茨木童子 3

 来る重陽にむけて宣耀殿は護符や結界による警備の準備が進められた。帝は朱音を守るべく武官や陰陽師を多めに配置しようとしていたが、犯人が明らかになっていない現状では裏目に出る可能性が高く、謹んで辞退した。

 日に日に月が膨らんでゆく。重陽が終われば次の満月は月蝕となるだろうと言われており、春日が不気味がっていた。京を去らなかった青葉に晴明は片眉を上げたが何も言及しない。

 来る重陽の夜、宣耀殿の屋根の上で青葉はじっと座って待った。宣耀殿の中には朱音だけが残され、何人も立ち入ることは出来ない。晴明は緻密な結界で宣耀殿を取り囲み、朱音を外界と断絶した。宣耀殿の周りは通常通りの人数で警護されていた。青葉が出ていったところで曲者として捕まるだけである。

 子の刻もすぎ、丑の刻となれば欠伸をかみ殺すものが現れ、警備の気も緩んでくる。何しろ人柱をたてて結界を作るなどという荒唐無稽な話には証拠がない。行方不明者はいるものの、遺体が見つかったわけではないのだ。これは晴明に一杯食わされたのではないかと疑いながら、内舎人たちは警備にあたっている。

 春日は手を動かさないと落ち着かないようで一睡もできずにうろうろと宣耀殿の辺りを行ったり来たりしていた。雲一つない夜空に浮かんだ月が今日ばかりは不気味である。寅の刻になれば春日が気を利かせて温かいお茶と麩の浮かんだすまし汁を朱音のもとに運び込んだ。

 ほんの僅か、ほんの一瞬出来た簾の隙間に、小さな蜘蛛が滑り込む。すかさず、晴明はぴしゃりと命じた。

「春日、中をあらためよ」

「は、はい、ただいま」

 慌てて部屋の中を覗き込むと、春日は悲鳴を上げて腰を抜かした。近くに待機していた内舎人が部屋に飛び込むが、同じく悲鳴があがった。青葉は腰の太刀に手をかけてすぐさま切り捨てられるように構える。辺りは騒然として、皆の視線は宣耀殿の簾に集められた。

 ゆらりと簾から現れたのは、舞楽に使われる陵王の面で顔を隠した大男だった。肩に担いだ朱音はぐったりと意識をうしなっている。晴明は素早く印を結んだが、大男は次々に跳ね返し一向に捕まらない。大男は太刀打ちできない晴明に大笑いすると、朱音を連れたまま一息に屋敷を飛び越えた。

 建礼門の方角に逃げる大男を晴明が追いかける。

「お、追えっ、追えー!」

 遅れて内舎人たちが駆け出し、内裏は大騒ぎになった。宣耀殿には気絶した春日の体が横たわる。武官や陰陽師達の声が遠くに聞こえた。声の方角から大男が何処にいるのか大体把握することができる。

 青葉は辺りに誰もいなくなると、宣耀殿の屋根の上からひらりと舞い降りた。相手が陰陽道に通じている以上、何があっても決して宣耀殿を離れるな、と晴明に固く言いつけられていた。晴明が存分に大男を追いかけることができるのは、青葉が残っているからだ。

 静かになった宣耀殿の簾を蹴り上げて侵入する。青葉には確信があった。春日と共に宣耀殿に踏み入れた内舎人がまだ出てきていない。

「なんだ、勘のいいのが残っておったか」

 内舎人は口を醜く歪めて笑った。朱音の口元は無骨な手のひらで塞がれており、体には護符のようなものが巻きつけられて身動きがとれぬようだ。よく見ればそれは護符ではない。何度も目にした、差出人不明の呪詛だ。七夕以降、開封せずに山にしていた文がばらばらになって床に広がっている。

