付喪神・琵琶

 自分は琵琶であるという意識を持つ頃には、既に人を魅了する妖しの琵琶とされていた。弾いた撥に甘美な震えを、耳に蠱惑の調べを響かせ心を蝕む、と。持ち主は皆寝食を惜しんで琵琶を弾き、飢えて死ぬか病で死んでいった。そういうことが続くと、ついには弾かれなくなる。蔵に置かれ埃をかぶる日々は、なんとも悔しく、虚しいものだった。そんな想いをつのらせていくうち、自由に動けるようにまでなり、蔵とは家人が扉を開け放した隙におさらばし、市に紛れて別の家へ渡った。

 地主の大屋敷、楽士の稽古場、東海道の小旅籠。琵琶がしのび込めば、その撥面に描かれた見事な牡丹と蝶に引き寄せられるように家人が琵琶を手に取った。試しにと一度弾いてしまえばこちらのものだ。引き返せる者はおらず、永遠と弾き続けて死んでいった。そしてまた蔵で埃をかぶる日々がやってくる。同じことの繰り返しだとしても、琵琶は人に弾かれて美しい音を奏でる存在でいたかった。

 何度繰り返した時か、琵琶は藩主の城に忍び込むことに成功した。琵琶を見つけたのはなんとも頭の固い下働きの女で、試しに弾くこともなく琵琶を宝物庫へと連れて行ってしまう。螺鈿の鏡や翡翠の勾玉、大陸の茶器に囲まれて出番を待つも、これがなかなか声がかからない。また次の屋敷に逃げてしまおうかと思っていた矢先、茂吉と出会った。

 それは嵐の夜だった。風が強く、打ち付ける雨に雨戸ががたがたと音を立てていた。夜も更けて城中の人間が寝静まったころ、錠がかかった漆喰の蔵の戸が不穏に揺れ動く。雨風による動きにしては繊細で、家人の動きにしてはあまりに手間取っている。やがて宝物庫を守る強固な錠は静かに落ち、こじ開けられた戸から濡れそぼった男が入ってくる。

 その汚らしい男が茂吉であった。闇に紛れる黒服で身を包み、滴る袖を絞ってぶるりと震えた。茂吉は蔵の中をじろりと見渡し、衣装箪笥の抽斗を引き抜いた上に大風呂敷を広げる。まずは大陸の茶器、次に珊瑚の髪飾りが男の大きな手のひらに捕まれて風呂敷に乗せられた。小さくて値の張るものから順番に、宝物庫の財宝が一つ一つと奪われていく。手早くしかし丁寧な手つきで、大きく膨らんだ風呂敷を三重に括る。茂吉は宝物庫を出る間際、もう一度宝物庫を確認した。

 まっすぐなその視線は、宝物庫の隅に立てかけられた琵琶を射貫いている。嫌な予感にざわめくころには、琵琶は茂吉の腕に抱えられていた。城の衛兵もこの雨風では守衛に身が入らぬと見え、茂吉の凶行に誰一人気付かない。節くれだった手のひらには垢がついており、琵琶は震えあがる。琵琶が大きな屋敷ばかり狙っていたのは、このような汚らしい男に触れられるなど我慢がならなかったからだというのに。せめて土砂降りの雨で良かった。きっと茂吉の手の汚れを多少洗い流してくれたであろう。そう考えたのも柄の間、風呂敷に包まれた琵琶の体もすぐ濡れはじめ、絶望のあまりはじめて意識を失った。やはり雨よりは天気の夜がよかった。

 次に意識を取り戻した時、琵琶は狭い小屋の中にいた。雨音は過ぎ去り、たった四畳半の小屋に一枚の玄関障子から光がさしている。小屋の中に琵琶を連れ去った男の姿はない。かわりに畳の大半は布団に占められていた。朝だというのに床上げもしておらず、上下する薄い掛布の上で蚤が跳ねている。掛布からはみ出した両足は染みだらけ、しかも骨に皮が張り付いたようにやせ細りみすぼらしい。梅雨だというのに風邪でもひいているのか、咳き込むたびに渇いた音が響く。水を飲むために体を起こしたのは、頬のこけた女だった。白髪とやせた体のせいで老婆のように見えるが背筋はしっかりと伸びている。

 痰が絡んだ咳を聞き苦しく感じていると、玄関障子が勢いよく開いて晴れやかな顔の茂吉が飛び込んできた。琵琶や宝物庫の宝を包んでいた大風呂敷を掲げて女に駆け寄る。

「おっかあ、米を買うてきたぞ。干物も味噌もある」

 今夜は馳走だ、と茂吉が目を細めて女に風呂敷を広げて見せた。大陸の茶器も珊瑚の髪飾りも姿は消え去り、調味料や食料に加えて金子の入った麻袋がいくつか並んでいる。雨風が去って早速金に変えたようだ。女は麻袋の一つを手に取ると顔をしかめて茂吉に投げつけた。床に落ちた麻袋から、薬包紙が滑りでる。

「何ですこれは」

「これは……。これは、俺が男前だからって薬売りが安うしてくれた」

 へらへらと笑う茂吉の頬を女は平手でうった。険しい顔でためらいもなく、先ほどまで咳き込んでいたとは思えぬほど力強かった。

「茂吉、薬は要らぬと何度言えばわかるのです。母はもう死んだと思いなさい」

 話を盗み聞くに、茂吉の母は病に侵されて長く、いつ世を去ってもおかしくないと宣告されているらしい。薬は高い。高くても治るのであれば価値があるが、死ぬと分かっている相手に薬を買う必要はない。茂吉の母は至極真っ当であるように思えたが、茂吉は誤魔化すように笑うばかりで反省する様子がない。暖簾に腕押しと諦めたのか、白髪の女は腕を組んだまま息を吐いた。

「いまさら悪事を働くなとは言いませんが、自分よりも弱いものから奪ってはなりませんよ」

「もちろん。ほれ、あの琵琶を見ればわかる」

 茂吉は顔を輝かせて胸を張った。茂吉の母に見つめられ、琵琶はどうにも記憶の底をくすぐられる。どこかで見覚えがあるそれは、魅せられた者が琵琶に向ける目であった。

「おっかあ。昔みたいに琵琶を弾いてくれ」

 自分だけ売られなかったのは、まだ体が湿っているからではなかったようだ。元気よく言い放ち、弦ごと琵琶の頸を鷲掴む茂吉に違和感を覚えた時には遅かった。

「干しておけば日が暮れるまでには渇くだろう」

 茂吉の母は目を丸くしたが制止するよりも先に茂吉は外に飛び出している。玄関障子を抜ければ咳き込む音がすぐに遠くなってしまった。

 まさかこの男、天日に干す気ではあるまいな。嫌な予感は的中し、茂吉は物干し竿に琵琶をひっかけた。しかも落ちないようにとご丁寧に麻紐で括りつけている。もし人間であったなら号泣して茂吉を殴り、逃げ出してやったものを。琵琶は絶望し気付けば再び意識を失っていた。

 次に意識を取り戻したのは夜であったが、琵琶の体はそこまで傷んではいなかった。おそらく茂吉の母がすぐに止めてくれたのだろう。みすぼらしい女だと思っていたがあれでなかなかやるようだ。四畳半の空間は味噌や干物の匂いで満たされ、端が欠けた椀はすでに空になっていた。茂吉と母の二人は豆大福を頬張っており、口の周りに白粉を塗ったかのようだ。

 そわそわと琵琶を見やる茂吉とは対照的に、茂吉の母は琵琶を見ないようにしている。耐えきれなくなった茂吉が何度ねだっても、頑として琵琶を手に取らない。母に冷たくされるたび、茂吉は小さくなって寂しそうに眉を下げた。

「そんなに琵琶の音が聞きたいのなら、お前が撥を持てばよいでしょう。稽古なら付き合いますよ」

 なかなか諦めない茂吉に音を上げて、白髪の女は額に手をあてた。飛び跳ねて喜んだ茂吉が覆手から撥を引き抜き、いそいそと母に近寄る。大福の粉がついた手のひらがどれほど耐えがたくとも琵琶は琵琶でしかなく、試しにと弾いた弦から美しい音が紡がれた。

