第6話 名前を呼んだら

 カレーの次の日はしょうが焼きだった。その次の日は炊き込みご飯で、その次が焼き魚。

 そこまで来て、ようやく僕はある疑問に気づいた。煮物やカレーは作り過ぎたからおすそ分けというのはわかる。でも、しょうが焼きや焼き魚は作り過ぎるということがあるだろうか?材料の肉や魚を焼かなければ済むだけの話だ。


 もしかして、マリリンはわざわざ僕のためにご飯を作ってくれているのではないだろうか。この考えに確信はない。それにそう思うことが、ひどく思い上がっているような気がして、申し訳ない気分になった。

 ただこのままにしておくのも気が引ける。機会があったら確かめてみようと思う。


 この前、ベランダでマリリンと手を繋いだものの、その後は何も大きな変化はなかった。僕は毎日、コンビニのバイトに追われ、マリリンの作ってくれた夕食を食べる。

 一度だけ、何かを期待してベランダに出たことがある。何をするでもなくベランダに立って1時間ほど過ごした。でも、マリリンはベランダに出てくることはなく、僕の中に微かにあった淡い期待は粉々に打ち砕かれたのだ。そもそも期待すること自体が間違っているのだと思う。だから、僕は期待することをやめた。


 バイト帰りの道、不意にスマホが震えた。見るとまゆたそさんから個人宛てにメッセージが届いていた。普段はグループで話しているので個人宛にメッセージが来ることは珍しい。何事かと思ってメッセージアプリを立ち上げてみた。


》ゆた坊氏、大丈夫でありますか?

〉何がですか?

》最近、グループにも全然顔を出さないので、みんな心配しているであります。

〉あ、ごめんなさい。最近、ちょっと忙しくて……

》本当にそれだけでありますか?

〉エッ??

》マリリンの引退のショックが大きいのではと思ったであります。

〉そんなの、みんなだってショックでしょ?

》ゆた坊氏は、握手会にも初参加したばかりなので、ショックなのではないかと思ったであります。

〉心配してくれて、ありがとうございます。僕なら大丈夫です。

》そうでありますか。それなら良かったであります。

〉またグループにも顔を出します。

》待っているであります。


 まゆたそさんは、そう言うと「じゃあね」とウサギが手を振るスタンプを送ってきた。

 まゆたそさんはグループでは最年少で唯一の女性ということになっている。それでもリーダー的存在として他のメンバーからも信頼されているのは、こう言った細かい気づかいができるからだろう。彼女になら事実を話してもいいかもしれない。一瞬、そんな思いが頭をよぎった。でも、話してしまうと今まで通りの関係でいられなくなるかもしれない。それが怖くて話せなかった。

 もし仮に話すとしても、何を話すんだろう?僕とマリリンの関係?2人の関係って何だろう?恋人同士?お隣さん?

 隣にマリリンが引っ越してきたということ以外は、何ひとつ、ハッキリとしたものはない。


 そんなことを考えているうちに、マンションの前に差し掛かった。


「慎吾さぁん」


 僕の頭上から大きな声が響いた。見上げると、マンションのベランダから体を乗り出して、マリリンが手を振っていた。


「あ、危ないから、部屋に入ってください」


 あまりに身を乗り出しているので、本当に落ちてしまうのではないかと思った。それ以上に、周りの人がマリリンのことに気づくんじゃないかとヒヤヒヤした。ただ家路を急ぐ都会の人は、僕が思うよりもずっと他人に無関心で、誰もマリリンのことを見ようともしない。これは本当にありがたいと思う。

 マリリンは僕の言うことを半分だけ聞いてくれたようで、身を乗り出すのはやめた。ただまだベランダから僕を見ている。元スーパーアイドルと言う自覚はないのだろうか?バレたら大騒ぎになることを気づいていないのだろうか。そんなマリリンも堪らなく可愛いのだけど。


 部屋に戻ると、すぐに玄関のドアホンが鳴った。マリリンだ。ここ数日は、家に帰るとすぐに彼女がやって来るのだ。そしてその手には、マリリンの手作りの料理が乗っている。

 そう言えば、この日は何も料理の匂いがしなかった。今日の夕食は何だろうと楽しみにドアを開けると、鍋を手にしたマリリンがニコニコしながら立っていた。


「今日は鍋ですか?」

「ブッブー、ハズレです」


 唇を突き出した彼女は、まるでキスして欲しいとせがんでいるように見える。いけない妄想を振り払うように頭を振って、彼女に話しかける。


「鍋じゃないんですか?」

「これは天ぷら鍋です。中には油が入っています」

「じゃあ、今日は天ぷらですか?

