と、端が千切れた袍。鈴の白い肌に擦り傷が目立ち、御髪が乱れていた。誰に襲われたのか、人なのか、妖怪なのか、紺にはわからない。京の治安は悪くどちらもあり得る話だが、鈴の涼しい狐目は崩れない。

「大丈夫。たいした怪我はしていない」

 紺に先んじて鈴は告げた。途端、紺は鈴がか弱い人の子であることを自覚した。

「大丈夫ではありませぬ」

 袖を掴み、振り返った鈴の目を真っ直ぐに見つめ返す。花は春と咲き誇れども、御簾の内に差し込む陽気だけでは肌寒く体を温めるには到底足りない。

「人は弱いのです。助け合わねばならない、優しい生き物なのです」

 人の命は短く、儚く、こうして涼しい顔をしている鈴も、いつか紺を置いて行ってしまうのだ。その時が今ではないと、一体誰が保証してくれるだろう。

 鈴は驚いたように目を見開き、そして柔らかく細める。

「……そうか、人は優しいか」

 紺の頭に手を乗せて、そのまま髪に指を通した。朝の澄んだ空気によって凍てついた指である。鈴は紺の髪を触るのが好きで度々櫛を通したり結ったりしていたが、今回は少し様子が異なった。頭の後ろに回した手を引き寄せれば、鈴の懐に紺が収まる。ふわりと広がる白檀が紺の鼻をくすぐった。落ち着く香りで、しかし落ち着かない。

「す、鈴さま、これは何でしょう」

 問いかける声が裏返って恥をかく。体を離してしまいたいが名残惜しくもある。

「おかしいな、人なら体温を分け合うものだが」

 動揺している紺に、鈴は首をひねっていた。そうかと紺は納得する。動揺するのは狐だからで、人にとって抱き合うのは当たり前のことなのだ。毛皮もない人間の早春は紺より寒いものなのだろう。

「もちろん分け合いまする。人ですから。寒いですから」

「……」

 胸を張って答える紺を複雑そうに眺め、その頬をぐいと引っ張る。薄々感じてはいたが、鈴は意地悪だ。仕返しとばかりに鈴の白くて薄い頬をつついてやると、鈴はまた笑いはじめた。

 二人は何度も体温を分け合った。不思議なことに人間は夏場でも分け合うものらしい。求められるまま鈴の頭を包み込むと胸の内が温かくなる。紺は進んで鈴の胸に飛び込むようになっていった。

 鈴が直衣を乱して帰る日は増えていった。紺に何も語らないものの京の治安悪化は明らかで、鈴の外での生活に影響を与えているのだろうと察することができた。ただの野狐だった時分には分からなかったが、鈴は恐らく官人であり、この大きさの屋敷を持てる程度に位が高い。出仕後の帰りが朝になることもあり、たまに服がぼろぼろになっていることから、京の治安を管理する役職だろう。

 紺に出来ることと言えば、鈴の笑顔のために腐心することだけであった。出来損ないの野狐で、疲れた鈴を癒す術の一つも分からない。情けない情けないと己を叱咤しながら、紺は人としてよく働いた。裁縫と掃除と、庭の手入れもした。一番気合を入れていたのは料理で、庭の栗が実をつけると紺はせっせと団子を丸めた。二人で月見をしたら、どれほど楽しいことだろう。

 日が暮れて満月の夜、待てども鈴は帰ってこない。せっかく用意した栗餡の団子を一人で食べるのも忍びなく、重箱に入れていた時のことだった。

 庭から物音がして庇の欄干まで進み出ると、いつの間にやら帰ってきた鈴が池の前でぼんやりと佇んでいた。池には満月が映り、照らされた鈴は頭から血で濡れていた。

「鈴さま!お怪我を……!」

「返り血だよ」

 こともなげに告げた鈴の手に、血みどろの太刀が握られている。疲れた顔で深く息を吐いた。紺に見つからぬよう庭から侵入したらしい。紺は慌てて手巾を持ち鈴の血を拭き取った。鈴の言うとおりどこにも怪我はないが、されるがまま空を見つめている鈴の様子に、得も言えぬ不安がよぎった。

「妖怪を退治されたのですね」

 太刀や直衣を汚す真っ赤な血からは妖怪の匂いがしていた。鈴の白檀を掻き消すほどで紺は少し嫌だった。

「……朝廷が妖怪の排除を決めてね」

 鈴は皮肉っぽく笑った。

「人と妖怪は、共には生きられないそうだ」

 馬鹿らしい、とすぐに否定できたら良かった。けれど京を荒らす妖怪がいることも紺は知っている。人の世にとって妖怪は邪魔なのだ。

 鈴は答えあぐねる紺の体を抱き込んだ。それは苦しいほどの力で抗うことも叶わず、気付けば顔のそばに砂利があり、丸い月の浮いた夜空を仰いでいる。地面に縫い止められた体はじたばたと手足の先が動くだけで鈴を押し退けるには足りない。

