茨木童子 1
朱雀大路の賑わいも夜が更けるとすっかり落ち着き、がらんどうの道の上にぴゅうと木枯らしがふいた。こん、こん、と狐が鳴いて東山の方向に走り去っていく。都の入り口を守るように佇む見事な丹塗りの羅生門の上に、ふたつの人影が並んでいた。
「見ろ、野狐が鳴いている」
男はにやりと笑って路地に消えた狐の姿を目で追った。襤褸布を帯にしてみすぼらしい着物一枚を体にまといながら態度だけは大きく、腕を組み胸をそらしている。
「あの晴明の別宅でも愛らしい狐が鳴いていたなぁ。上手く隠していたが、俺は何処へだってふらりと現れてやる」
揶揄うように話しかける男の横には、市女笠の女があった。市女笠の厚い布で顔は見えずとも、その凛とした佇まいからどこか貴族の姫君のようである。羅生門に上るなんて到底叶わぬような風貌でありながら男に肩を並べて確かに立っている。僅かに市女笠を傾けると厚い布を越えて、じろりと睨みつける視線が男を責める。
「――
市女笠の女は辺りの空気も凍りそうな冷たい声でぴしりと咎めた。珍しく露わにした嫉妬が可笑しく、紫暁は笑いそうになるのをぐっとこらえなければならなかった。あまり揶揄って怒らせるのは得策ではないと身をもって知っていたからだ。
「悪い悪い。……ところで、新参者の話は聞いたか」
近頃の京では妖怪が人を襲い暴れては、陰陽寮の連中と争っている。か弱い人間と侮って近寄れば晴明の罠であった、などというふざけた話も日常茶飯事で、妖怪と人の世は混ざりあっていた。
次々と新しい妖怪が現れる京の中でも、新参者といえば例の鬼を示す。その新参者は人を襲う手口が巧妙で、妖怪相手でも構わず喧嘩をするため妖怪連中の間でもよく名が上がった。陰陽寮が新参者を討伐対象としてひと月になる。晴明の手を逃れ続ける鬼は小妖怪たちの羨望の対象となり始めていた。
紫暁が尋ねると市女笠の女は当然だとばかりに頷いた。
「茨木童子だろう」
「ああ。俺は晴明がわざと逃がしているんじゃあねえかと思ってな」
数々の妖怪を手慰みに討ち取ってきた晴明が新参者に劣るとは到底思えない。あの涼しげな狐目はいつだって妖怪を捕まえてみせた。しかし紫暁の推測に市女笠の女は首をふった。
「いや、先日ついに一太刀浴びせている」
「ほお」
興味深そうに紫暁は身を乗り出した。
「そりゃあ……面白い。晴明は手負いをわざわざ逃したわけだ」
「……言われてみれば、確かに」
二人は見つめ合い、どちらともなく笑い始めた。楽しげなその声が羅城門の上空に響き、あたりをうろつく餓鬼の目に止まったが、相手が紫暁とわかるとぎょっと目をむいて逃げ出していった。くたびれた襤褸の着物を着ているが力の強い妖怪で、か弱い餓鬼では手も足も出ない。人は彼をぬらりひょんと呼ぶ。
市女笠の美しい着物の女と襤褸の着物の男。不釣り合いな二人だが並んで同じ景色を見ている。月に照らされた、人と妖怪が共生する都。人間が作り出した見事な格子状の町並みが紫暁には美しく映った。
***
陰陽寮は朝から半泣きの雑色が大騒ぎをして走り回っていた。雅な貴族が出仕する場所であるはずの宮中だったが、晴明の部屋においてはその範疇ではない。雑色はもぬけの殻になった晴明の部屋をとび出して辺りの部屋一つ一つに顔を出していく。
「晴明さま、晴明さま!どこにおられるのですか!」
雑色の悲痛の叫びに答える声はなく、官人の憐れむような視線だけが雑色に送られる。晴明は妖怪退治において優秀な陰陽師だったが、気まぐれにふらりとどこかに消え失せてしまうという悪癖があった。この悪癖が厄介で、朝議の前であろうと、左大臣が来訪してもお構いなしにいなくなるものだから、晴明の担当に回された雑色はいつも苦労をしているのである。
