月の光

 走る、走る。腕を押さえつけて、流れる血を無理矢理止めながら。


 今すぐにでも足を止めたくなる激痛に、ここから逃げ出そうという決意が勝って、ぎりぎり身体を動かせている。怪我を治せない以上、ここから逃げ出せてもやがてのたれ死ぬだろう。そもそも、こんな誤魔化しながらの走りで逃げ切れるわけがない。


 頭が揺れる、理性はどうしようもないくらいにこの行為の無意味さを伝えるけれど、それでも諦める気にはなれなかった。


 信じるものを疑ったせいで、頭がおかしくなってしまったのだろうか。思考が追いついていないだけで、実はすごい何かを成し遂げようとしているのではないか。そんなしょうもないことをいくつか思考で回していると、目の前に一軒の建物が見えてきた。


「――ははっ」


 思わず乾いた笑みが漏れた。なんだ、わかりやすい答えじゃないか、と。結局のところ、自分の信じているものを捨てきれなかったということだろう。


 目の前にあったのは、大きな教会だった。ただ走り回っているよりはましだろうと、言い訳のような理由をつけて扉をゆっくりと開ける。


 建物に着いたという安心感で、緊張の糸がプツンと切れた。ふらふらと歩きながら、せめて身を隠す用に椅子にもたれかかる。

 時刻は夜だ、月明かりで教会の様子は見れるだろうか、ぼんやりとそう思いながら辺りを見渡した。



 ――そして、そこに少女はいました。

 窓から差し込む月明かりが、教会の真ん中に立つ少女を照らしています。月の光を受けて輝く銀色のツインテール。その光とは対照的な、夜を纏ったような黒いロングコートとブーツ。男を見つめる瞳も、衣服と同じく吸い込まれそうなほど深い黒をしています。


 狭い場所から差し込まれた光は、彼女を世界から切り離して、この世のものではないような――


「……女神、様?」


 そう思わせるほどの、神秘的な雰囲気を放っていました。


「いいえ。私はそんなに大それた存在ではありません」


 光の円の中から一歩踏み出して、少女は首を横に振りながら男に静かに語りかけます。その柔らかい話し方に、男は確信を強めたような口調で言いました。


「女神様じゃないなら、その使いですよね……? あなたがどちらの使いかはわかりません、でもお願いです……僕の頼みを聞いてください……!」


 膝をついて懇願する男に、少女は足を止めます。

 そして、落ち着いた口調で顔を上げるように言いました。


「期待されているところ、本当に申し訳ありませんが……私は特別な存在ではない、あなたと同じごく普通の人間です」


 その言葉を聞いて、男の表情が困惑で染まります。そして、絞り出すように聞きました。では、あなたは誰で、なぜここにいるんですか、と。

 その問いに対して、少女はゆっくりと、聞き取りやすい声で答えました。


「私はハレイナ、看取り手をしています。私がここにいる理由ですが――あなたの死を、看取りに来ました」

「看取り手……?」


 ハレイナと名乗る少女に向かって、男はなんとか状況を飲み込むために繰り返します。


 そのままなにか手を動かそうとして、その動きが呻き声と共に止まりました。強い感情で無理やり抑えていた痛みが噴き出して少しも動けなくなった男に、ハレイナは少し屈み込みながら言いました。


「あまり無理はしないように、少しじっとしていてください」


 疑問気な表情の男に、ハレイナは静かに手をかざします。そして、静かに一言。

 その瞬間、男の目の前が眩しい光に包まれました。思わず目を閉じて、開いた時には先程までの教会の景色とは違う真っ白い空間に立っています。


「……え?」


 その光景に、思わず男は声を漏らしました。そして、隣に立つ看取り手に向かって話しかけます。


「……これ、死後の世界ですか? やっぱりあなた、神の遣いなんじゃ……」

「いいえ、ここは私の魔法で作った空間です」


 ハレイナは冷静にそう答えて、そのあと簡単にここがどういう世界なのかを説明します。男は一応納得した様子で、怪我をしていた腕を確かめるように軽く持ち上げます。


「あのっ、痛くないのは有難いんですが……今、僕はとある相手に追われているんです」


 だから、逃げるためにここから出して貰えませんか?