「はい、揚げたてを食べて欲しいのでキッチンを借りてもいいですかぁ?」

「エッ、うちのキッチンですか?」

「はい、ダメですか?」


 そりゃ、大好きなスーパーアイドルが部屋に上がるのを嫌がる男性はいないだろう。僕だって内心は嬉しくてしょうがない。前にも彼女は僕の部屋に上がっているのだけど、あの時は意識が朦朧としていてよく覚えていない。その日以来、いつこんな日が来ても良いように部屋を綺麗に掃除していた。だけど、一度は嫌なそぶりを見せないと、待ち構えていたように思われるんじゃないかと心配だったのだ。


「台所用品、そんなに揃ってないですよ」

「大丈夫です。足りないものがあったら部屋に取りに戻りますから」

「わかりました、どうぞ」

「おじゃましまぁす」


 彼女は油の入った天ぷら鍋を大事そうに抱えながら、僕の部屋に入ってきた。


「慎吾さんの部屋、綺麗に片付いていますね」

「このまえ、マリリンが来た後に片付けました」

「あはは、ありがとうございます」

「な、何だか夢みたいです」

「エッ、何がですかぁ?」

「あ、いや、何でもないです」


 マリリンはニコニコしながら天井を見上げた。


「私のポスターを貼ってくれているんですねぇ」

「あ、あれはその……」


 そうなのだ。毎朝、目が覚めた時にマリリンが見えるように、夜、眠るギリギリまでマリリンが見えるように、僕は天井にマリリンのポスターを貼っているのだ。まさか、本人が来ると思っていないので、すっかり隠すのを忘れていた。

 別に恥ずかしいことをしている訳ではない。同じことをしている男性は日本中に山ほどいる。だけど、それを本人に見られる男性はいないだろう。これはなかなか恥ずかしいものだ。今、僕の顔は真っ赤になっているに違いない。


「じゃあ、キッチンをお借りしますね」

「あ、はい……」


 そんな僕を気遣ってか、彼女はポスターの話を深追いしなかった。この優しさはじんわりと沁みてくるように嬉しい。

 マリリンはぱたぱたとキッチンへと歩いて行くと、コンロに鍋をセットし、エプロンを着けた。彼女のエプロン姿。おそらく日本人男性の夢と言っても過言ではない。それを今、僕は独り占めで目にしている。白いフリルが着いたエプロンは彼女にとても似合っている。僕は思わず、口をポカンと開けて見とれてしまった。


「じゃあ、今、作りますからね。ちょっと待っててくださいね」

「はい、火傷とかしないでくださいね」

「はい、ありがとうございます」


 そう言うと、彼女は真剣な顔で天ぷらを揚げはじめた。ピチピチと油のはじける音が部屋に響く。僕はお皿や箸を用意していたけど、それも終わって手持ちぶたさに部屋の中をウロウロしていた。


「ゆっくり座っててくださいね」

「あ、はい」


 そうは言われても、何だか申し訳なくて座る気にはなれない。


「あ、あの……」

「はい?」

「も、もし良かったら、マ、マリリンも一緒に食べませんか?」

「エッ!」


 マリリンの目がビックリしたように大きく見開かれた。


「いいんですか?」

「もちろんです」

「本当に?」

「はい、本当です」

「じゃあ、ご馳走になります」

「も、もし良かったら、これからもずっと一緒にどうですか?」

「エエッ!!」


 彼女の目がさらに大きくなった。


「毎日なんて、申し訳ないです」

「マリリンだって、毎日、僕に夕食を作ってくれているじゃないですか。ご飯は僕が用意しますよ」

「うふふ、慎吾さん、そんな事を気にしてたんですね。ありがとうございます」


 彼女は手を口に当ててクスクスと笑った。余程、おかしかったんだろう。天ぷらを揚げていた時に真剣な表情から一転、クシャっとした笑顔を僕に投げかけてくれた。

 この笑顔にやられた男性は多い。マリリンは現役アイドル時代、握手会で「釣り師」として恐れられていた。別の子の応援に来たファンをその笑顔で自分のファンへと替える「釣り師」の腕前は、決して狙ったものではなく、天然で純粋なマリリンの優しさゆえだった。


