第16話 アイドルとして
マンションに戻ると僕たちはそのままマリリンの部屋へと向かった。彼女が部屋の鍵を開けて、彼女の部屋に入る。数日ぶりに足を踏み入れる彼女の部屋は懐かしい気がした。
いつも一緒に食事をしていたダイニングテーブルに座ると、彼女が冷蔵庫から麦茶を用意してくれた。先日までは気に留めることさえなかった些細な行動さえ、今は新鮮に感じられる。そしてすべてが愛おしく思えてくる。
向かい合わせに座って彼女の言葉を待つ。少しの沈黙が彼女の逡巡を伝えてくる。
「心配をかけてごめんなさい」
「い、いや、謝らないでください。真凛は悪くないです」
彼女の謝罪に戸惑う僕。うまく言葉が出てこなくてもどかしさを感じる。
またしばらく沈黙が訪れた。
「私には父親が2人いるんです」
不意に口を開いた彼女。僕は最初、この言葉の意味をうまく理解できなかった。
「2人ですか?」
「はい。長崎の父と東京の父です」
「長崎の父と東京の父?」」
「はい。長崎の父は私を生んで育ててくれた実の父親です」
「じゃあ、東京の父は?」
「私をアイドルの葵真凛として育ててくれた事務所の社長さんです」
そこまで話を聞いてようやく彼女の話が理解できた。最初、2人の父親と聞いて、僕は生みの親と育ての親を想像してしまった。そして彼女にそんな複雑な家庭事情があるのかなと心配になった。でも、アイドルとして育ててくれた事務所の社長の話だと分かって少しほっとした。アイドルが事務所の社長に恩を感じ父親だと慕うのはよくある話だ。
「この前、マネージャーさんから連絡があって、社長が私と話をしたいと言っていると聞かされました。もう引退しているので断ることもできたのですが、やはり東京の父とはちゃんと話さなければいけないと思って話しに行ってきたんです」
「それが突然いなくなった理由ですか?」
「そうです。慎吾さんにはちゃんと話しておくべきでした。本当にごめんなさい」
「いや、全然、気にしなくていいですよ」
彼女はよほど申し訳なく思っているのか、先ほどから終始うつむき加減で話している。そのせいで、僕は彼女の表情を伺い知ることができない。
またしばらくの沈黙。今度は先ほどよりも重く長く感じられた。
「アイドルとして戻ってこないかと言われました」
彼女は俯いたままか細い声で囁くように言った。その声から、彼女の本心を知ることはできない。
「アイドルとして?」
「はい……」
僕はきっと彼女に嫌われるのが怖い。だから、こんな時も彼女の本心を第一に考えて回答しようとしている。今は彼女の本心を知ることができないので答えられない。
「今ならまだ間に合うと言われました。私が希望するならソロでもいいとも言われました」
確かに彼女ほどの人気であれば、今なら問題なくトップアイドルとして復活できるだろう。ソロで復帰しても成功することは間違いない。
「社長は、東京の父はどこまでも優しくて、私が電撃引退した理由については何も聞きませんでした」
「そっか……」
再び訪れる沈黙。どうやら彼女は泣いているようだ。鼻をすする音がそれを教えてくれた。
「アイドルとして成功するのは選ばれたほんの一握りの人なんだそうです。だから、その一握りの人は、他の夢破れた人の分までアイドルでいなければいけないんだそうです」
「東京のお父さんの教えですか?」
「はい……」
僕は今、この状況だから彼女の引退を歓迎している。でも、普通に彼女が身近にいなかったら、他のファンと同様に彼女の引退を悲しみ、絶望の日々を送っていただろう。それを思うと彼女に復帰するなとはとても言えない。
今、僕に話をしている彼女はどんな本心なんだろう?やはり、アイドルとして復帰したいから、復帰したくなったからこの話をしているのだろうか?それとも、悩んでいるから相談しているのだろうか?