「かわいそうに……。半刻は戻らんだろうな」
呟いた官人は、雑色を哀れに思いながら首を振った。今日は帝も出席される春の梅花祭に向けて神祇官と打ち合わせをする予定で、祝詞を任された晴明がいなければ話が進まない。しかし晴明の性格を考えればそのような退屈な打ち合わせに現れるとも考えづらく、他の陰陽師も口々に同意する。
「半刻で現れればいいほうだ。今日いらっしゃるかも怪しい」
今朝はまだ誰も晴明の姿を見かけておらず、これまでの傾向から考えて午前出仕は絶望的だ。
「せ、晴明さまー!」
陰陽寮に諦めたような空気が漂う中、あとで酷く叱られる雑色だけが依然晴明の影を探して陰陽寮を出ていった。大内裏のどこかにはいるのではないかと微かな期待で晴明を呼ぶ。
さて、雑色に見つからぬように文箱の間から人型の紙がひとりでに飛び出した。薄く透けた半紙を切り取ったもので、風で吹き飛んだにしては上下左右を自由に泳いでいる。文箱から薬棚、薬棚から簾の後ろと、人の目を盗んではひらひら渡り歩き、陰陽寮を抜けだした。うららかな陽気が小さな人型の影を廊下に作る。するりと軒下に滑り込んだ人型の紙は、監視の目がないのをいいことに徐々に速度をあげてゆく。進む方向を塞ぐ塀を軽やかに越えて、建礼門や承明門を横目に内裏にまで侵入した。
人型の紙が目指しているのは宣耀殿である。内舎人や女房たちは不審な紙が内裏を渡り歩いていることに気付かない。雅やかな後宮にあって宣耀殿の簾はすっかり下ろされていたが、隙間から入り込むと、竹が描かれた扇子の上に着地した。
「ああ、晴明晴明と五月蠅いな。いっそやめられたら良いものを」
狐目の男がぽつりと呟いて人型の紙を懐紙に包む。どうやら雑色が探しているようだが、向かう必要はないと判断し顔をあげると、くすくすと女二宮が笑っている。
「あれあれおかしなこと。やめるといってもお前は晴明ではありませんか」
「私はただの人間だよ。それが近頃は名前ばかり一人歩きしている」
面倒だ、と僅かに陰陽寮の方角へ向けた晴明の視線は冷たい。女二宮は晴明への評価が適切なものだと知っていたが、同時にこの男が名声も評価も必要としていないことも理解している。したがって同情も否定もせずにただ口元に笑みを浮かべた。
「紅葉の宮、そろそろ本題にうつってはどうだ」
晴明が女二宮にまで煩わしさを隠さないのは朝早くに呼び出したせいだ。しかし夜更かしによる寝不足は女二宮のあずかり知るところではないので、とぼけた調子で扇子を広げた。たとえ名目上であっても、一日の吉兆を占うためだけに呼び出すことができたのは女二宮が皇后の娘であるからだ。
「ただの占いで私を呼びつけるのはどうかと思うが」
「陰陽寮も人が増えていることですし、よいではありませぬか」
陰陽寮所属の人間が増えているのは事実だ。しかしそれは急増する妖怪に対処するためであって、晴明が暇になるわけではない。
「……紅葉の宮の話は面白いが厄介事ばかりだからね」
晴明の言葉に、女二宮はにやりと口元に笑みを浮かべた。鮮やかな美しい紅葉にたとえられる女二宮がそうするだけであたりも華やぐ。女房の春日を遠ざけて二人だけで話すなんて、絶対にろくな内容ではない。
「青葉。いらっしゃい」
女二宮が手招きすると几帳の後ろから若い男が進み出て頭を下げた。直垂には何の刺繍もなく宮中で見るにはいささか地味な風貌だ。手をつき畳を見つめてじっと待つ姿はいかにも真面目そうだが、顔面は蒼白である。晴明は片眉を上げて青葉と呼ばれた男に見覚えがあることに気付いた。
「晴明、青葉の怪我を治してくれませんか。酷い傷なんです」