 男のその懇願に、看取り手は静かに首を横に振りました。


「残念ながら、あなたはもう動けるような状態ではありません――そして、あなたはその追手がここに来る前に命を落とします」


 私は、一人で死ぬ人の前にしか現れませんから。

 看取り手の静かな言葉を、男は俯いて聞いていました。少し間があって、男は本当に神様みたいですね。と置きながら、目の前の少女に問いかけます。


「……死を看取るというのなら、きっと回復魔法などの治療はしてくれないですよね。だから、それは望みません。代わりという訳では無いですが……頼みがあるんです」

「私に叶えられることであれば、どうぞ」


 恐怖を抑え込むような声の男に対し、変わらない声で看取り手は応じます。


「この村に、勇者が来ているんです……そして、村のみんなは勇者を殺そうとしている。そのことを、勇者に伝えて貰えないでしょうか……!」


 足を踏み出して、ハレイナの肩を掴みながら、男は絞り出す様な声でいいました。それに対し少女は、


「――できません」


 静かに、短い言葉でそれを否定しました。


「なんでっ、あなたも勇者に死んで欲しいと思っているのですか!?」

「いいえ。ですが、私がこうしてその話を聞けたのは……あなたが今から死ぬ人で、私が看取り手だからです」


 本来ならいないはずの私が、看取り手以上の何かをしてはいけない、そういうルールです。

 淡々とそう告げるハレイナに、男は思わず肩を掴んでいた手を離して数歩後退りました。そして何かを思案した後、


「あなたは、本当に人間なんですよね?」

「はい」

「……なら、事情を聞けば心変わりする可能性は?」


 看取り手は、否定も肯定もしませんでした。男は少し怯みながらも、ゆっくりと、深く息を吐くように話し始めます。


「……昨日、僕達の村に勇者が来ました。偽物の神、その象徴である勇者が」


 あなたが何を信仰しているか、あるいはあなたが神そのものなのかは、話がややこしくなるので聞きませんが。

 そう付け足した男の続きを待ちながら、ハレイナは少し考え事をします。


 勇者を選び、加護を与えるとされている女神は、最も一般的な信仰の対象でしょう。看取り手が死神として語られることが多いのは神が既にいるから、なんて考察している看取り手もいました。多分、違うでしょうけど。


 と、そのような感じのことを。


「村の誰かが提案しました、ここで勇者を殺してしまえば、大勢の人を騙す偽りの神の本性を暴くことができるんじゃないかって」


 それで、みんなその意見に賛成していました。

 どこか客観的なその言葉を、ハレイナは男の方を見つめながら聞いています。男は少し言いにくそうにしながら、次の言葉を紡ぎます。


「……その時、僕は少し疑問に思ったんです。本当に勇者を殺していいんだろうかって」

「というと?」

「勇者が魔王を倒すために旅をしているのなら……ここで勇者を殺すことは、魔王を有利にすることと同じなんじゃないかって……そんな、普通のことに気がついたんです」


 俯いたまま、男は言葉を続けます。

 そんな自分の考えを、信頼している相手に話したこと。ただそれだけで、勇者に与する異教徒だと断定されたこと。そして、今こうして追われる身になったこと。


 間違ったことをしたつもりは無い、と男は強調するように言いました。自分が違うと思ったから、それを直そうとした。力が足りずに成すことは出来なかったけど、勇者を助けようとしたこと自体は後悔はない、と。


