天邪鬼 1
静かな夜空に、薄く伸びた雲から富士の高嶺が覗いている。月光を山肌に浴びてちらほら名残る雪が殊更淡く光を放ちその広大な姿が見る者を楽しませた。しかし天邪鬼にとってその景色は見飽きたものであり、こう長い間待たされてはつまらない。手ごろな小鬼をひょいと捕まえて、百鬼夜行が歩みを止めた理由を問いただした。
「百目鬼がいなくなったあ?」
「そうじゃそうじゃ。ええい、離せ天邪鬼め」
小さな手足をじたばたと動かして天邪鬼の手から転がりだし、走り去っていく。今宵は何かが足りないと思っていたが、言われてみればたしかに鈴の音が響いていない。暇を持て余した天邪鬼は頭の後ろで手を組み、ふらふらと妖怪たちの間を歩いた。妖怪たちは大らかなもので、だらりと横になっているものもいれば話に花を咲かせるものもいた。
「天邪鬼じゃ」
「遊ばれては敵わん。逃げよ逃げよ、それ」
天邪鬼が歩けば小鬼や付喪神はぎくりと飛び跳ねて蜘蛛の子を散らしたように逃げてゆく。巫女装束の狐たちも顔を逸らして知らんぷりをしている。ははあ、それならば鬼事でもしてやろうかと腕まくりをしたところで、入道雲が大きく揺れ動いた。足元がぐらぐらと揺れるので椀の付喪神がころころと転がり貉にぶつかって進みを止めた。どうやら入道雲はぐるりと弧を描いて東に向かっている。江戸に戻って百目鬼を探すことにしたらしい。
「……付き合っとれんわ」
天邪鬼は顔をしかめて、ひとり百鬼夜行を離れることにした。なぜあのようななよなよした男のために江戸くんだりまで引き返さねばならぬのだ。ここで一度降りて、次に奴らが富士まで戻ってきた時にでも合流すればよい。
夜空に浮かぶ入道雲からふらりと離れたところで、目の前に現れた色羽織に遮られる。それは百鬼夜行の先頭にいるべき総大将その人であった。大妖怪のくせに気配もさせず、気安く片手を上げるので天邪鬼も気が抜けてしまう。
「よう天邪鬼」
「なんじゃ叱りにきたのか」
総大将がふらふら出歩くのは今に始まったことではない。さては咎める気かと身構え、天邪鬼は両の腕をしっかりと組んだ。
「後で合流させてくれ。馬鹿探しなんぞ儂は御免じゃ」
「応、好きにしな。なに、しばらくこれを預かってくれねえか」
総大将はあっさりと天邪鬼を認めて風呂敷を放り投げた。細長いそれは綺麗に弧を描いて、地面に落ちる前に手に収まっている。どうやらその為に追いかけてきたようだ。長さと重さから風呂敷の中身を悟って顔をあげると、総大将の口元がにやりと弧を描いた。
「志津によろしく」
「なっ……」
突然総大将の口から飛び出した名前に言い返す事もできず、手元の風呂敷を落としそうになって慌てた。はは、と笑った総大将はくるりと踵を返して入道雲に戻ってゆく。夜風にたなびく色羽織もご機嫌な鼻歌も憎らしく、天邪鬼の拳が小刻みに震えた。
「あんのお人は……」
百鬼夜行の先頭に立つときは堂々たる佇まいの癖に、二人で話せばその威厳はすぐに消し飛んでしまう。あんまり気さくに笑うので、魑魅魍魎を率いる大妖怪だと忘れてしまいそうでどうにもやりにくい。天邪鬼は風呂敷を広げると、予想通りの中身にがくりと肩を落とした。月光を浴びて光っているのは、茨木が腰に下げている破魔の太刀であった。
***
あの夏は例年より暑かった。方々に伸びた桃の枝葉から青空が覗き、その真ん中に富士が高くそびえていた。背中がじっとりと汗ばむ中、昼下がりの木陰に抜けた風に目を細めていた際、声をかけてきたのが志津だった。
「ちょいとあんた、うちの山で何してんだい」
