第3話 かくしごと
マリリンの出て行った部屋は、いつもより静まり返っているように思える。部屋も広く感じ、その分、押し寄せてくる寂しさが増しているようだ。
別に彼女と付き合っていた訳ではない。それなのにこんな喪失感を感じるのは、僕が変なのだろうか?
――ブブッ、ブーッ。
そんな僕の気も知らず、まるで早く出ろと急かすかのようにスマホが震えた。まみたそさんのメッセージに誰かが返信したのだろう。
今は誰とも話したくない。とてもじゃないけど、そんな気分じゃない。
でも、少しだけ、ほんの少し心のどこかに誰かに聞いて欲しいという気持ちがある。
もし話すとしたら何を話せばいい?マリリンが僕の部屋にいたこと?マリリンが隣に引っ越してきたこと?
マリリンが好きというだけで集まったグループのメンバー。お互いに顔は知らない。住んでいる場所も詳しくは知らない。そんなメンバーに話して良いものだろうか?
――ブブッ、ブーッ。
またスマホが震えた。さっきより間隔が短いことを考えると話が盛り上がってきているのかもしれない。僕はメッセージアプリを起動してメッセージを確認した。
》何か新たな情報はあったでありますか?
と、まみたそさん。
》ある訳ねぇだろ。仕事が忙しくて、それどころじゃねぇんだよ。
乱暴な言葉遣いだけど、実は優しさ溢れるつむぎさん。
》いや、ホントに寂しい限りですな。
ガールズバーへ逃避するクセがある先生。
今はグループのメンバーが全員、揃っている。話をするには絶好の機会だ。
〉お疲れ様です。
》おぉ、ゆた坊氏。お疲れ様であります。
》遅えよ、ゆた坊。お疲れ!
》お疲れ様です、ゆた坊さん。
みんなは、いつもと変わらずに僕を迎えてくれた。思えば、このグループで沢山のことを話してきた。マリリンが好きで集まったメンバーだけど、誰よりも密で濃い時間を過ごしてきたのだ。
バイトの愚痴も聞いてもらった。人生相談にも乗ってもらった。普通なら親とするような話だって、このグループのメンバーになら話すことができた。そして、みんなは僕の問いについて真剣に考え、いつも的確なアドバイスをしてくれた。本当にかけがえのない仲間だと思っている。
〉マリリンが
書きかけた指が止まる。
彼女の気持ちはどうなんだろう?そもそも、まだ本物かどうか決まった訳ではない。みんなに話すのは、今じゃなくてもいいんじゃないか。
その思いは、あっという間に僕を包み込み、僕は書きかけのメッセージを消した。
〉みんな、何か新しい情報はありましたか?
》いや、何もないであります。新聞やワイドショーを後追いするしかできない状況でありますな。
》噂では、マリリンが今まで住んでいたマンションを引き払っていたらしいぜ。事務所も連絡が取れなくて困ってるとか言ってるよな。
》でも、この狭い日本で、あの有名なマリリンが姿を隠す場所があるとは思えないですな。
先生の一言に、ドキッとした。確かに、このマンションの住人はお互いに無関心で何か交流がある訳ではない
僕が住んでいるフロアには全部で4室ある。僕の部屋を挟んで隣がマリリンが引っ越してきた部屋。反対側にもう2室ある。しかし、この2室に住んでいる人とはほとんど顔を合わせたことがないので、どんな人なのか知らない。
それでも、他のフロアのこともある。彼女の姿を見られたら、アッと言う間にパニックになるだろう。
いや、待って。まだマリリン本人だと決まった訳ではない。さっきはマリリンのニュースのショックと突然のことで混乱していたのかもしれない。少しマリリンに似た雰囲気の女の子のことを過大に評価してしまっただけかもしれない。
とにかく、何とかして確認してみよう。それまでは、誰にも内緒にしておく。それが僕の結論だった。
》これから、どうするでありますか?
》どうするって、どういう意味だよ?
》推しを変えるかってことであります。
》変える訳ねぇだろ。俺はマリリン一筋だ!
》でも、マリリンはもう、戻ってこないかもしれないであります。
》それでも、俺はマリリンを信じてるぜ。
いつの間にか、まみたそさんとつむぎさんのやり取りがヒートアップしていた。恐らく、この手のやり取りは、今、日本中のあちこちで行われているだろう。
》先生はどうでありますか?
》私ももう少しマリリンを待とうと思っていますよ。
》まみたそ、お前は推し変するつもりなのかよ?
》いやいや、しないでありますよ。みなさんの覚悟を聞いてみたかっただけであります。
》おい、ゆた坊。お前はどうなんだよ?
〉僕だってみんなと同じです。
僕はズルい。みんなは本当に目の前から消えてしまったマリリンを信じて忠誠を誓っている。僕は、もしかしたら本人が隣にいるかもしれないと思って答えている。自分のズルさとみんなへの裏切りの気持ちで、メッセージを返すのがツラくなった。
〉ごめん、ちょっとシャワーを浴びてきますね。
そう言い残して、僕は逃げるようにアプリを落とした。
この日のシャワーは、いつもより熱く感じた。血流が良くなったせいか、強打した頭の部分が少し痛んだけど、それでも構わずに浴び続けた。自分のイヤな部分、汚い部分が流れ落ちればいい。そう思いながら、体を洗い流した。
シャワーで少し頭がすっきりしたからか、やはり隣に引っ越してきたのはマリリンではないような気がしてきた。世の中には似ている人が3人いるという。その3人には更に似ている人が3人ずついる。それならそのうちの1人が隣に引っ越してきただけと考える方が正しいように思う。
では、どうやって本人かどうかを確認をすればいいだろうか?ストレートに聞くべきだろうか?それとも何か他にいい方法があるだろうか?
部屋に戻って、エアコンの設定温度を少し下げた。真夏のこの時期は、シャワーとはいえ汗だくになる。エアコンの前で汗が引くまでの時間が至福の時間なのだ。汗が引くと、ベッドに腰かけて一息ついた。
部屋の隅には、さっき氷を入れてきてくれた洗面器が置いてあった。淡いピンク色が可愛い洗面器だ。
そうだ、この洗面器を返しに行って、そのついでに少し話ができるんじゃないか?我ながら名案だと思う。
――ピンポーン
不意にチャイムが鳴った。僕は慌ててシャツを着ると玄関へと向かっていった。ドアを開けると、そこにはマリリンが立っていた。いや、まだ確定していないけど。それでも、見れば見るほどマリリンによく似ている。
「あ、あの、ちょっと煮物を作りすぎちゃったので、お裾分けに来ましたぁ。煮物はお好きですか?」
「エッ、あ、はい、大好きです」
大好きです。まるで自分がマリリンに告白したみたいで、恥ずかしくなる。一瞬で顔が火照ってきた。彼女を見ると目があった瞬間にクスッと微笑んでくれた。
「じゃあ、これ食べてみてください。お口に合うと良いんですけど……」
彼女は煮物が山になったお皿を差し出して、恥ずかしそうに笑っていた。
「あ、ありがとうございます。じっくり味わいます」
「はい」
彼女は満面の笑みを残して部屋へと戻っていった。
聞けなかった。また本人かどうか聞くことができなかった。あまりにマリリンに似ているせいもあって、本人を前にするとうまく話せなくなってしまう。常に主導権を握られている感じ。返さなくてはいけないものも、また1つ増えてしまった。
でも、考えようによっては話しかける口実が増えたともいえる。あまり悪い風に考えず、今は彼女の手作りの煮物を味わうとしよう。
彼女の煮物は、絶妙の味付けで、とても美味しい煮物だった。
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