野槌

 百鬼夜行の道中は概ね順調だった。人里は先の飢饉を感じさせぬ穏やかな暮らしを取り戻していた。時折、百鬼夜行を離れる妖怪もいたが別段指摘を受けることはない。もとより各々が勝手に集った集団である。宴を楽しむ妖怪も世の動向を伺う妖怪も、大きな入道雲の内側に受け入れられる。

 総大将は顔が広く人望が厚い。知り合いの妖怪のもとには挨拶に向かい、見知らぬ妖怪にも声をかける。そうして人の世の動向と妖怪の世の異変を聞き出すのだ。時には些細な手助けを求められることもあり、すべてに快く応えていた。東海道は久しぶりだったが、妖怪同士の境界に多少の変化があった程度で、むやみに人里を荒らすこともなく秩序ある生活を送っているようである。

 東海道の夜空に鈴の音が鳴り響く。入道雲に隠れた一団が尾張にさしかかるかという頃、妖怪たちの宴を掻き分けて一匹の獣が総大将の前に飛び出してきた。呼吸を整えるのにあわせて上下する獣の背中に井の字が刻まれている。毛を逆立て、らしくない真面目な表情で総大将の前に膝をつく。

「総大将、本宮山の集落が……」

 狢の額を滑り降りた汗に、一同は声を抑えた。狢の言葉よりもその香りが雄弁であった。まとう人の血の移り香に、ごくりと生唾を飲み込む音が響く。

「あやかしものの仕業か」

 すぐさま鵺が立ち上がり、短く問いかけた。もとより鋭い目つきをさらに尖らせて、尾の蛇からちろちろと長い舌が覗いていた。

「恐らく。……いいや、わからねえ。何も居りませんでした」

 狢は険しい顔で眉をひそめた。その瞳にはわずかに困惑の色が伺え、鵺は目線で続きを促した。寛いでいた総大将も事態を察して体を乗り出す。記憶を辿り、光景をそのまま伝えようとする。

「ずらりと死体が転がって……木の枝に逆さづりになっているのも在りました。子供も武士も関係なしだ。そこいら中に何かを引きずったような……総大将?」

 がたり、と音を立てて総大将が立ち上がる。そのすきに色羽織が肩から落ちたがそれにも気付かぬ様子である。

「……しまった十五夜に遅れたな」

 此度、東海道の百鬼夜行は富士で一度引き返した。尾張に辿り着くのは七月の十五夜であったはずが今はもう八月の朔である。何か予定でもあったかと鵺が問えばあわせてその尾の蛇が首を傾げる。

「今年は閏一月だったろう」

 呟いた総大将に妖怪たちは互いの顔を見合わせた。確かに今年は閏年であり、一月の次に閏一月があった。しかし半年も前に過ぎた話であり、狢の見た集落とどんな関わりがあるやらわからない。そんな中、鵺には思い当たる節があったのか、はっと息を呑んだ。呻くようにして顔をゆがめる。

「野槌か」

「ああ」

 聞き慣れぬ妖怪の名に小鬼達が首を傾げたのも無理のない話で、野槌は京に都があった時代から存在し、数十年に一度目覚める妖怪である。百鬼夜行に連なったことは一度もなく、閏一月の年の他は土中で眠り続ける。

「あっしが行きやしょうか」

 しゃん、と鈴の音が多重に響いた。天まで届くような大きな竹を片腕で抱えるようにして百目鬼が進み出る。体中に残るおびただしい傷は、時々瞬きをしてぎょろぎょろ目玉を動かした。狢の見た本宮山の集落に野槌とやらの姿がないのであれば、失せ物探しが得意な百目鬼は適任だ。

 しかし総大将は百目鬼を手で制し、もう片方の手の扇子をぱちんと閉じた。自然と妖怪たちの視線が集まり、場が静まる。

「いや、俺が行く」

 言うが早いか、百鬼夜行を鵺に任せて総大将は姿を消した。落ちていた色羽織もいつの間にやら消えている。総大将が行くのなら、と安心して緩んだ妖怪たちはすぐに宴を取り戻した。月明かりの無い夜の空、妖怪たちのどんちゃん騒ぎは地上には届かない。

 朔の日とあって、夜目が効く総大将にとっても集落に辿り着くには少し時間が必要だった。しかし本宮山まで来れば集落を探さずとも濃い血の臭いが手招きをした。集落に近寄るにつれ、腐臭も混ざり総大将は顔をしかめた。