「文は都度確認せねばなあ」

 しゃがれた低い声で笑うと同時に目鼻が形をかえ、道満法師は朱音を引き寄せた。

 頭に血が上り青葉は踏み切る。鋭い爪で喉笛を裂いてやろうとふりかぶったが、道満に届く前にはじかれて吹き飛んだ。道満は愉快そうに笑う。

「どうだ、これで儂は晴明に勝った、勝ったぞ」

 ぎょろりとした目で歯をむき出しにしている道満は、まるで妖怪のようだ。半狂乱に笑う道満を睨みつけた朱音は、青葉に向かってこくりと頷いた。

 青葉は腰の太刀を抜く。月光を反射して輝く刃に道満は笑いがこみ上げた。

「馬鹿め、妖怪風情の刃がこの道満に届くものか」

「……」

 かける言葉も惜しく、青葉は再度飛び出した。人の目で追えぬような俊足である。道満はよほど術に自信があるのか、青葉の姿を見失ってもなお堂々と佇んでいる。

「驕りすぎだ」

 青葉は後ろから横薙ぎに一閃させ、道満の体から吹き出す返り血を浴びた。力が緩んだ道満の腕から逃げ出した朱音は、青葉に駆け寄る。その太刀で、朱音を縛る呪詛まで切り捨てると、道満はようやく何が起きたかを理解した。

「なぜ妖怪が破魔の太刀を持っている……」

 血振りをして鞘に納めた太刀は、晴明より譲りうけたものだった。その刃の鋭さはかつて身をもって体験している。

「青葉、殺してはなりませんよ」

 道満を縛り上げる青葉に朱音はきつく言いつけた。正直なところ捕まえるだけでは不満だったが、重陽もすぎていつも通りの朱音を見ると、ぐっとこらえることができた。

「……終わったのですね」

 朱音が微笑むと、遠くで鶏の声が聞こえた。朝が近い。二人だけの宣耀殿に朝日が差し込もうとしていた。

 夜が明けると、皆が晴れ晴れしい気持ちで朝を迎えた。晴明が追っていた陵王の面の男と偽物の朱音は、建礼門をぬけて朝堂院の方角へ逃げ、応天門のあたりで姿を消したらしい。直後に砂利の上を大量の蜘蛛が逃げ回ったのだそうで、どうやらそれも道満の式だったと晴明が教えてくれた。

 青葉は公の存在ではない。朱音と晴明しか知らぬ、内裏に住みついた妖怪だ。見事道満を打倒せしめたのは青葉だが、その功績は全て晴明に譲った。つまり、晴明はあえて敵の罠に乗り、おびき出した道満を式が倒したのだ、と。事実も似たようなものなので、何の不満もない。

 春日は数日寝込んだものの、帝は大層喜んで晴明や朱音を呼んで秋の酒宴を行うこととなった。月見酒にと選ばれたのは満月の夜。月蝕の夜である。青葉は参加することはないが、楽しそうな人間の宴を清涼殿の屋根の上からこっそりと眺めさせてもらうことにする。

 紫宸殿に豪華な馳走と酒が並ぶ。帝は上機嫌で酒を楽しみ、南の庭では舞楽や雅楽が披露される。弘徽殿や登華殿からも女御や皇后が参加して、雅やかな宴となった。晴明は狐目を細めて涼しい顔をしているので、楽しんでいるのやら分からない。帝の厚情で家臣たちにまで菊を浮かべた酒がふるまわれ、朱音も今夜ばかりはと一口飲んだ。一口、もう一口。

 月華門から右近の橘へ進み出る影がある。男に気付いた武官が叫び、南の庭がどよめいた。

「帝のお耳に入れたいことがございます」

 それは、捕らえられているはずの道満法師である。虜囚の汚い服を着せられて、方々に伸びた髭が醜い。血走った目の道満を、晴明は一笑したが内舎人が摘まみだす前に帝の手が制した。道満が女二宮を指さして罵ったからだ。

「そこな女二宮は帝を謀った大悪党にございます。皆が騙されているのです」

 まずい。青葉は直感した。しかし青葉が出ていったところで逆効果にしかならない。

「どうか、どうか私の話をお聞きください。この身には一片の容赦も願いませぬ。ただお聞きいただきたいのです」

 道満は地面に頭をこすりつけながら懇願した。罪人が帝に奏上するなど、本来あり得ぬことである。しかもめでたい秋の宴席で女二宮を罵るのだから相応の覚悟がなければできない。帝は不快そうに眉を寄せていたが、惨めな男の姿に少しだけならばと許可を与えた。