「……なんだなんだ。俺みたいなのからも綺麗な音がするものだなあ」

「それだけ上等な琵琶なのですから、当たり前です」

 茂吉は自分が弾いたくせに驚いた顔をして、少し戸惑って、そして相好を崩して何度も弦を弾いた。それは曲と呼べる代物ではなかったが、音だけは透き通っていた。母の言葉はやはり正しい。茂吉がどんな人間であろうと、美しい音色を奏でているのは妖しと言われたこの琵琶である。

 白髪の女の骨と皮だけのような指先は、茂吉に音節を教えるたびかすかに動いていた。それが弦を追う動きだと気付いた時、同時にこの女の指はもう思うように動かぬのだと悟った。面白そうな女に出会ったというのに、この琵琶を弾くことなくこの世を去ろうとしているのだ。

 それから茂吉の稽古の日々が始まった。たどたどしい指先で母の教えるとおりに音を追いかける。譜面などあるわけもなく、教えられたままを一生懸命に覚えて弦を弾く。

 茂吉の母が教える曲には琵琶の知っている曲も、知らぬ曲もあった。いくつかは自分で気ままに作った曲だと笑っていた。知らぬ曲を奏でるのは楽しく、この四畳半の汚い家にも慣れてきて、琵琶は逃げ出す機会を失っていた。茂吉の母が世を去るまではみすぼらしい四畳半で我慢してやってもよいという気分になっていた。どうせ茂吉の母の命は長くない。それに、茂吉の琵琶の扱い方も変わってきていた。汚れた手で触ることがなくなって、それどころか布で磨きあげるようになった。撥面に描かれた牡丹や蝶は、綺麗だ綺麗だと言って殊更丁寧に磨いた。

 茂吉が琵琶を覚えるにつれて、母はやせ細っていった。ただでさえ骨と皮だけだった体はさらに小さく軽くなり、頬はこけて、指先の震えも日に日に酷くなった。茂吉がいくら勧めても食事をほとんど取らず、薬も飲まなかった。飲まなければ買い足す必要がないからだ。

 それは嵐の夜だった。茂吉はおらず、一人の母の咳が止まらない。ぜいぜいと苦しそうに呼吸するたび喉が音を立て、体中に汗をかいている。ああ、今夜なのか、と琵琶は悟った。乱れた呼吸も、呻くような弱弱しい声も、雨音にかき消される。

 琵琶から白く滑らかな足がすらりと伸び、静かに立ち上がる。茂吉の母の枕元に寄って、膝を揃えて座した。白髪から覗く母の目は朦朧としており、ここにはない。それでも琵琶の姿を捕らえたのか、目を見開いた。

「……お、前」

「……」

 伸びた指を甘んじて受け止める。愛おしそうに眺めるくらいなら、ただ弾けばよかったのだ。しかし母の指は今日も音を奏でることはなく、撥面の蝶を微かに撫でた。満足そうな笑みを浮かべて、呼吸が失われてゆく。もはや咳込むことはなく、琵琶に伸びた腕は意思を失いだらりと垂れた。

 雨戸ががらりと開いて黒服の茂吉が帰ってきたとき、ぴくりとも動かぬ母の横に琵琶が倒れていた。

「……おっかあ」

 茂吉は大風呂敷を四畳半にそっとおいて、亡骸に寄り添った。雨に打たれた体から落ちた水滴が畳の上に染みをつくった。茂吉は喚くことなく、かといって呆然とすることもなかった。ただ琵琶を捕まえてその弦を弾いた。人を魅了する琵琶の音も今は雨音ばかりが五月蠅く、人に隠れるようにして鳴く。茂吉は頬をぬらして笑っている。

 なんと、なんと不器用な男か。琵琶は茂吉という男を初めて知ったように感じた。垂れた目にも、意外と精悍な顔立ちをしていることにも初めて気が付いた。夢中になって琵琶を弾く茂吉にばれぬように、牡丹の上で蝶の羽が動いた。少なくとも蝶は茂吉を気に入っているようだ。

 母の葬儀を終えると、茂吉は家を出ることに決めた。嵐の夜に持ち帰ったものを売れば当面の日銭を工面することが出来た。風呂敷に包まれて、今度こそ売られるかと思いきや、茂吉は琵琶を連れ歩いた。目的もなく歩く道すがらおもむろに琵琶を弾いては通行人の目を奪った。年若く貴重な働き手である男がふらふらと琵琶ばかり弾いているからであり、その音色が素晴らしいものだったからだ。