 集落に転がる死体にはすでに蛆が湧いていた。山間の川に添うようにして広がる小さな集落だ。豊かに実り穂を垂らした稲も刈り取られることなく、田畑の間にぽつぽつと民家が並んでいる。民家の壁もえぐり取られたように大きく崩れ、ところどころに人の手足が点々としていた。一番濃く臭いが漂うのは川の上流側であり、番所とみえる大きな建物と広場があった。広場はまさしく死体の山であった。野槌が食い散らかした人間の腕や頭がそこかしこに転がり、まっすぐ歩くこともできない。屋敷も食われ、八畳間から厨房まで見通せるほど壁が崩壊している。

 何より総大将の目を奪ったのは逆さに吊られた人間である。番所の裏手に並んだ木に足首から吊るされた死体が並んでいた。胴体から上は野槌に食いちぎられて、膝下あるいは足首だけが麻縄を揺らしている。垂れた血が地面を黒く染め、その地面にはでこぼこと野槌の這った跡が残る。跡は西の方角へずっと続いており、総大将は追いかけて集落を去った。

 野槌は長い腹を虫のようにくねらせ移動する。俵ほどある図太い胴体に手足は無く、顔の代わりに口だけがついている。尺取虫の独特の動きが地面を大きくえぐり取り、道しるべとなって導く。野槌の這った跡が乱した小川の清流を軽く飛び越えたとき、後ろから茨木が追いついてきた。

「次はないと約束したはずですが」 

「……ああ、そうだな」

 茨木は腰に破魔の太刀を携えて、不愉快そうに眉を寄せた。確か手のつけられない大食いだった野槌を一度見逃したときも不満そうだった。よく動く口で改心したと平伏されれば信じるほかなかったがにやにやと卑しく嗤う野槌の本心は誰にもわからない。閏一月には野槌の目覚めに合わせて麦や稲藁を用意してやっていたのだが、今年に限ってすっかり忘れていた。閏一月から半年後の満月に地上に顔を出せば、腹が満たされるまで再び眠る事はない。移動を続けているということは、まだ満たされていない。

「吊られた人を見ましたよ。なかなか惨いことをする」

 茨木は集落での光景を思い出し、短く息を吐いた。惨たらしい殺し方は嫌がらせのようにも感じられ、次こそは切り伏せてやろうと破魔の太刀に手を添える。

「……腕のないあいつには逆さ吊りなんて出来やしねえよ」

 呟いた言葉に、茨木は不可解な顔を浮かべた。集落には他にもおかしな点がある。なぜ飢餓にある野槌が食べ散らかして、もとい、食べ残していたのだろうか。

 草を薙ぎ倒してつくられた道はすぐに終点がやってきた。悲鳴とともに人間の男が逃げ出すのが目に入った。所々に毛の生えた長い体が遠目にも見つけやすい。その体の先端に付いた大口が人間の落としていった握り飯を丸呑みにして、総大将を振り返った。

「やあやあ、ぬらりひょん。うふっ」

 三重に並んだ歯列が剥き出しにして野槌は笑った。体に飛び散った血は黒く変色し、手足がないので拭き取られることなくこびりついていた。茨木は鋭い目付きで吐き捨てるように野槌を咎める。

「もう人を食べないと言っただろう」

「ああ言った……いや、言ったかな?うふふ。何百年前だ?うふっ、あんまり昔の事は忘れちまうなあ」

 目鼻がないかわりによく口を動かし、愉快そうに体を揺らす。茨木は破魔の太刀に手をかけて抜刀せんと構えたが、なぜか今だに許可が下りない。どころか、総大将は口ばかり達者な卑怯者の正面に腰を下ろした。土で着物の裾が汚れてもお構いなしで、堂々としている。

