ぬらりひょん 1

 紅葉に囲まれた滝壺は身を清めるための場所だった。岩に砕けた水の一滴一滴が大気を潤し、呼吸すれば清浄な気が肺を満たした。初夏には青紅葉からさわやかな木漏れ日が落ちて、秋には赤く染まる流水が依姫の肌を滑った。

 この美しい小さな滝壺が好きで好きで、同じくらい嫌いだった。

 神域では一人になることができた。巫女や采女はいつも神域の入口に待機しており、ろくに集中していない禊を邪魔しないようにしていた。一人、滝壺に半身をつければそこに現れるのはただの女だ。歌っても昼寝をしても誰に咎められることもない。神域に入ることを許された依姫を遠巻きに見る者の目線からは羨望や畏怖や崇拝が伺えた。神降ろしとかいう大仰な名は使命や責任以外の意味を持たない。名誉栄誉と持ち上げて、一体誰にとっての名誉だという。唯一自由になれる滝壺は皮肉にも、自我を持つことを許されぬ立場を思い知る場所でもあった。

 なぜこんな力を持ってしまったのかと何度己が身を呪ったか分からない。清らなる力に相応しい高潔な精神など持ち合わせていないことは自分が一番知っていた。きっと清らなる力は誰の身にでも無作為に宿るものなのだろう。それこそお釈迦様が気まぐれに賽を投げて、たまたまぶつかった人間に宿るようなものだ。運悪くぶつかったせいで、凡十凡百のために命を投げうつ立場になるのだから人生は不公平だ。

 何故他人のために巫女などせねばならぬ。身を清めるなどと宣って真冬の冷水に打たれ、それが何になる。胸に浮かんだ不満を口に出さない程度の理性はあった。大人しく身を清め、神楽を舞い、清らの姫であり続けた。

 だから土御門のあの男にあからさまな好意を向けられる羽目になった。視線や態度が愛おしいと喧しく、そのくせそれはただの虚像に向けられていた。幸運にも叢雲というその男に応えられる立場ではなく、よって面倒な返答をする必要もなかった。

 叢雲とは厄介な使命を共有していた。野槌と呼ばれたその災厄を止めるため、修練を重ね知恵を絞った。しかし、長年人間を苦しめた災厄を打倒するすべなどそう容易には浮かばない。

 依姫は野槌の腹に入らねばならなかった。それ以外に災厄を退ける可能性が見出せなかった。大屋敷の人間にそれを期待されていることには気付いていた。寒気がした。このまま清らの姫として現世を去るのだ。虚像のまま、人形のまま。

「そんなに不満なら逃げりゃいいだろう」

 無責任に提案してくる男がいた。憐れなほどか弱く、永久の飢えと渇きに苦しむ惨めな餓鬼だ。清浄な気に耐えられないくせに叢雲の後をついて回って、いつも脂汗を浮かべていた。目立たぬ位置で膝をそろえて座っているだけの男のはずだった。

 ただの背景が突然意志をもって目の前に現れたように感じた。そして同時に、同情と憐憫をもって見下していた自分に愕然とした。

「叢雲は喜んで手を貸すさ」

 不満を表に出したつもりはなく、不意を突かれて息が止まった。柏木は己が何を口にしたのかまるで分かっておらず、首を傾げて依姫をじっと見つめていた。

「ええ、もちろん生きたいですよ」

 胸の内に燃やす憤りを隠しきれず、作り慣れた微笑みが歪んだ。黒い瞳が何もかもを見透かしているようで、誤魔化すことが出来なかった。生きたいに決まっている。逃げ出したいに決まっている。当たり前だ。

「でもそれは他の有象無象も同じでしょう。だから私が命をかけるのです」

 己の知らなかった己が勝手に返答した。口に出すことで意思が固まるようだった。嫉妬に塗れた自分がこのような高潔な志を持っていたなんて初めて知った。胸が震え、顔も歪んだ。災厄に立ち向かわねばならないのは、使命や役目のせいではなかったのだ。