「こっこれは何ですか」

 努めて冷静に尋ねたつもりが、またも声が裏返っていた。吐息を感じるほど二人の距離は近く、手首を抑えられては顔を隠すこともできない。長い沈黙の後、耳元で鈴が囁いた。

「紺、紺や。共に死んではくれまいか」

 月を背負うようにして乞う鈴が真剣であることに気付き、はっと息をのんだ。熱を持った鈴の目は知らない男のようで恐ろしい。何も答えられぬまま震えだした紺に鈴の力が緩んだ。諦めたようにも見える。不安そうにも見える。

「……紺は共に生きます。邪魔をしないようにするのです」

 紺は小さな手のひらを鈴の頬へと伸ばした。人と生きられたらいいのにと願いながら。鈴との関係が人と妖怪の例外であればいいと願いながら。

「……おや、お前は人なのだろう?」

「あっ」

 ふ、と意地悪く笑う鈴に指摘され、紺は慌てふためいた。そうだ人間に化けている間は妖怪と人の在り方なんて考える必要は無かったのだ。

「……冗談だ。可愛い耳が出ているよ」

 にこりと笑うと鈴は紺の頭をなでて、紺を解放した。思わず悲鳴をあげて狐の耳を隠したが、鈴は笑うばかりで胸のうちは分からなかった。

 鈴の言っていた通り、それからの京は変わってしまった。妖怪は次々に退治され、生き延びた妖怪も姿を隠した。妖怪と人が共生する混沌とした時代は終わりを告げ、人は人の世を、妖怪は妖怪の世を生きた。

 幾月、幾年。鈴と過ごした幸せな日々は紺の宝物で、何十年たっても何百年たっても思い出すことができる。意地悪な鈴と紫陽花の庭。土産のお揚げと白檀の香り。しかし鈴があんなおかしなことを言ったのは後にも先にもその時だけだった。あの見事な満月の夜だけだった。


***


 泣き崩れる狐を前に、鵺はかける言葉を探していた。立ち上がれないほど大粒の涙を流し続ける狐はずっと誰かに謝り続けている。

「紺は、紺は知らなかったのです……」

 満月の夜に心中したら来世で結ばれる。共に死んでくれといったのは、共に生きたいと思ってくれたからだ。

「知らなかったのです……」

 紺は出来損ないの狐だ。愚図で、のろまで、理解が遅い。鈴が紺と結ばれたいと言うなら、紺は――紺だって鈴と結ばれたかった。後悔が胸を締め付けて息もできないほど涙が止まらない。

 鵺は助けを求めて奥方を見たが、市女笠の布は厚く何もわからない。嗚咽が止まらず鳴き続ける狐は、涙で溶けるようにして人型すら保てなくなっていく。あまりに泣き続けるので騒ぎが大きくなってきた。鵺が恐ろしいからだ、と小鬼たちが囁いている。

 ついには狐衆にまで伝わったようで、他の女狐が慌てて鵺のもとにやってきた。人にも化けられずに涙を流す狐を見つけて、みっともないと吐き捨て回収しようとする。

「何の騒ぎだ」

 よく通る総大将の声に、巫女装束の女狐は頭を下げた。ぐったりと倒れている紺を後ろ手に隠すようにして総大将に謝罪する。

「失礼いたしました。うちの狐が奥方さまと鵺さまの前で喚いたようで」

「喚くったって、それなりに理由があるだろうよ」

「いいえ、醜いだけでございます」

 きっぱりと女狐は言ったが、総大将は聞かなかった。後ろに控えていた茨木童子にも睨まれ、女狐は渋々道をあけた。

 小さな狐が倒れている。体を震わせて涙をはらはらと流している。総大将は驚き、手にしていた扇子をはらりと落とした。

「……晴明の野狐じゃねえか」

 紺の目の前に落ちた扇子には竹が描かれている。鈴の香りと表情を思い出して、また涙があふれる。頭上のざわめきなど些細なことだ。鈴と紺は結ばれない。

 懐かしい名前に鵺や茨木は顔を見合わせた。晴明といえばあの狐目の陰陽師だ。大層強い力を持ち、あの時代に知らないものはいなかった。誰も晴明を殺すことはできず、妖怪を返り討ちにしては嘲笑うような食えない男だったが、結局人として死んでいった。

 市女笠の奥方が進み出て狐を胸に抱く。

「私が預かりましょう」

 ちょうど私の身の回りの世話をさせる下女が欲しかった、と奥方は言った。優しさからの言葉か好奇心からか、誰にもわからない。しかし総大将が頷けば、それは決定事項となる。

 奥方の腕の中では小さな狐が、こん、こん、と鳴いていた。

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