「ぬらりひょん。俺は腹が減るんだよ。うふっ、わかるだろう?」

「……野槌よ、あの集落で何があった」

 腹を満たすためなら人でなくても良いはずだ。しかし実った稲穂には全く手を付けず、屋敷や人ばかり食っていた。総大将はあの光景の正体に大体の予想がついている。

「切支丹の集落だったんだろう。逆さ吊りは役人が奴らの拷問に使う手段だ」

「さすがさすが。うふふ、まあ……つまらん話になる」

 野槌の笑いは乾いて響いた。


***


 七月の望月に野槌は土の中で目を覚ました。温かな土の中から顔を出せば、すぐに途方もない飢餓に襲われて腹が獣のような音を立てた。何かを口にしなければ焼け付くような空腹に耐えることなど出来ない。辺りを見渡すも檜ばかりが並んだ山で、仕方ないので檜と野草を貪った。吐き出しそうな不味さだが、少しでも腹を紛らわすことができる。

 夢中で食いつづけ多少腹が満たされれば、次は喉が渇きを訴えはじめる。川を求めてずるずると体を引きずり、鹿や狸に出会うたび頭から丸呑みにしてやった。血肉が喉元を過ぎ去るほんのわずかの間だけ飢餓から解放される。

 川にたどり着けば夢中で水を飲み続けた。数十年の渇きを潤すようにして延々と飲むうち、記憶にある水の味と異なることに気付き水面から体を引き上げた。川の水に血液が混ざっているようだ。野槌はその甘やかな香りに惹かれ、長い体で砂利に溝を作りながら川を遡った。

 頭上には木々の隙間から獣道を照らす満月が煌々と輝き、星の光を消し去っていた。人里はすぐそばにあり、まずは下流の田園風景が野槌を迎え入れた。ぽつりぽつりとならぶ家に光はなく住民たちは寝静まっているようだ。野槌が通りがかるたびに飼い犬や鶏が騒ぎ出したが人に姿をみられることはなく、久方ぶりの人里の景色を楽しみながらさらに先へと進む。

 川は大きな建物の裏手へと続いており、川に沿って木々が並んでいた。木の枝には不規則な間隔をあけて人間がぶら下がっていた。一番川に近い位置で逆さ吊りにされていたのが真澄であった。

 青白い顔のやせこけた女だった。まだ少女と呼ぶにふさわしい年齢でありながら輪郭には丸みがなく、苦しげに眉を寄せて浅く呼吸を繰り返していた。体は簾で巻かれ、こめかみに開いた小さな穴からぽたぽたと血がながれ、地面に染みをつくる。

「逆さ吊りの人間が珍しい?」

 てっきり意識を失っているとばかり思っていた女が口を開いたので野槌は面食らった。女の両の目ははっきりと野槌を捕らえているにもかかわらず、平静そのものの顔をしている。野槌のおぞましい姿を見て悲鳴一つあげぬ人間にであったのは初めてのことであった。

「珍しいさ。うふ、眠っている間に人の世も変わったのかな、ふふっ」

「あら、きっと変わってやしないわ。今も昔もこんなものよ」

 女の声は弱弱しく掠れていたが目だけはきりりと鋭く、はっきりとした眉の曲線が意志を強く見せていた。乱れた髪は地面に垂れ下がり毛先が土に汚れている。この面白い女をもっとよく見ようと体をくねらせて近づいたが、女も面白そうに野槌を見返すばかりだ。

「ところであなたは何者なのかしら」

「野槌……いわば妖怪だよ」

 女の弱弱しい声に合わせて野槌も声を潜めた。望月の下、木々の合間には他にも人らしき何かがぶら下がっていたが大声を出さなければ声が届かないような距離にある。女が吊るされている場所が一番川に近くせせらぎが響く場所というのもあいまって、誰も突如現れた野槌に気付かない。

 のづち、と女は繰り返した。伝承や昔話の記憶をたどっても野槌には辿り着けないはずである。野槌は天災のようなもので、目覚めた野槌に出会って生きて帰った人間はいない。

「知らないわ。名前はある?」

「卑だ。卑しいと書いて、卑」

 口にして数百年ぶりの響きであることに気付き、奇妙な感覚に包まれた。

「そう、呼びにくいのね。ひいさんと呼ぶわ」

「うふふ、わかった」

 女がたった一言名を呼べば、野槌は誤魔化すようにとぐろを巻いた。体を動かさねば身を包むくすぐったい感覚に耐えられそうにない。野槌は目を逸らすようにして、天を仰ぐ。月下に垂れる血液がぞっとするほど芳しく、女が身にまとう清浄な気に焼かれてしまいそうだった。