「……なるほどねぇ」

 崖の縁に立たされるような心境には気付くことなく、柏木は得心して頷いた。肯定するでも、否定するでもなくそれだけだった。生ぬるい初夏の風にじとりと汗ばんだ。

 この男が苦手だ。あの厄介な叢雲の従者をしているから、ではない。黒い瞳は透明で、自分に向けられるたび居心地が悪い。巫女ではなく一人の人間に向けられた瞳だ。特別な存在として崇め奉られることをあれほど嫌悪していたのに、いざ自分自身に目を向けられると己はあまりに矮小で、凡庸で、浅ましい。

 叢雲が忙しくなるにつれ、柏木と二人で過ごす時間が増えた。大屋敷の人間が餓鬼に敷居をまたがせる訳もなく、追い出された柏木は北御殿で己の仕事を行いながら叢雲を待っていた。気まずい時間ばかりが積もってゆく。

 柏木が北御殿を訪れる際には食事か菓子を用意した。餓鬼の腹は満たねども食物が喉を通り過ぎる幸福は人と同じであるはずだった。必要ないと叢雲は断ったが、それは柏木と依姫が決めることだ。次いつ現れるかわからない相手に日持ちのする食事を選ぶのは自然なことだった。何と慈悲深い、と周りは依姫を讃えた。しかし食事を受け取った柏木の明るい表情の前では見当違いの称賛など些事であった。

「悪いな。ありがとう」

 その日も柏木は嬉しそうに渡した菓子を懐に入れた。これ以上欺けると思ったら大間違いだ。何度も繰り返した光景に、じとりと目をすがめる。

「……手を付けてないくせに」

「なんだ、知っていたか」

 あっけらかんと柏木は答えた。采女が言うには、せっかくの食事を他の餓鬼に分け与えていたらしい。飢えた卑しい餓鬼の癖に、近寄るだけで清浄な気に当てられて青ざめている癖に、偉ぶりも悪びれもしない。

「貴方一人で食べてしまえばいいでしょう。せっかく独り占めできるのですから」

「……あんたが言うのか」

 くっく、と柏木は笑った。細められた目が柔らかく、胸の内がざわつく。

「腹が減るのは本当につらい。だから分けるんだよ。簡単な話じゃねえか」

 稚児に言い聞かせるような口調で柏木は言う。そこには謙遜も誇りもなく、この男にとってそれは何より自然なことなのだった。

「変わった男」

「あんたほどじゃない」

 柏木という男が何ひとつ理解できない。嫌がらせに汁物を用意してやると、困ったな、と笑いながらその場で飲み干した。なぜか胸がすいて、気分が良かった。それは確かな温度をもって心地よく依姫を満たした。

 そして七月の望月がやってきた。災厄に立ち向かう勇気ならもう得ており、依姫は逃げ出さなかった。災厄を前にして多くの人間が死んだ。目の前で食われていった。いざ依姫の番がまわってきたとき助け出してくれたのは、あやかしに身を堕とした叢雲だった。おぞましい赤い目で月を背負った叢雲の姿を最後に依姫の意識は途切れ、次に目を覚ましたときには北御殿の寝所の中だった。後から聞いた話叢によれば叢雲のおかげで災厄は立ち去ったという。

 最期の夜を、どう間違ったか生き延びた。

 頭の中を占領したのは安堵ではなかった。功績を讃えられた喜びでも、伊勢に仕えることになった気怠さでもなかった。生き延びてからずっと、災厄の夜に耳にした呪のことばかり考えていた。

 命を懸けて繋いだ絆は来世まで続く。土御門の言葉である以上、真偽を疑うべくもない。

 しかし、胸の内の暗がりに反比例するように、己が纏う清浄な気は日に日に強くなっていった。柏木は依姫と向き合うだけで吐きそうな顔をしていた。額に浮かんだ汗を見かねてぬぐうと、触れた肌が焼け爛れた。それは叢雲も同じだった。

 叢雲はあやかしに身を堕とすことで災厄に立ち向かったのだった。土御門の当主としてではなく依姫への思いだけを胸に、間もなく土蜘蛛に体を明け渡すのだ。そして空恐ろしいことに己の判断を全く後悔していなかった。赤い目を幸せそうに細め、依姫が生き延びたことを喜んだ。盲目的な視線はどこか崇拝に似ている。

