第11話 眠り姫の秘密

 30分が経過しても、マリリンは一向に起きる気配を見せなかった。それどころか、最初は椅子の背もたれにもたれかかって、うつらうつらしていたのに、今はテーブルに突っ伏して爆睡している。いつまでもこのままではよくないので、僕はマリリンに声をかけた。


「ま、真凛、ここで寝ちゃうと風邪をひきますよ」

「うーん、まだ眠いよぉ……」

「じゃあ、部屋に戻って寝ましょうか」

「やだぁ、ここで寝るぅ……」


 最初、マリリンは酔っ払っているのかと思った。でも、今日の晩御飯にアルコールはつけていない。だから、酔っ払っているとは考えられない。じゃあ、寝ぼけているんだろう。マリリンは寝ぼけているせいか、いつもよりずっと甘えん坊になっている気がする。


「じゃあ、僕はちょっとお風呂に入ってきますから……それまではここで寝ていてください」


 マリリンから返事はなかった。もう夢の中に戻ってしまったようだ。僕はマリリンを寝かせたままで、お風呂に入って汗を流すことにした。

 何気なく、いつも通りに服を脱いでお風呂に入る。さっき夕立に降られたので、全身がベタベタしている。一刻も早くシャワーで体を流したかった。湯船にはお湯が溜まっていて温かそうな湯気を上げている。


 僕はふと、あることを思い出した。このお湯は、さっきマリリンが入っていたお湯だ。それに気づいた瞬間、僕の全身の血が再び沸き立った。


「マ、マリリンが入ったお湯……」


 もし僕が標準的な変態なら、このお湯を密封容器に保存してコレクションに加えていただろう。もし僕が筋金入りの変態なら、このお湯を口に運び飲もうとしていただろう。しかし、残念ながら僕はそのどちらも選択しなかった。いや正確にはできなかったのだ。このお湯はマリリンが疲れを落としたお湯。つまり聖水だ。恐れ多くて触れることさえ躊躇われる。僕は湯船には浸からずに、シャワーで汗を流すことにした。


「マリリンがうちでお風呂に……」


 ゲリラ豪雨に遭ったり、鍵が無くなったりしていたのでバタバタしていて気がつかなかったが、マリリンがうちのお風呂に入った。これはとんでもない事件だ。幸運とかそんなレベルでなく、もう奇跡ではないか。こんな幸せがあっていいものだろうか。

 僕はこの後、普通の生活に戻れるのだろうか。都会の片隅で、コンビニのバイトをしながら、ささやかに生きてきた日々に。そして、このお風呂で体を洗うことができるのだろうか。僕の悩みは贅沢極まりない悩みだった。


 お風呂から出ても、まだマリリンは熟睡していた。テーブルの上に突っ伏したままで、すうすうと寝息を立てている。


「余程、疲れているんだなぁ……」


 このまま寝かせておくべきか。それとも起こすべきか判断に迷う。寝かせておくにしても、テーブルに突っ伏したままでは可哀想だ。じゃあ、どうする?僕のベッドに運ぶのか?それはそれで問題な気がする。

 結局、僕はマリリンを起こすことにした。


「ま、真凛、そろそろ帰る時間ですよ」


 僕は一瞬、躊躇したが彼女の方に手をかけて体を揺すった。


「ん……ダメ、まだ眠い……」


 マリリンは頑として起きようとしない。絶対に朝、寝起きが悪いタイプだ。


「ダメですよ、真凛」

「じゃあ、部屋まで連れて行ってぇ」

「エエッ、僕がですか?」


 その問いかけにマリリンが答えることはなかった。

 どうしよう?どうやって部屋に連れて行けばいい?お姫様抱っこ?それともおんぶ?マリリンの体重はそんなに重くないだろうけど、お姫様抱っこに僕の貧弱な両腕が耐えられる気がしない。僕は迷わずおんぶを選択した。


 マリリンは今、テーブルに突っ伏して寝ている。下からマリリンの体に潜り込んで、テーブルをスライドさせれば、簡単におんぶの体勢が完成する。僕は怪しさ満点だけど、ほふく前進でマリリンの体の下に潜り込んだ。そして、テーブルを押して徐々に椅子から離していく。そしてマリリンの顔を自分の肩に乗せるようにしておんぶの姿勢になった。あとは立ち上がればおんぶ完成だ。

 僕の首筋にマリリンの寝息がかかる。すうすうと気持ち良さそうな寝息は、僕の首筋を優しく刺激する。くすぐったいような何とも言えない感覚。全身がとろけて、力が抜けそうになる。多分、今、力を抜いてしまったら、僕はドロドロの液体になってしまうんじゃないだろうか。


 ふと僕の右肩に乗っている彼女の顔の方を見た。驚くほどすぐ側にマリリンの顔がある。無邪気な寝顔を浮かべて気落ち良さそうに眠り込んでいる。一向に起きる気配はない。


「さて、彼女の部屋に向かうとしますか……」


 鍵はテーブルの上に無造作に置いてある。僕がプレゼントしたイルカのキーホルダーがライトに照らされて輝いている。


「鍵は持ったし、あとは大丈夫かな」


 僕はテーブルに手をついて立ち上がった。僕に引っ張られて、マリリンの体も浮かび上がる。僕は彼女の太ももに手を回して体を支えた。


「あっ……」


 忘れていた。今、彼女は僕のTシャツと短パンを履いている。Tシャツの裾が長めだったので気づかなかったが、太ももはむき出しの状態。僕が手を回すと柔らかい太ももの感触が手に伝わってくる。憧れのアイドルの太ももの柔らかさ。妄想するには十分すぎる素材だ。

