第5話 ベランダの恋

 お隣さんの正体は、やはりマリリンだった。しかも、その事実は2人だけの秘密。それだけで僕は興奮してしまったのか、夜、ほぼ一睡もできなかった。おかげで翌日はあくびを我慢しながらバイトへ向かう羽目になってしまった。

 僕は上京したいためだけに大学を受験し、ギリギリで合格した大学をギリギリで卒業した。ただ就職活動には失敗し、当時、アルバイトをしていたコンビニで今も働いている。特にやりたいこともないし、暮らしていけない訳ではないので不満はない。店長もバイト仲間もいい人たちなので、このままでもいいかなとさえ思っている。


 マリリンの部屋の様子をうかがうと、朝早いせいか、まだひっそりと静まり返っていた。僕は心の中で「いってきます」と呟いてから、この日のバイトへと向かった。


 バイトの時間は9時から18時まで。途中、1時間の休憩がある。昨日はその休憩中にマリリンが引退するニュースを見てしまったので、後半はボロボロだった。でも、今日はいつもより動きも切れていて、笑顔も3割増しで輝いている気がする。あまりの変わりっぷりに店長からも心配されてしまった。


「弓谷君、今日は調子がいいんじゃない?」

「そうですかね?」

「うん、いつもより積極的だし、何か良いことでもあったの?」


 一瞬、ドキッとしたがそこは動揺を隠して冷静に答えた。


「いやぁ、別に何でもないですよ」

「本当に?僕、これでも見る目がある店長だって言われているんだけどなぁ……」


 店長の追及は激しい。

 店長は30歳半ばの独身。僕と同じく大学卒業からそのままコンビニ就職をしてしまった人だ。だから、僕の将来の姿でもあると言える。あまりプライベートなことには口を挟まない人だけど、この日はちょっとしつこい。店がそれだけヒマだとも言えるのだけど。


「わかった、彼女でしょ?昨日ケンカした彼女と仲直りできたとか?」

「彼女なんていないですよ」

「そう言いながらってバイトの子、何人も知ってるよ」

「いや本当にいないですから。モテないですし、出会いもないですからね」

「出会いもないかぁ。そうだよね。俺もそうだから、よくわかるよ……」


 やばい、何か地雷を踏んだかもしれない。その後は、愚痴モード全開の店長の悲しき恋物語をバイト終わりまで延々と聞かされることになってしまったのだった。


 バイト帰り、僕はいつものように廃棄する予定のコンビニ弁当をもらって帰っていた。コンビニのバイトだけで生活できているのは、この弁当のおかげと言ってもいい。昼も夜もコンビニ弁当を食べる生活。僕の身体の半分以上はコンビニ弁当でできているに違いない。

 昨日、マリリンは食事を作ってくれるみたいなことを言っていた。でも、それを当てにするほど厚かましい人間ではない。一応、念のために弁当をキープしたのだ。あと急に持って帰らなくなると、また店長に怪しまれる。それもイヤだったのだ。


 バイト先からマンションまでは、歩いて20分ほど。築10年以上のマンションは、新築の頃は明るいアプリコット色だったみたいだけど、今は風雨にさらされ、排気ガスで汚され、くすんだ茶色の外観になっていた。見た目だけで判断するなら、こんなところにスーパーアイドルだったマリリンがいるとは思いもしないだろう。


 マリリンの部屋の前を通るとカレーの匂いがした。どうやら今日はカレーらしい。ただお声がかかるかどうかは微妙だ。ダメだった時に落ち込まないためにも、期待しないように部屋の前を通り過ぎて、それでも帰ってきたアピールをしたくて、いつもより大きめにドアを閉めた。


 ――30分後。

 未だにマリリンからのお誘いはない。やはり期待してはダメだったのだろう。昨日の話は、その場のノリというか勢いというか、そんな感じだったのだろう。ちょっぴり悲しくなったものの、それでも隣にマリリンがいるという事実に変わりはない。僕は電子レンジにコンビニ弁当を入れて、タイマーの設定をした。


 それから、昨日から干しっぱなしになっている洗濯物を取り込むべくベランダへと出た。ベランダと言っても、本当に申し訳程度の広さで、洗濯物を干すくらいにしか使えない。干してあった洗濯物を雑に掴んで部屋へと放り込んだ。

 ふと隣の部屋の方を見ると、そこには防火扉があった。非常時には突き破って避難できるような仕組みになっている扉だ。この扉の向こうにはマリリンがいる。そう思うと、このまま突き破ってしまいたい衝動に駆られる。