 忘れもしない八月の十五夜、依姫は柏木と二人で叢雲を待っていた。土蜘蛛との約束が果たされる日だ。そして依姫が伊勢に向かう前夜でもあった。夜空には丸い月が浮いて、星の輝きを打ち消していた。響く鈴虫の音はどこか慎ましやかで好ましい。

「伊勢など行きたくないと言ったらお前は無責任だというでしょうか」

 いつもの調子で膝をそろえて座る柏木に依姫は問いかけた。言葉を選ぶ注意深さはもう必要なかった。三人の将来が交わることはないのだから。

 柏木は片眉をあげてにやっと笑った。

「いいや。らしいと思う」

「……ふっ、ふふっそうですよね」

 依姫は袖で顔を隠すようにして肩を揺らした。はらりと落ちた雫が床に染みを作る。奥歯をかみ、こみ上げる嗚咽を抑えこむ。

 何一つ思い通りに行かぬのなら生まれ落ちた意味などなかった。朽ちるまで偶像として生き、ようやく育った感情すら捨てなければならないのなら。

「依姫」

 こんな時に限って初めて名を呼ぶ。腕を剥がされ無様な顔を晒すことになっても、抵抗できようはずもなかった。己の名前が特別な響きを持つなんて知らなかった。それだけで涙が止まらなくなるのも。

 柏木の武骨な指が慣れない手つきで頬を拭う。触れた先から白煙が上がり肌が爛れたが柏木は躊躇をみせない。こんな弱い餓鬼を伊勢に連れていけるはずもない。

「……叢雲が言っていた呪の話を覚えていますか」

 八方塞がりの状況で、それは唯一の光明だった。ぽつりと話す依姫に柏木は目を見開いて体を引いた。依姫は野槌になぎ倒され、気絶していたはずだった。

「ど、うして今、そんな話を」

 生温い風が北御殿を吹き抜けた。柏木とは対照的に依姫の心はもはや揺らがない。美しい顔に微笑みさえ浮かべることができた。

「どうしてだと思いますか」

「……愚問だったな」

 深く息を吐いた柏木の目線が床を滑った。依姫の側には不自然に文箱が置かれていた。手に持てばからりと無機質な音がする。取り出した抜き身の小刀が鈍い光を放った。

 今生の別れを彩るには余りに美しい夜だった。満ちた月の下では己の意志なのか衝動なのかも見失ってしまった。それ以上の言葉は必要なかった。胸に沈んだ刀の激痛も来世のためと思えばなんでもない。望月を証人として二人は抱き合った。普通の恋人がするように、しかしたったの一度だけ。


***


 しゃん。しゃんしゃん。

 夜空に響く鈴の音に耳を傾ける。鬼火が宿った幾多の鈴が竹に連なって揺れている。幾重に重なる金属質の高音は、神楽鈴に似ていて懐かしい。瞼の裏にかつての北御殿が浮かんだ。それは今でも鮮明で、湿った土の匂いや、目白の羽のささやかな音さえ思い出された。

「紫暁」

 トラツグミの呼び声に目を開けた。入道雲に隠れて頓知気騒ぎを広げていたあやかしたちが一段とはしゃいだ歓声をあげる。彼らの視線は雲の外、夜に浮かぶ町並みに向けられていた。住まう人が変われど、建物が変われど、五目に並んだ姿は何百年も変わらない。百鬼夜行はようやく此度の終着点に辿り着いた。

「紫暁、京だ」

「……応」

 鵺に軽く返事をして立ち上がる。ふらふらと歩き回る方が性にあうのだが、曲がりなりにも総大将の名を冠する以上、毎年百鬼夜行の期間だけはそれらしく骨の長椅子に座るよう気を付けている。お陰で体はさび付いて少し動かすだけで小気味いい音を立てた。