地面に胡坐をかいて桃の木にもたれていた天邪鬼が顔をあげると、汚い童が一丁前に袴を身に着け腕を組んで鼻息を荒くしていた。生意気そうな面だが稚児のような丸い輪郭で、恐らく帯解きを済ませたばかりだろう。天邪鬼の正体を見抜けないにしても大人に立ち向かう蛮勇は幼さゆえか、じろりと睨んでやったところでまったく怯む様子がない。
「桃を食べておるだけじゃ」
天邪鬼の周りにはもいだばかりの桃がごろごろ転がっていた。ちっとも悪びれる様子もなくその一つにかじりついてやると、童は目を丸くして今度は諭すように話しかけた。
「ここはうちの山、うちの桃だよ」
「儂は知らん。沢山生っておるんじゃからよいじゃろう」
「……」
この子供の家のものだか何だか知らないが、人の世を生きているわけでもなし、知ったこっちゃあない。段をつけた小山の山肌一面に桃が植えられていた。その一つ一つが沢山の実をつけており、どうせ一家族では食べきれぬような量であった。
堂々と桃を齧り続ける天邪鬼に、童はあろうことか顔を輝かせた。一体なんだと身構えれば、手に持っていた棒を振り上げる。小さな体に似合わぬそれは、刃のない総樫の形用薙刀である。
「盗人め、成敗してくれる」
笑顔で言い放つと童は薙刀を構えて向かってきた。正義感なのか遊び相手と思われているのかは分からないが、向こう見ずの阿呆だと言うことはよく分かった。童が威勢よく声を上げて薙刀を払おうとしたところで、足がもつれて盛大に転ぶ。
「な、なんじゃこのちびは……」
釘打ちでもしているかのような大きな音は、童が石に頭をぶつけた音であった。検討違いの方向に飛んでいった薙刀は避けるまでもなく、ただ手元に転がってきた頭をじっと見下ろす。男やら女やら分からない見た目の童は白目を剥いており、声をかけても意識を取り戻しそうにない。ひとまず転がしておいて満足いくまで桃を貪ることにしたものの、立ち去ろうと言う段になって思い留まった。この間抜け面を晒している童に逃げたと流布されるのも癪である。
待てども童はなかなか目を覚まさず西の空が朱く染まりはじめた。桃の枝から覗く富士にも飽きてきたというのに、寝息をたてて幸せそうに涎を垂らしている。痺れを切らして小さな肩を片手で転がすも、むにゃむにゃとゆるく口元が動くだけだ。
「おい……おい、ちび。起きんか」
「はっ」
「まったく近頃の童はどうなっとるんじゃ」
ぶつぶつと向けられた不満もなんのその、童は大口開けて欠伸をすると天邪鬼を見つけていたずらっぽく笑った。
「しし、見守っててくれたのかい?」
「人の話を聞かん童じゃの。成敗はどうしたんじゃ成敗は」
頬に土をつけて笑っており、本気で天邪鬼を捕らえるつもりはなかったと見える。勇んで向かってきたときの勢いは失せ、なぜか天邪鬼と肩をくっつけるようにして座る。ちょいとつつけばころりと転がっていきそうな小さな童は、じっと目を見つめてきた。形用薙刀は危ないので見えないところに撤去済みである。
「でもあんた悪い人じゃなさそうだしねえ」
「……まあ、半分は合うておるの」
何を誤解したのか童はすっかり気を許して、すっくと立ち上がると桃の木に上り始めた。先ほどからずっと突拍子もないことばかりするので目で追いかけてしまう。童は手ごろな桃を見繕うと、枝から飛び降りてまた転んだ。反射的に手が伸びただけなのに、支えた天邪鬼を見てにやにや笑う。
「そ、そもそもちびが一人で何をしに来たんじゃ」
思わず手を離すと勢いのまま童は尻もちをついた。気を悪くするでもなく持ってきた桃を半分天邪鬼に手渡して、自分も残りにかじりつく。桃の果汁がぼたぼた垂れて口の周りを汚し、慎みのかけらもない。