 あの白髪の女が死んだら次の屋敷に向かうだったはずが、毎晩毎晩母の形見のようにして抱いて寝るので逃げ出せない。琵琶は母の形見ではないし、茂吉とは浅く短い付き合いだというのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。首を捻るうちに、自分が妖しの琵琶と呼ばれていたことを思い出した。

 そういえば此度の持ち主は今までとは違うように思える。いや、明らかに違う。琵琶を幾度となく弾いているのに、たらふく食べるし、よく寝ている。どれほど時を重ねても一向に死ぬ気配がない。

 街中で琵琶を弾くと、裏返しにした笠に銭が投げ入れられた。銭は日に日に多くなり、茂吉は物を盗まなくなった。小綺麗な着物を手に入れて、宴席に呼ばれるようにもなった。酷い演奏だと罵られたって何も言い返さないのに、安っぽい琵琶だと笑われたら殴りかかって役人に叱られた。やがて茂吉は寝るときに琵琶を抱かなくなったが、琵琶が茂吉のそばを離れることはなかった。

 愛されていると感じる。茂吉は花見にも夕涼みにも月見にも琵琶を連れて行った。しゃんしゃんと、撫でるように弾いては、「綺麗だ」と微笑むのだ。その微笑みは、他の者に対するものとは違っていた。垂れた目をしているのに、琵琶に笑いかけるときだけその目尻が跳ね上がる。その皺ひとつに大きな幸福が詰まっていて、目にするたびに贈り物を貰った気分だった。

 満開の桜が風に舞い上がるころ、茂吉は琵琶を瑠璃と名付けた。あまりに大切そうに呼ぶので奇人変人と遠巻きにされていたが全く気にせず「こいつがいないと生きていけない」と笑った。茂吉との時間は心地よいものだった。茂吉の音は奏でるたびにより深く柔らかいものに変化していた。自分でも奏でたことのないその音色に、瑠璃はいつのまにか、満たされていることに気付いた。

 茂吉の評判は藩を渡り、江戸の楽部の元まで届いた。稀代の楽師を一目見ようとやってきた楽部の若い衆は、演奏を聞くなり茂吉の手を取った。

「お前さん、俺と江戸の楽部に行かねえか」

「……俺が、大江戸の楽部に」

 田舎で腐らせるにはあまりに惜しい音色だと、若い衆は絶賛する。茂吉はあまりぴんときていないようであったが、この名誉な申し出を二つ返事で引き受けた。

 江戸への道すがら、楽部の何たるかも知らぬ茂吉に若い衆は仰天した。楽師でありながらその最高峰の実力者の集う楽部も知らぬなどありえない。つまりどれほど名誉なことか知らずに申し出を受けたのである。そもそも琵琶に触れたのが最近のことだと知ると、若い衆はもう一度仰天した。

「俺の音色がいいっていうなら、それは瑠璃のおかげだ」

 誇らしげに瑠璃を撫でると、垂れた目の端が跳ね上がる。楽部にだって己の楽器を相棒と大事にする楽師は多くいるが、茂吉の微笑みは相棒に向けるにしてはあまりにも柔らかい。

「……女房みたいだ」

 楽部の若い衆は思わずぽつりと呟いた。

「ああ。こいつがいないと生きていけない」

 愛おしそうに瑠璃を撫でる茂吉に若い衆の身が強張る。天才と呼ばれる楽師の中には変わった人間も多い。この男も奇人変人の類なのだと己を納得させて、渇いた笑いを浮かべた。

 江戸に並んだ色とりどりの暖簾は茂吉の目を奪った。あちこちで店の者が通行人を呼び込んでおり、城下町に笑顔が溢れていた。山王祭に向けて町全体がどこか浮かれた様子である。湿った夏の風が吹き抜けるので、茂吉は琵琶を庇うように抱えて歩いた。

 若い衆に案内された楽部は城にほど近い坂道の上にある。何人もの楽師が生活をしているという長屋も合わせるとあの四畳半からは想像できないほど広く茂吉はあちこちに視線を散らした。稽古場にも多くの楽師が集っていた。鼓、龍笛、笙など懐かしい楽器を見つけて瑠璃も楽部での生活が楽しみになった。合奏など、茂吉はもちろんのこと瑠璃だって長らくしていない。

 正式に楽部に加わり稽古を始めれば、茂吉の演奏は他の楽師の目を集めた。茂吉は譜面が読めなかったが若い衆に教えてもらいすぐに馴染むようになった。一人で奏でるときとはまた違った難しさがあり、けれど皆で厚みある音に仕上げる楽しさもあった。茂吉はさらにどっぷりと琵琶の世界に潜っていった。

「上州の山寺での演奏には参加できそうだな。瑠璃も喜んでるんじゃないか」

 若い衆はにこにこと笑って茂吉を受け入れた。茂吉に出会ってすぐに琵琶を瑠璃と呼んでくれた男だった。

 その時、がらりと稽古場の障子があいて、下総で演奏を終えた一団が返ってきた。楽部でも一番の実力者たちが集う一団である。歓迎と土産話で話に花が咲き、稽古は一時中断となった。一団の中に、琵琶を抱えた盲目の僧正の姿があった。

「あれは」

「東然さまだ。上州の山寺の方だが、時々参加してくださっている」

 楽を愛している方なんだ、と若い衆は付け加えた。東然は盲目で背も曲がっていたが年を感じさせぬ覇気があり、凛々しい横顔は琵琶を弾いていなければ僧正のものである。じっと見つめていると、東然の横の男が耳打ちをして楽部に新しく増えた琵琶奏者を紹介した。東然は介助を受けることなく、杖で探りながら茂吉の前で足を止めた。

「茂吉と申します」

「儂らは楽師、紹介すべくは名ではなかろう」

 床まで頭を下げた茂吉に、深い声がふってくる。顔をあげれば東然は、にやりと笑って座していた。瑠璃にそっと手が添えられる。弦を弾きだした茂吉はなんとも楽しそうであった。他の者の視線も集まりはじめ、一部の楽師が笛や琴の音色を重ねる。さてもう一曲、と休むことなく撥を握った時だった。

「その琵琶……」

 がたりと音を立てて東然僧正が立ち上がり、稽古場はしんと静まり返った。何も映さぬはずの両の眼は確かに瑠璃を睨んでいる。戸惑う若い衆も意に介さず、まっすぐと。

「茂吉、儂は見えぬ分よく見える。かような話を知らぬか」

 東然が語ったのは妖しの琵琶の話であった。人を惑わし殺める恐ろしい琵琶の話であった。深みのある声ではっきりと話すので思わず稽古場中の人間が聞き入ってしまう。

「では東然さまは瑠璃が妖しの琵琶だとおっしゃるのですか」

「名まで与えたか……」

 東然は眉を寄せて首を振った。

「お前は魅せられているだけだ」

「それの何処が悪い」

 むっと言い返す茂吉に言い返すものはいなかった。皆の視線が、表情が、瑠璃を妖しの琵琶だと主張している。この楽部において東然はよほど信頼の厚い楽師なのだろう。茂吉は稽古場をそっと離れるしかなかった。好奇の視線に晒されぬように瑠璃をかばい、ただただ離れるしかなかった。

 それからの茂吉は稽古場でも少し居心地が悪そうだった。瑠璃に向ける目は変わらず、いや、殊更愛おしそうであったが、果たして満たされているのだろうか。誰に指をさされようと、瑠璃は茂吉がいればよい。しかし茂吉は妖しの琵琶の話題が出ると押し黙ってしまうのだ。

 山王祭の夜、茂吉が早々に寝静まってから瑠璃は楽部を抜け出して百鬼夜行に加わった。茂吉の側を離れるつもりはないが、折角江戸に移動したのだから今夜だけでも顔を出そうという気になった。雲の上のどんちゃん騒ぎは何年経っても相変わらず賑やかで瑠璃も人目を気にすることなくあちこちを歩き回る。乾杯も前に一つ目鬼がつぶれ、横で女郎蜘蛛が手をたたいて笑っている。蝦蟇は猫又と喧嘩してひっかき傷をつくり、ぬり壁の上を小鬼が走る。

