夕紅とレモン味

佐倉奈津(蜜柑桜)

Crème de citron dans un verre de chocolat

 秋の風が吹く頃だった。日が傾き始めるのが早まり、下校する制服姿が店の前を通り過ぎる頃にはもう空が紅く染まり始める。肌を焼く夏の暑さはいつしか和らぎ、街路樹の青葉も知らぬうちに色を変え始めていた。


「うーん……決まんないー……」


 閉店した店の中、一つだけ椅子をあげずに残したテーブルで、響子がメモを前に唸っている。

「好きな曲で組んでいいよ。響子の弾きたいやつで」

「でもねぇ……折角のお祝いなのに」

 響子が悩んでいるのは演奏会のプログラムだ。と言っても大きなものではない。ショコラティエの匠の店が開店一周年を迎えるに当たって、店に併設のカフェでプチ・コンサートを開くことになっているのだ。二人をよく知る匠の製菓学校時代の先輩が提案した、ピアニストの響子とのコラボレーションだった。


「たくちゃんのショコラに負けないような質で、それでいてどの年代のお客さんも楽しめそうなのがいいの。クラシック愛好家向けならクラシックで統一したコンセプトの曲目も組めるけど、たくちゃんのお店は子供のファンも多いし」

 退屈しちゃうでしょ、と響子は髪の毛の先を指で遊ばせつつ、また唸り始める。

 相変わらず、演奏のことになると妥協しないな、常のことながら改めて感心して、匠は自分も作業台の上の手に再び集中した。


 ショット・グラスの形に固めたカカオ80パーセントのビター・ショコラ。底にミントの葉を忍ばせ、ホワイト・チョコレートを薄く張る。

 その間も響子はシャーペンで何やら書いては消し、書いては消してを繰り返している。

「始まりの作品は決めたの。たくちゃんの好きな《道化役者》にしようと思って。それからアニヴァーサリーだから、《ハッピー・バースデー》のジャズ・アレンジ」

 椅子から伸びた脚を揺らしたり床を小突いたり、思考の逡巡が体に出ているような響子の話ぶりは、作業をしている匠に話しかけているのか、独り言なのか、どちらともつかない調子だ。

「この間、圭くんにも相談してみて、秋になるから季節感てことでシューマンの《収穫の歌》も挟むことにしたの。明るくて可愛いし」


 響子の口から出た名前に、ホイッパーを動かす匠の手が一瞬止まる。「圭くん」とは響子の音大の同期で、割と売れているヴァイオリニストだ。昔からよく伴奏を頼まれ、近頃は本格的なデュオ・コンサートの話も持ちかけられているらしい。

「なに、彼も来るって?」

「うん、レッスン終わってから来てくれるって。他にも色々提案くれたの。勢いあるもので《ミクロコスモス》の153番とか、リストの《リゴレット・パラフレーズ》も。さすが圭くん、センスいいよね。この辺は楽しいから、ちっちゃい子も平気だと思う」

「そうか」

「でも悩んでるのは最後の曲なの。このくらいの時間からのコンサートでしょ。夕焼けに合う、素敵な曲で締めたいんだけど」

 公園に面したガラス張りの匠のカフェは、夕方になると美しくくれないに染まっていく空が見える。木々の葉が橙色を帯びて透けるのは、何度見ても不思議に穏やかな気持ちを起こさせる。


 静止したホイッパーを再び動かし始める。カスタードをベースにしたクリーム。混ぜる速さにリズムを取り戻す。表面が艶やかに光を反すようになったところで匠はボールを置き、棚からリカーの瓶を取り出した。三分の一ほど中身の空いた、丸みあるフォルムのガラス瓶の中で、眩しいくらい明るい檸檬色の液が揺れる。留め金を外すと、心地よい清涼な香りが鼻をつく。


「こっちも結構、お客集まったよ。常連さんとか、友達も来てくれそうだ」

「うっ。プレッシャー……。たくちゃんの大事なお客さんたちでしょうー?」 

「ショコラ好きは女性客が多いし、響子の感覚での選曲が合うんじゃないか」

「たくちゃん、モテるもんね」

「それはちょっと違う」

「……しほさんも、来るの?」

「しほ? ああ、うん」


 高校時代に短い間付き合っていたしほは、甘いものに目がなかった。今はいい友人で向こうにも恋人がいるが、店には常連客としてよく訪れる。

 響子は考えに沈む素振りでメモに目を落としじっと一点を見つめている。

 匠は開けた小瓶を傾け、ボールに液を垂らす。トットッ……とボールに液が落ちる音だけが、部屋に満ちた静かな沈黙を僅かに崩した。

 ボールを揺らすとクリームがぽってりと流れるくらいのゆるさになったところで、瓶を置く。軽く混ぜて指で掬い、口に運んだ。



 その動きが分かったのか、響子が明るく取り繕った声を出した。

「そう言えば私、たくちゃんの新作デザートのことあんま聞いてない。ねぇ、それどんな味……んっ」


 匠は質問の続きを奪った。


 突然、息を止められた響子が身じろぎしたが、そんなことは構わない。唇を塞いだまま、その華奢な肩を抱き寄せて身体の動きも封じる。熱い吐息と心臓の音が乱れるのを肌で感じ、それがもう一度リズムを取り戻したところで、匠は響子を解放した。


「こんな味」


 響子の頭をぽん、と叩いて作業場に戻り、仕上げのために皿を並べる。机に突っ伏した響子から、ほとんどため息に近い声が漏れる。


「……たくみさん、ほろ苦いです……」

「檸檬味だからな」

 リモンチェッロの小瓶に蓋をし、カウンターの隅へ追いやった。とろりと揺れる黄色の液の向こうで、響子の顔は手で覆われて見えない。

「顔が熱いです……」

「酒入ってるからな」

 それ違うぅ〜……というのを無視しつつ、匠はコンポジットを始めた。ショット・グラスに目の冴えるリモンチェッロのクリーム。周りにレモンピールをとミントをあしらい、固く泡立てた無糖のホイップに薄切りのオレンジと檸檬を添える。


「檸檬を与えられた人間はどうするんだっけ?」

「……たくちゃんがいつもより苦いぃ……そんな諺……」


 エスプレッソ・マシーンの抽出口に、デミタス・カップを二つ。射し込んだ夕日に、手元の白いカップがほんのり色付いた。

 カウンターの向こうでまだ、うー、と悶えていた響子が、「あ」と顔を上げ、メモに何やら書きつけた。ほら、思った通りだ。響子は自分で答えを見つけられる。


 エスプレッソには、対照的な甘さのホワイトチョコレートのカントッチョ。ソーサーの脇に添えて、二人分のデザート・プレートと一緒に響子のテーブルへ持っていく。


「決めました。幻想的な夕べにぴったりの曲」


 ——メンデルスゾーン 無言歌集 《宵の明星》


 メモに書かれたばかりの曲名の下に、響子はペンでしっかりと下線を引いた。


「思いついたから、ご褒美にさっきの、もういっかいちょうだい?」


 甘える時はいつもそうであるように、小首を傾げてこちらを見てくる。


「バカ言え、コーヒー冷めないうちに、さっさと食えよ」


 夕暮れに紅く染まった白いデザート・プレートから、匠はショコラのショット・グラスを持ち上げる。甘酸っぱく、少しほろ苦いクリームが、ビターチョコレートと一緒に口の中でとろけた。



 ——If life gives you lemon, makes lemonade.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕紅とレモン味 佐倉奈津(蜜柑桜) @Mican-Sakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