 小鬼や付喪神が楽しそうに跳ねる中、怪訝な表情の茨木が紫暁だけに聞こえるように耳打ちした。

「総大将、朱音がまだ帰っていません」

「よくあることだろうが」

「俺を置いて長く姿を消したことはありませんよ」

 何かがおかしい、と言いたげだ。鵺も猿面を傾げ、最後に見かけたのはいつだったか思い出していた。確かに百鬼夜行の間は紫暁を真似て大人しくしている事が多い。とはいえ几帳の裏に隠れて何処ぞへ遊びに出かけるなんて一度や二度ではない。少し帰りが遅いくらいでとやかく言うことでもないと判断する。

「……放っておけ。どうせそこらの妖怪じゃ敵わんだろう」

「それはまあ、確かに」

 一応納得したのか、茨木は下がった。全盛期の力を失ったところで酒呑童子は酒呑童子だ。身を案じるのも馬鹿らしい。東海道なら迷うべくもなし、すぐに合流するだろうと顔を上げる。

 手前ら、と雲間の妖怪たちに呼びかけた。凛々しくあげた声はよく通り、届いた端から妖怪が背筋を伸ばしてゆく。ふざけた調子の彼らが静まるまで大した時間はかからない。先ほどの頓智気騒ぎはどこへやら、総大将の言葉を待っている。

「ここまでご苦労だった。八咫烏と話をつけるまで一寸待っていてくれ」

 八咫烏から特に問題が起きていないことを確認できれば、今年の百鬼夜行は仕舞いだ。京は百鬼夜行の面々が出向くまでもなく独自の秩序を保っているためもう役目は終わったと言っていい。

「一寸待てばその後はどうなるんだあ?」

 巨大な体の大入道が目玉をぎょろぎょろと動かしながら問いかけた。にたにたと笑い、分厚い舌が唇をなぞる。その横にずらりと並んだ妖怪たちも期待のまなざしを向けている。やれやれ、と総大将は竹が描かれた扇子を広げた。

「分かって言ってんだろ大入道。……どうせすぐ宴だ」

 言い終わる前に、わっと歓声が上がった。椀の付喪神が両足で飛び跳ね、がしゃどくろはかちゃかちゃと音を立てた。ふらついた塗壁に猫又が潰されそうになり濡れ女が大笑いしている。

 紫暁は派手な色羽織を肩にかけ、ふらりと入道雲を離れた。遅れて鵺と茨木の姿も消える。あやかしたちはすでに宴の様相だが、楽しげな声が地上に届くことはない。

 古来より京は魑魅魍魎が密集する土地だ。大祓から何百年もたった今は多くの妖怪が身を隠し、時に神として崇められている。鞍馬の天狗に伏見の狐、例をあげればきりがない。こと京において、百鬼夜行の面々が介入する余地はなかった。穏健派ばかりかというとむしろその逆で、あやかしがごった返しているがために独自の秩序を保っているのだ。代表として話を聞くのは下賀茂の八咫烏だが、彼だって京の頭目というわけではない。小競り合いが絶えない京の中立派代表だというだけだ。

 京の町は夜に沈んでいた。祇園にはいくつも灯が見えるが、ふと四条通に影が差したので娘は空を仰いだ。ぽかりと浮かんだ入道雲が月を隠している。正刻の鐘が九つ鳴り、娘は足を早めた。歩き回っていい時間を過ぎているのは承知の上だ。忘れ物をしたのが上得意の客でなければわざわざ祇園まで届けたりはしなかった。

 先斗町への戻り路、鴨川のせせらぎを眼下に四条大橋を渡る。橋の真ん中で体がぐらりと傾き、娘は欄干に縋りついた。何事かと足元を見れば、右の鼻緒が切れている。己の不運を呪いながら懐を探るも丁度いい布切れが見つからない。先斗町と祇園を往復するだけだと、何も持たずに飛び出してしまった。肩を落とした娘の前にひらりと紫の布切れが差し出される。顔を上げると色羽織の男が同情を浮かべていた。