「琴のお稽古から逃げてきたんだよ。こう見えて琴だとか生け花だとかがとんと苦手でねえ」
「見たまんまじゃ」
童の袴の裾は土に塗れて、頭の後ろでまとめた髪の毛もぼさぼさだ。大方、薙刀の稽古の後逃げ出してきたというところか。稽古事を嗜む以上はそれなりの家の子供なのだろうが、気品だとか教養だとか備わっているはずのものが面白いほど見当たらない。
「このままじゃ嫁の貰い手が無くなるってお母様が泣くんだよ」
童は一人前にため息を吐いた。泥だらけで好き放題暴れた癖に嫁入りの心配をしているのが可笑しくて天邪鬼は笑いとばす。
「好きにすればよいじゃろう」
やりたい事だけを楽しんで何が悪いのか天邪鬼にはさっぱり分からない。童はぱちぱちと瞬きして、頬を膨らませた。
「じゃあ、それで嫁にいけなかったら貰ってくれるのかい」
「儂の正体も知らんくせに何を言うやら」
童に手渡された桃をぺろりと食べ上げたところでさっさと帰ろうと立ち上がった。丁度童も起きたことだし、逃げたしたことにはならないだろう。そう思っていたのに、いつの間にか小さな小指が左の小指を捕まえている。
「ふーん、じゃあ、あてたら貰っておくれよ」
指きりげんまん、と歌いだして童の瞳がきらりと輝いた。阿呆に違いないと思っていた童が急に利発そうな笑みを浮かべるので、天邪鬼も面白くなって再び桃の木の根元に腰を落ち着けた。さて、このおかしな童が何をする、と楽しみにしていると指を一本立てて開口一番得意げに言い切った。
「あんた、妖怪だろう」
「…………は」
そのものずばりを言い当てられて、何も返せずしばし固まる。童も自分が言ったくせに天邪鬼の反応を見て目を丸くした。
「あれ、まさか本当にそうなのかい」
悪い人じゃないと言った童に、確かに半分は合っていると返した。しかしまさか妖怪だと言う結論にこうも簡単に辿り着くとは思わなかった。あっさり受け入れた素直さは幼さ故だとして、その上で顔を明るくするのは何故だ。
「ねえ、じゃあこの桃の種を芽生えさせてみておくれよ」
無邪気な様子で一通り噛り終えた桃がずいと差し出される。端にまだ小さな歯型が残っている。天邪鬼は腕を組んで目つきを鋭くした。
「できるか馬鹿者」
「えっ、妖怪っていっても大した事ないんだねえ……」
あからさまにがっかり肩を落として、桃の種を遠くへ放り投げる。二度跳ねて山肌を転がり見えなくなった。何を勘違いしているのか知らないが、絵空事をなんでもかんでも実現出来るわけがない。馬鹿にしおって、と半眼になっていると今度は小さな手のひらで天邪鬼の腕や足を触りはじめた。桃の果汁でべたべたになった手のひらは至極単純に不快である。
「今度は何じゃ」
「他に目が生えてやしないか探してるのさ。お前の正体は百目鬼かもしれないだろう?」
「儂はあんなになよなよしとらんわい」
正体当てはまだ続いていたらしい。遊びとはいえあの百目鬼と一緒くたにされてすぐに言い返してしまった。童は腕を組んで唸ると、あっと閃き手を叩いた。
「ぬらりひょんじゃないかい?人んちに勝手に上がって食べ物を盗んでくって言うじゃないの」
「……怖いもの知らずじゃのう」
総大将は気にしないだろうが、人の子の間でもしやこそどろの様に思われているのだろうか。その後も次々と質問をしてきたが、天邪鬼は段々と返事も適当になって、散々食べた桃にまたも噛りついた。木に上った際に童が選んだ桃で、先程まで腹を満たしていたものよりも格段に美味しい。おそらくこれ迄に出会った中で一番の桃だ。きっと食い意地がはっているせいで美味しい桃の見分けが得意なのだ。