「おや、久方ぶりに見かけましたね」

 よく通る美しい声が瑠璃を呼び止める。振り返れば市女笠の女が膝を揃えて座っていた。厚い布に隠れてその顔はほとんど見えないが、その下には絶世の美女がいるのだと瑠璃は知っている。瑠璃を弾く間だけ、その美しい顔を拝見することができるからだ。

「折角ですから私に弾かせてくれませんか」

「……」

 なぜだろうか。あんなにも嬉しかったはずのその申し出を素直に喜べない自分がいる。正体不明の感情に戸惑い、市女笠の女の側に駆け寄ることが出来ない。躊躇いがちに数歩足踏みするだけだ。

「まあ、どうしたのです」

 市女笠の女はいつまでも立ち尽くしている瑠璃に首を傾げた。咎めるわけでもなく、あっさりと諦めて次は琴に呼びかけた。琴は嬉しそうに駆け寄って奥方に爪弾かれる名誉を得ている。瑠璃に出会って、あるいは母を失って、茂吉という男は変わったのだと思い込んでいた。変わってしまったのは茂吉だけではなかったのだ。

 宴もたけなわ、総大将が口にした言葉に瑠璃はぎくりと立ち止まった。満月の夜に心中した二人は来世で結ばれるそうだ。夜が明けて妖怪たちが眠りにつく合間も、寝ている茂吉の側にもどる間も、総大将の言葉を反芻する。

 満たされていた心に欲が生まれた。茂吉の微笑みは変わらず格別であるのに、それを最大の幸せだと感じられなくなった。茂吉が弦を弾くたび遣る瀬無く、笑いかけられるたびどうしようもなくなっていった。瑠璃には茂吉を励ますことも、支えることも、一片の幸せを与えることも出来ない。

 一度、ただの一度でも結ばれる様を夢見てしまえば、今の世に留まれるはずはない。どうすればその夢を叶えることができるのか、そればかりを考えてしまう。何せ瑠璃の前で何人もの人間が死んだというのに、茂吉はよく食べよく眠り一向に死なないのだ。

「最近音に迷いがある気がする」 

 稽古場で若い衆が腕を組んでうなった。茂吉は演奏をぴたりと止めて首を傾げる。

「……俺はむしろ明確に弾いているんだがなあ」

「ああ、だから不思議なんだ。このままじゃ東然さまに叱られる」

 若い衆はぶるりと震えるふりをして見せた。茂吉が予定している上州の演奏は、東然僧正の山寺で行われる。東然はあれからも瑠璃と離れるように進めたが、決して瑠璃を奪いあげることはなかった。しかしそれは茂吉の演奏が素晴らしかったからであって、情けない演奏を披露しようものなら態度が変わるかもしれない。

「他の琵琶で気分転換してみるのはどうだ」

「はは」

 若い衆の提案を茂吉は笑い飛ばした。冗談と受け取って他の琵琶を頭の片隅にもおかないことが嬉しかった。ふと、いつかの茂吉の言葉が頭をよぎった。この若い衆と共に江戸に向かう道すがら、瑠璃がいなければ生きていけないと言ってくれた。

 ならば、瑠璃が儚く散れば、後を追ってくれるのではあるまいか。

 茂吉が弾いた音に若い衆と茂吉は顔を見合わせた。この一瞬で瑠璃の音に格段の色がついた。

 琵琶としての生があとひと月で終わると思えば力を絞れるというもので、瑠璃が心を固めるほど音色は迷いを失い磨き上げられていった。自分に奏でられる最も美しい音色を、と尽くす二人の演奏は見る者をぞくりと震わせるほど荘厳で真に迫るものであった。

 今か今かと月が膨らむのを待つ。何百年過ごしても、これほど長いひと月はなかった。茂吉は無事に山寺での演奏の一団に加えられて瑠璃とともに上州に向かった。阿津山のふもとの鳥居をくぐり境内に入ると長い山道がある。山道をあるけばたびたび鳥居が現れ、目指す山寺はほとんど頂上に建っていた。