「構わぬ。申せ」

「それでは申し上げます。私がそれに気づいたのは、女二宮の産婆に憑いた悪霊を退散せしめた時でした。夢うつつの中で産婆は確かに言うたのです。ややこは死んだと思うたのに、と」

 命じられるまでもなく楽は静まり返り、囁き声の一つも聞こえない。血走った目の男を見て御簾の向こうの女たちは恐怖に震えていたが、同時に好奇の目を向けてもいた。女二宮は相も変わらず、一口、菊花の酒を口にする。

「帝、帝、お聞きください。女二宮は死産だったのです。あの女は十七年もの間朝廷を欺いておったのです」

 突如、女二宮が咳き込んだ。口に含んだ酒を吐き出し、苦しげに呻くその声は獣のように低い。驚愕した女たちのざわめきが庭にまで波及する。

「ではここにいる女二宮は誰だというのだ!申してみよ!」

 今上帝は四人の妻を持ち、彼女たちをできるだけ平等に扱ってきた。皇子、皇女に対してもできるだけ足を運び、忙しい中でも愛情を注いできた。女二宮もその一人である。歩き出した時も、読み書きができるようになった時も、成長を喜んで共に季節を過ごしてきた。

「帝、十七年です。忘れてしまわれましたか」

 道満はもったいつけた調子でにやりと笑った。

「京を震撼させた酒呑童子が消えたのもその頃でございます」

「女二宮が妖怪だというのか!」

「すぐ明らかに。今宵配られた酒は人間にはただの酒ですが、妖怪には毒でございます」

 今や紫宸殿の注目は御簾向こうの女二宮に集められた。屈んだまま呻き声をあげていた女二宮がゆらりと立ち上がると、女たちの間で悲鳴が上がった。逃げまどう女たちによって床に落ちてしまった御簾が女二宮の姿を月下に浮き彫りにする。

 女二宮の額からは二つの大きな角が生えていた。

 女二宮として生きようと決めたのは、人と生きる鵺がうらやましくなったからだ。そう語ったのは何時のことだったか。うらやましいと思っていたその矢先、女二宮の死産に立ち会ったという。当時都中の人間から恐れられていた酒呑童子は人と生きたかった。だから青葉にも同じ景色を見せてくれた。

「帝、中務の大輔や白河の大君を攫ったのは酒呑童子です。この道満はいち早く気付き、退治せしめんとしたのですが、晴明と酒呑童子に阻まれたのでございます」

「……馬鹿なことを」

 道満が何をしようとしているのかを察して、晴明は顔を曇らせた。晴明が女二宮と懇意にしていたことは周知の事実である。朱音は口の端から涎を垂らし、時折咳き込んで酒を吐き出している。明らかに人ではない朱音の姿をみて、帝は青ざめていた。

「晴明、申し開きをせよ」

「申し開きも何も、私は人に害をなす妖怪は何時だって祓ってきましたよ」

 晴明の言葉を道満は笑った。

「では宮中のこの化け物も祓えるであろうな」

「そうだな。晴明、退治してみせよ」

 ついに帝の勅命が晴明に下る。青葉は春先の晴明とのやり取りを思い出していた。陰陽師として出会えば切る、と。青葉が譲り受けた破魔の太刀は影打であり、真打は帝が所有している。ご丁寧に真打を手渡し、晴明を試している。

 その時、恐怖に震えた内舎人が武官の命令に先んじて矢を放った。矢は見事朱音の肩を貫いたが、朱音は倒れない。汚れた口の端を袖でふき取り、自ら矢を引き抜く。血が紫宸殿に滴った。

 朱音は、南の庭に響き渡る高笑いをあげた。

「愚かな人間どもめ、今更気付くとは。晴明、お前が居なければ皆々殺して食ってやったものを」

 高らかに声をあげる姿に、青葉はおろか、あの晴明も面食らっている。そして青葉は気が付いた。朱音は諦めたのだ。そして晴明に切り伏せよと訴えているのだ。晴明の額にじわりと汗が浮かんだ。

 晴明は躊躇いがちに抜いた刃を、朱音に触れぬように振った。何とか威嚇して逃がすことはできぬかと頭を巡らせるもいい策がない。刀を振るうたび、月光に太刀筋が煌めく。ひらひらとかわす朱音の姿は舞のようであった。

