剣の墓場
剣を研いでいる。剣を、研いでいる。剣を、研いでいた。
ぷつん、ぷつんと意識が途切れる。とっくの昔に手放したいと思っていたはずなのに、いざこうして消える寸前になると、意識が──自分の命が無くなるのが、こんなに怖いものになるとは思わなかった。
こんなことになるなら、もっと多く話しておくべきだったな、なんて今更のことのように思う。最後の会話は思い出せない、最後の言葉は思い出せる。私を忘れないでね、そう言っていた……それだけは、守れてる。
ピリピリと痺れる腕を見つめながら、僕は静かに目を閉じて──
「こんばんは」
部屋のドアを叩く音もなく、傍から静かな声が聞こえてきた。閉じかけていた目を開く、この汚い空間に不釣り合いな……それなのに、自然に感じるほど堂々とした立ち振る舞いで、少女が一人そこにいる。
銀色の髪の、どこか大人びた印象を受ける少女だった。優しい小さな微笑みと、こちらの中身を見通すような黒く深い瞳──思わず、顔を背けてしまう。
「……そんなに、警戒する必要はありませんよ。私の名前はハレイナ、看取り手をしているものです──あなたの死を、看取りに来ました」
死を、看取りに来た。そう告げたはっきりとした声は、目の前の少女の姿と離れたもののように感じて。そのせいか、彼女がどこか神秘的な雰囲気を纏ったように見えてしまう。
看取り手、噂でしか聞いたことの無い存在だけれど……なるほど、この雰囲気なら確かに、納得せざるを得ないだろう。実在する、でなければ……こんな、死の香りを纏った少女は生まれないだろうから。
「ひとまず、場所を移しましょう。このままでは、少々お話には難しそうですし」
その言葉に、何か……反射的ななにかを返そうとして、喉から言葉にならない掠れた声が漏れる。
そういえば、最後に声を発したのはいつだっただろう。そんな思考が頭をよぎるとほぼ同時、視界が一瞬白い光に包まれた。
目を瞑って、開ける。先程までいた部屋とは違う、真っ白い空間に座っていた。
「魔法、か?」
「はい、私の魔法で、精神だけこちらの世界に来ていただいてる……大体、そんな感じです」
思わず漏れ出た声に、少女からの返事が帰ってくる。精神だけ、こちらに。さっきは掠れてたはずの声が聞き取れるほどちゃんとした声になったのも、肉体が関係ないからということだろうか。
「……なんでだ?」
そこまでを考えて、僕は小さく疑問の言葉を呟く。
「と、いうと?」
「看取り手は、死を看取るために来たって、さっきいってただろ」
じゃあ、こんな魔法を使ったりせずに、さっきの部屋で僕が死ぬのを待ってればよかった。
告げる、少女は微笑みを崩さない。
「看取りとは、ただ死を見ることではありませんから……この魔法自体は、私のわがままですけれど」
死ぬ前に、一番みたい光景を見れたなら、それはきっと幸せなことです。
そんなふうに言いながら、少女が軽くこの空間に目を向ける。白がいくつか別の景色に切り替わって、また元の白に戻った。こういうことが出来る、という説明だろう。
「……死者に情を持つのは、苦しくならないか?」
「そういう時も。でも、これが私の選んだ道ですから」
どこか、儚げな表情を浮かべて少女は話す。選んだ道だと、はっきりなにか信念を持って。
──正直、あまり理解はできない。辛い道を選ぶような、その強い意志が。それで、どうしても重なってしまう。剣が大好きだったあの子のこと。
「なにか、死ぬ前に……見たい景色はありますか? したい話は、ありますか?」
看取り手として、叶えられることであれば。
なんて、少女が話す。優しい声と、こちらをしっかりと見つめる深い瞳。心の奥の奥まで見透かされてるような気分になる。
……なって、言葉に詰まった。話したいこと、見たいもの。そんなもの、一つもない。
昔から、そんなものだった。なにか信念的なものがなくてはいけないなら、僕は間違いなく職人にはなれない人間だ。
ただ、研ぎ師としての技術と、信念がなくても継続する力だけがあった。
思い出す、思い起こす。こういうものを作りたい、こういうものを生み出したいという気持ちに、結局辿り着くことは無かった。
だから今、こうして最後に一つ言葉を残せるとしても、話したいことが見つからない。
強く思えるほどの未練なんて──ああ、いや。話さなきゃいけないことなら、あった。
「頼まれ事が、あって」
どう話し出すか少し悩んで、一言。
少女は何も言わずにこちらを見ている。
「弟子がいたんだ、少し前まで」
どう話すか悩んで、悩んで。しょうがないので、最初から話すことにした。こうした説明を纏めるのは苦手だ、師匠をやってた頃から少しだけわかってた。
「僕が研いだ剣を、綺麗だって。私も、そういうものを作りたいって、そんなふうに言ってた」
記憶を漁る、思い出す。その時は確か、彼女はボロ布を纏っていた。ボサボサの髪で、おぼつかない足取りで……それでも、僕の作った剣を見て、目だけがきらきらと輝いていた。