「うちの桃、美味しかったろう」
「……こんなまずい桃は食べたことがない」
顔をしかめて見せたが、童はにんまりと笑顔になって天邪鬼の眉間を指で突いた。
「分かった、あんたの正体は天邪鬼だね」
得意げになって鼻を高くしているのが腹立たしいので、返事はしない。すると身を乗り出して首を傾けた。一つ一つの動作が大きい童だ。
「で、名前はなんていうんだい」
「なんでお前なんぞに教えにゃならんのじゃ」
「じゃあ桃太郎って呼ばせてもらうよ。こんにちは桃太郎。よろしく桃太郎」
あんまりな言い様に天邪鬼は頭を掻きむしった。桃を食べただけで桃太郎と呼ばれては堪らない。
「ええいやめんか、真じゃ真」
「まこと……」
童は宝物でも貰ったかのように大事そうに口にする。呼ぶ者がほとんどいないその名を何度も繰り返されて居心地が悪い。
「あたしは志津」
「それだけうるさくて名前は志津か」
こりゃあいい、と真は笑った。隣では同じくらい志津も笑っている。
「真だって人のこといえないじゃないか」
本心とは裏腹の言葉ばかり吐き出して、名前だけは真という。天邪鬼にあるまじき名前だが、真はそれなりに気に入っている。二人は茜色に染まる桃の木の下で腹を抱えて笑った。
「似合っとらん、寺でも行って名をもろうて来たらどうじゃ」
「あんたも似合ってるよ」
いい名前だね、と続けたが真には聞こえていなかった。あんた”も”とはどういう事だ。言葉尻が引っかかって眉を寄せる。志津は歯をむき出しにして、しし、と笑っていた。
気まぐれに人と話したことはあれど、志津のようなおかしな人間に出会ったのははじめてのことだった。忘れようにも忘れられず、あの間抜け面を思い出してはくすくすと笑った。本当に元気の良い子供だった。
汚い童と別れて、いくつかの季節をふらふらと過ごした。桃の味もすっかり忘れた何度目かの百鬼夜行の夏、東海道を進んでゆくと富士の麓に桃の木が並んでいる。今を盛りと実った果実ははるか上空からでもよく目立ち、口の中がじわりと湿った。
そうだ、あの時の桃は極上の上手さであった。思い出してしまえば、一切ためらうことなく人里におりて、志津の家の山から桃を拝借する。迷わずに辿り着けたということは、案外この記憶力も捨てたものではない。両腕いっぱいの桃を抱えて百鬼夜行の入道雲へ戻るとすぐに、あきれ顔の総大将に見つかった。
「極上の桃じゃ。総大将も食うがよい」
天邪鬼は総大将に一つ、隣にいた茨木に二つ桃を投げた。鵺は甘味をあまり食べないのでなしだ。茨木は桃を手玉にしながら奥方の控える御簾向こうへと消えてゆく。総大将のもとへ送られる献上品は大体似たような運命をたどる。巫女狐に切らせるところだが、総大将はそのまま桃に噛り付いた。
「うん、旬とだけあって美味いな。ありがとよ」
上機嫌でぺろりと食べつくした総大将を、天邪鬼はじっと見つめる。どうにも想定していた反応と異なる。この桃はこれまで出会ってきた中で一番美味い極上の桃であるはずなのに、総大将の反応はあまりにも普通なのである。総大将まで天邪鬼になってしまったのだろうか。抱えていた桃の一つに自分でも噛り付いてみて、天邪鬼は首をひねった。
「おかしいのう」
「なんだ」
みずみずしい桃の果肉が口いっぱいに広がっておいしい。が、それだけだ。
「前に人の子に貰うた桃はもっとおいしかったんじゃ。同じ木から取ってきたんじゃが」