 話が終わって、少し間が開きました。


「お話、ありがとうございます」


 ハレイナが、静かに頭を下げました。そして、改めて男の目を見つめます。


「私の意見は、変わりません。看取り手としての依頼で、私が何かを伝えることは出来ません」


 あなたが間違ってると思ったことを変えようとしているように、私は自分で正しいと思ったことを貫こうとしていますから。

 胸に手を当てながら、はっきりとした口調で看取り手は男に告げました。


「……僕には、なにもわかりません」


 そう一言だけ呟いて、後に続いたはずの言葉を飲み込みながら、もう何も話すことはないといった様子で男はその場に座り込みます。

 静寂が、しばらく場をつつみました。


「……この空間は、痛みとは切り離されていますから。落ち着いて過ごしていれば、肉体の限界までは生きていられます」


 その静寂を、少女の声が破ります。男が軽く目線を向けると、ハレイナは少し遠くの方を見ていました。


「それと、先程あなたに追手が来るよりも早く命を落とすと伝えましたが――あなたが限界まで生きていれば、私がここを離れる前に追手がここに着くかもしれません」


 流石に確実とは言いきれませんが。

 そう続けるハレイナに、男は目を見開きました。まさか、という声に応えず、彼女は言葉を続けます。


「……終わった後を誰かに見られるのは、看取り手としてグレーゾーンですが……もしそれで襲われたなら、私は私として助けを呼びます、死にたくはないですから」


 それが村の誰かに届いたとしても、看取り手として受け取った思いや意志を誰かに伝えたことにはなりません。


 少し悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言いきった少女に、男は驚きを隠しきれない様子で問いました。その理屈が通るのか、と。ハレイナは微笑みながら答えます、私の意思で通すんです、と。

 そして、優しい声で男に言うのです。


「私は決まりを守ります、それが正しいと感じたから、私は看取り手をしているので。そして――その中で、私のしたいことを、正しいと思ったことをするんです」


 だって、私は私ですから。



 ――――――――――――――――――――――――――――――



 白い世界がゆっくりと解けて、ハレイナは小さく息を吐きます。静かに立ち上がりながら、キョロキョロと辺りを見渡して、教会の扉が少し開いていることに気が付きました。


 その隙間から、何かが中に投げ込まれます。危険を感じたハレイナが椅子の影に身を隠すと、ボンッと言う音ともに頭上を勢いよく風が通り過ぎていきました。


「……さて、どうしましょうか」


 声と共に聞こえてくる足音は、だいたい五人ほど。ハレイナはぽつりと呟きながら椅子から身を起こします。

 誰だっ、と入ってきた人の誰かが言いました。あいつの仲間だろう、話を聞かれてる可能性が高い。誰かがそう返して、一斉に剣や弓を構えます。


 そのままジリジリと近づいてくる相手を見ながら、ハレイナは思考をめぐらせます。勇者に助けを呼ぶとして、このまま無抵抗で待ってもらう訳にはいかないでしょう。話し合いを試みるか、それともこちらから不意を打って数を減らすか。

 いずれにせよ。思考を一旦打ち切ると、ハレイナは片手を服の後ろに隠します。そして、小さく一言。それをきっかけに、剣を形作るようなひかりが生まれ――、


「……どうやら、私がかっこつける必要もなかったようですね」


 ぽつりと呟きながら、隠していた手を元の位置に戻しました。怪訝そうにそれを見ていた五人の後ろから、足音が聞こえてきます。


「爆発音が聞こえたから来てみれば、五人で一人……いや、二人を虐めるのはちょっと酷いんじゃないか」


 気の抜けた声に、五人のうちの数人が振り向きます。遠目から見てもわかる白いローブ、手には杖を持っています。


「なんで勇者が……!」


 誰かが驚きの声を上げました。それを無視して、白いローブの男はハレイナに向かって声を飛ばします。


「なんだか知らんが、襲われてるなら逃げとけ、人質にされちゃ困る」


 声を受けて、ハレイナは彼らに背中を向けます。そして、視界の端に捉えた安らかな顔の男に向かって、


「……あなたから受け取った意志を、誰かに渡すことは出来ません――でも、受け取るだけなら、覚えておくだけなら……看取り手は、それが出来ます」


 あなたの、勇者に繋げるための頑張りは……確かに覚えましたよ。

 そんな事を告げて、その場を去って行きました。

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