 女は真澄といった。哀れな姿を晒しているので逃がしてやろうと誘っても、仲間がいるからと断られた。仲間とは同じく逆さ吊りにされた奴らと、番所に捕らえられた者たちのことである。声が届かないような距離を空けて吊られているのは、仲間同士で話せぬようにするためらしい。

「皆で逃げればいい。うふ、手助けくらいはしてやろう」

「ふっ……笑わせないで、苦しいのよ」

 真澄は気の強そうな顔立ちに穏やかな微笑みを浮かべた。呼吸に苦しげな呻きが混ざるも、決して野槌を咎めない。

「年寄りも子供も連れて逃げられないわ。それに」

 逃げる場所なんてどこにもない、と真澄はつづけた。野槌にはかける言葉がない。あんなに饒舌だったはずの口が上手く動かず、時折垂れる涎を飲み込むだけだ。文字通り目の前に肉をぶら下げられて腹は減るばかりである。

 次の言葉を探していると、番所のほうから行燈の光が揺らいだ。人影が吊られた人間の一つに近寄り、棒状のものを振りかぶる。鈍い音とともに呻き声が響いた。

「……ひいさん、もう行って頂戴」

 真澄は一層声をひそめて野槌に告げた。乞うような物言いで、微笑みを絶やさないままで、まっすぐ野槌に目線を送る。名残惜しいが真澄を困らせるのも可哀想で、野槌はこっそりと踵を返した。土に潜れば人の目を逃れるのは簡単だ。

「うふふ、また来ようかな」

「いいわよ」

 闇に姿を消す間際、呟いた言葉が頭の中に何度も反響し野槌は上機嫌だった。此度の目覚めのいい暇つぶしを見つけた。真澄はあのまま死ぬのだろうか。そうだとすれば、きっと殺される前に食ってやる。依然腹は減っていたが、そんないつかを楽しみに土の中で体を丸めて眠った。

 次の夜、同じ木の下に向かったが真澄はいなくなっていた。人に姿を見せぬよう土の中に潜り、時折顔を出してあたりを探る。吊り下げられた人間を時折役人が見回って殴っていた。役人は同じ問いばかりを繰り返し、どの人間も頷くことはない。なぜ真澄のようなか弱く小さな女がこのような仕打ちに耐えることができるのか、野槌には不思議だった。しかも真澄含めて誰一人として役人を恨んでおらず、気味が悪いとすら思えた。

 番所の敷地内にはいくつか土が柔らかくなっている場所がある。掘り起こした土に死体をいれてまた埋め戻したもので、土の下を移動する野槌が漁るには丁度いい場所だった。多少空腹は満たされて、人里に留まっても理性を保つことができた。

 真澄は死んだのだろうか。死体の山の中でも確認してみようかと考え始めたころ、川辺の同じ木に括られている真澄を見つけた。再び出会った彼女の頬は腫れて赤くなっていた。

「これまた、うふ、手ひどくやられたな」

「ええ、容赦ないの」

 真澄の髪が垂れるすぐそばの地面から顔を出したが、真澄は穏やかに返事をした。輪郭が変わるほど殴られても、彼女の目は死んでいなかった。姿を消していた間は番所の中にいたらしい。もし死んだら敷地内に埋められるようなので野槌にはすぐわかりそうだ。

 見上げた雲一つない夜空に欠けた月が浮かんでいる。真澄のこめかみに小さく開いた穴から少量ずつ血が流れ落ちる。前にもあったこの傷が気になって見ていると、真澄は口元を緩めた。

「こうしないと頭に血が上るでしょう」

 春の後に来る季節を答えるときのように、あるいは月の出る方向を答えるときのように、至極当然だという顔をする。敷地内に吊るされていた男たちは呻き声を漏らしていたのに、真澄は喉の奥で噛み殺し平静を装っている。その血の香りに引き寄せられて、野槌は口を大きく開けてふらふらと近付いた。真澄など頭から丸呑みにできてしまうほど大きな口だ。

 野槌は己の野生に身を任せることなく、真澄のこめかみをつたい落ちた血液を受け止めるだけに留めた。ほんの一滴で腹が焼けつきそうになる。腹の音が獣の鳴き声のように五月蠅く響き真澄を誤魔化せない。

「川を少し下った所に稲が実ってるわ。ひいさんの口にあうかどうかわからないけれど」

 真澄は川が流れる先を顎で指し示した。水田に実った稲は首を垂れて、すでに黄金の景色を作っている。収穫されていない稲があるのは、管理するはずの村人が番所に囚われているからだ。