食い意地の張った志津が桃選びの達人だっただけなのだろうか。それとも今年は桃が不作だったのだろうか。味を確かめるように何度も桃を齧る天邪鬼に、総大将はにやりと笑った。なんとも胡散臭い笑みで、天邪鬼は両手を構え警戒を強くする。
「手前、その人間のところに顔出してきな」
「なぜじゃ」
おかしな提案にぽかんと口が開く。総大将からの返事はなく、かわりに首根っこを捕まれて天邪鬼の手足はだらりと垂れ下がった。派手な色羽織から覗いた腕で軽々と持ち上げて、そのまま入道雲の切れ目までも連れていく。雲の切れ目からは当然のことながら下界がのぞいていた。地面ははるか遠く、強い風に髪が煽られ視界が悪い。
「盗んできたんだ。桃の礼ぐらい言わねえとな」
自分だって物を拝借しても礼なんて言わないくせに、と思ったときには胃の腑が返るような浮遊感に襲われていた。首根っこを解放されると同時に髪の隙間から見えた総大将は満足そうに笑っていた。
入道雲から突き落とされた天邪鬼は、空中で体勢を整えて再度富士の麓に降り立った。段になって並んだ桃の木をじっと睨んで前に食べた極上の桃と何が違うのか見出そうとする。今年は天気に恵まれていたし、雑草も刈られてよく手入れされた畑だ。これは志津に聞いてみる他ない。
小山の麓に武家屋敷があり、道端で子供たちが走り回っている。天邪鬼の腰ほどの高さしかない体のどこから力が漲るのか、全力で走り全力で笑っていた。中でも一番元気の良さそうな少年に声をかける。志津より少し大きいくらいの年齢で、名前は吾助と言った。
「ここいらに志津という子供がおるじゃろう。呼んできてくれんか」
疑うことなく天邪鬼の話を聞いていた吾助はうーんと首をひねった。同じ人の子でも志津より随分知恵のありそうな顔だちである。
「この辺で志津っていったら、一人だけなんですけど……」
言い淀むその口元が志津に似ていると気付いたとき、武家屋敷の扉ががらりと開いた。中から現れた袴姿の娘は真を見つけて目が丸くなる。
「あれまあ驚いた、真じゃないの」
「ねーちゃん知り合い?呼んでくれってこの人が」
吾助は真を指すと自分の仕事は終わりとばかりにまた遊びに戻ってゆく。武家屋敷前が子供達の笑い声を取り戻すと、真はようやく口を開いた。
「ちびの志津はこんなに大きかったかの?」
記憶の中で泥だらけだった汚い童はもう居ない。相変わらずの袴姿ではあれどその裾は綺麗なもので、ちょっとした所作にだってそれなりの品のようなものが垣間見えた。ただ、しし、と笑ういたずらっぽい表情だけは何一つ変わらず、真を動揺させた。
「何年たったと思ってんだい。大きくもなるよ馬鹿だねえ」
そう言うと志津は真を武家屋敷に招いた。小さな庭があって、母屋と離れが外廊下で繋がっている。蔵の納戸には今にも壊れそうなぼろぼろの錠しかかかっていなかったが、中には糠と米が並んでいるだけらしい。比較的豊かで治安もよい町なのでそれで問題ないのだという。
志津がひらひらとはためかせている袴は薙刀の稽古の為のものだ。結婚するまでは薙刀を続けて良いのだと笑う彼女は年頃の娘らしく、調子が狂って仕方ない。人の子の歩みの速さには全くもってついていけぬと真は静かに首を振った。
出会ってから今までの時間を埋めるように志津は話し続けた。多少の成長を見せたところでおかしな娘である点はまったく変わりなく、志津はお喋りで、話し上手で真は何度も笑い声を上げた。華を生けてみたと見せてくれた鉢はそれはそれは芸術的で、ひいひいと涙が出るまで笑った。琴もできると弾いてくれた曲は鵺の声にやや似ていて志津の歌声を台無しにしていた。先生方もとうに匙を投げたらしい。