女二宮に促されて面を上げると、男の顔立ちがよく分かった。男の胴体には包帯が巻きつけられており、生乾きの傷口にじわりと血液がにじみ刀傷の位置を浮き彫りにする。大方、流れ続ける血液に困惑して晴明が呼ばれたのだろう。
「私が破魔の太刀で一薙ぎにしたのだ。妥当な結果だな、茨木童子よ」
「……」
扇を広げて揶揄うも、青葉の生真面目そうな表情に変化はない。女二宮の側で背筋を伸ばして目を伏せている。
晴明が青葉を切り捨てたのは、つい先週のことだ。京の茨木童子といえば、貴族の邸宅に侵入しては荒らしまわっていると陰陽寮を騒がせていた。そうでなくても治安の悪い京の夜である。見回りと称した妖怪退治に陰陽寮の連中が駆り出されるのも仕方のないことで、晴明もその例外ではなかった。晴明が見回りに加わった夜に出会ったのが青葉の運の尽きである。
「紅葉の宮、この茨木童子は優先討伐対象の鬼だよ」
「もちろん知っていますとも。さあさあ治してあげなさい」
晴明が諭すにも、女二宮はそれがどうしたと言わんばかりに顎で使おうとする。青葉を庇う女二宮と、彼女の忠臣のように側に控えている青葉。二人の間には随分と深い信頼関係が築かれていた。
晴明はやれやれと息をついて、青葉を治療してやることにした。正直なところ、妖怪退治などどうだっていいのだ。人も妖怪も等しく京に住まうのだから。
「青葉をどうするつもりなんだい」
青葉の体に墨で直接解呪の印を施す最中、女二宮に尋ねた。一体いつから宮中の目を欺いているのか見当もつかないが、宣耀殿は陰陽寮が近く、青葉を隠すには向いていない。
「もちろん、飼い続けるんです。先例もあることですし」
まるで犬猫の世話をするかのように語る女二宮は、理屈で説得できる女ではない。解呪の印により血が止まった青葉に嬉しそうに笑いかけている。
「まあ、止めはしないが……陰陽師として出会ったら切るしかない。せいぜい逃げてくれ」
「ですって青葉」
ふざけた調子で肩を叩かれても、青葉は不満の一つも言わなかった。気を付けます、とだけ答える姿があまりにしっかりしていて晴明は妖怪への認識を改める。快楽主義的であることだけが妖怪と人間との違いだと思っていたのだが、それさえ個体差があるとなると、人と妖怪に何の違いがあるというのだろうか。晴明には分からない。
***
女二宮に出会う前の自分が何を考え何を感じて生きていたのか、もう忘れてしまった。朧気な記憶によれば青葉は犬畜生と同程度の倫理観しか持たず、目の前に現れる妖怪を千切っては投げ、千切っては投げを繰り返していたのだが、茨木童子と呼ばれるようになったのもいつの事やら覚えていない。
青葉と女二宮が出会ったのは琵琶湖が一面の紅葉で赤く染まる季節のことだった。小舟が紅葉をかきわけて作り出す路に上弦の月が浮かんでいた。美しい着物を身にまとい、見るからに上流階級の女が一人小舟で月見をしていた。それが女二宮であった。
「そこな妖怪、出ていらっしゃい」
姿を現す必要なんてなかったが、物珍しさに興味がわいた。傾いた小舟によって水面が波打ち紅葉が揺れる。正面から顔をあわせれば、まばゆいほどの女二宮の美しさを直視せずにはいられなかった。
「……一人なのか」
「当たり前です。抜け出さなければ夜の琵琶湖になど出掛けられるものですか」
思えば初めから女二宮はふてぶてしかった。ろくに返事もしない青葉に一方的に話しかけては楽しそうにころころと笑っていた。近くの親戚の家に滞在しているのだそうで毎晩夜になると琵琶湖に現れて青葉を呼んだ。そう毎度呼ばれては、ふらふら渡り歩いていたはずの青葉も去りがたく、京について来いと言われて二つ返事で了承した。