「こんな夜中についてねえな」

「……ええ、全く」

 娘はありがたく受け取ると手早く下駄を直した。藍の着流しがよく似合う男だった。娘が奉公している料亭では沢山の客を品定めするが、男の素性は一目ではわからなかった。それなりの仕立ての服なので奉公人ではないだろうが、腰に刀を差していない。かといって身分が高い人間なら一人でふらふらと夜中に出歩いているのもおかしいし、商人は大体顔見知りだ。

 娘の視線を気にするでもなく、男は口角をあげた。

「気をつけて帰りな」

「お、おおきに」

 娘は頭を下げた。鼻緒を直すまで待っていてくれたのだろう。どこの誰なのか聞こうともう一度顔をあげると、すでに男の姿は消えていた。四条大橋の真ん中で、姿を隠す場所もなければ見失うはずもない。娘は狐につままれたような顔をしたが、再び顔を出した月明かりのもと、下駄をからころと響かせた。

 娘と入れ替わるようにして四条大橋に二つの影が舞い降りる。肩肌脱ぎで腰に刀を差した茨木は上流の方向を眺め、蛇の尾を揺らす鵺は異形の体を人間に見られぬよう注意深く辺りを伺っている。二人は顔を見合わせ、総大将が消えた四条大橋から彼と同じように飛び降りた。たちまち二つの影も四条大橋から消え失せた。

 鵺と茨木は鴨川の水面にふわりと着地した。不思議と沈まぬ水面の上を歩き出し、先行く総大将の後に続く。先ほどの娘には、茨木や鵺の姿も、ましてこの不可思議な赤の景色も見えていないようだ。

 鴨川の中央に数珠つなぎの赤提灯がずらりと浮かんで小路を作り出していた。四条大橋から上流に向けて続く鬼火は、提灯を色鮮やかに輝かせて眩しいほどだ。歩くたびに揺らぐ水鏡が赤提灯の像を曖昧にする。小路は四条大橋から上流に向けて伸び、下賀茂まで続いていた。三条、二条と架かる橋の桁を抜けて糺の森に入っても辺りを赤く照らしている。

 平安の時分に比べ、随分歩きやすい森になったものだと思う。軽い酩酊を引き起こしていた清らかな力も上手くあやかしの気に紛れ、これならば小鬼であっても歩けるやもしれぬ。さらに糺の森を進んだところで総大将は口元を緩めた。

「いつにもまして派手だな」

「知らへんのか。烏は派手好きやねんで」

 得意気な金切声は欅の古木から降ってきた。声の方向に目をやると、派手な羽音と共に八咫烏が総大将の前に姿を現した。夜に溶けそうな黒い羽を大きく広げ、その体を三つの脚で支えている。八咫烏が一度羽ばたくと、巻き起こした風が一度に鬼火を灯した。先ほどまで鴨川に並んでいた赤提灯が今や糺の森の木々に実っている。

「人間には見えてねえのか」

 辺りを煌々と照らす赤い光の眩しさに思わず紫暁は尋ねた。森に隠れているとはいえそれなりに人が住まう地区だ。鴨川を上る最中にすれ違った人間だってこちらに全く気付いていない様子だった。

「音も聞こえてへんで。ようやっと分かってきたわ。ちょっとずらしたら奴ら分かれへんねん」

 八咫烏は胸をそらし、にやっと笑みを浮かべる。

「見事だ。よく編めたな」

「結局あの男の目隠しの応用みたいになったんは癪やけどな」

 八咫烏には何度か朱音の市女笠の布を見せている。内側にびっしりと描かれた目隠しの術式が上手く参考になったようだ。あとは術の範囲を広げることが出来れば、人目のない妖怪の世を暮らすことができる。