真が笑うのに合わせて志津も大口開けてよく笑った。各地で出会った妖怪の話などは特に興味深々で目を輝かせて続きを促すので真も殊更饒舌になった。百鬼夜行に名を連ね各地を回ってきた甲斐があるというものだ。
志津との時は飛ぶように過ぎた。笑っているうちに鴉が鳴いて日が暮れようとしていた。夕暮れにも気付かぬほど夢中になって話していると、門が開き遊んでいた吾助が帰ってきた。吾助の横には小袖袴の若者が立っており、きょろきょろと視線を彷徨わせ、縁側で寛いでいた志津を見つけてふにゃりと笑った。
「……悪いんだけど、待っててくれるかい」
人のよさそうな若者だというのに何の不満があるのか、志津は小さく息を吐いた。縁側に並んでいた下駄に足を通せばからからと小気味のいい音が響く。志津の足より大きな下駄で歩きにくそうだ。
「……」
よく見れば、真の足元にあったはずの下駄がなくなっている。まさに転がっていたから履いた、という無頓着さに自然と笑いがこみ上げる。
志津を眺めているうちに玄関から上がった吾助が居間を回って縁側に並んだ。背をまっすぐに伸ばした居姿は武家の跡取りらしく、姉弟とは思えぬほどしっかりとしていた。
「まさか”真”さんが本当にいたとは思いませんでした」
いつかの夏の昼下がりに話しただけの相手を志津はずっと覚えていた。どころか、吾助が知っている以上それなりに繰り返し真の話をしたということだ。
「なんじゃ、悪い噂でも立てておったんじゃろう」
くく、と笑えば吾助は真顔で首を振った。
「いえ、体のいい断り文句にしてます」
「……断り文句」
「あんな感じで」
吾助の指す方向には先程の若者と志津が仲睦まじく並んでいた、ように見えたが次の瞬間志津は誠実そうな若者をしっしっと片手で払っていた。
「ねーちゃん、あんなですけど求婚相手が後を絶たないんですよね。で、いつも真さんと結婚するからって言って断ってます」
「……はあ?」
吾助が冗談を言っているようにも見えず、志津は志津で若者を追い払い晴れやかな顔をしている。真を振り返り笑顔で手を振る彼女の足下は、二回りほど大きな下駄で年齢より幼く見えた。ぽかんと口を開ける真に駆け寄って、しし、と笑う。
「なに驚いてんのさ。こう見えて嫁の貰い手はいくらでもいるんだよ」
「そこは驚いとらんわい」
胸を張る志津はそれなりに娘らしく成長していたし、無邪気な笑顔はいつの世も人の心を掴むものだ。断り文句にされているのもよしとしよう。吹聴したところで別に不名誉な話でもなし、真には損がない。
「なんで断るんじゃ、いい男じゃったがのう」
あの若者。きっと誠実で、優しく、かせぎもありそうだし、志津を幸せに出来る。真には良い物件に見えたが、何が不満なのだろうか。志津はみるみるうちに目尻を釣り上げて頬を膨らました。
「ばかっ」
叫び声に頬を打たれたような感覚に陥る。志津は塩でも撒いてやると意気込んで居間の方向へ去っていった。わけも分からず吾助を仰ぐと苦笑いで志津を追いかけ、何をどう話したのか、どうぞ居候していってくれと告げた。
「なんじゃ、どういうことなんじゃ。さっぱり分からん」
頭の中に疑問符ばかりが浮かび、まあいいかと百鬼夜行に戻ろうとするも志津が履いていったせいで下駄がない。吾助もぐいぐいと袖を引いて泊まっていけと勧めるので、結局一晩泊まることにした。
夕飯時になっても志津は部屋に引きこもっていたが、真は家族全員から手厚く歓迎を受けた。志津の母は涙ぐんで、父は真の手をかたく握った。実在していたとは、と繰り返すので少し嫌な予感がした。真の名前は体のいい断り文句として何回活躍してきたのだろう。