「うふふ、あれは人のものだろう。俺は知っているんだ」

 野槌は人の世を荒らさない。いつかの満月にあの男とそういう約束をした。

「あら強面のわりに可愛らしいこというじゃない」

 真澄は微かに体を揺らして微笑んだ。掠れた笑い声は野槌をくすぐるようで面映ゆい。酒を浴びた時のようなこの感覚を味わえるのであれば空腹に耐えた甲斐もあるというものだ。

 番所の役人の見回りの時間が迫ると真澄は帰るように促した。今宵も役人の行燈が真澄を淡く照らし出す。

「また来ようかな」

 野槌が期待を込めて聞くと、真澄はきりりとした目を柔らかく細めた。役人に気付かれぬように一層声を落として小さく口を動かす。

「いいわよ」

「うふふ」

 野槌は笑い、長い体を引きずって真澄から離れた。俵ほどある太さの胴体が作り出す轍や砂利道は人間達の間で噂になっているらしい。真澄はいつも野槌を見逃したのち誰にも話していないようだ。遠巻きに眺めるだけのやつらのことなど知ったことではないが、ちゃんと作物をなぎ倒さないように移動し人間にも遭遇しないように気を付けている。

 だから、真澄に出会ったのは事故のようなものだ。意識があると知っていたなら見物なんてしなかった。手酷い責め苦に耐えて微笑む真澄を笑わせてみたいと思うと同時に頭から丸呑みにしてやりたいとも思わずに済んだ。

 空腹を紛らわすように川に頭を突っ込んで大量の水を流し込んだ。死体漁りで数百年ぶりに口にした人間の肉は美味しいと言えるものではなかった。やはり調理していない死肉はだめだ。土の下で過ごした数十年分の空腹はそんなものでは満たされない。

 野槌は夜空を見上げるも、雲一つない夜空に月が浮かんでいるだけだ。ぽかりと孤独に月の右側が欠け始めてもまだ百鬼夜行をのせた入道雲の姿はない。この集落で野槌は時々夜空を探している。人の世を荒らさないと約束した代わりに、野槌の腹を満たす食事をもってあの男が現れるのを待っている。七月の望月も過ぎて、此度は現れるのがやけに遅い。腹は減るばかりで醜く音をたて惨めな姿に自分でも笑いがこみ上げてくる。ただの口約束を数百年もの間守っているが、ついにあの男は野槌を忘れたのかもしれぬ。此度の百鬼夜行は東海道ではないのかもしれぬ。

 もしあの男が来なかったら、どうやってこの世を過ごせばいいのか見当もつかない。かつて天災として扱われていた時のように好き放題振舞ってまた眠ろうか。それとも飢えて死んでしまおうか。馬鹿らしい、と野槌は考えを払いのける。あの男は秩序とやらを守るため、必ずや野槌のもとにやってくるはずだ。

 飢餓を忘れるために、真澄のことを考える。夜通し木に吊られた後は番所の屋敷に囚われていると言っていたことを思い出し、夜が明けてから土の下を移動して屋敷に向かうことにした。屋敷の床下は、猫と蜘蛛しか侵入しないような暗く黴臭い場所であった。人に見つからないように時々顔を出しては、真澄の居場所を探す。

「いいえ」

 その時、野槌は床上から響いた真澄の声を捕らえた。すぐさま、ばちん、と鞭打つ音が鳴り、微かな呻き声が混ざる。恐らく八畳ほどの広間だ。足音を数えると、数十名が六畳に詰め込まれている。数十名が、だ。六畳で間仕切りがあるのだろう。聞きなれぬ言葉で祈りを捧げる彼らの声にはまだ年端のいかぬ子どものものもある。

「坂口のマリア。名前を捨てる決心はついたか」

 苛立った声で役人が問いかけると、真澄は再びいいえと答えた。

「だって私たち悪いことしてないわ。お父様だって何も企んでなんてなかった」

「先導者を失ってなおこの妄信、脅威と討ち取るは道理よ」

「お父様の死は愛が死に打ち勝った証拠よ。誰も折れたりしない」

「そのようだな。だからこそ娘のお前が折れれば多くの者は考えを正すであろう」

 理路整然と答える真澄がさらに役人の反感を買う。役人と思しき男は自らも息を荒くしながら真澄を何度も鞭打った。抑えきれない呻き声が痛ましく床下まで響く。六畳に詰め込まれた信徒たちは細々と囁き合い、しかし誰一人役人を止めることはできない。