 援護にいられた矢が舞を遮り背中を討ちぬいた。ふらりと倒れこんだところを破魔の太刀が横一文字に切り裂く。いや、あの程度の矢でふらつくはずがない。朱音は自ら晴明の太刀に飛び込んだのだ。

 朱音の顔に右から左の耳に向けて大きな刀傷が走る。目を見開く晴明の前で、朱音の口元は笑っていた。覚悟を決めた晴明は、大きく振りかぶり、朱音の体を袈裟に切った。

 噴き出した血が晴明の直衣を赤く染める。紫宸殿の欄干から傾いた朱音の体が滑り落ちた。青葉は、もう我慢の限界だった。

 地面に落ちてしまう前に朱音を腕に抱え込む。突如現れた侵入者に周囲がざわめいた。

「帝、ご覧ください。茨木童子が恨めしそうにこちらを睨んでおります。やはり妖怪は害でしかないのです。どうか、皆殺しの許可を!」

 我が意を得たりと喜ぶ道満は鬼気迫る表情で帝に進言する。常であれば帝は一笑に付したかもしれない。しかし帝は女二宮を心から愛していた。裏切られ、絶望の最中であった。

「……許す」

 ぽつりと帝は呟いた。

「帝」

「口を閉じよ晴明。道満が正しい。人の世に妖怪は要らぬ」

 青葉はぐったりとしている朱音を抱える腕に力を込めた。朝廷は妖怪との決別を決めた。手負いの朱音を抱えて逃げ出さなければならない。

 言葉も出せない晴明に、道満は大口を開けて笑った。

「そうだ晴明。春日はどこへいったのであろうな。節句生まれの女房ばかり、不思議なめぐり合わせよの」

 朱音の女房である春日は、重陽の夜から体調を崩し出仕しておらず、だれもその姿を見ていない。五人目の人柱は、春日だ。すでに結界の用意は整っている。

「道満!」

 晴明は声を荒げた。満足そうに道満は笑う。この男の妄執はついに晴明を上回ったのである。

「もう遅い!あとは月が食われるのを待つだけよ」

 途端、駆け出した晴明に代わり、紫宸殿に堂々と道満が立ち入る。月蝕を以てこの巨大な結界は完成する。仕上げの術式にとりかかっても、帝が阻むことはない。

 頭上に満月が輝くなか、武官が合図をした。一斉に放たれた矢の雨が青葉と朱音に降り注ぐ。内裏を逃げ出しても、追いかけてくる。朱音を抱えて衛兵から引き離しても、殺せ殺せという声からはなかなか逃れられない。

 朱雀大路を五条まで下ったところでついに声も聞こえなくなった。朱音から滴る血が朱雀大路にぽたぽたと染みを作り出す。人とともに生きる世界はついにはやってこなかった。夢は砕け、青葉は京を逃げ出している。

「まて茨木」

 羅生門をくぐり抜けたとき、後ろから呼び止められた。振り返ればぬらりひょんが腕を組んで立っている。横には市女笠の姿があり、真剣な表情を見るに、もう事情は筒抜けらしい。

 と、腕の中で朱音が身じろぎをした。青葉からおりて一人で立つと、失血で青ざめた顔のままくたびれた格好のぬらりひょんを睨むようにまじまじと見る。

「なるほど……ぬらりひょんでしたか。都中の男を探しても見つからないわけです」

 突然朱音がわけの分からぬことを言うと、ぬらりひょんも相好を崩した。

「まさか酒呑童子とはな。待たせて悪かった。変な伝説にだまされたかと思ったぜ」

「そんなわけないでしょう。あれは命を使った強力な呪ですよ」

 朱音の瞳はたちまち潤み、はらはらと大粒の涙を流した。ぐらりと体が傾いたので、青葉は再び支えなければならなかった。よほど不可解な顔をしていたのか、朱音は青葉に笑いかける。なんと一瞬で朱音の顔が晴れやかなものに変わっていた。