本来宮中は陰陽寮の連中によって強力な結界が張り巡らされている。しかし女二宮は結界の綻びにも詳しく、妖怪である青葉を後宮に導いた。案内されたのが宮中の宣耀殿とあってさすがの青葉も驚いたものだが女二宮は得意げに笑っていた。
晴明の解呪は効果てきめんで、数日間止まらなかった血がもう固まっていた。傷跡は残るらしいがそれで済むなら万々歳だ。女房も寝静まる時間になると女二宮はいつものように青葉を呼んだ。春日に見つかるとまた小言を言われてしまうので、こっそりと。女二宮を背負い、内舎人に見つからぬように内裏から連れ出せば、満面の笑みで青葉の頭を撫でた。
「紅葉の宮、今日はどちらへ」
宮中を離れたところで背中の女二宮に問いかけると、途端に女二宮の顔が曇った。晴明につられて下手を売ってしまったことを自覚し、口をつぐんだがもう遅い。
「二人の時は
「すみません」
不機嫌な声が飛んできて青葉は素直に謝罪した。貴人ともなれば名前を明かさないものだが、朱音は違った。女二宮や紅葉の宮といった記号で呼ばれるよりも名前で呼ばれることを好んだ。どこに官人がいるか分からないから、というのが朱音の言い分だった。しかし敬称も嫌いなので、どちらかと言えば身分を忘れたいだけのように見える。
「朱音、今日はどちらへ」
青葉は改めて朱音に尋ねた。夜歩きの行先は朱音任せで、青葉はふらふらとついていくだけだ。
「東洞院に
胸をときめかせている朱音を背に乗せて、青葉は京の路地を走り抜けてゆく。朱音の腕は青葉の首に捕まったかと思えば時々髪の毛をつついて暇を潰していた。青葉はなされるがままだ。月明かりが淡くあたりを照らす中、東洞院を五条まで下る。名残雪も見かけぬ季節になったが冷たい風が二人の頬に吹き付ける。朱音は文句の一つも言わず青葉の背に揺られている。
中務の大輔の邸宅は小さいながらもよく手入れされたものだった。庭を彩る紅白の梅が愛らしい。部屋の中は伺えても、肝心の寝所には帳がかけられている。
「これでは垣間見できぬではありませんか」
朱音は青葉の背から首を伸ばして中務の大輔の姿をひと目見んとするが、見えないものは見えない。すぐに諦めるつもりはないようで、地面に下りると腕を組んで考え込んだ。
男が勝手に行う垣間見を女がして何が悪い、と朱音は夜な夜な青葉を連れ出している。女二宮とあって顔が広く多くの貴族の評判を知っていたが、顔を合わせたことのある相手はほとんどいない。詩や文で相手の人柄は分からぬという主張には同意するが、青葉には顔を見たところで状況は変わらないように思えた。
朱音は往生際悪く、ぐるりと屋敷の外塀に沿って歩き四隅の札を手に取った。京に屋敷を構える人間は大抵、護符で妖怪から屋敷を守っているのだ。
「まあ、結界まで!壊してしまいましょう」
青葉には近寄れない護符を朱音はあっさりと剥いでしまう。中務の大輔も朱音に目をつけられるとは運が悪い。一度破られた護符は効力を失い、妖怪の侵入を許すだろう。せめて新たな護符を手配できるよう、気付きやすい外塀に大きな傷をつけておく。
手招きしている朱音を追って、物音をたてぬようゆっくりと庭から侵入した。欄干を乗り越えて屋敷に踏み入ったとき、みしりと床が軋んだが誰も起きては来なかった。寝所に近寄る朱音は顔を輝かせている。
さて、帳を持ち上げて中務の大輔の寝顔を拝んでやろうとすると、そこには空の浜床が寂しく置かれているだけであった。怪訝そうに青葉を振り返るので、首を左右に振って一時退散する。気付かれては困るので屋敷を出るまで二人の間に会話はない。中庭へ続く軒下の沓が片方しかないことに青葉は違和感をもったが、すぐに記憶から消えてしまった。
「女のもとに通っているのでしょう。順当に考えて」
「なんてこと」