 さらに薄いTシャツの生地を通してマリリンの柔らかい胸の感触も伝わってくる。男性特有の固有スキル『1点集中』を使えば、彼女と胸が当たっている部分に全神経を集中し、柔らかい甘美な感触を心ゆくまで堪能することができる。しかし、それを使ってしまうと僕は腑抜けになってしまい、彼女を部屋に連れて行くことができなくなる。おそるべき副作用だ。


「無心になれ、無心になるんだ」


 自分に言い聞かせるように呟きながら、僕はマリリンの部屋へと向かった。

 距離にすると数十メートル。マリリンの体は重くはない。ただ全身の力が抜けているせいもあって、実際の体重よりも重く感じる。彼女を起こさないように、一歩一歩を踏みしめるように慎重に歩いた。

 自分の部屋のドアを開ける時、耳をすまして周囲の気配を探った。誰もいないことを確認して、素早く廊下に出る。そして彼女の部屋の前に移動して素早く鍵を開けた。


 彼女の部屋の玄関。普段は、ドアの前で話すだけだったので、部屋に入るのははじめてのことだった。甘い香りが部屋に充満している。さすが女の子の部屋だと変なところで感心してしまった。


「お邪魔します」


 靴を脱いで部屋に上がる。間取りは僕と同じ1DK。玄関を入ってすぐにダイニングキッチンがあり、その奥に8帖の洋室が広がっている。ただここからではドアがあるので奥の洋室の様子は見えない。僕は足音を立てないようにダイニングキッチンを横切り、奥の洋室に続くドアを開けた。


 ドアの向こうの洋室は、アイドルの部屋とは想像できないほどに質素な部屋だった。ガラスの天板のテーブルとピンク色にあしらわれたベッド。部屋にはそれしかなかった。アイドルらしい、女の子らしい飾り気など一切ないマリリンの部屋。僕の第一印象としては、ずばり断捨離だ。

 ステージの上で愛らしい笑顔をふりまいていたアイドルの部屋とは思えない質素な部屋。もしかしたら大切なものはすべて、以前の部屋に置いてきたのかもしれない。この部屋はもうアイドルのマリリンには戻らないというの決意のようなものを表しているような気がした。


 僕はおずおずとベッドの近くに歩み寄り、彼女を背負ったままベッドの縁に腰掛けた。


 その瞬間だった。


「はむっ」


 彼女が突然、僕の耳たぶを甘噛みしてきた。あまりの気持ち良さと驚きとで、彼女の方を向くといたずらっぽい小悪魔スマイルを浮かべた彼女の顔がすぐ目の前にあった。鼻先と鼻先とが触れ合いそうなほどに近い距離。僕は彼女に魅入られたように身動きが取れなかった。

 彼女のぱっちり二重の大きな瞳に僕の驚いた顔が写っている。何て間の抜けた顔をしているんだろう。大好きなアイドルの前でこの顔はひどいななどと他人事のように考えていた。

 彼女の顔がさらに近づいてくる。これは、キスする感じなのか?彼女はゆっくりと瞳を閉じて顔を斜めに横たえる。このまま彼女が進んでくればキスすることになる。僕の心臓は自然と高鳴る。


 ドッキングまでのカウントダウンがはじまった。


 5・4・3・2・1……


 ドッキング完了の直前、彼女の体がベッドの方へと崩れ落ちた。キスまでほんの数ミリでお預けを食らった僕は呆然と横になった彼女を眺めていた。すると、何だろう?変な違和感のようなものを感じた。

 僕は深呼吸をして冷静さを取り戻すと、もう一度、彼女の体を眺めた。もう随分、見慣れた彼女の顔だけど、この日は何だか少し頰が赤い気がする。呼吸も少し早いようだ。これは……


 僕は彼女の額に掌を当ててみた。やっぱり、彼女の額はびっくりするほどの熱を持っている。ゲリラ豪雨のせいだ。だから、彼女は少しテンションが変だったんだ。無理をして僕に合わせようとして、あんなテンションになってしまっていたのだ。何て健気なんだろう。ツライから寝るって言ってくれれば良かったのに。

 僕は彼女を看病することにした。まずはおでこを冷やさなければ。以前に、僕が頭を強打した時、彼女は氷枕を持ってきてくれた。あれがどこかにあるはずだ。

 僕はダイニングキッチンにあった冷蔵庫を覗いてみた。冷蔵庫の中には食材が所狭しと詰まっていた。そして冷凍庫の中に氷枕が冷やしてあった。


「よし、これでいい」


 僕は氷枕をタオルで巻いて彼女の頭の下に入れた。


「し、慎吾さん、あ、ありがとうございます……」


 彼女が薄眼を開けて僕に声をかけてきた。


「大丈夫ですよ。気にしないでください。今はゆっくり休んで早く良くなってくださいね」

「あ、ありがとうございます」


 僕は彼女の額に手を当てながら、眠りに落ちて行く彼女を静かに見つめ続けていた。

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