「実は、前世からの縁なのです。……ところで、横の女は誰なんでしょう」

 ぎろりと睨みつけた先には市女笠がある。しかし今日は美しい壺衣装ではない。血みどろの直衣である。

「痴話喧嘩に巻き込むのはやめてくれ」

 晴明は市女笠を脱ぎ捨てると、朱音の頭にかぶせた。市女笠にしては布が厚く、内側にびっしりと術式が描かれている。朱音と青葉は二人そろって目を丸くした。宮中を逃げ出した二人の後を晴明は慌てて追ったのだという。

「……晴明にこのような趣味があったとは知りませんでした」

「好き放題出歩くには丁度良くてね。正体を隠す術を施してある。紅葉の宮は市女笠をして逃げなさい。酒呑童子は今日死んだ。いいね」

 子供に言い聞かすような晴明に、朱音はこくりと頷いた。生きているとわかれば、いつまた道満の妄執が追いかけてくるかわからない。姿をかくしておくべきだ。

「醜い顔を隠せて丁度いいですね」

 朱音は軽口を叩いて、顔にできた一文字の傷を茶化した。自ら飛び込んだとは言え、あれほど美しかった朱音の顔は止まらない血に濡れている。

「軽口を叩いてないで、傷口を出してくれ。解呪をしておく」

 晴明は文箱を取り出すと、青葉にしたように墨で解呪を施した。傷は残っても、血はすぐに止まるだろう。朱音の命は繋がった。

 解呪を待つ隙に、夜空を大きな影が覆った。ぬらりひょんと青葉が振り仰げば、羅生門のまえに鵺が降り立つ。晴明からの知らせを受けて飛んできたのだという。あの琵琶湖を一望出来る景泉院本邸に彼女を一人残して。

「鵺は最期まで景泉院と共に過ごすのかと」

 青葉は四阿での会話を思い出して呟いた。初夏の四阿で、景泉院と鵺は決して別れない絆で結ばれているように見えた。鵺はやれやれと鼻をならしてふいと顔をそらした。

「そのつもりだったのだが、あれが自害せんばかりに怒ったのでな」

「……」

 穏やかな景泉院がそこまで怒る姿は青葉には想像できない。確かに景泉院が自害すれば鵺が留まる理由も無くなるが、それにしたって苛烈な提案だ。

 解呪が終わると、朱音は青葉の背に乗った。羅生門の下に五つの影が並んでいる。青葉、朱音、鵺、そしてぬらりひょんと晴明。

「紫暁。私は朝廷に残るよ。人の世の秩序は私が守ろう」

 晴明は紫暁を真っ直ぐに見つめた。同じ景色を夢見ていた二人が別の道を歩む。

「妖怪の世にも秩序が必要だ」

 京近郊にいた妖怪は比較的理性的である。今宵の大祓でその大半が消え去り、ただでさえ無法者の集団がさらに手が付けられなくなる。しかも人間は妖怪を妖怪であるという理由だけで殺戮することに決めたのだ。

「俺にやれってのか」

「君にしかできない」

 晴明は狐目を鋭くしてにこりともしない。そして紫暁は真剣な友人の頼みを断れる男ではなかった。眉根を寄せてしばし悩むも、渋々頷いた。

「……わかった」

「そうかそうか。では餞別にこれをやろう」

 返事など分かりきっていたようで、特に喜ぶ事もなく、晴明は竹が描かれた扇子を紫暁に手渡す。宣耀殿で晴明がいつも広げていたものだ。なんだよ、と紫暁が問えば晴明は飄々と答えた。

「見るたびに約束を思い出すだろう。ゆめ忘れるなよ」

「ひでえ奴だな」

 言葉とは裏腹に紫暁は肩を揺らして笑った。みすぼらしい服には似合わない上等な扇子をしかと受け取り、羅生門に背を向けた。もはや猶予はなく、二刻もすれば月が影に蝕まれ始める。

 飄々と笑う男だった。涼しげな狐目は何を考えているのやら分からず、妖怪を手玉に取るような人間だった。陰陽師のくせに青葉を逃し、朱音を逃し、頭が切れるくせに妖怪との共生を夢見るような愚か者だった。