 僕はマリリンの分の食器をテーブルに用意した。我が家で一番きれいな食器。何かのお祝いでもらって、一度も使ったことがないヤツを戸棚の奥から取り出した。


「あぁ、でも、一緒に食べるとなると、慎吾さんに揚げたてを食べてもらえないですね」


 突然、マリリンが残念そうな声をあげた。


「別に揚げたてじゃなくても大丈夫ですよ」

「じゃあ、今、揚げたこのエビだけでも食べてください」

「今からですか?」

「はい、あーんしてください」


 マリリンは「あーん」と言いながら自分も大きな口を開けていた。これは男性にとっては夢のような展開だろう。棚から牡丹餅のようなものだが、憧れのアイドルにあーんをしてもらえるなんて。

 僕は恥ずかしくて、照れくさくてマリリンを直視できなかった。だから、目を閉じて口を大きく開けた。アツアツのエビが口の中に入ってきて、香ばしい香りが口いっぱいに広がる。これは美味しい。

 その時だった。マリリンの手が僕の口元に伸びてきて、何かをつまんだ。そして彼女はそれをパクッと食べてしまった。どうやら天ぷらの衣が口元についていたらしい。


「うふふ、サクサクで美味しいですね」

「はい、このエビ、とても美味しいです」

「じゃあ、早く揚げちゃいますね。一緒に食べましょう」


 そう言うと、彼女は天ぷら鍋の方に向き直った。

 あーんからの一連の流れは、まるで夢のようなできごとだった。きっともう少ししたら、僕は夢から目覚めて、今までのことが消えてなくなるんじゃないか。そんなことを心配していた。


 それからほどなくして、大皿にてんこ盛りの天ぷらができあがった。それをテーブルの真ん中に据え、マリリンと僕は向かい合って座る。


「じゃあ、食べましょう」

「はい、いただきます」

「いただきまぁす」


 マリリンの天ぷらは、さくさくの衣に包まれて、きっと良い油を使っているんだろうなといった風味がした。天ぷら専門店で食べたらこんな感じなのかもしれない。


「マリリン、すごく美味しいです」


 僕は率直な感想を述べた。その時、少し彼女の表情が陰ったのを僕は見逃さなかった。


「あ、あの、エッと……」

「……じゃないです」


 彼女は何かを言ったけど、声が小さくてよく聞き取れなかった。


「あ、ごめんなさい。よく聞こえなかったです」

「マリリンじゃないですって言ったんです」


 一瞬、何を言っているのかよくわからなかった。


「あの……マリリンじゃないって?」

「私は葵真凛です。アイドルのマリリンはもう引退して、この世にはいません」

「エッ、あ、あの……」

「慎吾さん」

「はい」

「真凛って呼んでください」

「エエエッ、いいんですか?」

「はい」


 そう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。


「慎吾さん、私の夢って何か覚えていますか?」

「えっと、確か……」


 僕は雑誌のグラビアの片隅に書いてあった「彼女の夢」に書かれていたことを懸命に思い出した。


「「彼氏に名前で呼ばれること」」


 2人の声が同時に部屋の中に響いた。そして僕は自分が言ったことの意味をかみしめ、赤面してうつむいてしまった。


「やっぱり、覚えていてくれたんですね」

「あ、はい」

「じゃあ、これからは名前で呼んでくださいね」

「わ、わかりました」


 何だろう。胸のドキドキが止まらない。僕は彼女の彼氏と言うことになるのかな?いや、さすがに名前を呼んだだけで、それは気が早すぎないか。誰か僕に正解を教えて欲しい。


 その後は、彼女と色々と話したものの、気もそぞろでよく覚えていない。

 そして帰り際、彼女は僕の目を見てこう言った。


「慎吾さん、バイトの休みはいつですか?」

「明日ですけど……」

「じゃあ、明日はこの辺を案内してください」

「いいですよ」

「じゃあ、約束ですよ」

「はい」

「それじゃあ、おやすみなさい、慎吾さん」

「おやすみなさい、真凛さん」

「あぁ、ダメです、さん付けは。呼び捨てで呼んでください」

「エエエッ……おやすみなさい、ま、真凛」


 僕が決死の思いでそう呼ぶと、彼女は満足したように微笑んで去っていった。

 僕は血流が大洪水となって全身を巡っていた。きっと今夜は眠れないだろう。そう思いながらベッドに横になった。

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