――ドン、ドン、ドーン。


 突然、大きな音が響き渡った。振り返ると、そこには夜空いっぱいに広がる打ち上げ花火があった。こんなボロマンションでも年に1回、今日だけは住んでいてい良かったと思う花火大会の日だったのだ。

 僕はベランダの手すりを掴んで花火を見上げていた。


――コンコン、コンコン。


 花火の音にかき消されそうな小さな音が防火扉の方から聞こえてきた。


「あ、あの、花火を見てますかぁ?」


 聞き間違いではなかった。マリリンの声だ。


「もちろん、見てます。このマンション、特等席なんですよね」

「すごいですねぇ。綺麗です」

「そうですね」


 防火扉を挟んで向こう側にマリリンがいる。ほんの数センチのこの扉が2人を妨げている。少しでも彼女に近づきたく、気づけば肩が防火扉に触れるくらいまで近づいていた。


「私、花火を見るのはじめてなんです」

「エッ、そうなんですか?」

「ステージで花火を打ち上げたりしてましたけど、自分たちの後ろに上がるので見えないんですよぉ」

「あぁ、なるほど」

「田舎に住んでいた時も、近くで花火大会とかなかったので……」

「そうだったんですね」

「だから、今、すごく感動しています」

「綺麗ですからね」

「はい、好きな人と一緒に花火を見るのが夢なんです」

「はい、エッ?」


 今の一言は何だろう?どういう意味だ?一瞬、何を意味しているのか、よくわからなかった。僕のことを好きだと言っているのだろうか。まさかそんなことはないだろう。だって、昨日会ったばかりの関係だ。頭の中で自問自答を繰り返す僕。

 その時、ベランダの手すりを掴む僕の手に何かが触れた。それはマリリンの右手だった。防火扉越しに伸びてきた彼女の右手が、僕の左手を上から優しく掴んでいる。

 僕の頭はますます混乱した。何を言えばいいんだろう。どうすればいいんだろう。あまりの展開に僕の頭はパニックになっていた。


 彼女は何も言わない。防火扉があるので、その表情をうかがうこともできない。


 ――ドン、ドン、ドン。


 人の気も知らず、花火の打ち上げは続いている。ただ僕はもう花火どころの騒ぎではなかった。恋愛趣味レーションゲームで言うなら、一番大事なところだ。個々の選択を間違えればゲームオーバーになるヤツだ。

 ただ悲しいほどに経験の少ない僕は、何もできずにフリーズしているだけだった。


 ひと際大量に花火が上がり、大会のフィナーレを告げた。大輪の花の痕跡を残しながら、夏の夜空は静けさを取り戻した。


「慎吾さん」

「は、はい……」


 マリリンの声に僕は飛び上がらんばかりに反応した。


「今日はカレーです」

「エッ?」

「昨日の煮物をカレーにアレンジしてみましたぁ」

「あ、はい……」

「今から持って行きますねぇ」


 ようやく彼女の手が離れた。


「カレー、キライですかぁ?」

「いや、大好きです」

「良かったぁ。元気ないから、キライなのかと思っちゃいましたぁ」

「ち、違うんです」

「じゃあ、待っててくださいね」


 僕が元気なかったのはマリリンの手が触れていたからです。握手会でほんの数秒触れただけだった手がこんなに長く、しかも僕の方から会いに行った握手会とは違い、マリリンの方から触れてきた。そのせいで混乱していただけなんです。


 ――ピンポーン、ピンポーン。


 ドアホンが鳴って、マリリンが手作りのカレーを持ってきてくれた。


「花火、とても綺麗でした」

「そうですね」

「カレー、お口に合うといいのですけど……」

「大丈夫です、絶対に」


 彼女の目がビックリしたように一瞬、大きくなった。その後、にっこりと笑ってくれた。


「食器は明日でいいですからね」

「わかりました」

「パジャマ姿を見られるのは恥ずかしいんですよ……」


 急に彼女の顔が赤く染まった。昨日のあの格好はパジャマだったのか。思い出して、僕も恥ずかしくなってしまった。


「ご、ごめんなさい」

「じゃあ、また明日……」

「あ、はい、また明日」

「おやすみなさい、慎吾さん」

「おやすみなさい、マリリン」


 僕は顔が火照ったまま、カレーのお皿を持ってマリリンを見送ったのだった。

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