 友人の姿が、小さくなっていく。羅生門に取り残されて、一人佇む友人の姿が。

「晴明!」

 たまらず青葉は叫んでいた。真面目で大人しい青葉が声を上げたので、背中の朱音が驚いている。

「百年、息災で過ごせ」

 声を絞り出せば、自然と視界が滲んだ。朱音の白い腕が伸びて、青葉の頭を柔らかく撫ぜる。紫暁に向けて誇らしげな顔をしたが、青葉は気付かない。

 晴明は笑っていた。血まみれの直衣をぼろぼろにして、破魔の刀を手に下げて、可笑しそうに眉を下げていた。月に照らされた羅生門も遂には見えなくなった。

 こうして京を騒がせた妖怪たちは故郷を捨てた。道中すれ違う妖怪に声をかけ、妖怪の列は少しずつ伸びてゆく。人々は月夜に伸びる妖怪の行列を指さして、あれは何だと悲鳴をあげた。百鬼羅刹が夜をゆく。命からがら逃げ出して、その後も多くの同胞を失って、人の世と妖怪の世は分かたれた。


***


 小さな狐を抱えた奥方が几帳の向こうに姿を隠すと、総大将は周囲に散れと命じた。しげしげと見ていた妖怪たちは素早く顔を反らし、宴に戻ってゆく。竿に連なった鈴が鳴り、仕切り直しとばかりに酒が配られる。

「あの天暦の大祓を逃げのびた妖怪がいたとは」

 にわかに信じがたく、茨木は首をひねった。あの月蝕の夜を、あんなに小さな狐が京から逃げ出すことなく乗り切ったとは。

「晴明が隠してたんだろう。幾重にも結界をはってたからな。そもそも妖怪というよりは狐に近いようだ」

 言われてみれば確かに、紺は非常に弱い妖怪で稚児にさえ負けてしまいそうだ。きっとあの狐は晴明が人の世を守ろうと感じたきっかけだ。飄々としたあの男が好んでそばに置いた狐はこちらがたじろぐほど澄んでいる。朱音に捕まって気の毒に、これから散々からかわれるのだろう。

 とんちき騒ぎの夜宴の最中、総大将は小さく呟いた。

「手前は朱音と心中するものだと思っていたよ」

「またその話ですか」

 茨木が頭を抱えると、面白がって鵺が笑う。鵺の方が奥方との付き合いは長いというのに、茨木ばかりが目をつけられる。

「馬鹿言え。手前が連れ出せば何時でも逃げ出しそうじゃあねえか」

 総大将ともあろう方が何とも弱気なことを言う。茨木はやれやれと肩を落とした。

 奥方への感情には憧憬と敬愛が入り混じる。出会わなければ茨木は醜い獣のままだった。人を襲い、妖怪を襲い、満足しているところを大祓で殺されていただろう。決して恋情だとか思慕だとかを抱いたことなどないのだが、こと朱音のことになると冷静を欠いて困る。主君に劣情を向ける忠臣が何処にいる。

 声をかけて奥方の安らぐ几帳に立ち入ると、狐は巫女の姿に戻っていた。人に化けても紺を抱くのをやめないので紺が困っている。所在なく手を彷徨わせると、あ、と声をあげた。

「奥方さま、お怪我をしています」

 市女笠の下に隠した顔を一直線に横切る傷を見つけたのだろう。奥方は決して人前で醜い傷を晒さない。茨木にはその傷が歴戦の証のように見えていたとしても。

「古い傷です。酒を飲めばすぐに治りますよ」

「わぁ」

 奥方の冗談を真に受けて、紺の顔が輝く。ほとんど話したことがない奥方が、からかっているなんて露とも思わない。市女笠の奥方はくるりと茨木の方を向いた。厚い布に隠されて見えないが、その顔はきっと笑っているだろう。

「というわけです。茨木、ここに酒を」

「いけません」

 茨木は頑として首を振った。酒呑童子とだけあって一度飲み始めたらそこらの酒を飲みつくし、しかも酒癖が非常に悪い。

「青葉」

 朱音は今でも甘えるときだけ都合よく茨木の名前を呼ぶ。

「……一合だけですよ」

 茨木は名前を呼ばれると弱かった。今宵もまんまと甘やかし、あとで総大将に叱られるのだ。

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