「病気で、家から追い出されたらしい。だから……自分でもよく分からないけど、弟子っていうことで引き取って」
なんで引き取ったっけ。思い出せない、その必要もあんまりないと思うから。ただ、そう、その瞬間僕には確かに弟子が出来た。
困惑を沢山したのを覚えてる。とにかく僕は説明が下手だったし、彼女も話すのが下手だった。
料理は、確か彼女が上手かった。師匠の弟子ですから、なんて言いながらご飯を作ってくれた気がする。
病気は大丈夫なのかと心配すれば、適度に動くことも大事なんて返されたような。運ぶのは、二人でやったはずだ、彼女は力が弱かったから。
「それで、研ぎの技術を教えながらしばらく一緒に過ごして……ある日、彼女の病気が悪化したんだ」
どこまでが、口に出して目の前の少女に向かって話した内容か。
どこまでが、心の中で自分のために思い返してるだけの内容か。
混ざって、混ざって。思い返す事が、どんどん深くなっていく。今、精神だけだからだろうか。研ぎ方を教えた記憶、一緒に寝た記憶、お風呂で頭を洗ってあげた記憶。どれも、どれも心地よくて。
「彼女は、寝たきりになって……助けたかったけど、助けられなかった」
目を瞑る、意識は深く、記憶の底をさまよう。助ける方法を探した、薬とか、魔法とか。
「……それで、そう……頼まれ事があったんだ、二つ」
そこで、話が戻ってくる。少女は相変わらず、こちらをじっと見つめて静かに言葉を待っている。
「私のことを忘れないでって、そう言われた」
あの子は、微笑みを崩さずにそう言った。
「私が病気で死ぬ前に、師匠の手で殺して欲しいって……そう、言われた」
あの子は、申し訳なさそうな表情でそう言った。
師匠の手で、師匠の研いだ綺麗な剣で。病気で私が死ぬ前に、私を殺して欲しいのだと。あの子は確かに、しっかりとした強さの宿った声でそう言っていた。
だから、そう。あの日確かに、僕はあの子の最後を、僕の手で作った。僕の研いだ剣で、受け入れるように目を瞑ったあの子の首を斬った。
「僕は、言われたことしか出来なかった。あの子を、助けることが出来なかった……それで、今こうして……死、って形で忘れてしまいそうになってる」
だから、僕の代わりに覚えて欲しい。彼女のことを忘れないで欲しい。
それが、僕が死ぬ前に話さなきゃいけないことだ。言い終えて、言葉がそこで切れて。目の前の少女は、ようやくそこで口を開いた。
「ええ、もちろん」
そして、続ける。
「あなたの話してくれたお弟子さんのこと……そして、あなたのこと……しっかりと、覚えます」
「……僕のことは、別にいいよ。何も、あの子にしてあげられなかったからな」
「いいえ」
返した言葉が即座に否定されて、僕は少し面食らう。少女は真面目な表情で、僕に向かって言葉を続ける。
「あなたは最後に、そのお弟子さんに二つお願いされましたね」
「……叶えたのは、あの子が望んだからだ。僕は──」
「願いを託されるほどの信頼を結んだのは、あなた自身ですよ」
その言葉で、声が止まった。
「私を忘れないで、と言われたなら……それは、忘れないで欲しいと思われる程の思い出を、あなたがお弟子さんと作ってきたからです」
そして、少女はにっこりと微笑んだ。優しい、優しい表情で。
「あなたに貰って欲しいと思ったその子の意志を、あなたはしっかりと受け取りました。それは、きっと素敵なことですから」
そして、もう一つ。
そう前置きをして、少女はさらに言葉を続ける。
「お弟子さんが、あなたに殺されることを望んだなら──それは、彼女が最後に、望んだ死に方ができたと同じではないでしょうか」
大事な、大好きな相手に看取られて死ぬのは……きっと、幸福なことですから。
最後に一言、真実は分かりませんけどね、と少し困ったように言って、少女はそこで言葉を終える。
受け止めて、飲み込んで。そして、静かに思案する。彼女に、なにか……僕は、ただ言われたこと以上のなにかが、本当に出来ていたんだろうか。
少女の言うことは、ただの希望論なのかもしれない。実際のところ、自分は何も出来ていなくて、他に人もいないからそういうことを頼まれただけかもしれない。
ああ、でも、そうか。そうだったらいいな、なんて──師匠らしくいられたなら良かったな、なんて思えた時点で、それが真実なのかもしれない。
「……さて、他になにか、話したいことはありませんか?」
思案を張り巡らせてる僕の前で、少女は相変わらず優しい笑みを浮かべて立っている。
なにか、話したいことはないか。考える、考えて……
「……せっかくだから、もう少し……僕と、あの子のことについて……覚えてもらっても、いいか?」
「ええ、もちろん。聞かせてください、あなたとお弟子さんのお話を」
少女は静かに頷いて、僕の話を聞く構えになる。僕も、釣られるように少し笑った。
やがて、視界が白に染まっていくまで。僕は、少女に生きた証を伝えていくのだった。僕と、彼女の二人分を。
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