極めて冷静に伝えたが、朱音は両拳を握りしめて不満を顕にした。敗因は中務の大輔に女がいると知らなかったことだ。
夜歩きがこうもあっさり終了しては、どうも気力を持て余す。朱音は意地になってこのまま宇治まで行ってやると青葉を連れ出したが、これも失敗に終わった。八条大路で一つ目の大鬼が立ちふさがったからである。
「おお、美味そうな人間じゃ。運がいい、運がいい」
一つ目は腹をさすって舌なめずりをした。上背八尺はあり建ち並ぶ家屋が小さく見える。朱音を背中から下ろした青葉は、指を鳴らして正面から一つ目に対峙する。一つ目はその大きな目を細めて、ようやく青葉の正体に気付いた。
「なんじゃあ、男は妖怪か」
「そうです。茨木童子を知らぬのですか」
後ろから朱音の野次のような声援が飛んできて、青葉は力が抜けそうになる。どうにも朱音の声は緊迫感に欠けていて、喰われそうになっている自覚はあるのかと問いただしたい。一つ目は大きく身を乗り出して、大きな目をこれでもかと見開いた。
「茨木童子、あの茨木童子か!」
「ええ。さっさと逃げ帰りなさいな」
なぜか朱音が胸を張る。無邪気な仕草は一つ目を煽るだけに終わり、青葉は先手を打つために踏み切った。
息をする間に姿が消えた青葉を、ぎょろぎょろと一つ目を忙しなく動かして探す。一つ目の視界には身なりの良い女しかいない。背中に気配を感じて振り返るも、それはひらりと舞う枯れ葉である。一つ目の滑稽な動きに内心笑いながら朱音が顔を上げると、青葉の爪が一つ目の喉元を捕らえていた。
朱音と過ごすようになってからというもの、茨木童子の悪名は日に日に大きくなった。琵琶湖の辺りで獣のように生活していた時分には無名だった茨木童子の名がこうも急速に広まったのは、こうして朱音と夜歩きするうちに絡んできた妖怪の相手をしているからだ。垣間見の合間に屋敷の結界を壊してまわったのは朱音で、その屋敷を襲っているのは他の妖怪なのだが、全てが茨木童子のせいになっていた。
「青葉は何も悪くありませんよ」
口癖のように朱音は呟いた。ぐったりと項垂れた一つ目の体を鴨川に放り投げた時だった。派手な水飛沫が土手を濡らした。
「そろそろ見回りが来るでしょうか。宣耀殿に帰りましょう」
朱音は青葉の袖をくいと引いた。夜歩きを続けて追われるようになった青葉は今や朝廷の敵に指定されている。見回りの目を逃れるため二人は大人しく内裏へと戻った。
夜が明けて数日が経過しても、中務の大輔は出仕しなかった。女のもとに通っていたのではなく煙のように姿を消したのだ。物忌みか、方違えとも思われたが僧侶をあたっても家人に聞いても誰も事情を知らないという。一月もたてば別の人間が中務の大輔に任命されて朝廷は日常を取り戻していた。
花の咲き乱れる季節が訪れると朱音のもとには毎晩のように詩や花が贈られる。裳着を済ませ輝かんばかりの朱音の美しさは名高く、貴族の男たちが競って声を上げた。朱音の婚姻には祖父である左大臣の意向が大いに反映される。それでも恋愛は自由であろうと文のやり取りは見逃されていたが、朱音には文通を楽しむ趣味は無いようだった。いい相手を求めて夜な夜な垣間見の真似事を行うくせに、数々の男を袖にする。要は一方的に送りつけられる文で相手を判断すること自体、我慢ならないのだ。
女房の春日は文が届く度に誇らしげに朱音に報告していたが、うんざりと顔を曇らせるのは朱音だけではなかった。
「青葉」
春日が退出したのを見計らって、朱音が呼ぶ。何を要求されるのかは分かり切っていて、青葉は顔に出さないがぎくりと固まった。朱音の顔は晴れやかで、扇で文を指し示し手に取るよう促している。
「青葉、読んでくださいな」
「……はい」
朱音は悪趣味なことに、名だたる貴族の男からの文を青葉に音読させて楽しんだ。文を広げれば達筆で和歌がしたたまれている。青葉は毎度毎度似たような和歌を、それでも律儀に読み上げる。
「……いつとなく、」
「ああ、駄目ですよ。ちゃんと訳してくれないと」
青葉が文を忌避する一番の理由がこの意訳であった。ただ読み上げるだけで朱音は満足しないのだ。文字は読めても、青葉には和歌が分からない。どうにか意味を捕らえようと頭を捻る姿を見て、朱音は脇息に体を預けてにやにやと笑っている。
「えー……富士の高嶺が高い、ので……いや、高いように、心が遠くにある……で、恋をしているそうです」
「まあ、恋を」
「おそらく、朱音に恋をして浮かれているということを伝えたいのでしょう」
大真面目に和歌を説明している横で朱音が吹き出した。扇で顔を隠しているが、小刻みに震える肩が丸見えだ。青葉の意訳は上手くいったためしがない。和歌を嗜む朱音が直接目を通したほうが効率がいいのだが、楽しそうな朱音を見ていると不満をいう気も起きない。
「さあさあ文はまだたくさんありますからね」
促されるまま、積み上げられた文を片っ端から読み上げてゆく。文の中には香りをしたためているものや、季節の花を添えたものもある。今は桜の枝が人気で、たまに奇をてらって蒲公英などの野花が並んだがどれも朱音の心を掴むことはない。青葉が読み上げるたびに笑い声を上げる朱音は、誰にもなびかない。
最後の文には、桜の花弁が包まれていた。青葉が文を開くとともに薄紅色がひらひらと舞い落ちた。同時に、桜に紛れてぼたりと落ちた黒い粒がある。粒は足を素早く動かして朱音の方に向かう。
「あら、なんです。蜘蛛……?」
朱音の視線が珍しそうに蜘蛛を追いかけた。青葉は手に持っていた文の違和感に気付く。送り主の名前が無ければ、和歌も書かれていない。和歌の代わりに並んだ墨は、よく見れば呪詛の羅列である。
「朱音、離れて」
青葉が腰の太刀に手をかけた時だった。ひらりと人型の紙切れが眼前を横ぎり、小さな蜘蛛を覆い隠した。逃れようと暴れる足が紙の間から覗いたが、すぐに握りつぶされる。
「安い呪だな」
晴明は口元を扇子で隠しながら、堂々と几帳を分けて立ち入った。涼しげな狐目を細めて青葉の足下に落ちている文を見つけると、扇子を一振りした。するとたちどころに文が燃え上がり、灰の一つも残さぬまま消えてしまった。
呪と聞いて朱音の顔が曇った。呪、それも蜘蛛となれば、心当たりがある。
「……しつこい男」
「阿呆の
道満法師といえば、晴明と張り合う呪術の実力の持ち主だ。官人ではない身でありながら、京の妖怪退治に協力して朝廷からの信頼を集めようとしている。宣耀殿に度々蜘蛛の式が贈られるので朱音はうんざりしているのだ。宣耀殿の妖怪を衆目に晒して、朝廷の重臣となることを目論んでいるのだろう。
ため息まじりに腰を下ろした晴明に、朱音はにやりと笑う。晴明の珍しく人間らしい疲れた顔が面白いようだ
「晴明には負けますよ」
「やめてくれ」
晴明は嫌そうに手を払った。
道満法師が手柄にこだわるのは晴明への対抗心ゆえのことだった。稀代の陰陽師である晴明さえいなければ、間違いなく京で一番の実力者になれた男だ。傲慢で自尊心が高い道満には、自分より優れた術師が存在すること自体我慢ならないことである。勝負だなんだとなにかにつけて晴明に絡んでは、鬱陶しそうに避ける晴明に腹をたてていた。
「晴明から私のもとに来るなんてどうしたんです」
朱音は脇息に肘をついて、楽しそうに問いかけた。寛いでいる朱音とは対称的に、青葉は背を伸ばし畏まっている。一度刀傷を受けた相手である。強さを知っている以上、なかなか緊張を解くことができない。
「先日、これを見つけてね」
そんな青葉を気にとめることもなく、晴明は懐から手鏡を取り出し朱音に手渡した。漆塗りの手鏡に紅白の梅が咲く。土が付いて汚れているものの、僅かに欠けた鏡の端が朱音に持ち主を確信させた。
「紅葉の宮の女房の手鏡だった気がしたのだが……合っていたようだ」
「鏡の欠け方、取っ手の傷……間違いなく淡雪のものです」
思いがけない手掛かりに朱音の声が震えた。梅の手鏡は朱音の女房を務めていた淡雪が母から譲りうけたものである。淡雪は母の形見でもある梅の手鏡を懐に入れて御守のように身に着けていた。
女房と女二宮、身分の差は大きけれど淡雪は朱音の大事な友人であった。内気で人に意見するのが苦手な癖に朱音には年上ぶって助言するような女だった。青葉が宣耀殿にやってきた頃、朱音が紹介した唯一の人間が淡雪だ。青葉を警戒し朱音の悪癖に困り果てながらも、宣耀殿には笑顔が溢れていた。
「晴明、晴明。この手鏡をどこで見つけたのです」
「熊野本宮大社だ」
「熊野……」
晴明の回答に、青葉は息を呑み朱音は途方に暮れた。熊野と言えば奈良よりもさらに南の方であり、日常生活の上でふらりと立ち寄る場所ではない。晴明は参拝の折、満山社の横で半分土に埋もれた梅の手鏡を見つけたのだという。淡雪の手鏡とすぐに分かったのは、朱音から相談を受けていたからだ。
年が変わった頃、宣耀殿から淡雪が姿を消した。青葉はもちろん朱音にも何の一言もなく、ある朝から朱音の前に現れなくなった。春日は淡雪の代わりに宣耀殿にやってきた女房である。見事役目を果たそうと誠実に取り組んでくれている凛々しい女房だが、仕事の代わりはできても友人の代わりになるわけではない。
「淡雪はどうして熊野に行ったのでしょう。挨拶もせずにここを立つなんて」
「或いは拐かされたのかも知れないね」
「それにしたってどうして熊野なのです」
晴明が不吉なことを口にするので、朱音は口を尖らせた。淡雪の身を案じて青葉に探らせていた位だ。時間が経過するにつれ覚悟は出来たものの、簡単に諦められない。遥々熊野本宮大社で見つかった手鏡だけが淡雪への手掛かりなのだ。朱音の問いかけに晴明は肩を竦めた。
「私にもどうなっているのか分からないが……ふむ。妖怪にも探らせよう。嫌な予感がする」
晴明が式ではなく妖怪と言ったので青葉は驚いた。京で一番の陰陽師が討伐するべき妖怪との協力関係を悪びれもしない。京の妖怪の間で、晴明を知らぬものはない。しかしそれは悪名高いと言うべきであって、青葉には敵対関係でしかないように見えた。
「……可能なのか」
気付けば口に出していた。晴明は青葉と朱音を順に見比べて微笑んだ。
「勿論だ。人と妖怪は共生できるものだよ。今のように奪い合わなくても」
京では人と妖怪が対峙して、奪い合いながら同じ時代を生きている。それを共生ということもできるのだろう。しかし晴明は遥か遠くを見据えている。単なる共存以外の在り方を。青葉には到底不可能な夢を見ているように思えた。長い歴史の中で人と妖怪の間に横たわる溝は、何も種族の違いだけではない。妖怪は人を喰い、人の遺恨は牙をむく。
「昔からそうでしたね。そんな絵空事を実現できると思っているのは晴明くらいのものですよ」
朱音はどこか寂しそうに呟いた。晴明は他の誰とも見える景色が違う男だ。人の世でも妖怪の世でも等しく異端の存在で、なるほど晴明からすれば人も妖怪も同じなのかもしれない。
「いや、それがもう一人見つけたんだ。なかなか見どころがある妖怪でね」
晴明は同じ夢を見ている妖怪の存在を口にした。名を、ぬらりひょんといった。
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