「おお、よく来てくれた。明日はよろしく頼む」

 中から現れた東然僧正は一団を歓迎し、瑠璃に気付いて顔を曇らせた。数珠を手にあわせて静かに拝み、何事もなかったかのように明日の演奏に向けて場所や段取りを案内する。変わらず杖をついていたが盲目とは思えぬほど自在に歩いている。楽部の一団も毎年恒例の演奏らしく慣れたもので、荷ほどきを早々に済ませ舞台へむかった。

 山寺には崖にせり出すように作られた舞台があった。崖の下には小さなお堂があるのみで、お堂から舞台を見上げると首が痛くなるような高い崖である。神への舞や楽の奉納を行うための舞台であり、できるたけ天上に近い場所にと崖の上に建てられたのだそうだ。江戸からの長旅ということもあり、皆が楽器を用意するころにはもう日が傾いていた。真っ赤な毛氈の上で数曲音を確かめたら今日は仕舞いと布をかけ本堂に帰ってゆく。

 茂吉は一人舞台に残り、愛おしそうに瑠璃を弾いていた。日が傾いたとて今日は満月。夕暮れの風が心地よく、いつまでも奏でることができる。

「瑠璃、見事な夕日だなあ」

 茂吉が垂れた目を細めると、目尻が跳ね上がって瑠璃をどきりとさせた。

「近頃のお前は本当に綺麗だ」

 一音一音を大切に弾く。黄昏の舞台に二人きり、かつての盗人の姿は影もない。瑠璃を綺麗だと言いながらどこか気鬱に曲を奏でる。茂吉の母に琵琶を教わった時分によく弾いていた曲だ。

「あの頃の音はもう出ぬのだな……」

 ぽつりと呟く茂吉の言葉を上手く噛み砕けない。これだけ美しい音色になぜ寂しげな顔をする。ぽたりと一粒落ちた涙を撥面の蝶が受け止めた。夕餉の時間が近づいても茂吉は瑠璃を弾き続けた。日がどっぷりと暮れて、欠けたところのないまん丸の月が上るころ、瑠璃を抱えたまま気絶するように浅い眠りにつく。

 夜は本堂で雑魚寝だと聞いている。しばらくすれば楽部の若い衆か誰かが茂吉を呼び起こすだろう。希望があるとすれば今しかない。瑠璃は足をのばし、茂吉の腕を逃れて舞台の欄干に寄った。絶壁を駆け上る風が瑠璃の体を撫でて消える。

 瑠璃は舞台の上で眠っている茂吉を一度だけ振り返り、舞台から身を投げた。

 地に落ちるまでの一瞬、切に願った。どうか来世では結ばれるように、茂吉の側でその幸せを叶えてやれるように、と。


***


 若い衆に肩をたたかれて寝ぼけ眼で辺りを探ると、瑠璃の姿がどこにもない。茂吉は酷く動揺し、瑠璃を探した。他の楽師も異変に気付き、茂吉に協力して寺中を探してくれたがなかなか見つからない。もしや寝ている隙に舞台から落ちてしまったのではと、崖の下のお堂まで若い衆と様子を伺いに行くと、東然がお堂に手をあわせているところだった。東然に事情を話せば、もしやと眉を曇らせる。

「半刻ほど前、怪しげな影が西に向かうのを見たのだが、盗人だったのかも知れぬな」

 東然が言い終わるよりも前に、茂吉は駆け出していた。夜中で視界が悪くとも構っていられない。誰とも知れぬものに瑠璃を攫われるなど我慢がならなかった。

 あっという間に小さくなる茂吉を見て、若い衆はちらりと東然に目をやった。盲目の東然が不審な影を見た、なんて。

「妖しの琵琶から逃れるにはいい機会だ」

 呟く東然の足元では、砂利の下から木片が覗いている。牡丹の上で安らぐ蝶の羽が僅かに動いた気がしたが、東然の草鞋に踏まれてすぐに分からなくなった。

 夜が明けても、茂吉は瑠璃を探し続けた。一日経っても、一月経っても見つからず、ついには楽部を離れて各地をさまよった。

 何度季節を繰り返したところで、花見にも夕涼みにも月見にも瑠璃の姿はない。稀代の琵琶の名手はその後どれほど勧められても、その生涯において他の琵琶を手に取ることはなかったという。

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