「マリア、可哀想に」

「ああ、坂口の旦那が生きていれば……」

「恨んでは駄目、駄目よ」

 何度も鞭打てば、火のついたように子供が泣きはじめる。大丈夫、とあやす母親の声も涙に震えていた。まだ年若い真澄の体は力を失いぐったりと四肢を投げ出していたが、頷くことはなかった。

「……」

「強情な女め。まだ吊られたいようだな」

 役人は吐き捨て八畳間を去る。信徒達の祈りの言葉は真澄の苦痛を和らげるものではない。あとから入ってきた役人によって真澄の手足は再び縛られたが、麻縄などなくとも腕を持ち上げることさえできなかっただろう。

 真澄が苦しむ声の一つ一つが脳裏に焼き付き、思い出すたび胸に刺さる。その声を上げさせるのが自分であったならあるいは、少しはましな気分になれたのだろうか。吐き出しそうな気色悪さが役人への嫉妬なのか真澄への同情なのかもわからない。空腹に耐えていた筈の己の忍耐が今や別の何かに使われている。

 下弦の夜、再び川辺の木に真澄が吊るされる。日が落ちると共に近寄れば、眉間にしわを寄せてただじっと耐えており、きつく噛んだ口の端から血がにじんでいた。相変わらずこめかみの穴から少しずつ血が流れ、腫れた顔の輪郭は歪んでしまっていた。野槌は地面から長い体をずるずると引き抜き、その背に真澄を乗せてやった。足は枝に繋がれたままだが、上半身を横にできる分少しでも楽なはずだ。

「……ひいさん」

「見ていたよ“マリア”」

「いやだ恥ずかしいわ」

 真澄は体を簀で巻かれて身動き取れぬままであったがくすくすと笑った。弱々しい声に薄暗いところは何一つなく、心の底から誰も恨んでいないのだと知る。

「うふ、なぜ笑う」

「ふふっ、人のこと言えないでしょ」

 真澄の微かな笑い声は毒のように野槌の意識を奪う。澄んだ清らかな笑顔だ。彼女は一度だって野槌を恐れなかった。ただそれだけの事がこうも心臓を掴むとは知らなかった。

「ここから逃してやろうか」

 出会った満月の夜と同じ提案をする。努めて平静な声を作るも、懇願に似た響きが混じるのを抑えられない。

「いいえ結構よ。前にも言ったでしょう」

 それでも真澄の意志は変わらない。あれ程鞭打たれても変わらないのだから、当然といえば当然。しかし納得出来るかは別の話だ。

「なぜだ。ただでさえ人は不可解なのに切支丹は、うふ、尚更だな。名前を変えた、信仰を捨てたと言うだけだろう」

「……知っていたの、私達のこと」

「うふふっ俺が何年生きたと思ってるんだ」

 あれだけ一度に広まったのだから数十年に一度しか目覚めぬ野槌ですら知っている。胸に十字を切る奇妙な祈りの仕草も、弱々しい信者たちが胸に秘めた不屈の心も。真澄以外に吊るされたのは信徒の中でも有力な若い男衆だったが、逆さ吊りの責め苦に絶えずすでに何人も棄教を誓っている。後は真澄さえ棄教を誓えばこの集落の信仰は総崩れだ。

 だからこそ、だからこそ野槌には分からない。

「切支丹ではないお前がなぜ逃げ出さない」

「……」

 真澄が息を呑むのが背中越しにはっきりと分かった。手酷い仕打ちを受けても一度も祈らなかったし、切支丹であれば野槌をみて悪魔と呼ぶはずだ。少なくとも昔遭遇した伴天連はそうだった。そもそも真澄は野槌にそう名乗った時点ですでにマリアの名前を捨てている。

「私が折れたら皆折れてしまうわ。でも彼らには教えが必要なのよ。彼等への愛が死より大きいだけのこと」

「うふ、まるで熱心な信者の口だな」

「信仰なんて関係ないと思わない?他人を慈しむのに神様なんて理由はいらないのよ」

 真澄は野槌の理解の及ばぬ言説を微かな声で熱っぽく語る。もう体も動かぬ癖に信仰などない癖に己を曲げない真澄がもどかしい。そして彼らの間に蔓延るそれだけの強い絆が妬ましい。逆さ吊りに鞭打ちに耐えたところで信仰を捨てない切支丹の行く末は名誉ある死だ。真澄が決して折れぬと知れた時が真澄の命日となる。その日は遠くないだろう。

 見回りの役人の行燈が闇夜に揺れる。野槌はいつまでも背に真澄を乗せるわけにもいかず、見つからぬようにそっと体を離してゆく。少しずつ背中が軽くなり、ついに一本の髪の毛さえも滑り落ちた時、真澄は小さく呻いた。苦しいはずなのに野槌が顔を向ければ穏やかな微笑みを作り出す。

「ひいさん、私、あなたの前では正直者だったわ。信じるふりも信じていないふりもしなくてよかった……ふふっ」

 さあ行って、とか細い声で野槌を促す。揺れる行燈の光は今日に限ってまっすぐ真澄のもとに近付いてくる。野槌はうふふと笑った。煮えるような感情を胸に抱いていても笑う以外に示す方法が分からなかった。

「またこようかな」

「駄目よ。もう、駄目」

 下弦の月のもと、別れを告げる真澄は変わらず微笑んでいた。真澄の焚刑が決まったのは次の日の夕暮れのことであった。

 そこから先はぬらりひょんの見た景色がすべてだ。真澄を殺そうとした役人も、真澄が守ろうとした信徒も皆食ってやった。腹が膨れて再び数十年の眠りについてしまわぬよう、ほどほどに食い散らかしてさぞ凄惨たる景色となっていただろう。

 真澄は涙を流しながら、やめてと叫んだ。綺麗事を並べて強情で、信仰もないくせに他人のために生きる女だった。野槌はもう真澄の言葉に耳を貸すことはない。真澄だって野槌の提案をのまなかったのだから、好きにして何が悪い。それに縛られた真澄に火がつけられる間際、真澄は一粒だけ涙を流し、ひいさん、と確かに呟いたのだ。理由なんてそれで十分だった。


***


「ぬらりひょん、何時だって残酷なのは人間だったよ」

 何も言葉を返せない総大将に野槌は身をくねらせてうふふと笑った。

「お前が人の世を荒らすなというのもわかる気がするな。やつらは限度を知らぬ。加減をしらぬ。そのくせ情に厚く、すぐに結託する。極めつけにその意志は死よりも強い」

 茨木が腰の刀に手をかけるのを、総大将は片手で制止した。そのまま額を押さえ、深く息を吐く。七月の十五夜に間に合っていれば、とも思ったが野槌の目覚めに間に合っていたところで何も報われない。

「それで、何処へ行く気だ。あてもないだろう」

「お伊勢参りさ。うふっ、ぬらりひょん、うふふっ俺はもう降りるよ」

 野槌はとぐろを巻くようにして体の向きを変えると再び夜の中をずるずると進み始めた。尺取り虫のような動きで土に跡を残しながら西の方角を目指す。伊勢であれば野槌ほど力が強くとも自死出来るだろう。

「大丈夫、道中は誰も襲わないさ……ああ、腹が減ったな、うふふ」

 総大将は呆然と立ちつくし、野槌の背中が少しづつ小さくなっていくのを眺めていた。茨木は今にも切り捨ててやりたいようでどこか不満そうだ。

「また嘘をついているのでは。生きた女なんて、集落のどこにも居ませんでしたよ」

「……いや、奴の腹の中にいたようだ」

 総大将が呟くと茨木は僅かに目を見開いて、もうほとんど見えない野槌の姿にじっと目を細めた。先ほど丸呑みにしていた握り飯は大方腹の中の女に食わせるためのものだろう。

 人の中には稀に清浄な気を纏うものがいる。真澄もそれだということは一目見れば分かった。女の放つ清らかな気は野槌の腹を焼き、想像を絶するほど苦しいはずだ。伊勢に参るという言葉に嘘偽りはない。

 総大将は茨木を連れてそっとその場を後にした。今宵は朔、野槌の歩みは遅けれど、今から目指せば二人が伊勢へと辿り着くのは丁度望月の頃になるだろう。

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