 赤提灯に照らされた糺の森は些か賑やかである。よく聞けば虫の音に羽音が混ざっている。木の枝や赤提灯の上ではいくつもの黒い羽根が隠れて様子を伺っているようだ。

 寸刻もあけず砂利が鳴り、追いついた鵺と茨木が紫暁の横に並んだ。楽しそうに蛇の尾を左右に揺らし鵺の目が細められる。

「久しいな朽羽」

「なんや愁鳴、相変わらずジジイみたいな面やの」

「人のことは言えんだろう」

 鵺は鋭い歯をむき出しにして、くっくと肩を揺らした。旧知の無遠慮が見ていて心地いい。時代は違えど、鵺も八咫烏も長く京を守っていた。

 八咫烏はずらりと一面を見渡した。紫暁、鵺、茨木と並んで、市女笠の奥方の姿がない。

「なんや奥方はおらんのかいな」

「ああ。どっかに出かけたらしい」

「残念やなあ。宴には間に合うたらええんやけど」

 座り込んで大袈裟に嘆いて見せる。心配した烏たちが影から二、三羽八咫烏のもとに駆け寄った。八咫烏はいつも通りふざけているだけなのでころりと起き上がり、話を進める。といっても確認するだけだ。

「京は平和なもんやで」

「まあ……多少の喧嘩は茶飯事だろうな」

 人の秩序を乱さないという不文律さえ守られていれば、口を出すこともない。喧嘩は多いがその分喧嘩に慣れている妖怪たちだ。八咫烏もうんうんと頷いた。

「せやな。でも恵西山が静かやからいつもより平和な感じがするわ」

「ほお」

 紫暁は腕を組み、僅かに眉根を上げた。恵西山といえば狒々と狗神のいがみ合いが名物だ。何時訪れても文字通り犬猿の仲が拝めると、あやかしの間で評判である。もともと狒々の縄張りだった恵西山に人間が松ヶ枝神社を建立し、境内で狗神を生み出したのが事の発端だ。以来何百年も続く対立はおそらく永遠に終わらない。

「あいつらが静かなこともあるんだな」

「いんやそんなん初めてやで、って……ん?」

 自分の言葉に八咫烏は首を傾げた。これまでの経験から考えて、大体の違和感は揉め事につながっている。恵西山絡みとくれば面倒なのは間違いない。顔をしかめた八咫烏に鵺は笑いをかみこらえた。

「……後で様子を見てこよう」

「ほんまか、おおきにな愁鳴」

 羽をばさばさと広げて喜ぶ姿は到底名高い大妖には見えない。互いに重なるところがあるのか、鵺は八咫烏に助力したがるきらいがある。神話の時代から人々を見守り、大祓を経て、それでも歪むことなく明るい八咫烏には敵がいない。あやかし蔓延る京の和平がその証拠だ。紫暁が京の代表として挨拶に赴いても、八咫烏が代表とされている事実への不満は聞いたことがない。

「そろそろ本題へ移ろか」

「本題?」

「何呆けとんのや、宴の話に決まっとるやろ」

 金切声を上げて羽で砂利を叩く。きらりと輝く目に赤提灯が反射していた。百鬼夜行の面々以上に八咫烏は酒好きだ。しかも大人数の賑やかで派手な宴を好む。

「……どいつもこいつも」

 紫暁は苦笑した。宴のために東海道を進んできた訳ではないのだが。

「人数はいつもと変わらんやんな。すまんけど元々用意しとった肴は食べてもうてん……。まあ、まだ時間あるしな」

 ころころと表情を変え、困った口調のわりに楽しそうに段取りしている。羽を膨らませて張り切るので、輪郭が丸く鞠のようだ。

「なんだ今日じゃねえのか」

 此度の百鬼夜行は富士のあたりで一度江戸に引き返したため、京への到着が遅れている。さぞ首を長くしていたであろう八咫烏だが、今回はすぐに宴とはいかないようだ。

「せっかく中秋の名月やからな。月見酒といこうや」

 持ち上げた羽の先に夜空が広がる。上弦よりも膨らんだ月はまだ端が欠けている。

「ああ、いいな」

「せやろ、もっと褒めたってや。都中のあやかしもんを集めたるわ」

 何とも頼もしいことを言って、影に隠れている烏に目くばせをする。と同時に森が揺れ、大小様々な烏が一斉に飛び立った。風に巻きあがった髪で紫暁の視界は乱れ、大きく左右に振れた赤提灯で影が踊る。空高く上がった烏は方々に散り、辺りの妖怪を招待して回った。

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