夕飯の後に案内された部屋はすでに布団が敷かれてあり、床の間には志津の生けたであろう芸術的な花が飾られていた。眠るつもりはないのだが、だらりと横になり寛いでいる間に吾助が桃を持ってきた。この山で採れた桃で、なんと志津の選んだものだという。すぐさま一口食べると、その味に唸った。
「不思議じゃ」
甘い甘い桃の味、しかし求めていたものではない。心当たりはないのか吾助に聞くが、今年の桃の出来は非常に良いらしい。
前に志津と食べた桃はこの世のものとは思えぬほど美味かった。一口食べるだけで胸いっぱいに幸福感が広がり、ありふれた夕日さえ美しく見えた。独りごちる真を吾助は驚いたようにして見ると頭を抱えた。
「それは本人にいいなよ……」
「何をじゃ」
「どんな風においしい桃だったのか、ですよ」
ぐいぐいと吾助は真の背中を押して志津の部屋の場所を教えた。吾助のかわりに持って行ってくれと渡された皿には、真に持ってきたのと同じ桃の果肉が並んでいる。そういえば総大将にも桃の礼を行って来いと言われていたことを思い出した。
志津の部屋の前に立ち止まった真は、彼女の返事を待たずに襖を開け放した。六畳の上に驚いた顔の志津が袴姿でごろりと転がっており、真を見向きもしない。布団は敷いておらずはだけた裾から膝まで覗いている。
「何へそを曲げておるんじゃ」
子供のような姿を揶揄いながら、桃が乗った皿を差し出し胡坐をかいた。のそのそ起き上がる彼女はまだ不満そうだったが、一口食べてほっと息をつく。
「はぁ……うちの桃は美味しいねえ」
楊枝を使って口元を汚すこともなく、果汁の付いていない手も綺麗なものだ。現金な事に食べて多少機嫌が回復したようで、真にも桃を差し出してきた。一体何個桃を食べればよいのだ。
ぱくり、と口に投げ込めばあまりの美味しさに口を押さえた。胸を満たす熱、ふわふわとした穏やかな幸福感はかつて極上と談じた桃と瓜二つである。この不思議な現象の共通点を見つけて、真は志津を凝視した。
「奇妙な術でも使っとるんじゃあないか。志津と食べる桃だけがまずいようじゃのう」
「……よ、よしとくれよ」
志津がぎくりと身を固まらせる横でもう一切れ桃を口に入れた。志津の頬が赤くなっていることに気付くと、笑い飛ばして頭に手を置く。
「なんじゃあしおらしくしおって」
まるで年頃の娘のようでどうにもらしくない。顔を覗き込めば目をそらし、一歩近寄れば一歩後ずさりする。真は面白くなってにやにやと顔を近づけた。もっと言ってやって志津を言い負かすことができればどれほど胸がすくだろう。
「お前と食べた桃は本当にまずかった。志津が笑えば笑うほどまずくなったんじゃ。味だけでなく幻覚まで見せて、夕日もいつもより赤かったし今も志津がちかちかして見える。ああそうじゃ、きっと誰と一緒に食べたかが問題じゃったんじゃ、な……」
散々したり顔で語ったのちに、真はふと冷静になった。口を開けたまま汗が頬を伝い落ちるのをなすがままにしている。まずい、調子に乗ってついつい言い過ぎた。これではまるで、まるで。
志津が笑みを浮かべると同時に、今度はその頬の赤みが真に映ってゆく。
「分かった分かった。あたしが好きなのは分かったから」
「誰が好きじゃ!」
反射的に投げ返した言葉を、志津はいつものように、しし、と笑って受け止めた。その後、この武家屋敷を住処と定めるのに、時間はかからなかった。
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