「真凛はどう思っているの?」
「私は……」
小さな声で彼女が囁いた言葉は、僕の耳には届かなかった。
彼女の夢はアイドルになることだった。長崎から上京してきてトップアイドルに上り詰めるまで、どれほど過酷な日々を送ったことだろう。彼女には間違いなくアイドルとしての素質がある。彼女の笑顔は全国の人を元気づける力がある。
僕はそんな彼女だからこそファンになった。テレビで初めて彼女を見た時、衝撃を受けた。バイト生活に疲れていた僕を一瞬で癒してくれた笑顔に虜になった。だから、事務所の社長が言わんとしていることも理解できるのだ。
ふとメッセージのグループメンバーのことが思い浮かんだ。まゆたそさんもつむぎさんも先生も、全国のマリリンファンと同じように悲しみを背負って生きている。僕がマリリンに感じた癒し。それを失って生きることの厳しさは痛いほどにわかる。顔も知らない全国のマリリンファンより、顔こそ知らないものの多くの言葉を交わしてきたグループの仲間の気持ちの方がよりリアルに感じられる。
こんな時代だからこそ、マリリンのような存在が必要なのだ。彼女は僕なんかが独り占めしていいような女性ではないのだ。
彼女が引っ越してきて数日。それで彼女のすべてをわかった気になっていた僕は大変な思い違いをしていた。
「いいんじゃないですか」
「エッ?」
はじめて彼女が顔を上げた。その目は涙で濡れているものの、驚いたように大きく見開かれていた。
「アイドルとして復帰してもいいんじゃないですかね?」
「し、慎吾さんはそう思うんですか?」
「マリリンは多くの人が必要としている存在ですよ。今なら戻れるなら、社長がそう言ってくれるなら戻ってもいいんじゃないですかね?」
僕は甘い見通しを持っていた。アイドルとして彼女が復帰しても、このままの関係が続くのではないかと思っていたのだ。今まで通りとはいかないまでも週に数回、いや月に1回くらいは一緒に食事ができて、2人の時間を楽しめるそんな関係を思い描いていた。
「慎吾さんはマリリンが必要ですか?」
「僕だけじゃなく、全国の男性が必要だと思っているはずですよ」
「慎吾さんの意見が聞きたいんです」
マリリンはこの日一番の大きな声を出して言った。その声に少し怒気がこもっていることに僕は気づかないままで話しを続けた。
「真凛にはアイドルの才能があると思います。それは僕も社長さんと同じ意見です」
「そ、そうですか……」
「僕はバイト生活でつらい毎日を送っている時にマリリンの笑顔に癒され、元気づけられて頑張ることができました。今でもマリリンの笑顔を必要をしている人は全国に沢山いるはずです」
「それが慎吾さんの意見?」
「僕のメッセージのグループメンバーもマリリンの引退を心から悲しんでいます。復帰するときっと喜ぶと思います」
「優しい慎吾さんらしい意見ですね」
「そうですかね?全国のマリリンファンなら当然の意見ですよ」
「私はマリリンファンの慎吾さんの意見じゃなく、弓谷慎吾さんの意見が聞きたかったです」
この時の僕はその言葉の真意を理解することはできなかった。
結局、この日はマリリンが疲れているということで一緒に食事はせずに部屋に戻った。僕はマリリンが戻ってきてくれたという事実に安堵感を覚え、一人喜びに浸っていた。彼女の真意を理解しようともせず、呑気に幸せに浸っていたのだ。
アイドルとしてマリリンが復帰するかもしれない。それはファンとしては喜ばしいことだ。そして誰にもバレずに今まで通りの関係を続ける。背徳感にも似た刺激すら感じる。そんな関係を続けながら、いつの日か本当にマリリンがアイドルを引退したら、その時は堂々と告白をしよう。そんな甘い見通しを立てていたのだった。
そして翌日、マリリンが本当に姿を消した。
隣のアイドルが何故か僕のことを大好きな模様 夢崎かの @kojikoji1225
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。隣のアイドルが何故か僕のことを大好きな模様の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます